レビ記24−25章 「主のもの」

アウトライン

1A 聖なる名 24
  
1B 供え物 1−9
    1C ともしび 1−4

    2C パン 5−9
  2B 冒涜の罪 10−23

    1C 混血 10−12
    2C さばき 13−23
2A 主の土地 25
  1B 安息年 1−22
    1C 7年目 1−7

    2C ヨベルの年 8−17
    3C 約束 18−22
  2B 買い戻し 23−55
    1C 居留の異国人 23−24
    2C 貧しい者 25−55

      1D 兄弟 25−28

      2D 町の住宅 29−34
      3D 貧困 35−38

      4D 身売り 39−46
      5D 異国人への身売り 47−55


本文

 レビ記24章を開いてください。今日は、24章と25章を学びます。ここでのテーマは、「主のもの」です。私たちは主ご自身の所有になっており、自分自身のものではないことを、この2章をとおして学ぶことができます。

1A 聖なる名 24
 それでは、24章一節から読んでみたいと思います。

1B 供え物 1−9

1C ともしび 1−4
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えず、そのともしびをととのえておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前にととのえておかなければならない。

 以前、主はモーセに、幕屋の中で祭司アロンがしなければならない奉仕を教えられましたが、今、読んだ個所は、その一つのである、燭台のともしびをととのえることです。この燭台は7つのともしび皿があります。そこに油を入れて、聖所にはいつも光があるようにします。燭台はすべて純金で作られています。また、油は、とくべつな良質のオリーブ油を使います。


2C パン 5−9
 そして、主はモーセに、パンを主の前に供えることについても教えておられます。あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。

 
聖所には、外から入ると、左に燭台があり、右にはこの机があります。机はアカシヤという材木によって造られましたが、それをすべて純金をおおっています。その上に
12個のパンを、2列に6個ずつ置きます。この12個のパンは、イスラエル12部族を表しています。

 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。


 燭台のともしびは、「夕方から朝まで」つまり日ごとにととのえなければいけないものでしたが、パンは、「安息日ごと」つまり週ごとに整えておかなければいけません。「永遠の契約」と主はおっしゃっておられますが、どんなときにも休むことなく供えておかなければいけない、ということです。

 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。

 
パンの一部は外庭の青銅の祭壇にて、火で焼いて主におささげまします。けれども、祭司は、その一部を聖所の中で食べます。これは、生活の必要をいただくというよりも、主との交わりをするためであります。礼拝の一つの行為として、このパンをいただきます。


 このように、24章は、日ごとに、また週ごとに行なう祭司の務めについての教えから始まりました。けれども、レビ記全体を読んでいる人にとっては、なぜこの個所に、このような日常的な奉仕について書かれているのが、不思議に思います。前の章23章では、主の例祭について書かれていました。例年行なわれる祭りについて、書かれていました。過越の祭りから始まり、種なしパンの祝い、初穂の祭り、そして五旬節があります。これらは春の祭りです。そして秋には、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪の日、そして仮庵の祭りでクライマックスを迎えます。イスラエル人は今、シナイの荒野にいますが、約束の地に入ったとき、彼らは農作業によって食物を得ます。収穫の時期に沿って、このような盛大な祭りをして、主を礼拝するのです。そして、私たちは、これら一つ一つの祭りには意味があって、キリストの十字架と復活、聖霊の降臨、そして携挙、再臨、千年王国と、主イエス・キリストのみわざを表していることを知りました。この例祭について教えられているその次に、このともしびについての教えと、パンについての教えがあります。しかも、これらは以前、主がモーセにすでに教えられたことです。

 レビ記は
27章で終わりますが、ということは、私たちは、レビ記の最後のほうにいることになります。主がモーセに対して語られることは、もう少しで終わることになります。終わると、イスラエル人はシナイ山のふもとから、約束の地に向けて荒野の旅を始めます。この最後のほうにいるのですが、主は今、大きな視野からご自分が聖なる方であることを教えておられることを知ります。23章は祭りでしたが、24章では土地が7年ごとに安息させ、50年ごとに人々を所有地に帰らせることを主は命じております。そして、26章では、この土地に、何十年も何百年も先の将来に起こることを警告されています。このように、大きな視野から、総合的な教えを主はイスラエル人に与えられているのですが、今、この24章で、突然、祭司が日ごとに、週ごとにしなければいけない務めについて戻っているのです。それは、なぜでしょうか?

 私は、主が、ご自身の大きな計画を教えておられるときに、しなければいけない小さな務めについて忘れてほしくない、と願われているからではないかなあ、と思っています。この最初の9節で繰り返されていることばは、「絶えず主の前に」であります。例年の祭りが行なわれているときも、途切れることなく絶えず行なっていなければいけないのです。安息年になっても、ヨベルの年になっても、どんなときも、アロンの子孫は聖所に入って、油をととのえて火をともしつづけ、安息日ごとにはパンを取り替えて、新しいのを供えなければなりませんでした。例祭があっても、何があっても、主の前に出てくることをやめることはありませんでした。ここから私たちも、日ごとに、また週ごとに主の前に出てくる必要があることを知ります。祭司たちが良質の油を整えたように、私たちは主を第一にする決意を、祈りつつ日々行なわなければいけません。また、燭台も机も純金であり、油も乳香も純粋なものであったように、混じりけのない純粋な心で主に近づかなければいけません。油は、ゼカリヤ書によると主の御霊を表していました。したがって、私たちは日々、聖霊に満たされて、この世の光として輝かなければいけません。また、パンはヨハネ書によると、主イエスさまご自身のいのちを表しています。私たちはキリストとともに十字架につけられており、今、生きているのは主が私たちのうちに住んでおられるからです。ですから、自分は死んでおり、主に対して生きているとみなして生きることが要求されます。


2B 冒涜の罪 10−23
 これらの日ごとの、週ごとの務めについて教えられたあとで、次は、イスラエルの宿営で起こった事件について紹介されています。

1C 混血 10−12
 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。

 主の御名をのろう、冒涜するという事件が起こりました。主は、以前に、御名を冒涜する者は殺されるという命令を出しておられましたが、この場合、のろったのは父をエジプト人とする異邦人でした。イスラエル人であれば石打ちにすべきなのですが、異邦人をどのようにさばけばよいのか分からなかったので、主の命令を待って、この者を監禁しておいたのです。


2C さばき 13−23
 そして主からの命令が出ました。そこで、主はモーセに告げて仰せられた。「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。殺せ、という命令です。あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。

 
神を呪うものは、異国人であっても殺されなければいけません。イスラエル人と異国人の間に差別はありません。


 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。

 
自分がした行ないにしたがって、それと同じ報いを受けるように主は定めておられます。人のいのちを取るのならば、自分のいのちが取られます。目には目、歯には歯、傷には傷です。

 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。


 神は、罪を犯したものがだれであるかで、そのさばきを曲げるようなことはなさいません。これは新約でも同じです、ユダヤ人でもギリシヤ人でも、すべての人が罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、とパウロは言っています。


 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、主がモーセに命じられたとおりに行なった。

 こうして、御名を冒涜した者を、イスラエル人は外に出して殺しました。ところで、主の御名を冒涜することが、なぜ死刑に値するのかを考えてみたいと思います。まず御名を冒涜するとは何かを考えなければいけませんが、神の御名は、私たちが自分の名前を持っているよりも、もっと深い意味をもっています。神のお名前は、神のご性質をみわざを表しており、神そのものを表している、と言えます。ですから、単に神の名前を使ってののしった、というのが冒涜ではありません。神ご自身を神として認めず、言葉において行ないにおいて、故意に神をそのあるべき地位と姿から引き降ろすことが冒涜です。


 ここで、主は、ご自分の御名が冒涜する者に対する罰を述べられたあとで、人を殺すことについてのさばきをおっしゃられていることに注目してください。冒涜する者が殺されて、それで人を打ち殺す者は殺される、と続きます。私たちは人を殺すことが、動物を殺すこと以上に深刻な罪であることを知っていますが、人を殺すこと以上に主の御名を冒涜することのほうが深刻であるのです。私たちはいのちには尊厳があり、人のいのちはだれも決してそれを侵すことはできないことを知っていますが、いのちよりも大切なことがあります。それが神ご自身であり、神の御名なのです。私たちはとかく、何が中心であるかを忘れてしまいます。人を殺してはならない、盗んではならない、ということはよく覚えていても、なぜ殺してはならず、盗んではならないのかを忘れてしまいます。それは、神がその人のいのちの主(ぬし)であり、また人の所有物は、神がその人に与えておられるものなのです。ですから、神の聖なる御名が何物にもまして重要であり、私たちの生活において、神が主役であることを認めなければいけません。

2A 主の土地 25
 そこで25章に入ります。25章は、土地についての教えです。イスラエルは、約束の地で、その土地を自分たちのものにしますが、それは実際、彼らのものではなく主ご自身のものです。ですから、主はこの土地について、ご自分を表すために教えと戒めを与えられます。

1B 安息年 1−22
1C 7年目 1−7
 ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。

 主は前に、週ごとに安息日を守らなければいけない、と教えられたことを私たちは知っています。けれども、ここでは7年ごとに安息年を守らなければいけないと教えておられます。そのときは、あらゆる農作業をしてはいけません。また、落ち穂によって生えてきた穂を刈り取ってはならず、結ばれたぶどうの実も集めてはいけません。全き休みの年である、と教えておられます。


 神さまの安息についての教えは、つねに、ご自分が聖であられることを示すことにつながっていることに気づかなければいけません。創世記で、神は第七日目に休まれて、それを聖であるとされた、と書かれています。私たちが働くときは、私たちの労働であり、私たち人間の行ないがあります。そのとき、私たちは自分たちの行動が中心となっています。しかし、すべてを動かし、すべてのの中におられる神こそが、すべての中心になっているべきです。そこで、神は、ご自分のみわざとご性質に目を留めさせるために、安息の命令を与えておられます。私たちもクリスチャンとして生きるためには、立ち止まらなければいけません。祈りによって立ち止まり、礼拝にとって立ち止まります。そして、自分主体の見方を改めて、主ご自身が中心となっている見方を養います。

 この安息年にはまた別の目的があります。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。

 土地を休ませることによって、さらに生産力をますようになると主は約束されています。土地を休ませるなら、自分たちが食べる物がなくなるではないか、と思ってしまいますが、真実は逆です。休ませることによって、むしろ生産力は増し、奴隷や雇い人、居留者、家畜、獣のすべてが、その収穫の恩恵にあずかることができます。これは、神さまが私たちに与えてくださる原則です。自分が得たいと思ってそれを求めれば、それを失ってしまいます。けれども、主の御名のゆえに失えば、それを得ることができます。土地を安息させることは、一見、その年の収穫がなくなって大きな損失をこうむるように感じます。けれども、実は、主の働きによって、さらに大きな収穫が得られるようになります。神は私たちから取るような方ではなく、むしろ与えて惜しまない方なのです。ですから、私たちは自分を神にささげても、損をすることなく、むしろ、豊かになるのです。


2C ヨベルの年 8−17
 次にヨベルの年という、とくべつな安息年についての教えがあります。あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。

 第七月の十日は贖罪の日であることを、私たちは23章で学びました。その日に、全土に雄羊の角でつくった笛を鳴り響かせます。ちなみに、ヨベルというのは、「角笛」という意味です。

 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。

 
ヨベルの年は、解放を宣言する年です。それぞれ自分の所有地に帰りなさい、自分の家族のもとに帰りなさい、と言っていますが、自分が貧しくなったりして自分の土地を売らなければならなくなって、その土地を売ってしまうことがあります。けれども、主は、イスラエルにこの土地を所有するように命じられました。また、イスラエル
12部族が割り当ての地に住むように定められました。イスラエルに与えられた土地が、いつまでもイスラエルのもの、それぞれの部族のものになっているために、その土地を買い戻し、もともとの所有者のものとなるような年を定められたのです。そのときには、あらゆる負債が帳消しとなる解放のときであり、もとの状態に回復されるときであります。

 このヨベルの年は、新約聖書で、万物の改まるとき、回復のときとして紹介されています。ペテロが、ペンテコステの日にユダヤ人にこのように説教しました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(使徒3:19-21」イエスさまが再び地上に来られるとき、万物が改まります。そして、神が最初に意図されていたような祝福された土地に回復します。この時が来るときには、イスラエルの民が悔い改めて、神に立ちかえらなければいけません。ですからペテロの説教は、ヨベルの年に表れている、民の悔い改め、解放、そして回復についての教えだったのです。ローマ人への手紙にも、この解放について書かれています。8章21節ですが、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」とあります。この世界全体が束縛から解放されるのです。

 それだけでなく、私たちの霊的生活においても、この原則は当てはまるでしょう。私たちは罪という負債を持っています。こんなことをしてしまった、あんなことを言ってしまった、という重荷を持っています。けれども、それを口に言い表して、自分が行なったことを悔い改めます。そうすると、私たちに重くのしかかっていた罪意識は取り除かれ、私たちは解放されます。そして、今まで壊れていた神との関係、人との関係の修復され、回復されていくのです。

 そしてヨベルの年は安息年ですから、次に安息年の教えが書かれています。この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。

 次に、所有地に帰るときの教えについて、さらにくわしい教えが書かれています。このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。

 人々は、自分の土地の売買をするのですが、そのときにヨベルの年があることを考えて売り買いしなさい、と教えています。

 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。


 50
年後には、もとの所有者のところに土地が戻るのですから、次のヨベルの年までの残された年数にしたがって、その土地の値段を決めなければいけません。あと2年しかないときに土地を売るのであれば、2年分の収穫があることを見越して売ります。それ以上の高い値をつけてはいけません。また、ヨベルの年まであと45年もあるのであれば、45年分の収穫を見越した値段で売買しなければいけません。ヨベルの年を基準にして、地価を定めるのです。

 このような売買において、主がイスラエル人を戒めています。あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。

 
互いに害を与えてはならない、と戒めておられます。売り値を引き上げてだましとったり、逆に、買い値を引き下げたて、叩くことをしてはならないということです。ヨベルの年の目的は、あくまでも解放であり、自由になることであり、負債がなくなることです。この目的を果たす妨げになるようなことをやめなさい、と戒めておられるのです。神は、イスラエル人が自由人として、負債のない者として生きることを願われているのです。


3C 約束 18−22
 神は、安息年とヨベルの年を守ることによって、いくつかの祝福を約束されています。あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。

 彼らは安らかに住むことができます。敵の攻撃や圧政に悩まされることはありません。

 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。先ほど説明しましたように、生産性が増します。収穫があがるのです。あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。

 そうですね、7年目に収穫がなくなることが気になります。しかし、神は安息年の前の年に例年よりも多くの収穫を得させることを約束されています。

 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。

 
安息年にも食べることができ、また次の年は種をまくだけですから収穫がないのですが、そのときも食べることができます。主を第一として安息年を守ることによって、自分たちの必要が加えて与えられるのです。神の国とその義を第一に求めなさい、そうすればこれらのものは加えて与えられます、とイエスさまが言われたとおりであります。


2B 買い戻し 23−55
 そして次に、土地がもとの所有者に戻るために必要な買い戻しのついての教えが書かれています。この買い戻しのついて、具体的な例を神さまは挙げておられますが、その買い戻しの根拠になっている教えをされています。

1C 居留の異国人 23−24
 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。

 ヨベルの土地に、みなが所有地のところに帰るのだから、その土地を買い戻せるようにしておかなければいけません。つまり本当に売ってしまうのではなく、抵当と言うかたちで売るわけです。ここで大事なのは、「地はわたしのものであるから。」ということばです。イスラエル人が土地を所有しているのですが、実際の、究極の所有者は主ご自身である、ということです。主が所有しているのだから、主が与えられた土地を手放してはならない、という考えです。そして、主は、イスラエル人のことを「居留している異国人である」とおっしゃられています。あなたは土地を所有しているけれども、本質的には借りているにしかすぎないのだよ、ということです。ここが、神さまと私たちとの関係を知る上で、大切な真理であります。


 神さまは、聖書において、とくにレビ記において、「あなたがたは、わたしのものである。」ということばを繰り返しておられます。あなたがたの持ち物で最上のものをわたしにささげなさい。安息を守りなさい。あなたはわたしのものであるから、わたしの命じることを行ないなさい。あなたは、わたしのしもべである、というようなことを語られています。私たちには私有のものはなく、すべてが神のものであり、私たちは神さまの言われることをただ行なうしもべであります。パウロもこう言いました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。。(Tコリント6:19-20」私たちは自分自身のものではなく、神に買い取られた神の所有物なのです。

 私たちは、このようなことを聞くと、否定的に反応してしまいます。自分のものがなくなる、それでは、自分は奴隷状態になるのではないか、と感じるからです。自分の主体性、自分の判断、自分の感性や知性までもみな放棄してしまうのか、と感じてしまいます。それはとくに、まだイエスさまを信じていない人が感じます。社会ではカルト宗教がはやっているので、なさらのこと感じるでしょう。けれども、ぜひともご理解いただきたい、大切な事柄があるのです。それは、私たちがすべてを神に明け渡して、すべて神のものとなるようにすると、私たちは自由になれる、ということです。主は、これはわたしの地である、とおっしゃりながら、この地をイスラエルに与える、という約束を与えられています。イスラエルがこの土地に住み、多くの収穫を手に入れ、感謝するという喜びと自由をお与えになりたいので、主はイスラエルをご自分のものとされているのです。主のものになることによって初めて、自由人として生きることができます。

 もしイスラエル人が、「安息年など守りたくない。この土地は私のものだから、私の自由にしたい。」と思って、それを実行したらどうなるでしょうか。彼は神から自由になれるでしょうが、他のものに支配されることになります。次の章、26章では、神の戒めを守らないイスラエル人が、敵によって支配を受け、奴隷として虐げられる警告について書かれています。神からは自由になれますが、敵の支配と圧政のもとに置かれることになるのです。ほんとうの自由は、自分が神のものとなることによってのみ、手にすることができるのです。神は私たちから取るために、ささげなさい、といわれているのではなく、私たちに惜しみなく与えるために、ささげなさい、と言われています。だれからも支配されない自由人として生きるには、神のしもべ、神の奴隷となることなのです。前の章で、油をととのえて、主の前でともしびを絶えずともしておきなさい、という命令がありました。同じように、私たちも、聖霊に導かれて、神のしもべとして生きていくときに自由を手にすることができます。パウロは、「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(Uコリント3:17」と言いました。

2C 貧しい者 25−55
 そこで神は、土地を売らなければいけない貧しい人たちが、土地の買い戻しをすることができるように、状況に合わせたおきてを与えられます。

1D 兄弟 25−28
 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。

 ある兄弟、つまりイスラエル人が貧しくなって、その所有地を売ってしまいました。そうしたら、比較的裕福な近親者がやって来て、その土地を代わりに買ってあげなければいけません。この買い戻しの権利がある近親者をヘブル語では、ゴエルと言いますが、ルツ記において、ナオミはボアズのことをゴエルと呼びました。ボアズは、ナオミの亡き夫エリメレクの土地を買い戻して、そのときにエリメレクの息子の嫁ルツをも買い取ったのです。イエスさまは、ボアズのような方です。神であられるのに肉を取られて、私たちの近親者となってくださいました。そして、ご自分のいのちという代価を払って、私たちをご自分のものとしてくださったのです。


 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。

 
例えば、次のヨベルの年まで30年あるとして、30年の収穫分の買い値で売ったとします。10年後に暮らし向きがよくなって、買い戻すことができるようになりました。そうしたら、残りの20年分の値段で買い取ることができます。

 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。

 
たとえ返済の能力がなくても、ヨベルの年になったら、その土地はその貧しい人のものになります。これは不公平な取り扱いではありません。ヨベルの年とは、すべてのイスラエル人が土地を所有する者へと解放されて、回復するために神がお定めになった年です。


2D 町の住宅 29−34
 このように神は、貧しい人に心を留められておりますが、例外があります。それは、また他の理由で、弱い立場にいる人々についてであります。人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。

 城壁の中にある住宅に住む人からは、ヨベルの年になっても買い戻すことはできません。これはなぜでしょうか?城壁の中に住むことは、自分たちを敵から守ることです。安全に、保護されたところで暮らすことになります。その人が住んでいるところから買い戻すことができるとしたら、その家族は、町から出て行かなければならなくなり、自分たちの保護がなくなり、敵の手に渡される可能性があるからです。ですから、イスラエル人がしいらげられることがないように、という同じ理由から、買い戻しの権利を喪失する例外を定められました。ですから城壁のない家については、買い戻しの権利があります。

 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。

 
村落の家は土地とみなされて、ヨベルの年には初めの所有者のもとに戻されます。


 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。

 
レビ人には割り当ての所有地が与えられませんでした。彼らは主ご自身が自分たちの分け前であるとされ、自分たちの土地は持っていなかったのです。幕屋における主との交わりそのものが、彼らにとっての財産でした。

 しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。


 彼らの生活の糧としての畑は、買い戻すとか以前に、売ることをしてはいけませんでした。彼らの永遠の所有地、つまり、絶えることなく彼らの土地でなければいけません。


3D 貧困 35−38
 そして、次に再び貧しい人についての教えについて書かれています。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。

 暮らしが立たなくなる、とは、食べることができないほど困窮する、ということです。先ほどの貧しい人は、土地で農耕を営むことができないという貧しさですが、ここではもっと深刻な例、生活費さえもないという貧しさです。その場合は、仲間のイスラエル人は、その人を扶養する義務があります。

 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。

 
その人が借りたお金に決して利息をつけてはいけません。利息がつくことによって、兄弟関係ではなく隷属関係になってしまうからです。


 わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。

 
神は、貧しい人にこれだけ心を留められている理由は、ここにあります。イスラエル人はエジプトで苦しみ、酷使されていた。奴隷であった。彼らを決して、そのような仕打ちにさせることはできない。また、彼らに土地を与えるために、連れ出した。なのに土地を失うようなことは決してさせてはならない、とうことです。神さまは、イスラエル人を、人の支配の中に入れられるのではなく、ご自身の支配にいれたいと願われたのです。そして彼らがご自分以外にだれからも支配されることなく、ご自分の祝福で満たしたいと願われました。これが、神がイスラエル人をご自分のしもべにした理由です。これは、私たちがキリストのしもべとなった理由でもあります。使徒パウロは言いました。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ
1:13-14」暗やみの圧政から、愛する御子のご支配の中に移されました。

4D 身売り 39−46
 神はさらに貧しくなった兄弟について、取り計らっておられます。もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。

 
あまりにも困窮して、自分のからだを売ってしまう、つまり奴隷になってしまった人の場合についてです。そのとき、その人を買い取ったとしても、けして奴隷として取り扱ってはいけません。

 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。奴隷としてではなく、賃金を払う被雇用者にしてあげますそして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。

 
土地も財産も何もかも失ってしまった人が、ヨベルの年には、賃金でたくわえた財を手にして、自分の先祖の土地に帰ることができます。

 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神を恐れなさい。

 ここでも、エジプトで奴隷だったことをお話しになっています。
神は続けて、イスラエル人が奴隷となってはいけないことについてお語りになっています。

 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。
奴隷とする場合は、周囲の国々から、つまり異国人から買い取りなさい、と命じておられます。または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。

 異国人を奴隷とすることはできても、イスラエル人は酷使し合ってはいけません。これはイスラエルにえこひいきをしているのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。イスラエルが、あらゆる奴隷状態から守られるために、互いに支え合っている制度であります。これは、神の家族である教会にも言えます。たしかに、世界中に、日本に、またこの地域に苦しんでいる人、困っている人はいます。けれども、キリストのからだの役目は、まず内部にいる人たちが困ることのないように、助け合い、いたわり合うことです。パウロは、「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ
6:10」と言いました。すべての人に全を行なうのですが、特に信仰の家族の人たちには注意を寄せるのです。私たちの身近にいる人から、私たちは支えなければいけません。

5D 異国人への身売り 47−55
 次に、もっとも卑しめられてしまったイスラエル人に対する、神の救済の教えがあります。もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。

 ユダヤ人のもとに身を売りに来るのではなく、異国人のところに身を売ってしまったイスラエル人がいるときの教えです。これがもっとも、貧しく、苦しく、卑しい状況でありましょう。エジプトから連れ出したのに、再び異教徒の手の中に入ってしまっています。そのときは、たとえ、神を信じない異教徒であっても、イスラエル人は、その者の手から買い戻さなければいけません。


 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。

 
土地と同じようにして、ヨベルの年を基準に、買い取る値段を設定します。

 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。年数に応じて払い戻します。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。奴隷となっている間も、酷使をさせることは決してあってはなりません。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。

 たとえ払い戻しができなくても、ヨベルの年は、出て行くことができます。異教徒であるから異教徒ンルールを適用しなければいけないのではありません。異教徒であってもイスラエル人であっても、神のルールが適用されるのです。ですから、クリスチャンでない人にも、神のルールが適用されます。たとえクリスチャン死んだ人の家族が仏式で葬式をあげたくても、遺書でキリスト教を望むなら、キリスト教式にしなけければならず、また、たとえお寺のお墓に入っても、その人は天国に凱旋しているのです。


 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。

 先ほどは、「この地は、わたしのものである。」といわれましたが、ここでは、「わたしのしもべである。」と言われています。イスラエル人は神の奴隷、イスラエルの土地は神の土地、またイスラエルの幕屋は神の幕屋です。神が主であり、神が中心であり、神の言われることを行なう義務があります。しかし、それは、私たちを束縛するものではなく、むしろ、私たちに自由を与えるものです。私たちは、イエスさまを第一にして生きているでしょうか。自分の時間だから自分の好きなようにする、自分の給料だから自分の好きなようにする、自分の家だから好きなように使う、でしょうか。違いますね、すべてが主のものです。



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