レビ記21−23章 「聖なる集会」
アウトライン
1A 聖別された祭司 21−22
1B 祭司の職分 21
1C 葬儀と婚姻 1−9
2C 大祭司 10−15
3C 身に欠陥のある者 16−24
2B 神のパン 22
1C 汚れた祭司 1−9
2C 一般の者 10−16
3C 傷のない家畜 17−25
4C 家畜の母と子 26−33
2A 聖なる会合 23
1B 安息日 1−3
2B 春の祭り 4−22
1C 過越祭と種無しパンの祝い 4−8
2C 初穂の祭り 9−14
3C 五旬節 15−22
3B 秋の祭り 23−44
1C ラッパを吹き鳴らす日 23−25
2C 贖罪日 26−32
3C 仮庵祭 33−44
本文
レビ記21章を開いてください。私たちはレビ記の後半部分を学んでいます。レビ記全体の主題が「聖め」であり、前半部分は「いけにえによって聖なる神に近づく」ことでありました。そして後半は、「聖別によって神と共に歩む」が主題になっています。聖なる神と共に歩むためには、聖さの中に生きていかなければいけない、というものです。
そして前回は、血が尊いものとして、そして男性・女性の「性」が神の前に尊いものとして聖く保つ必要のあることを学びました。さらに、十戒にあるいろいろな戒めも読みましたが、その背後には「隣人をあなた自身のように愛しなさい」という動機に基づくものであることを学びました。
今回は、21-22章において「祭司の聖別」が書かれています。祭司がしては良いこと、そうではないことについて主は教えておられます。私たちが旧約聖書で「祭司」という言葉を聞いたら、二つのことを思い出さなければいけません。一つは、新約聖書においては教会の私たちが「祭司」と呼ばれていることです。教会である私たちが聖霊のおられる神殿であり、私たちはここで神に仕えています。そしてもう一つは、偉大な大祭司としてイエス・キリストがおられるということです。大祭司は、人の弱さを携えながら、神の前に出ていく仲介者です。そして神の恵みと祝福を人々に分かち合う仲介者です。このことを踏まえながら、読んでいきたいと思います。
1A 聖別された祭司 21−22
1B 祭司の職分 21
1C 葬儀と婚姻 1−9
21:1 ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。21:2 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。21:3 近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。21:4 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。21:5 彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。21:6 彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。21:7 彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。21:8 あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。21:9 祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。
祭司たちに対する戒めが書かれています。二つの事柄において、主は彼らに戒めを与えておられますが、一つは葬儀における死体の処理です。私たちは既に見たように、死体に触れる者は汚れるという律法がありました。葬儀の時には当然ながら死体に触れなければいけませんが、祭司は近親の者ではないかぎり触れてはいけない、と戒められています。レビ記10章において、アロンの息子ナダブとアビフが火で焼き殺された時に、アロンのおじが二人を聖所の前から宿営の外に運び出しましたが、近親の者であれば身を汚すことができます。
そしてもう一つは、婚姻についてです。淫行で汚れている女や離婚した女をめとってはならない、と命じられています。さらに祭司の娘が淫行で身を汚したら、彼女は火で焼かなければいけないという厳しい命令があります。
これらの理由が、8節にあります。「神のパンを捧げるから、彼を聖別しなければならない」ということです。ここの「パン」は穀物で作るパンだけに限らず、動物のいけにえも含むあらゆる食べ物を含みます。神がこれらのものをお食べになる、という意味合いで「パン」と言っています。そして、祭司は神が聖別される主であられ、神が聖であるから、という理由があります。
ここで取り扱われているのは、「交わり」です。「神のパン」とあるように、祭司が神にいけにえを捧げることによって、聖なる神と一つになっていることを意味しています。以前も説明しましたように、聖書における食事は「一つになる」ことを意味します。同じものを分かち合って、それぞれの腹の中に入ることによって、神秘的にその食べ物を通して互いに一つになったことを表しているのです。私たちが鍋料理をつついて、お互いの親近感を深めるのと似ています。
そして、葬儀というものと結婚というものがここで取り扱われているのは、「交わり」や「一つになる」ことに深く関わるからです。葬儀から初めに考えてみましょう。5節に「彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。」とあります。前回、これらの行為が異教の儀式が背景にあることをお話ししました。悲しみを表すために、異教の儀式ではこれらのことを行ないますが、決してそれを行なってはならないと命じています。葬儀において、異教の中では死者の霊に対する奉仕が執り行われていますが、これらの事柄に関わってはいけない、ということです。
私たちキリスト者が、仏式などの葬儀において気をつけなければいけないことは、このことです。死んだ者が神となり、または祖先の霊となり、その死者の霊に仕えているというのが全ての前提で葬儀が執り行われます。しかし、それは聖書のいう霊媒行為そのものであり、神の御霊ではない異なる霊と交わることに他なりません。したがって、直接的に礼拝行為に当たるものは、たとえそれを形式的に行ったとしても避けなければならないものです。
パウロはこのことで、次のように述べています。「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10:19-20)」知らず知らずのうちに、私たちは悪霊と交わってしまうことになってしまいます。
そしてもう一つの婚姻も同じです。私たちは物理的に、肉体的に関係を持ったところで、精神的には問題ないと思ってしまいます。しかし、現実は違います。肉体的な関係は直接、感情的、精神的、社会的、そして霊的な関係に影響を与えるのです。パウロは同じくコリント第一において、こう述べています。「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。(1コリント6:16-17)」肉体関係は、必ず結婚式まで取っておき、そして結婚の時に初めてのキスをし、その夜に夫婦関係に入る、という順番を経ます。そうすると霊的に、社会的に、感情的に、すべてが相重なって豊かに祝福されたものになります。「切実に待つ」という態度に、実は性的高揚の秘訣が隠されているのです。
ここレビ記では離婚をした女をめとってはならない、と言っていますが、新約聖書では不信者全般との交わりを避けるように命じています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15)」主にあって霊的に交わることのできない人と、肉体的に交わることはできません。夫婦の中の一人が救われたという時には、コリント第一7章には「あなたが聖であることによって、相手も聖くなる」とあるので(14節参照)、相手の救いを願ってそのままでいるべきですが、これからの結婚の時に、不信者の人が相手であるとかなり大変な思いをします。ここに書いてあるように、「釣り合わぬくびき」を負うことになります。
2C 大祭司 10−15
21:10 兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。21:11 どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。21:12 聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは主である。21:13 彼は処女である女をめとらなければならない。21:14
やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。21:15 彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」
1節から9節までは祭司に対する戒めでしたが、ここは大祭司に対する戒めです。基準が他の祭司よりも高くなっています。葬儀においては近親者であっても死体には触れることができません。そして聖所から出て行くこともできません。さらに婚姻においては、離婚した女や淫行で汚れている女だけでなく「やもめ」も含めて娶ってはならないと命じています。
その理由が、10節、「頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている」ということ、そして12節、「神のそそぎの油による記章を身につけている」ことがあります。覚えていますか、私たちは大祭司の装束が栄光と美を表すものであることを学びました。大祭司の姿は、まさに天で仕えておられる偉大な大祭司であられるイエス・キリストを表しているのです。したがって、神と人との完全な仲介者であられるイエス・キリストを表しているということにおいて、彼は普通の人ならできることも制限される、ということであります。私たちの主には、汚れたものが何一つない、全く聖なる方です。
3C 身に欠陥のある者 16−24
21:16 ついで主はモーセに告げて仰せられた。21:17 「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。21:18 だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、21:19 あるいは足や手の折れた者、21:20 せむし、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。21:21 祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。21:22 しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。21:23 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」21:24 モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。
ここも、大祭司に対する戒めと同じ考えがあります。身障者に対する差別では決してありません。あくまでも、彼らは聖なる神に仕える者として、その聖さを表すときに、儀式的に「欠陥」というものを持っていてはいけないのです。身障者たちが汚れているとか、そういうものではなくて、完全な神、聖なる神を目で見える形で代表しているがゆえに、奉仕できません。けれども、他のアロンの家の者として、主に捧げられたものは一緒に食べることができます。
2B 神のパン 22
1C 汚れた祭司 1−9
22:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。22:2 「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。22:3 彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは主である。22:4 アロンの子孫のうち、らい病人、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、22:5 あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、22:6 このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。22:7 ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。22:8 自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは主である。22:9 彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する主である。
ここには、私たちが以前学んだ、「汚れたものと清いもの」の区別の教えが書かれています。らい病、漏出、汚れた動物に触れることなど、私たちはすべて学びました。ここでは、祭司がこれらのことを行なったら、清められ、洗われるまで待つことを教えています。
ここから私たちが学ぶことのできることは、教会において、汚れをもったまま神に奉仕することはできない、ということです。教会は聖なる御霊がおられるところです。聖なる神が臨在されているところです。私たちの行ないや思いに、罪や汚れを宿したまま、それらを告白しないままで奉仕を行なうことは、主との交わりにおいて、そして他の兄弟姉妹との交わりにおいて深刻な傷をもたらします。聖めを保ちましょう。
エペソ人への手紙4章において、教会の中で行なう罪を脱ぎ捨てなさい、そして新しい性質を身につけなさいという勧めがあります。嘘をついている人は真実を語りなさいと勧められています。怒っている人はそのままにしてはいけないと戒められています。盗みをするのではなく、かえって自分の手で働き施しなさい、と勧められています。さらに、悪い言葉を口から出してはいけないとあります。「人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(29節)」とあります。そして、神の聖霊を悲しませてはならないと戒められています。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(30-32節)」
2C 一般の者 10−16
22:10 一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。22:11 祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。22:12 祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。22:13 祭司の娘がやもめ、あるいは離婚された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。22:14 だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。22:15 イスラエル人に、その主に奉納する聖なるものを汚し、22:16
聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。」
主に捧げられた肉や、穀物のささげ物のパンは、その一部を祭司があずかることができます。けれども、一般の人はそれに預かることはできません。なぜなら、それは礼拝行為そのものであり、先ほど話しましたように、主なる神と交わる行為そのものだからです。聖別されていない人が、真の意味で礼拝に参加することはできないのです。
これを基にして、新約聖書では聖餐式に対する戒めとなっています。イエス様が弟子たちに行ないなさいと命じられた、裂かれたパンを食べ、ぶどう酒を飲む儀式です。使徒パウロはこう言っています。「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(1コリント11:27)」したがって、主の死のことが分からない信者ではない人が、この礼典に参加することはできないのです。
けれども、聖なるパンについて、興味深い話が聖書にはあります。ダビデがサウルから逃げた時に、彼はパンを分け与えてくれないかと祭司に頼んでいます。けれども祭司の手元には、聖所に供えられたパンしかありませんでした。けれども、緊急の状況の中で祭司は彼にパンを分け与えたのです(1サムエル21:6)。この出来事をイエス様が、パリサイ人に対して語られました。弟子たちが安息日に空腹になって、麦畑の穂を摘んで食べたことをパリサイ人が咎めたからです。イエス様は、ダビデが祭司から聖なるパンをもらったけれども、それは「憐れみ」の行為であり、憐れみのほうがいけにえにまさる、と言われました(マタイ12:7)。
したがって、私たちは「交わり」ということにおいて、気を付けなければいけません。確かに罪であるとか、信仰を持っていないのに聖餐のパンを取ってしまったとか、教会において誤ったことを行なってしまう人がいます。そのことを「大丈夫だ」と言って軽視しては決していけないのですが、同時に、杓子定規に、厳格に適用してはいけない時があります。それは「憐れみ」という神の大切なご性質を鑑みるときです。私たちが捧げていることよりも、神の憐れみが優っていることを覚えておかなければいけません。
3C 傷のない家畜 17−25
22:17 ついで主はモーセに告げて仰せられた。22:18 「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを主にささげるなら、22:19 あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。22:20 欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。22:21 また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。22:22 盲のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを主にささげてはならない。また、これらのものを主への火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。22:23 牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。22:24 あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。22:25 また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」
今度は、いけにえの家畜そのものに欠陥があってはならない、ということです。傷のないもの、欠陥のないものでなければいけません。それは主が聖なる方であり、そのご性質には欠けたものが何一つないからです。主は完全なものしか受け入れないからです。
これはまさしく、私たちの主イエス・キリストを指し示しています。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」イエス様は、二つの面において罪を持っておられませんでした。一つは「罪の性質」です。お生まれになったとき、男女の関係からではなく、処女マリヤが聖霊によってイエス様をみごもりました。生まれつきの罪をお持ちではなかったのです。さらにもう一つは「罪の行為」です。罪を最後に至るまで一度も犯したことがありませんでした。ゆえに、神はキリストをご自分に捧げられる罪の供え物として受け入れることができたのです。
4C 家畜の母と子 26−33
22:26 ついで主はモーセに告げて仰せられた。22:27 「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それは主への火によるささげ物として受け入れられる。22:28 しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。
とても興味深い戒めです。主は、いけにえとして屠られる動物に対して、憐れみを示しておられます。一歳の子羊をささげなさい、という戒めがありますが、七日間は母親にとどめておくということ。そして、母と同じ日に屠ってはならない、ということです。動物虐待をする人は、人への危害に発展すると言うことを聞いたことがありますが、命に対する尊厳は、人のみならず動物にもある程度、神は与えておられます。
22:29 主に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。22:30 その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。22:31 あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行なえ。わたしは主である。22:32 わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。22:33 あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」
感謝のいけにえについての戒めは、すでに出ていました。神への感謝は日毎に新しくなっていなければいけません。日々、絶えず私たちは主に感謝をささげます。
2A 聖なる会合 23
それでは23章ですが、23章から26章までは、個々のイスラエル人の聖めではなく、イスラエルの国民生活の聖めを取り扱っています。初めに、主はイスラエルに例年行なう祭りを定められました。諸国の民もそれぞれ祭りを持っていましたが、主は彼らに聖なる国民として生きるための祭りを定められたのです。
1B 安息日 1−3
23:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23:2 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。23:3 六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
例年の祭りの前に、週ごとに行なわなければいけない祭り、というか、集まりを教えておられます。安息日です。安息日はイスラエルに与えられたものであり、私たちキリスト者には当てはまりませんが、それでも六日働き、七日目に休み、その日は主の聖なる日として礼拝するという生活はとても理想的です。肉体の安息も必要であり、そして霊の安息も必要です。
2B 春の祭り 4−22
1C 過越祭と種無しパンの祝い 4−8
23:4 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。23:5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。23:6 この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。23:7 最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。23:8 七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」
祭りの始まりは、過越の祭りであります。今の暦ですと三月の終わりから四月初旬にありますが、子羊をほふって、それを食べることが主な儀式です。(詳しくは出エジプト記12章の学びを読むか、聞いてください。)今でもユダヤ人は行っており、ちょうど私たちの正月の祝いのように守っています。けれども、イエス様を信じたユダヤ人は、その祭りの手順一つ一つに、イエス・キリストの働きを見出しています。
コリント第一5章7節において、パウロは、キリストこそが過越の小羊であることを述べています。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」過越の子羊が屠って、その血を家の門柱と鴨居につけ、その血を見て初子を殺すために来た御使いは、そこを通り越しました。同じように、私たちの主イエス・キリストの流された血によって、私たちは大いなる神の裁きを免れることができます。
そして、この祭りの食事があの最後の晩餐であり、イエス様が「これは、わたしの裂かれる体です。取って食べなさい。」「これは、あなたがたのために流される新しい契約のしるしの血です。」と言われたのは、その食事の一場面でした。そして同じ日に、イエス様は十字架につけられて殺されたのです。
したがって、23章においてなぜ主がイスラエルにこれら七つの祭りを守るように命じられたのかと言いますと、それはメシヤが来られ、メシヤが行なわれることを予め祭りの中で知らせるためでした。私たちはこのように学びをしていますと、どうしても知的に偏ってしまい生活に密着しません。けれども祭りとして祝うと、私たちの思いと心にしっかり密着します。人生観を形成します。主は祭りによってイスラエルの民にメシヤへの待望を身に着けさせたかったのです。
そして過越の祭りといっしょに守られるものがが、種無しパンの祝いです。翌日の十五日から一週間の間、パン種、つまりイースト菌の入っていないパンを食べなければいけません。パン種は、粉全体を膨らますことから、罪の象徴となっています。それをすべて取り除く、というのは、「イエス・キリストが流された血によって、すべての罪を取り除いてくださった。」ことを表しています。
2C 初穂の祭り 9−14
ここまでは既に、私たちは出エジプト記12-13章で学んだところです。また昨晩の第一礼拝の説教をぜひお聞きください。イスラエルが年中行事を行って、メシヤの到来を身に沁みて感じ取ったように、私たちは、イエス様が行なってくださったこと、またこれから行ってくださることを体に巻きつけて、その時間帯の中で生活するのです。キリストの真理を身に着けます。そこで、次から進出の祭りになります。
23:9 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23:10 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。23:11 祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。23:12 あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。23:13 その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。23:14 あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。
「初穂の祭り」です。安息日の翌日、つまり日曜日に行ないます。ここの収穫の初穂は大麦です。初めに収穫した大麦の一房を神の前に揺り動かして捧げます。これを行なう前は、収穫から取れたものを食べてはいけません。そして、いけにえもこの日に捧げます。
第一礼拝において説明しましたが、これは主イエス・キリストが墓に葬られてから三日目によみがえられたことを指し示しています。事実、初穂の祭りの日、日曜日に、女たちや弟子たちに復活の姿を現し始められたのです。コリント第一15章20-22節にはこうあります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント15:20-22)」
これまでも、旧約時代においては、エリヤなどの預言者が死人を生き返らせるなどの奇蹟を行ないました。主ご自身も、ヤイロの娘やラザロをよみがえらせました。けれども、それはあくまでも蘇生です。生き返っても同じ肉体であったので、その後、死にました。けれども、イエス様は朽ちない体で、新しい、栄光の肉体でよみがえられました。もはや死ぬことはありません。これが、ここで意味している「復活の初穂」であり、死んでも復活し、永遠に生きるという初めであります。
初穂は、それからの収穫の代表を表しています。箴言には、「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。(3:9)」とありますが、所得が与えられたらその一部を初めに主に捧げることによって、その後の財産が自分のものではなく主のものであるという意識を持つことができます。それと同じように、イエス・キリストが初めによみがえってくださったのは、この方に連なるすべての者が死んでもよみがえることを示しているのです。キリストにつながっている者は、死で終わりでは決してないのです。復活し、永遠に生きるのです!
3C 五旬節 15−22
23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。23:17 あなたがたの住まいから、奉献物としてパン・・主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの・・二個を持って来なければならない。23:18 そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。23:19 また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。23:20 祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。
初穂の祭りから七週間を数えます。あるいは、安息日から七週を数え、その翌日を祭りとします。これは「七週の祭り」とも呼ばれ、五十を意味する「五旬節」とも呼ばれます。英語では「ペンテコステ」です。五月の季節です。この時の新しい穀物は「小麦」です。初穂の祭りでは大麦でしたが、こちらは小麦の収穫を主に捧げます。そして火によるいけにえを数多く捧げ、和解のいけにえも捧げます。
五旬節で特徴的なのは、その和解のいけにえと共に、この穀物によって作ったパンを二個ささげることです。17節をご覧ください、「パン種を入れて焼かれるもの」とあります。種なしのパンの祝いにおいては、あれだけパン種を取り除くことに集中していたのに、ここではパン種を入れたパンを主に捧げるのです。
その理由を知るのは、この祭りの意味するところを知る必要があります。イエス様がよみがえられ、四十日間、ご自分の復活を現し、神の国を教えられました。そして聖霊のバプテスマを与えることを弟子たちに約束されて後、天に昇られました。それから十日後、五旬節の日に彼らは聖霊に満たされ、それぞれ外国の言葉で神を賛美しはじめたのです。そして使徒の働き2章を読みますと、ペテロが「イエスをあなたがたは殺したが、神はこの方をよみがえらせたのだ。」と説き、それによって五千人の男がバプテスマ、洗礼を受けました。つまり教会の誕生です。
五旬節の表しているものは、教会でした。教会とは、建物でもなく、人の組織でもなく、キリストの体であります。御霊によって新しく生まれた人々が、キリストを頭として一つになっている姿です。それは、不完全な私たちによって構成されています。キリストにあって成長し、結びあわされますが、完全に向かって進んでいますが、完全ではありません。それが「パン種」がそこに含まれている意味です。
しばしば、「教会は偽善者の集まりだから、私は行かない。」という人がいますが、ならば、その人は偽善者ではないのでしょうか?罪あるいは弱さを持っているからこそ、私たちは互いに重荷をもって愛し合い、祈り、仕えあっていくのです。
23:21 その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。23:22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」
小麦の収穫、また他の収穫においても、前回の学びで学んだように、畑の隅まで刈り取ってはいけません。それは落ち穂を貧困者に拾わせるためです。ルツ記には、ルツがボアズの畑で、大麦の落ち穂、そして小麦の落ち穂を集めている姿を読むことができます。
3B 秋の祭り 23−44
そして一気に、「秋の祭り」に進みます。「第七の月」つまり九月の季節に入ります。春の祭りが、キリストが初めに来てくださったことを表しているなら、秋の祭りはキリストが再び来られることを表しています。私たちはちょうど、その中間地点にいるわけです。その間、農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ばれるのをじっと待っています。そして、実が結ばれるように、細心の注意を払って作物を育てます。つまり、私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活から実を結ばせているかどうか、じっくり見ているのです。いつ戻ってきて主が収穫されても用意ができているようにします。
1C ラッパを吹き鳴らす日 23−25
23:23 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23:24 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。23:25 どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」
秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らす日によって始まります。ラッパは、大抵、雄羊の角で作ったものです。それを吹き鳴らす時に、イスラエルの民は一箇所に集まったり、または荒野の旅のときは旅を始めたり、あるいは戦争を始める時もラッパを吹き鳴らします。
そして新約聖書では、終わりの日にラッパが吹き鳴らされることを教えています。それは、教会が引き上げられること、主イエスが空中まで降りてきてくださって、私たちに会ってくださる「携挙」の出来事を表しています。テサロニケ第一4章を第一礼拝では読みましたが、今はコリント第一15章の終わりの部分を読んでみます。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(1コリント15:51-52)」終わりのラッパが吹き鳴らされる時に、既に死んだ信者はよみがえり、そしてまだ生き残っている私たちは一瞬にして変えられ、復活の体を身にまといます。
そして私たちは、キリストの裁きの御座に着きます。それは、私たちを罪に定めるための裁きではなく、ちょうどオリンピックの競技のように、表彰式に立たせるための審判です。私たちが地上で行なったことにしたがって、愛と信仰によっていかに生きてきたかにしたがって、キリストが私たちに報いを与えてくださいます。そして、そのような動機で行なっていなかったものは火で焼かれますが、自分自身は救われて助かります。(1コリント2:12-15参照)「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5:10)」ですから私たちはみな、用意し、目を覚ましていなければいけません。
2C 贖罪日 26−32
23:26 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23:27 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。23:28 その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。23:29 その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。23:30 その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。23:31 どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。23:32 これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」
ラッパを吹き鳴らす日の十日後に、贖罪の日があります。私たちは既にレビ記16章で、贖罪日に何を行なうかについて学びました。大祭司が至聖所の中に入り、自分自身の罪の赦しのための血と、そしてイスラエルの民のすべての罪を赦すための血を携えて、贖いの蓋のところにそれを振りかけます。これは、天の御座において神が私たちに永遠の赦しを与えるように、キリストの血によっていっさいの罪を赦すように決められたことを意味することを学びました。
この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食です。彼らが自分の罪を真摯に悔い改めて、主から罪の赦しと清めをいただくことを意味しています。また、いっさい仕事をしてはならないことも強調されています。これは、キリストの救いの完成を表すことを私たちは習いました。救われるために行なうべきことは、一切残されていないことを、全き安息によって示します。
ところで、私たちキリスト者にとって、「イスラエル」というのは神の救いについて考える時に大事な存在になります。神がイスラエルをお選びになり、イスラエルによって全世界を救うメシヤを与えてくださいました。そして一時期、異邦人への救いを神が行なわれている中で、彼らのその特別な地位は退けられていますが、それは異邦人の救いの完成の時までであり、終わりの日には彼らもみな救われることを教えています。今話したことは、ローマ11章後半に書いてあります。
そして、このイスラエルの救いと彼らの悔い改めが、ゼカリヤ書12章9節以降に詳しく預言されています。「その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。(ゼカリヤ12:9-11)」ここまではっきりと、十字架につけられたイエスをユダヤ人が受け入れることを預言する箇所はありません。
終わりの日にはエルサレムが全ての国々の軍隊に攻められます。数日前も、フランスとアメリカの大統領が、ネタニヤフ首相のことを嘘つきよばわりしましたが、イスラエルは攻められています。終わりの日には反キリスト率いる軍隊がユダヤ人を滅ぼそうとしますが、彼らが全滅する寸前にメシヤに救っていただくように願い求めます。そこで現れるのが、イエスご自身です。そしてその戦いはエルサレムに移っていくのですが、それがここで描いている場面です。
主なる神が注いでくださる御霊は、「恵みの哀願の霊」であります。彼らの哀願に応えて救いの恵みを神が与えてくださいます。ところが、主は「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」と言われています。自分を救ってくださいとお願いしているヤハウェなる神を、彼らは以前突き刺した、というのです。そうです、彼らの宗教指導者はかつてヤハウェなる方、イエス様を十字架につけて殺したのです。
このことを悟ったユダヤ人は、ここで初子を失って激しく泣くように嘆きます。私たちはこれほどまでにメシヤを見失っていたことを嘆くのです。その嘆きは悔い改めとなり、それで13章には「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」とあるのです。彼らの罪の一切が清められました。
3C 仮庵祭 33−44
そして最後の祭りは仮庵の祭りです。この祭りに、すべての収穫が終わったことを祝います。
23:33 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23:34 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。23:35 最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。23:36 七日間、あなたがたは火によるささげ物を主にささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物を主にささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。23:37 以上が主の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、主にささげなければならない。
仮庵の祭りの初めの日と最後の八日目は仕事をしてはならず、その間、火による捧げ物をささげなければいけません。
23:38 このほか、主の安息日、また、あなたがたが主にささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。23:41 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。23:43 これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」23:44 こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。
仮庵の祭りの特徴は、その名のとおり「仮の庵」です。イスラエルが四十年の荒野の旅をして、無事に約束の地に入ることができたことを、仮の住まいの中に住むことによって思い出します。時は十月です。日本よりは温暖なイスラエルとて、十月になれば肌寒いです。子供がお父さんに、「お父さん寒いね」と言います。するとお父さんは、「私たちの先祖も、同じように砂漠の夜、寒さをこらえていたのだよ。」と教えます。子供が、「ほら、屋根の隙間から星が見えるよ。」と言ったら、父親は、「先祖たちも、荒野での天幕から月の光が入って来たのだよ。」と教えます。こうやって、後の世代が荒野の旅で神が守ってくださったことを知るようにしていました。
もう一つ、仮庵の祭の間、美しい木の実、ナツメヤシの葉、茂り合った木の大枝で、主へ喜びの声を上げます。贖罪日によって自分たちの罪が清められ、その後に主が至福の時を与えてくださることを覚えます。
仮庵の祭りは、終わりの日にすべての国々の民によって祝われることが、ゼカリヤ書14章で預言されています。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(14:16)」したがって、仮庵の祭りは主イエス・キリストが戻って来られた後の、地上における神の国の喜びを表しています。私たちは主イエスから、「御国が来ますように。みこころが天に行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)」と祈りなさいと命じられていますが、そのことが実現するのが地上の神の国なのです。黙示録ではそれが千年間であると教えているので、これを「千年王国」と呼んでいます。
そして千年間が終わると、不信者が復活し、最後の審判を受けて、地獄に投げ込まれます。そして天地はすべて過ぎ去って新天新地になります。天から新しいエルサレムが降りてきて、その都で私たちは永遠に神と共に住むことになります。
ところで千年王国の至福の一つは、御霊がこの地上に豊かに注がれることです。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。ヨハネ7章37節からです。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(37-39節)
終わりの日にはこの地に主が御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができます。
そして私たちは今、御霊による霊的祝福を与えておられます。ただ、心に安らぎが与えられるだけではありません。心が満たされて、満ち溢れて、そして周りの人々も影響を受けていくのです。どうか、御霊の流れを止めないでください。神の著しい恵み深さを、そのまま受け入れ、その豊かさに圧倒されてください。日々、主の愛に触れてください。主が、私たちをご自分の霊の器とし、主ご自身が私たちを用いて人々に愛を流そうとされています。