レビ記26−27章 「主への献身」

アウトライン

1A 土地に対する契約 26
   1B 掟 1−2
   2B 祝福 3−13
   3B 懲らしめ 14−46
      1C 敵の収奪 14−17
      2C 飢饉 18−20
      3C 獣の襲撃 21−22
      4C 敵の包囲 23−26
      5C 町の破滅 27−33
      6C 捕囚生活 34−39
      7C 族長への契約 40−46
2A 誓約に対する評価 27
   1B 人身評価 1−8
   2B 家畜 9−13
   3B 家屋と土地 14−25
   4B 義務的な捧げ物 26−34
      1C 初子 26−27
      2C 聖絶 28−29
      3C 什一 30−34 

本文

 レビ記26章を開いてください。ついに私たちはレビ記の最後に来ました。

1A 土地に対する契約 26
 前回私たちは、安息年とヨベルの年という土地に関する神の掟を学びましたが、26章も同じです。これから主がモーセを通して、イスラエルが神に聞き従った場合の、土地に対する祝福と、そうではない場合の懲らしめが書かれています。けれども驚くことに、モーセが死んだ後のヨシュア以降の歴史において、これらのことがすべて実現している事実を、モーセ五書以降の書物によって確認することができます。つまり、モーセは律法を教えただけではなく、実は預言をしていました。イスラエルの歴史は実に、ここにある神の御言葉がどのように実現していったかの確認であると言えます。

1B 掟 1−2
26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

 主はこれまでも、イスラエルの民に数々の戒めを与えられましたが、ここ26章では極めて単純に、簡単に命令を与えられています。「自分のために偶像を造ってはならず、むしろわたしを神、主としなさい。そしてわたしをあがめるために、安息日を守り、聖所を敬いなさい。」と教えておられます。そして主はこれから、この二つの命令、否定形では「偶像を造ってはならない」、肯定形では「安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」の命令によって、ご自分が与える土地に対する祝福と呪いを決められます。

 私たちは命令と聞くと、とかく、いろいろな規則を思い出しますが、神に対してしなければいけないことはそんなに多くはありません。実は一つだ、と言われたのはイエス様です。マルタとマリヤという二人の姉妹の上に、イエス様は行かれました。そしてマリヤは、イエス様の足元でその御言葉を聞いていましたが、マルタはイエス様へのおもてなしで心を乱していました。イエス様はマルタに言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(ルカ10:41-42」主を第一にして、主の御言葉に聞いて生きていくという単純な生活の中に、神の奇跡を私たちは経験することができます。

2B 祝福 3−13
26:3 もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。

 いかがですか、ここに書かれている数々の祝福は、すべて奇跡的なものです。彼らが努力しなかったということでは決してありませんが、人間の努力によっても決して成し遂げられないものばかりです。

 4-5節にある豊かな収穫についてですが、大麦の収穫が四月、小麦の収穫が五月にあります。そしてぶどうは八月の収穫です。種を蒔くのは十月以降です。つまり、麦打ちがぶどうの刈り入れまで、つまり八月頃まで続き、そしてぶどうの収穫が種蒔き、つまり十月まで続くということです。それだけ豊かな収穫をもたらすほど、神が上からの雨の潤いを与えてくださるということです。ヨハネ116節には、「私たちはみな、この方(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とあります。無尽蔵の豊かさです。恵みが与えられたかと思いきや、さらに大きな恵みがその上に押し寄せる豊かさです。

 6節には、安全の祝福があります。敵や獣の襲撃がなく安心していることができる、というものです。私たちはこの豊かな日本に住んでいると、収穫も安全も空気のように当たり前に思ってしまいますが、イスラエルという土地は地中海性気候なので、そう簡単に水が与えられません。また安全は、当時もそして今も、ただではないのです。いつ何時、敵に襲われるか知れないのです。事実、当時の町は城壁に囲まれていました。けれども、安全も主が与えてくださいました。私たちは、経済のこと、食の安全、体の健康など、安全を求めていますが、それは主が与えてくださるという信仰がないといけません。

 7-8節は、戦いにおける勝利です。これは尋常ではありません、「五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ」とあります。主が戦っていてくださることが、ここで分かりますね。イスラエル人の戦いは、その多くがごく少数によって行われていました。代表的なのはギデオン率いる三百人です。十三万五千人のミデヤン人に勝利することができました。

 9節には、子が多く生まれる祝福です。私たち日本人は少数化が進んでいますが、例えば同じように少数化が進んでいる韓国では、伝統的に子が生まれることは福の現われだと信じています。聖書ではもちろん、神がアブラハムに与えられた祝福の約束が、「星の数のように、海の砂のようにふやす」というものです。そして10節には、再び豊かな収穫を表す、倉庫に保管されている作物の量を示しています。あまりにも多いので、古い穀物を取り出さなければいけない程です。

 これらから私たちが分かることは、私たちは神の奇跡の中に生きなければいけない、ということです。主なる神を第一にして生きて、この方を心から愛して、他のものを第二のものにしていく時に、主は私たちではない、主ご自身の力の現れを私たちに見させてくださいます。

26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。

 もろもろの祝福において、もっと優れた祝福は「わたしの住まいを建てよう」という、主のご臨在です。主が共におられること、そして主が彼らを忌み嫌わないこと、つまり好意をもって見つめていてくださることが、最も大きな祝福です。言い換えると、数ある目に見える祝福は、目に見えない祝福、霊的祝福の証し、あるいは徴だったということができます。

 そしてもう一つの霊的祝福は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という、神との個人的、人格的な結びつきです。この神の言葉は何回も聖書の中で繰り返されており、実に終わりの日、新しい天と新しい地が造られた時に、「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、(また彼らの神となる。)(黙示21:3」とあります。主イエス・キリストを知ること、これが私たちの目標であり、知ることそのものが永遠の命です。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3

3B 懲らしめ 14−46
1C 敵の収奪 14−17
26:14 もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、26:15 また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。

 主の命令に聞き従わない場合に起こる事柄です。ここで14-15節に書かれている、主の命令に聞き従わない行動を観察してみましょう。「聞き従わず、命令をすべて行わない」とあります。この「すべて」は、全面的に聞かないということです。ですから個々の罪というよりも、その姿勢です。主の方に心が向いていない、ということです。そして意図的に、「わたしのおきてを拒む」「あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらう」と強調しておられます。ここで使われている言葉は、「喧嘩腰で敵意を持って会う」のような意味があるそうです。

 このような強情に対して、主は懲らしめを与えられます。第一礼拝で話しましたが、それはいわゆる神からのお仕置きではありません。自分の行動の結果を刈り取っていることがあります。そして、神がご自分に立ち返るように注意喚起されているのです。そして主の言われることに聞き従わない度に、その懲らしめの度合いが大きくなっていきます。

 具体的には、ここでは先ほどの祝福にあった「安心」に替わる「恐怖」があります。その精神的な病によって、熱病や肺病、また目を見えなくさせる、とあります。私たちが主により頼みなさいと命じられているのに、私たちが強情を張ったら残るは恐怖しかありません。

 そして敵に追い回されるようになります。先ほどは、敵を追い回すほうでした。これを私たちは、ヨシュアが死んだ後の士師の時代に見ることになります。ギデオンは、ミデヤン人を恐れて、酒ぶねの中で麦打ちをしていました(士師6:11)。

2C 飢饉 18−20
26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。

 先ほどの天からの恵みとは裏腹に、飢饉が起こります。ここで主は、「あなたがたの力を頼む高慢」と仰っていますが、それは豊かな収穫について、まことの神に感謝しなかったこと、それが当たり前だと思っていたことがあるでしょう。もし人間がいま与えられているものに感謝せず、神に栄光を帰さなかったら、同じ過ちを犯していることになります。

 具体的には飢饉の姿は、イスラエルとユダのそれぞれの王国で見ることになります。イスラエルでは、アハブが王である時に、エリヤが三年間、雨が降らないことを宣言しました。

 そして、18節には「さらに、七倍重く懲らしめる」とありますが、その程度が極めて強くなるという意味の言い回しです。「七」という数字によって、神が完璧にこのことを行なわれることを意味しています。黙示録でも、七つの封印が解かれると、七つ目の封印によって七つのラッパが始まり、七つ目のラッパが吹き鳴らされると、次に七つの鉢が地上にぶちまけられました。

3C 獣の襲撃 21−22
26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。

 獣の襲撃が多くなります。イスラエルの初代王ヤロブアムに対して預言を行なった、ユダからの人は帰る途中、獅子に噛まれて死んでしまいました(1列王13:24)。道は獣が出てきたので、人が寄り付かなくなり、荒れ果てていきました。

 ここまで見て、いかがでしょうか?主が前もって警告されているのに気づいていない。主が、それでもっと大きな拡声器で、それらの災いを通して注意を引き寄せようとされている。それが分からないのは、御言葉を知らなかったからです。

4C 敵の包囲 23−26
26:23 もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、26:24 わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。26:25 わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。26:26 わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。

 次の神の懲らしめは、敵に町が包囲されることです。それぞれの家で窯を使う燃料がないので、十人が一度に同じ窯を使っています。しかも、普通なら一つの家庭で一つの窯が必要だったのに、十人が使っても十分な位、非常に少量のパンだったのです。そして、何十グラムとかいう単位で、残り少ないパンを計ることで、食いつないだ様子がここに書かれています。また、空腹で体が弱まっている時には、免疫力がなくなっているので疫病も蔓延します。

 列王記第二6章で、シリヤに包囲されたサマリヤで、わずかな食べ物が高額で売られている姿が出てきます。またエゼキエル書では、わずかなパンを落とさないようにこわごわ食べている様子が出てきます。

 このような箇所を読んで、私たちは神の恐ろしさを感じるでしょうか。それとも、神の憐れみを感じるでしょうか?私は後者を感じます。なぜ、こんな酷いことが起こるのが神の憐れみなのか?と思われるかもしれませんが、最も恐ろしいことは何も行らない、ということだと思っているからです。自分が罪を犯しているのに、何も起こらないということほど恐ろしいことはありません。そうではなく、自分が惨めな思いに陥ったり、ひどい状況の中にいたり、いろいろな徴を神が与えられているということは、そこに神の介入を見ることができ、神が自分をお見捨てになっていないのだ、ということが分かります。もし何も起こっていなければ、何も気づくことなく罪の中で自分自身が滅んでしまうだけだからです。

5C 町の破滅 27−33
26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。

 ついに、彼らは敵に包囲された後に、神が与えられた約束の地から引き抜かれるという裁きを受けます。その中で起こっていることが凄惨です。親が自分の幼子を食べているという状態です。それがバビロンに包囲されたユダで起こっていました。そして、「高き所に死体が積み上げられる」とありますが、これは外国が、自分が征服した民を侮辱するため、彼らが拝んでいる神の祭壇に彼らの死体を置くことで、その祭壇を汚しているのです。これも、バビロンはユダの国に対して行いました。

 そして悲惨なのは、聖所が破壊されることです。ソロンが建てた神殿はバビロンによって滅ぼされました。そして後年、紀元70年にはヘロデが建てた神殿をローマが破壊して、それ以来、エルサレムには神殿が建てられていません。

 これらのことが、紀元前1444年頃、モーセがシナイ山において神から与えられた言葉なのです。バビロン捕囚は紀元前586年ですが、858年前にこのことを前もって預言しています。これだけ神の言葉は確かなのです。私たちは、古代の書物だからといって聖書の記述を軽々しく扱っては決していけません。捕囚の民となった当時のユダヤ人にとっても、モーセの言葉はそれだけ古かったのです。主は現在においても、そしてこれからもご自分が語られた言葉に責任を持たれます。

6C 捕囚生活 34−39
26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。26:35 地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。

 ユダヤ人が捕囚の民となって、七十年間、その土地は荒れ果てました。けれども覚えていますね、彼らを引き抜くもう一つの目的は、彼らが七年ごとに訪れる安息年を守らなかったからです。

26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。

 離散の民となってから、イスラエル人の生活はここに書かれている通りになりました。敵国において脅かしと恐れの生活を歩んでいました。紀元70年後のユダヤ人の離散生活は、迫害と虐殺の連続でした。そして、先ほど出てきた荒れ果てた地というのも、ユダヤ人が十九世紀にイスラエルの地に帰還を始める前までは、沼地と荒地しかなかったと言われています。実に、イスラエルは、祝福のみならず、裁きにおいても神の存在を世界に知らしめる証人となっていたのです。

 そして私たちが知らなければならないのは、この離散の状態こそ神が最もイスラエルに経験してほしくなかったことなのです。主が何度も何度も、「わたしは、あなたがたをエジプトから連れ出した神である」と宣言されました。それは、彼らが奴隷状態になっていることを神ご自身が最も望んでいなかったからです。それで、彼らにイスラエルの地を与えられたのです。ところが、その初めの状態に戻ってしまいました。これは悲惨です。

 けれども、これはキリスト者にとっても大きな警告となっています。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2:20」初めから知らずに罪に溺れていることのほうが、知ってから溺れるよりはましだ、とペテロは言っています。このことを避けるために、主はイスラエルに対して、また私たちに対して、何とかして振り返ってほしいと願い、懲らしめを与えられるのです。

7C 族長への契約 40−46
26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。

 ついに彼らが、自分たちが主に対して罪を犯したことに気づきます。今はただ、理由なき災いが自分たちに襲いかかっているのではなく、主に反抗していたのだということに気づきます。これが、主がイスラエルに望まれていたことでした。ここに「無割礼の心」とありますが、男性の性器が包皮があることによって感覚が鈍るのと同じように、心が神の声に対して鈍くなっていたのです。けれども、これが神の懲らしめの目的であり、懲らしめによってその罪の愚かさに気づき、自らその罪を嫌い、憎むことを選び取ることができます。

26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」

 ここにすばらしい神の慰めの約束があります。彼らが離散の民になったことによって、もうこれで終わりと考えてもおかしくありません。けれども、アブラハム、イサク、ヤコブに神が与えられた約束はそれでも有効だったのです。主はイスラエルをお見捨てになっていません。今も見捨てておられないし、今後も見捨てることはありません。異邦人の救いが完成したら、今度は彼らを救ってくださいます。

 このように、神の選びというのは確かなのです。私たちがイスラエルに対して、私たちの勝手な思いで「イスラエルは見捨てられた」と考えるならば、私たちが罪に陥って、とことんまでどん底に落ちたら、主は私たちをお見捨てになる、と言っているのと等しいのです。これでも、主は予め知っておられる者たちを、決して見捨てたりなさらないのです。もちろん、土地から引き抜かれるという痛みを味わいました。こんなひどいところを通らずして、主とともに歩むことができれば最高です。だから、通らないで従順でいることのほうが大事なのです。けれども、たとえ失敗しても、主は再び立ち上がる機会を与えてくださいます。

26:46 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。

 ここまでが、土地に関する神の掟です。

2A 誓約に対する評価 27
 そして最後に、「誓願についての評価」という教えがあります。これは何かと言いますと、このように主から言葉が与えられ、自分はこれから主に従い、主に捧げていきたいのだという応答をします。けれども、それを軽々しい思いで行なってはいけないという戒めです。

 これから人に対して、家畜に対して、家屋や土地について、それらを捧げたいと願ったのに、それを行なわなかった時には、これだけの評価の金銭を支払わなければいけないという内容に入っていきます。「私はこれだけのものを捧げます」と誓ったにも関わらず、後で気が変わって「やはり、捧げません」と言ったらどうなるでしょうか?その捧げられた物を使って、すでに礼拝を祭司たちは捧げているかもしれません。礼拝に支障が出ます。したがって、自分が捧げるというときは、しっかりと考えて、心の中でよく決めて捧げなさいと言うことです。

 箴言2025節には、こう書いてあります。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」イエス様は、これをさらに突っ込んで語られました。誓うな、と言われました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。私たちは、「私は絶対に、これこれのことをするから!」と言い張るとき、それは逆にそれをするかどうか分からない一抹の不安があるから、自分に言い聞かせているところがありますね。そうではなく、自分が決心したことは、その通り行うという心構えの中で生きていきなさい、ということです。

1B 人身評価 1−8
27:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。27:2 「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、27:3 その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。27:4 女なら、その評価は三十シェケル。27:5 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。27:6 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。27:7 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。27:8 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。

 自分自身を主の奉仕のために捧げますと言いながら、後で翻すのであれば、これだけの金額を支払いますよ、という評価です。最も高いのは、20歳から60歳までの男性で銀50シェケルです。一シェケルが約一か月分の労働に匹敵しますから、50か月の労働を支払わないといけません。家が建つぐらいの値段ですね。

 年齢また性別によって金額が異なるのは、労力の差によるものです。それだけ働くことができるのに、途中で翻したら損失が大きくなるので、それを補うための評価です。女より男のほうがもちろん力があります。また老人より壮年や青年のほうが、力があります。興味深いのは、一歳から五歳までも評価があることです。実際、サムエルは乳離れした後に幕屋で祭司エリの下で奉仕をしていました。

 このように、私たちは自分を捧げる時における費用を計算しなければいけません。キリストの弟子になるということは、犠牲が伴います。今のうちに、「これから自分の思惑や欲望を捨ててイエス様に従っていくのだ」という覚悟を決めてください。イエス様はこう言われました。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めたはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。(ルカ15:28-30」費用を計算する、つまり犠牲をよく考えてイエス様についていく、ということです。

2B 家畜 9−13
27:9 主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。27:10 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。27:11 主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。27:12 祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。27:13 もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。

 家畜を捧げたいと願う時の教えです。家畜はきよい動物であれば、それは礼拝に使ういけにえになります。ですから、それらは「聖なるもの」つまり、後で自分が使いますので取り戻します、ということは言えないものです。屠られて、祭壇の上で焼かれるからです。そして興味深いのは、10節で、他の家畜で代用しようとしたら、元の家畜と代用の家畜のどちらも捧げなければいけない、ということです。これは、「こっちの家畜のほうが価値が低いから取り換えよう」という欲を出さないようにするためです。

 そして、汚れた家畜、つまりひずめが分かれていなかったり、反芻をしない動物については、いけにえとしては捧げることはできませんが、例えばラクダなど、運搬に使えます。こうした動物については買い戻すことができますが、評価に五分の一を加えます。つまり十万円の評価が付けられた動物であれば、十二万五千円を支払わないといけません。こうすることによって、「ああ、やっぱり自分でこの動物を使おう」と思わないようにするためです。

3B 家屋と土地 14−25
27:14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。27:15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。

 家屋も主に捧げることができます。家畜と同じように、買い戻す時は五分の一を加えます。

27:16 人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。27:17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。27:18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。27:19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。

 土地も捧げることができます。けれども、ヨベルの年における所有地への帰還があることを忘れないでください。ヨベルの年までの収穫量によって、その評価が決まります。

27:20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。27:21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。

 これはどういうことかと言いますと、土地を捧げると言ったけれども、買い戻し金も支払いたくない。だから、この土地を他の人に売って、それで得た金で買い戻し金をねん出しようという、企みです。そのような場合は、「聖絶」されたものとなります。聖絶とは、主にあって絶滅したもの、と考えたらよいでしょう。主が滅ぼされたもの、ということです。具体的に祭司の所有地となりますが、彼は土地を完全に失ってしまう、ということです。

27:22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、27:23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。27:24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。27:25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。

 自分が買い取った畑を捧げる時は、ヨベルの年になれば元の所有者に戻るので、それまでの年数にしたがった収穫量の評価にします。

4B 義務的な捧げ物 26−34
 次、26章以降は義務的な捧げ物です。これまで25節までは自発的な捧げ物であり、捧げてもよいし、捧げなくてもよいものです。私たちも喜んで何かを教会のために持って来たいと思ったら、自発的な捧げ物になります。けれども次は、捧げなければいけないものです。

1C 初子 26−27
27:26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。27:27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。

 覚えていますか、エジプトからイスラエルが出て行く時に、主がイスラエルの初子(長男)を救い出されたのだから、初子は初めから主のものです。捧げなければいけません。けれども、先ほどと同じように汚れた家畜であれば、いけにえとして捧げられないので、その家畜の評価額の五分の一を支払います。

 新約聖書では、初子は「長子」と訳されており、イエス・キリストが私たちの長子となられた、とあります。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29」キリストが私たちの兄弟になってくださいました。私たちがキリストの似姿に変えられる時には、キリストと共にこの世を統治します。つまり私たちの第一人者となってくださるのです。それが長子の権利です。したがって、初子はわたしのものである、というのは「キリストは私のものである」ということを指し示しています。だから、ささげても、ささげなくても良いというような選択肢ではないのです。

2C 聖絶 28−29
27:28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。27:29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。

 聖絶すべきものとは、主によって完全に滅ぼされるべきものです。あるいは、聖所に捧げられるべきものです。ですから、自分のものとしてはいけません。この戒めを犯したのが、後にヨシュア記に出てくるアカンです。主は、エリコの町のものは聖絶されたものだ。それを分捕物としてはならない、と命じられていたにも関わらず、高価な品を盗み出してしまいました。それで彼は死刑になります。

3C 什一 30−34
27:30 こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。27:31 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。27:32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。27:33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」

 什一の捧げ物は必ず捧げなければいけません。他のところに書かれていますが、収穫物はレビ人に捧げ、そしてレビ人をその十分の一を祭司に捧げます。そしてそれを取り戻したかったら、これまでの誓願の捧げ物と同じように五分の一を加えて支払います。

 興味深いのが、家畜です。これは良い羊だからもったいない、という選り分けをすることがないように、羊飼いの杖を横にして、それを囲いの門のところで持ちます。その下を羊を一匹ずつ通らせるのですが、無条件で十番目の羊あるいは牛を捧げなければいけません。

 什一の捧げ物というのは、聖書全体に出てきます。アブラハムがメルキデゼクに捧げ物をしましたが、それは十分の一でした。そして旧約聖書の最後のマラキ書には、こういう約束があります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10」これは、行うべきですね。大きな祝福があります。キリスト者が教会において、主から与えられた所得を捧げる時に、まずその十分の一を用意するという基準はぜひ必要です。

 これは、新約聖書の中でもイエス様がおろそかにしないよう戒められています。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23」律法学者のように、些細なことに至るまで十分の一に拘り、主の正義や憐れみを忘れるようであってはいけませんが、什一献金そのものはおろそかにしてはいけないと言われます。

27:34 以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。

 これでレビ記が終わりました!主なる神を第一とし、そして偶像を避けていく。そして、主に自分を捧げていきたいという思いを抱くと同時に、良く考えて、その決意、決心を心の中で深めることが必要であることを今日は習いました。

 次回は民数記です。ついに、シナイ山のふもとで宿営しているイスラエル人が、荒野の旅を再開します。

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