レビ記1章3−9節 「聖書の語る聖め」

アウトライン

1A 日本人(人間)の考える清め
   1B 神道的「お祓い」
   2B 仏教的「因果応報」
2A 聖書の語る聖め
   1B 大きな対価
   2B 犠牲
      1C 転嫁
      2C 一体化
   3B 罪から来る報酬
      1C 屠殺
      2C 血の注ぎかけ
   4B 単独の礼拝
   5B 神の受容

本文

 私たちは今晩からレビ記の学びに入ります。ぜひ出エジプト記に続いて、レビ記も学んでください。レビ記は出エジプト記の続きになっています。モーセが幕屋を組み立てて、それが完成すると栄光の雲が幕屋に満ちました。それでモーセも入ることができなくなりましたが、おそらく少しその雲が薄れたのでしょう、その中から主がモーセに語られました。その記録がレビ記です。

 明日の第二礼拝では1章から3章までを学んでみたいですが、今晩は13-9節までを読んでみたいと思います。

1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。5 その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。9 内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 レビ記の主題は、一言でいうならば「聖潔」あるいは「聖め」です。衛生面での清潔ではなく、聖書の「聖」の言葉を使った聖潔です。主はイスラエルの民にこう言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。(レビ11:45」エジプトから連れ出されたイスラエルの民は、確かに神に贖い出された神の所有の民となりました。神のものとされた民が、神の中で生きていくことになります。神との交わりをもって生きていく中で必要なのが、「自分は聖められている」ということです。神が聖なる方ですから、自分も聖なる者となっていなければいけません。

 そこで神が初めにイスラエルの民に命じられたのが、「家畜の犠牲のいけにえによる聖め」です。牛をはじめ、羊や山羊、また鳩を屠って、血を流し、そしてその肉は祭壇の上で、火で焼きます。これが、聖なる神と自分が触れ合うための大前提になる儀式でありました。

1A 日本人(人間)の考える清め
 このようなことを聞くと一般的な感覚では、「えっなんで?訳が分からない。」ということになると思います。私たちが考える清くなることとは、大きく異なるからです。ここで、私たちが普段考える「清め」について考えてみたいと思います。日本語の中には、聖書の「聖」の言葉を使ったものではなく、手を洗い清めるの「清め」を使いますね。この清めについて考えてみたいと思います。

1B 神道的「お祓い」
 私たちが知っている「清め」に近いのは、神道の「お祓い」であります。神主が毛の付いた棒を左右に振るという、あの動作です。その動作の意味するところは、「はらう」という言葉からも分かるように、「穢れを払い落とす」ということです。つまりその儀式の中では、人間の汚れはサササッと払い落とせば事足りるものとされている、ということです。それは裏を返せば、「もともとは汚れが無い存在なのだが、その表面に時折汚れが付くことがある。それを祓えば、また清くなる」ということです。(参照:bloglovin.com/m/2788508/294824200/fb

 私たち日本人、いや人間であればたいていそのような考え方をします。私は幼い頃、年末に家の大掃除をして、大晦日にはしっかりとお風呂に入って、そして年が明けると元旦参りに行き、そこで手を叩いてお賽銭を入れて、身と心が引き締まったような感じがしました。若い女性であれば失恋したとき、中年男性であれば会社の業績が芳しくないとき、母親であれば子供の学校の成績が良くない時、そうした意味の清めを求めて祈願するかもしれません。

2B 仏教的「因果応報」
 このような軽いノリの清めとは裏腹に、私たちには、仏教的な因果応報的な考えがあります。つまり、原因を作ったのであれば必ず結果が伴うということです。その運命と定めという鎖の中に私たちは繋がれているのであって、罪の赦しというものは考えられないという立場です。

 私たちは自分に対しても、また他者に対してもそのような態度で臨みます。自分が行ってしまった悪いことについては決してそれを赦すことはできず、自分の背中にこれまでの人生の重荷を背負いながら生きていくのです。歳を取れば取るほど、それだけ自分のしてきた業は増えてきますから、重たくなり、心は堅くなり、やり直せるなどとは決して思えません。

 そして他者に対しては、私たちはとことんまで恨みます。他者が犯した過ちに対して、それを赦したら相手は好い気になるかもしれないと思い、相手を監視し、少しでも間違ったことを繰り返すならその過ちを責め立てます。自分が相手の立場であれば、あるいは似たような環境にいれば同じ過ちを犯したかもしれないという想像力は働かせることなく、あくまでも相手を、犯した過ちの罰の中に閉じ込めようとします。

 「清め」については、他にもいろいろな思いや考えがあるかと思いますが、少なくとも今私たちが読んだような、「動物を屠って、血を注ぎだし、その肉を祭壇の上で、火で焼く」という発想は決して出てこないと思います。しかし実はこれこそが、私たちが持っている「きよめ」について完全に解決を与えてくれるものです。

2A 聖書の語る聖め
 私たちが読んだいけにえは、「全焼のいけにえ」とも呼ばれており、五つの供え物のうちに一つです。古い日本語訳の聖書では「燔祭」とも呼ばれています(「ホロコースト」という言葉の由来です)。けれども、穀物の捧げ物を除けば、基本的に同じ順番でいけにえを捧げます。

1B 大きな対価
 まず私たちが知らなければいけないのは、礼拝者は大きな対価を支払っている、ということです。いけにえの家畜は雄牛でなければならない、とあります。しかも傷のないものでなければいけません。欠陥のあるもの、傷を負っているものは、すべて祭司によって退けられます。そして10節においては羊や山羊、14節においては家鳩を捧げる全焼のいけにえが書かれていますが、それは経済力に応じて、貧しい人たちでも捧げることができるようにしてあるものです。

 牛一頭の値段がいくらであるか、ご存知でしょうか?和牛と外国産では随分値段が違いますが、小型車ぐらいの値段はします。高ければ百万円以上、安ければ十数万円で変えますが、傷のないものということでこれは良質な牛ですから、百万円だと考えましょう。これを、自分自身を主にお捧げしたいと願う時に、主に対して捧げるのです!現代は大量生産の時代ですが、当時は生まれてからずっと、自分の娘のように手塩にかけて育てるのですから、この対価は尋常なものではありません。

 そして、牛や他の家畜は単なる物価で測れるものではありません。それらは列記とした命ある存在であり、生命の尊厳があるのです。しばしば、キリスト教は自然環境を軽視している、自然を支配できると考えているからだ、という批判を聞きますが、それはとんでもないことです。創世記1章を読みますと、主が造られたものの中で、陸上の動物は六日目に造られています。同じ日に主は人を造られました。確かに人は神のかたちに造られて、陸上の動物とはまったく違うレベルで尊い存在ですが、それでも人間の直前に造られた存在として貴重であります。

 しかも、いけにえが野の獣ではなく、あくまでも家畜であることに注目してください。家畜には自分の犠牲が込められているのです。自分の情も入っていることでしょう。すなわち、経済的にも、心情的にも「いのち」が込められている対象なのです。

 このように、大きな対価が支払われているからこそ、人が聖なる神に近づくことができるということです。人は、ちょっとお祓いをしたから清められるという存在ではありません。実に聖書は、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9」と言っています。また、「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(イザヤ64:6」とあります。私たちの存在そのものが罪にまみれており、これを清めるには、高価な代償が必要になるということです。

 それで終わりの時に、神はこれ以上高価なものはない存在を備えられました。家畜の命ではなく、人間の命です。いや、人間の命以上の存在で、ご自分の独り子の命を対価としてお支払いになりました。ヘブル105-7節にこう書いてあります。「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」』」ご自分の子を、罪の性質を持つ私たち人間のために、ちょうどいけにえの肉と同じように、この子を人と同じ肉体を持たせて、そしてその肉体において死ぬようにお定めになりました。

2B 犠牲
 次に注目していただきたいのは、家畜を持ってきた人がその家畜の上に手を置いているということです。4節に、「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く」とあります。そしてそれが、「彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるため」とあります。つまり、家畜が自分の代わる存在となった、ということです。身代わりになった、ということです。この後に、礼拝者自らがこの牛の首に刀を入れて、血をほとばしり流させます。これが、実は自分自身が流さねばならぬ血だったのだ、という認識です。

1C 転嫁
 私たちはとかく自分の礼拝に、遠慮と控えめな態度を押し付けてしまいます。私たちは手を置くと聞くと、相手にそっと手を置く印象を抱きます。特に日本人は控え目ですから、相手を傷つけまいと接触を少なくしようとします。けれども、これは手を置くよりも、「掴んで、押さえ込む」というほうが適切でしょう。牛の頭に手を押さえつけたのです。

 それは、第一に「転嫁」することの意味を持っていました。自分の罪がその牛に移っていった、ということです。自分が罪人であることを告白して両手で頭に置くことによって、その牛が罪ある者とみなされるのです。これは、究極の、完全ないけにえであられるキリストご自身が十字架の上でしてくださったことでした。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21」罪がキリストに転嫁されただけでなく、キリストの義も私たちに転嫁されました。キリストが、私たちの罪を背負って、罪ある人とみなされたのみならず、私たちが神の前にあって正しい人ととしてみなされるのです。

 ここに、私たちは罪の赦しの土台があります。どうやって神が私たちを正しいとみなすことができるのでしょうか?どうやって、私たちは過去犯した罪や過ちに対する赦しを得ることができるのでしょうか?それは、罪なき存在が罪人のために身代わりになることによって、です。因果応報のように、自分が行ったことはそれ相応の報いを受けなければいけないと考える人にとっては、罪の赦しは決してありません。もちろん自分の罪に対する報いはあるのです。けれども、それを身代わりに受けてくださった方があなたのそばにおられます。

2C 一体化
 そして手を置くことの第二の意味は、「一体化」することであります。自分が手を牛の頭の上に置くことによって、この牛がこれからたどる運命は実は自分自身が辿る運命なのだ、と認識することです。彼は手を置いて、自分の罪を告白した後に、その牛の喉を刀で刺し殺します。血がほとばしり出ます。動脈をあえて切るようにしているので、その量は尋常ではありません。バケツに勢いよく水道の水を入れていくように、祭司はほとばしり出る血を器の中に入れるのです。そして、その頭はすぐに切り取られますから、刀を入れるときは、ほとんど切り取るような形で深く差し込むのであろうと思われます。

 そして牛は肢体ごとに切り取られて、祭壇に薪が組まれたところに載せられ、火で焼かれます。

 これらがすべて、「自分が受けなければいけなかった神の裁きなのだ」と受け止めているのです。牛のいけにえと自分を一体化させているのです。そこで血を流し、切り取られ、燃やされている牛はまさに自分自身だったのです。同じようにイエス様があそこで鞭打たれ、ののしられ、釘打たれ、血をほとばしるように流されたのは、まさに私のためなのだ、私がキリストにあって罪の罰を受けているのだ、ということです。

 黒人霊歌に、有名な「君もそこにいたのか」という聖歌があります。一部を引用しましょう。

 @君もそこに居たのか  主が十字架に付くとき
  ああ・・ 何だか心が震える  震える  震える
  君もそこに居たのか

A君も聞いていたのか  釘を打ち込む音を
  ああ・・ 何だか心が震える  震える  震える
  君も聞いていたのか

B君も眺めてたのか  血潮が流れるのを
  ああ・・ 何だか心が震える  震える  震える
  君も眺めてたのか

 使徒パウロは言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20」これによって、私たちは究極の罪からの赦しと清めを経験できます。もはや、自分のしたことに対して自分を痛めつける必要はないのです。キリストがあなたにあって徹底的に痛めつけられているのです。この方はよみがえられ、今も生きています。キリストを受け入れ、キリストが心のうちに生きている人は、自分の過去の罪を認めながらも、なお罪の責めから自由にされて生きることができます。

3B 罪から来る報酬
 そして、罪を清めていただくために、必要なのは水以上に血でした。禊を済ませる、という言葉のように、水によって清め、滝に打たれるような修行を行えば、自分の汚れが清められるのでしょうか?聖書では、罪に対してさらに深刻に捉えています。それは、単に体にまとわりついた穢れを水で洗い流すのではなく、先ほども見ましたように、私たちの存在そのものが罪によって歪められているのです。私は子供に聖書を教えていたときにしばしば、「石鹸で心の中に悪いものは洗ってきれいにすることはできるかな?」と聞きました。

 最初に神に造られたアダムと、アダムから造られたエバは、自分たちが犯した罪に対して、いちじくの木の葉をつづり合わせて、裸を覆いました。その地域ではいちじくの木の葉が最も大きいためです。けれども、神が近づかれた時に彼らは神が恐ろしくて、逃げて隠れたのです。つまり、自分が自分の過ちを隠そうとしたところで、心の中にある罪の咎めは消し去ることはできなかったのです。

1C 屠殺
 けれども神は、アダムとエバに皮の衣を着せました。神が皮の衣を作られる時に、犠牲になった獣がいます。ここで礼拝者が喉を掻き裂いて殺した牛のように、神は一頭の獣を、血を流して殺さねばならなかったのです。「罪は、死をもって償わなければならない」からです。エゼキエル書には、「罪を犯した魂は必ず死ぬ。(18:4 口語訳)」とあります。私たちの魂は、その罪のゆえに常に「死罪」という傷を負いながら生きています。その傷を私たちは、表面的な修行や儀式、また他の善行で償うことはできないのです。あくまでも、死をもって償わなければいけない性質のものなのです。

2C 血の注ぎかけ
 そして、礼拝者が屠った牛の血を受け取った祭司は、5節に、「祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。」とありますが、新共同訳では「側面に」とあります。バケツの水のように、たっぷり血の入った器から、祭司は、祭壇の側面に投げつけるようにして注ぎます。一滴、二滴を指で祭壇に飛ばすのではないのです。

 いのちを端的に表すものは何でしょうか?「血」ですね。医学的にも血が運ぶ酸素がなければ、体内の細胞はたちまち死んでしまい、私たちは死にます。日本語でも、「血の滲むような努力」という言葉や「血税」という言葉があります。そして、聖書にははっきりと、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ17:11」とあります。

 したがって、血を注ぎかけるのは、まさに「命が注ぎだされた」ことを意味します。このような光景を目撃した本人は、「私の犯した罪は、この注ぎをもって洗い清められたのだ。」と、良心の咎めからの癒しと解放が与えられるのです。「罪の注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル10:22

 新約聖書ではさらに一歩進んでいます。イスラエルが千数百年行い続けた動物のいけにえですが、それによって罪のきよめが完全に行われなかった、と言っています。「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。(ヘブル10:2」なぜなら、その血は動物のものであり、動物の命も尊いですが、私たち人間の命の対価としては不十分だったからです。「雄羊とやぎの血は、罪を取り除くことができません。(3節)

 けれども、神ご自身である御子が人となられた、その肉体は、その血が私たちの良心の痛みを根こそぎ取り除いてくださいます!この良心のきよめを受けた人こそが、聖なる神との交わりという、とてつもない高い基準に歩む力が与えられるのです。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(1ペテロ1:2

4B 単独の礼拝
 そして最後に二つの点について、指摘したいと思います。一つは、礼拝者は単独で主の前に立ったということです。5節と7節に「主の前に」という言葉があります。礼拝者は、祭司が仲介して血を祭壇に注ぎかけ、そして祭壇の上に肢体を焼いてもらっていますが、あくまでも自分自身が主の前に出てきていました。自分独りが主の前に立っているのです。

 私たちは、他の人々と一緒に神の前に出ることはできません。もちろん、心を合わせて、同じ御霊で主を礼拝するのですが、究極的には自分独りが主の前に出て行っているのです。そこに、他の人がどうであるのか?と考える余裕がありません。自分が神に救われる、ということなのです。

 私たち日本人はチームで働くことが好きですね。助け合いの精神が非常に発達しており、ドラマでもすべての功績はチームによるものとしています。けれども、最近そうはいかなかった事件が起こりました。津波です。津波に対する防災訓練は、「まず自分が助かりなさい。真っ先に、高台に向かって走りなさい。自分の持ち物に未練を残してはならない。家族にさえ、助けようと考えてはならない。家族はそれぞれ各人が高台に向かって逃げて、高台で家族に再会することができるのだ。」という考えです。これに従順だった人々は、数多くの人が救われました。家族を助けに行った人は、家族だけでなく、自分自身も命を失ったのです。

 これと神の救いは同じです。私たちは、畏れ多き神の前で自分独りだけしか救うことはできません。自分が神の前に出て、自分が手を置いて、自分が牛を屠って、そして自分のために流された血を眺めるのです。そして、このような神との関係が確立しているからこそ、愛する家族との関係も正されて、神の願っておられる家族の姿を持つことができます。イエス様は言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26-27

5B 神の受容
 そしてもう一つの点は、このいけにえによって主がその人を受け入れてくださった、ということです。3節に「主に受け入れられるために」とあります。そして、9節の最後に、「主へのなだめのかおり」とあります。宥めの香りというのは、火で焼かれている肉がバーベキューの良い匂いを放っている、ということですが、主がその人のいけにえを快く受け入れられている、ということです。

 私たちは、キリストの犠牲にあってこそ、神に受容されています。私たち人間は絶えず、自分が受け入れられることを願っています。受容を欲しています。それで、自分がどのように認められるのかという問いを絶えず心の中で行っています。人々から認められることをたいてい求めるのですが、対人関係の中だけで自分を確立させようとすると、自分は萎縮し、調節ができない人は精神病にかかります。私たちの魂は、人ではなく、生ける神からの受容を求めているからです。

 エペソ書16節には、「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった」とあります。これは英訳にしたがいますと、「神がその愛する方によって、私たちを受け入れられた者とされた」とあります。神が、ご自分の愛するキリストによって、私たちを受け入れてくださった、ということです。みなさんは、ご自分をキリストにあって神に差し出した人は、神に受け入れられています。このようにして、あなたは聖なる神の前に自分自身も聖なる者として、とどまっていることができるのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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