レビ記1917-18節 「隣人を愛しなさい」

アウトライン

1A 律法の要約
   1B 神への愛と隣人愛
   2B 既に愛している自分
   3B 金持ち青年
2A 異邦人への愛
   1B 良いサマリヤ人
   2B 縦と横の関係
   3B 敵をも愛しなさい

本文

 レビ記19章を開いてください。明日、第二礼拝では17章から19章までを学んでみたいと思いますが、今晩は1917-18節をお読みします。

19:17 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

 私たちはレビ記を学んでいます。レビ記の主題は「聖め」です。聖い神と私たちが交わるためには、私たち自身が聖なる者とならなければいけないことを教えています。そして前回まで私たちは、「いけにえによって、聖なる神に近づく」ことについて学びました。犠牲の血を流すことによって、私たちの罪が清められて、それで私たちが神の前に大胆に近づくことができます。

 そして後半は、「聖別によって神と歩む」ことについて学びます。神に近づいた私たちが、いかにして神の聖さの中にとどまることができるのかを見ていきます。その中にレビ記19章があります。ここには十戒の適用があります。父母を敬え、であるとか、偶像を造ってはならない、であるとか、主がモーセを通してシナイ山の上で与えられた戒めを繰り返しておられます。

 そして13節から、「隣人」という言葉が出てきます。日雇人の賃金をとどめていてはいけない。隣人に対して公正な裁判をしなければいけない。そして、隣人を中傷してはならない、という命令があり、そして今読んだ、「隣人を憎んではならない。恨んではならない。かえって、あなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」と言われています。「隣人愛」という、キリスト教の特徴として大きく知られているその言葉は、実は、聖めの生活を強調するレビ記から来ているのです。

1A 律法の要約
 イエス様は、この言葉を使って、律法学者の質問に対して答えられました。一人が、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたところ、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と言われました。これは申命記に出てくる御言葉です。宗教的な律法学者は、この言葉を聞いて満足したことでしょう。自分は十分に神を愛している、と思っていたに違いありません。

1B 神への愛と隣人愛
 けれども主は続けて、こう言われました。「これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。(マタイ22:38-40」宗教的になっている人には、自分は人一倍神を愛していると言うことはできるかもしれませんが、それを隣人にも及ぼしていることになると、口をつぐんでしまいます。マルコ1234節には、「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。」とあります。

 なぜ、つぐんでしまうのでしょうか?それは、自分を捨てなければいけないからです。私たちの自然の姿は自分を愛するようになっています。自分を大切にするように、自分中心で動くように作られています。けれども、隣人に対して愛を広げていくことは、「自分」が邪魔になるのです。そして、口をつぐんでしまったのです。

 「神の愛」というのは、私たちを積極的にさせます。神の愛を受けて、その人が神を愛さないでいるようにはできません。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10」とあります。キリストにある神の愛に触れた者は、自ずと心を尽くして、力を尽くして、知性を尽くして神を愛したいと願います。

 けれども、「神の愛」はそれだけでは終わりません。もし私たちが、神への賛美の歌のみに酔いしれて、説教者が語る言葉だけに感動を受けて、それだけで満足しているのであれば、必ずその人の心には満たされない何かが残ります。それは何かと言いますと、律法学者やパリサイ人も感じていたであろう空しさであり、「人への愛」です。神の愛は、隣人への愛と切って離すことのできないものとなっています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(1ヨハネ4:7-8」つまり、神を愛しているというなら、兄弟を愛し、隣人を愛さないといられなくなるのです。そうなっていない人は、「自分」というものが心に残っており、それゆえに何か物足りないと感じています。

2B 既に愛している自分
 現代の社会の悲劇は、「自分」を求めることを最高の美徳としていることです。不便なことがあると、便利がほしいと思います。少しでも安全や安定さが取り除かれると、非常に腹正しくなります。そして、心の問題があると言えば、「それは自分を愛していないからだ」と何と、さらに自分に愛を向けるように仕向けます。

 そうすると、このように言う人がいるかもしれません。「心の病は、自分を愛していないからそうなっているのではないですか?」そうですね、この考えが実に今日の社会に流行っています。インターネットで調べると、検索には、「自分を愛すること」を教えるサイトが山ほど出てきます。

 いいえ、人間は必ず、その自然のままの姿は自分自身を既に愛しているのです。エペソ書529節には、「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。」とあります。私たちは自分の体の必要に非常に敏感です。空腹を感じます。そして温度が低い、高いに非常に敏感です。この前、ある牧師さんが、「私たちがいっしょに礼拝したり、同じところで活動すると、必ず起こる対立は温度調整だ。」と言っていました。自分が感じている温度を全ての人に適用すべきである、と考えているのです。

 ある人は、「私は自分のことが愛せません。自分のことが嫌いなのです。」と言います。それなら聞きます。「良かったじゃないですか、そんなに自分のことが嫌いなら、そのぶさいくな顔でよかったではないですか。その嫌な性格のままでいいんじゃないですか。自分が嫌いなら、自分が醜いことを喜べるでしょう。」そうではないのです、醜いことを悲しんでいる、つまり自分が良くなってほしいとかわいがっているのです。自分を憎んでいるどころか、愛している証拠です。

 鬱は、それを直そうとして頑張れば頑張るほど、さらに悪化します。鬱は「自分」のことを考えすぎているから生じているのです。自分を極度に愛しているのです。だから、「鬱であろうと、自分はどうでもよい。大事なのは神である。」とするならば、鬱は直ります。同じように自殺も、現実逃避によって「自分」を守ろうとするから行なうのであって、決して自己否定ではありません。

 自己愛が如実に出てくる他の例は、集合写真です。自分の写っている集合写真で、まず始めに見るのは自分の顔です。その写りはどうなのかをまず見ます。他にも、自分がトイレで出た大便は、まじまじと眺めることはできますが、他人の大便はすぐに目を背けます。私たちは自分がとってもかわいいのです!

 終わりの日には困難な時代がやって来る、と使徒パウロは言いました。そして彼は、「そのときに人々は、自分を愛する者・・・(2テモテ3:2」と不敬虔な姿の筆頭として自分への愛を挙げているのです。自分のことに目を向けさせる兆候は、これからますます強くなります。

 私たちに必要なのは、自分を愛することはありません。神の愛に触れられることです。キリストが自分の罪のために死なれたことを思う時に、その愛によって自分を忘れます。自分を捨てることができます。自分というものが無くなってしまうと恐れる人は、神の愛を受け入れることができません。神の愛を受け入れるというのには、心のへりくだりが必要なのです。

3B 金持ち青年
 そして私たちが、単に神の愛なくして、その戒めだけを守ろうとしているなら、はたして戒めそのものを守ることができるでしょうか?金持ちの青年のことを思い出しましょう。マタイ1916節から読みます。
 

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 すごいですね、彼はイエス様がおっしゃった十戒の後半部分について、すべて守っていると言いました。とっても道徳的な人です。けれども、イエス様はレビ記19章も付け足しておられます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われています。
 

19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 彼は、律法のまとめである、「隣人を愛しなさい」ということを守っていませんでした。殺さない、姦淫しない、盗まない、嘘をつかない、ということは、してはいけないこととしてきちんと守っていたのでしょう。けれども、彼は貧しい人々に対する愛がなかったのです。彼らもおいしく食事ができればよいのに、という憐れみの心がなかったのです。

 皆さんがもし、聖書の言葉を、あるいは教会で教えられていることを、道徳のように、あるいは規則のように聞いていくのなら、そこには力がありません。まじめな人はある程度まで守れるかもしれません。けれども、イエス様が解釈された律法は道徳では決して守れないものがあるのです。自分の財産を売り払って貧しい人に与えるというのを単にしなければいけないこととして行なおうとしても、到底できるものではありません。けれども、もし自分が神によって貧しい人への愛が与えられていれば、その人は自分のすべてを投げ打ってでも貧しい人たちに用いていこうと願うようになります。

 結婚あるいは、婚前の男女の中でしばしば起こることがあります。「私はこれだけのことをしたのに、相手はきちんと応答してくれない。」自分が行っている正しいと思われる行動を列挙するのです。男であれば、「私は食事の後、皿も洗ってあげているし、買い物も手伝ってあげているし、何が不満なのだ。」と反発します。その時にカウンセラーは尋ねるのです。「あなたは、奥さんを愛していますか。」そうすると、口をつぐむ人がいるのです。愛していないので、行動としていくつかはできるかもしれませんが、彼女のもっと深い必要には到底、届くことができないのです。

 イエス様の御言葉は、自己否定に満ちています。それは、私たちのありのままの姿が自己中心であり、イエス様がその反対のことを語られるからです。イエス様の言葉を聞くとき、自分の顔を赤らめるような恥ずかしさを覚えます。それは、その言葉が愛に満ちているからです。決して単なる厳しい掟ではなく、神を愛し、そして隣人を愛していくという原則の中で語られておられるからです。その聖く、熱い愛の中で私たちも、自分を捨ててイエス様についていくことができるのです。

2A 異邦人への愛
 18節は、隣人の対象者があくまでも「あなたの国の人々」に対するものでした。身内だからこそ、対立が起こり、そのため恨んだり、復讐したいと思うようになりますが、しかし自分自身のように愛しなさい、という命令です。けれども主は、この愛の手を外国人にも向けることを命じておられます。34節をご覧ください。「あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記19:34

 私たちは、外にいる人々に対して自ずと無関心であります。その人の状況に自分が寄り添おうという意識は普通出てこないので、異国人のような外にいる人々は、知らず知らずのうちにないがしろにされます。あるいは、敵意さえ抱いていることがあります。例えば、道端でしゃがんでタバコを吸っている若者を見たら、「近頃の若者は、本当にだらしがない。」と判断します。けれども、主はそのような人に対しても、「あなた自身のように愛しなさい。」と命じておられるのです。

1B 良いサマリヤ人
 金持ちの青年と同じようにして、何をしたら永遠の命を得ることができるかと聞いた律法の専門家がいました。イエス様が「律法には何と書いてあるか。」と尋ねたら、その男は先と同じ御言葉、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と答えました。優等生です。

 そして、イエス様は「では、そのとおり実行していきなさい。」と言われたところ、彼は、「では、私の隣人は、だれのことですか。(ルカ10:29」と尋ねました。それは「自分の正しさを示そうとして」そうしたとあります。彼は、神を愛していると自負していたばかりでなく、隣人を自分のように愛していると自負していたのです。彼は決まって、貧しい人にも施しをしていたのでしょうか?けれども、彼も「愛」そのものに欠けていました。自分の正しさを測るための基準として、その律法を受け取っていたのであって、本当にその隣人を愛しているわけではありませんでした。

 イエス様は、極めて興味深い話をされます。ルカによる福音書1030節からお読みします。
 

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(30-37節)

 この話を読むときに、知っておかなければいけない背景は、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かった、ということです。サマリヤ人の起源は、紀元前722年のアッシリヤ捕囚です。アッシリヤが北イスラエル王国を滅ぼして、彼らを遠くへ捕え移しましたが、代わりに異邦の国々の人をその地に移住させました。その雑婚によって生まれたのがサマリヤ人であり、またサマリヤ人は、ユダヤ教と異教の混合宗教を拝んでいました。ユダヤ人とサマリヤ人は近くに住んでいたにも関わらず、ユダヤ人はその地域を避けて旅をしており、互いに敵対していました。

 イエス様はあえて、半殺しになっているユダヤ人を助けた人をサマリヤ人にして、そして無視して通り過ぎた人を祭司とレビ人にされました。それは、「隣人」というのは、自分の行動範囲内の人ばかりが対象ではないこと。そして無関心であったり、嫌悪感さえ抱いている人に対しても愛していく対象であることを教えるためでした。

 これこそが神が私たちに与えられている挑戦です。神はこの世界を愛されました。そしてご自分の独り子を与えてくださいました。私たちが無関心である人々のためにも、キリストはその人々のために死んでくださいました。おじさんでも、若い兄ちゃん、姉ちゃんでも、おじいさん、おばあさんでも、一見、何の問題もないように幸せそうに生きていても、イエス・キリストを知らないという点については、失われてしまっているのです。

 そして外国人であっても、また社会的に少数派の人、変に思われている人々であっても、その人々に対して主は手を伸ばしたいと願われています。そしてその人たちをキリストによって変えて、キリストの体として私たちと一つにしようとしておられます。これを「宣教」と呼びます。しばしば御霊の働きは、半殺しのユダヤ人のように、私たちの予期しないところに存在します。

 外国で多くの働きをされたクリスチャンの方が、原発事故で不安になっている日本の姿を見て、こう言われました。「日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。」私たちが、通り過ぎた祭司やレビ人のように自分の生活で自分を固めてしまうのではなく、将来が未確定である部分を自分に導入してみてください。

2B 縦と横の関係
 ただ、ここで気をつけなければいけないのは、「隣人愛」の源であります。数多くの人が、対人関係において難しさを覚えて、それで自分は駄目なのだとがっかりしています。隣人を愛さなければいけないと思っているのに、そうなっていない自分を見て、クリスチャンとして成っていないと失望するのです。

 けれどももう一度言いますが、源はあくまでも「神」なのです。イエス様が命じられていることは、もともと私たちの自然のあり方と反対のことなのです。私たちができないという前提で語っておられるのです。「できないことを命じられるなんて、不公平だ。」と文句を言わないでください。源は私たち自身にあるのではなく、神なのです。「神は愛」という真理から私たちの愛は他の人に流れ出ていきます。

 こんなことを言ってはとても変ですが、私は皆さんのことがとっても好きです。教会を始めてみて、やってくる一人ひとりが、神様が与えてくださったプレゼントだと素直に信じることができています。それでお祈りして、御言葉を分かち合っていくうちに、自分でも不思議な程に好きになっています。これが神から来る愛なのだ、と実感します。御霊の流れの中にいれば、神に対する信仰と、その命令を第一としていれば、自分ではなく、神ご自身が愛の流れを起こしてくださるのだということを実感しています。

 私たちが、対人関係において苦しんでいる時は、横を向くのではなく上を向いてください。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ3:1」これまでの生活が、「横を見て、それから縦を判断する。」という方法を取ってきたかもしれません。横の関係を正せば、縦の関係を正すことができると思っていたかもしれません。いいえ、反対です。縦の関係、つまり自分の心から自分を捨てて、神でいっぱいにしてもらうときに、それが神と自分の個人的関係に収まるのではなく、あふれでて、他者にもその愛を流さざるを得なくなるのです。

 ちょうど昨日、私がこの説教の準備をしているときに、「ベレヤ人の使命(Brean Call)」というキリスト教団体の、デイブ・ハント(Dave Hunt)さんが次のような言葉を書いていました。
 

「本当の愛って何ですか?」に答えるのは、最も解答の得られない所は、心理学者に求めることです。心理学的定義を与えることによって愛の意味を教えずに言葉を濁し、知るべきことの少しも得ることができません。私たちむしろ、神の御言葉の相談を受けるべきです。真の愛は神からのみ来ています。私たちがこの方に服し、私たちを通して他の人に神の愛が注がれるようにすれば良いのです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)」「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」

私たちは誰一人、愛の源泉を持っていません。私たちの最善は、空の器になって神の愛で満たしていただき、その愛を他の人に流す管となることです。私たちの多くの心があまりにも自分のことでいっぱいになっていて、神や他者を真実に愛する余地が残されていません。そうでなくてもよいのです。私たちは継続的にこう祈ることができます。「主よ、心と知性と思いを尽くして、あなたを愛せるようにしてください。それから、あなたの愛を私を通して他の人に注いでくださいますように。」

3B 敵をも愛しなさい
 それゆえに、私たちは次の命令にも応答することができるのです。マタイ543節からです。
 

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:43-48

 いかがですか?当然私たちにはできません。けれども、矛盾しますが、できるのです。なぜなら、それは私がすることではなく、私たちを通して神がしてくださることだからです。ですから、ここでの挑戦は、「私たちができるかどうか?」ではなく、「私たちがどれだけ主なる神に服することができるのか?」ということなのです。どれだけ、心にある自分を捨てて、神の愛に満たされることができるのか?ということです。レビ記19章には、何度も何度も、「わたしはあなたがたの神、主である。」という言葉が繰り返されています。私ではなく、神が神であられ、主であられるという告白をすることができれば、私たちは神の愛の器になることができます。

 そして、これはテクニックではありません。これを行なったから、あれを行なわなかったから、ということではありません。パウロは、愛についてこう言いました。「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:9-10」愛に満たされていれば、あとしなければいけないことは、自ずとついてきます。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME