聖書から見た収穫感謝祭 2001/09/28
(以下の文は、小牧者出版「幸いな人」11月号の特集記事で掲載された、編集前のものです。)
仮庵の祭り
アメリカにおける収穫感謝祭の由来は、17世紀の英国清教徒たちによる、大陸移住の時にさかのぼります。彼らが苦境の中にいたときに、インディアンが彼らの生活を助けました。そして、収穫物が与えられたことを感謝するために、インディアンの人たちを招いてお祝いをしたことが、この祭りの始まりです。
けれども、実は聖書の中に、収穫祭のことが記されています。主がモーセにこう仰せになりました。「また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。(出エジプト記23章16節)」
神は、荒野の中にいたイスラエルの民に、彼らを乳と蜜の流れる土地に導き入れられることを約束され、そして、その収穫物をもって主に対して祭りを持つことを命令されました。春には、大麦の収穫時期に、初穂の祭りを行ないます。そしてその50日後には、小麦の収穫があり五旬節を祝います。そして秋になると、ぶどうやオリーブ、いちじくなどの実を刈り取ります。その後に、「仮庵の祭り」とも呼ばれている収穫祭を持ちます。こうして、イスラエルの民は、約束の地で主が収穫をもたらしてくださることを認め、主に感謝をささげ、喜び祝うのです。
神のいのち
収穫というのは、命の現われであり、天地万物を造られた主によってのみもたらされるものです。人がいくら努力しても、決して命を造り出すことはできません。そこで聖書では、しばしば、神のいのちの現われとして、収穫についての表現があります。
使徒パウロが、死者の復活について語っているとき、このように言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(コリント人への手紙第一15:20-21)」キリストが、死者の中からよみがえられました。そのため、キリストを信じて、キリストに結びつけられた者もまた、よみがえりを経験します。大麦の初穂が、すべての大麦の穂の代表であるように、イエスさまの復活が、信者たちの復活の代表として、第一の方となられたのです。
そして、他の箇所では、御霊によって新生したクリスチャンたち自身が「初穂」と呼ばれています。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ人への手紙8:23)」世界は、アダムが罪を犯したときから、悪魔の支配の中に手渡されました。しかし、キリストが世に来られて、ご自分の血によって世を神のものとして贖われました。そして、イエスさまが再び地上に戻って来られるときに、自然界などの被造物は回復して、神が初めに意図されていた世界に変わります。けれども、その前に、私たち人間が御霊によって、キリストにあって新しく造られました。そのため、ここではクリスチャン自身が、被造物の新しい創造に先立つ存在として、「初穂」と呼ばれています。
神の刈り込み
このように、収穫は神のいのちを表していますが、命というものは、尽きることなく、枯れることもなく、泉のようにあふれ出し、多くの実を結ばせます。キリストのいのちを得た者たちも、彼らから多くの実が結ばれるのです。そして、神は最後に、これらの実を刈り取ることを考えておられます。
マタイによる福音書13章には、有名な種まきのたとえが記されています。そして、イエスさまは、そのたとえに続いて、良い麦と毒麦のたとえをされています。敵が畑に来て、毒麦の種を蒔き、芽を出し、毒麦が畑の中に混じっていることを、主人のしもべたちが見つけました。けれども、主人は、収穫の時まで良い麦も毒麦も育つまましておくようにしました。そして、刈り入れには、毒麦は焼くために束にされて、良い麦は主人の倉の中に入れられます。
このたとえは、世の終わりの時のことを意味しています。不法を行なう者どもは、取り集められて火の燃える炉に投げ込まれますが、キリストを信じて救いを得た人たちは、大いなる報いを主から受け取ることになります。イエスさまは、彼らが「太陽のように輝く」と言われています。
主が願われていること
したがって、神が、人をキリストにあって選び、ご自分の子どもとされるその最も大きな目的は、ご自分の実をその人から結ばせることです。神は、クリスチャンたちから多くの実が結ばれていることを見たいと願われています。そして、主が戻って来られるとき、その実に応じて報いが与えてくださるのです。
それでは、多くの実を見たいという神の願いに、私たちはどのように応えたらよいのでしょうか?第一に、自分自身を吟味し、さばきます。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(コリント人への手紙第一11:31-32)」
私たちが今行なっていることは、果たして永遠に残るものであるのかどうかを吟味しなければなりません。永遠に価値のあるものでなければ、主が来られるときに、それは精錬する火によって焼かれてしまいます(Tコリント2:12-15参照)。今、自分が行なっている奉仕は、イエスさまの愛と恵みに満たされていることによってか、それとも、いやいやながらであったり、人に良く見られたいと思って行なっているものなのか、調べてみましょう。イエスさまは、人に見せるために善行を行なっているのであれば、すでに自分の報いを受けている、とお話になっています(マタイ6:1−2)。
レビ記23章によると、収穫祭である仮庵の祭の前には、ラッパを吹き鳴らす会合と贖罪の日があります。この二つは主に、悔い改めに関わることであり、贖罪の日には断食をします。そして、喜びと感謝にあふれた仮庵の祭りを祝うのです。事実、ネヘミヤ記8章には、エズラが律法を朗読して、そのことばを聞いていたイスラエルの民が、悲しんで泣いていたことが記されています。そして、エズラとネヘミヤが彼らを励まして、イスラエルの民は飲んだり食べたりして、大いに喜びました。それから仮庵の祭りを行なったのです。イエスさまも言われました。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになります。(ルカ6:21)」したがって、私たちは、主が報いてくださる日を思いながら、自分自身を吟味することが必要です。
多くの実を結ぶようになるための第二の方法は、イエスさまにとどまることです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネの福音書15:5)」私たちは枝ですから、自分自身では決して実を結ばせることはできません。キリストにある自分をしっかりと保っていることが大切です。イエスさまを離れては、「何も」することができません!「自分には何かできる」という部分がなくなればなくなるほど、また、「自分には何もできない」という部分が大きくなればなるほど、私たちのうちから実が結ばれていきます。
そして、第三に、ご聖霊に導かれることがあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ人への手紙5:22-23)」御霊に導かれ、御霊に満たされましょう。そうすれば、上の聖句に記されているところの実が私たちの生活から豊かに結ばれていきます。
ですから、収穫感謝祭は、人だけではなく、神ご自身がお祝いされる祭りでもあるのです。その際、その収穫物は私たち自身であります。神がみことばによって私たちの心に種を蒔き、それを成長させ、その実を刈り取ってご自分の倉に入れられます。そして、神はキリストにあって造り出された完成品を見て喜び、お祝いされるのです。そのとき私たちは、キリストにあって神の祝福の的になり、神のものとされ、永遠の至福の中に憩うことになります。
「主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)」
参照聖書個所:収穫祭についての学びは、レビ記23章が最適です。
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