レビ記26章 「主の訓練」


アウトライン

1A 神のおきて 1−13
   1B 主の礼拝 1−2
   2B 幸い 3−13
      1C 豊かな収穫 3−5
      2C 平和 6−10
      3C 神の臨在 11−13
2A 反抗によるさばき 14−39

   1B 病 14−17
   2B 不作 18−20
   3B 猛獣 21−22
   4B 食糧不足 23−26
   5B 離散 27−39
      1C 土地の荒廃 27−35
      2C 離散の苦境 36−39
3A 変わらない契約 40−48



本文

 レビ記26章を開いてください。ここでのテーマは、「主の訓練」です。

 私たちは、レビ記23章から、約束の土地における神の戒めについて学んでいます。彼らは今、シナイの荒野におり、シナイ山のふもとにいますが、神が約束してくださったカナン人の土地に入って、そこを征服し、そこを相続します。そして、その土地の中でどのようにして生きていけばよいのか、教えられています。23章では、例年行なわれるべき7つの祭りについて、教えられています。25章には、ヨベルの年について教えられていました。50年に一度、イスラエルの民は自分の所有の土地に戻ることができます。自分がその土地を売ってしまっても、自分が奴隷になっても、ヨベルの年には、すべての負債が解消されて、自分のものを回復します。また、7年に一度、その土地は安息しなければいけない、作物をいっさい育ててはならない、という戒めもあります。土地を休ませることによって、神は収穫をさらにふやしてくださる、と約束されました。

 そして26章に入ります。26章においては、この土地におけるイスラエルの歴史全体を見ることができます。紀元前1400年ごろにイスラエルの土地に入ってからその後の歴史、つまり士師記からマラキ書までの旧約時代、また新約時代、そして現代と将来に至るまでの、イスラエルの土地についての預言が書かれています。

1A 神のおきて 1−13
1B 主の礼拝 1−2
 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

 主は、短く、ご自分のおきてをイスラエルの民に教えられています。一つは、偶像を造ってはならないこと。そしてもう一つは、安息に守ることです。この二つは、彼らが神を礼拝するための基本中の基本であり、この二つの戒めによって、神とともに歩むことができます。


 一つ目の偶像を造ってはいけない、というのは、主を第一として生きていくこと、と言いかえることができます。偶像は、自分と神との間にあるもの、神よりももっと大事なものだからです。主を主として、神を神として生きることです。すべては神が中心であり、主イエス・キリストが中心である生活です。そしてもう一つの戒めである安息日は、神の働きだけを認める、と言いかえることができます。イスラエルは6日間働きます。人は働くと、自分自身の働きによって今の自分がいる、と錯覚します。自分の行ないによって、物事が前進し、自分の行ないによって成功もすれば、失敗もすると考えています。しかし、これは神がもっとも忌み嫌われることです。パウロが、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28」と言ったように、すべては神から発し、神によって成り、神に至るのです。したがって、自分の行ないではなく、神の行ないに立つということが、安息日の意義なのです。ですから、主は、「わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。」と言われます。主ご自身の働きを、聖所を恐れることによって認めるのです。

2B 幸い 3−13
 そして、これらのおきてを守ったときの幸いについて、神は約束されます。

1C 豊かな収穫 3−5
 もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。

 
主は、土地の収穫をもってイスラエルを祝福されます。雨が降ります。そして、土地は産物を出し、木々は実を結び、食料は絶え間なく供給されます。そのため、ゆっくりと平穏にその地に暮らすことができます。エゼキエルは、終わりの日のイスラエルの地について、同じことを預言しました。「わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。(
34:26-27」土地の収穫は、主がイスラエルを祝福されているかどうかの尺度になっています。

2C 平和 6−10
 続いての祝福は、平和です。わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。

 
イスラエルの土地には、家畜や自分自身を襲う猛獣がいました。また、強奪をしたり、征服して、圧政の下に置こうとする敵に取り囲まれていました。私たち日本人は、どうしても平和の尊さを理解することができません。平和は空気のように、吸えば手に入れることができると考えてしまいます。けれども、イスラエルの土地は違います。イスラエルは、地理的にも、歴史的にも、超大国同士がぶつかり合う中間地点にあります。イスラエルの土地は、そこを制したら世界を制することができるような、貿易中継地であり軍事的分岐点なのです。ですから、南はエジプト、東はアッシリヤ、バビロンそしてペルシヤ、北にはギリシヤその後にローマがいました。したがって、彼らはにとって平和は尊い神からの賜物なのです。


 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。

 
神がイスラエルに勝利を与えられるとき、ごく少数の者を用いられて大多数ものを打ち負かされます。ギデオンの率いる三百人しかり、サムソンはひとりで数千人を倒し、ヨナタンは道具持ちとたった二人で、ペリシテ人を打ち負かしました。ダビデはゴリアテを倒しました。現代のイスラエル国が誕生してから起こった、一連の中東戦争においても同じです。たった2、3台の戦車で、数百台の戦車を打ち負かした、という話しが至るところにあります。それらはみな、神がイスラエルのために戦ってくださるからです。

 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。

 
神の祝福は、子どもがたくさん与えられるところにも現われます。神が、アブラハムとイサク、ヤコブに、あなたがたの子孫を夜空の星のように、海の砂のようにされると約束されました。出エジプト記も、イスラエルの子どもがたくさん増えるところから始まっていることを思い出してください。現代においても、ユダヤ人の家族は、二、三等親のうちに尋常ではない比率で子供が増えていくのを私たちは知っています。

 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。

 人口が増えても、それにかなう、いやそれ以上の食料が備えられます。


3C 神の臨在 11−13
 そして神の祝福は、ご自身が彼らの間に臨在されるところにあります。私たちは物質の祝福を祝福であると考えがちですが、主の臨在こそ祝福の中核を成しています。

 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

 
神が、イスラエルの間に住まわれて、また神は聖なる方であるにもかかわらず、イスラエルを忌みきらうことをなさいません。そして、あなたがたの神となり、またあなたがたはわたしの民となる、とあるように、個人的な関係を持つことができます。私たちクリスチャンの間でも、私たちが不完全であるにも関わらず、人々がその交わりに入ってきたら、ああここに神がおられる、イエスさまがおられる、となることができるように、祈りたいです。

 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。


 奴隷であったのに自由にされた。くびきを打ち砕かれて、まっすぐに立って歩くことができるようになった。これがイスラエルにとっての救いでありました。奴隷状態からの救いです。神はいつも、イスラエルが奴隷の身分であったこと、そしてご自分がイスラエルを連れ出されたことを思い出させておられます。そして、なぜ今の自分がいるのかを思い起こさせておられます。私たちも同じです。私たちが今ここにいるのは、罪から救い出されたからです。キリストの死とよみがえりによって、神の恵みによって、こうして立つことができるのです。だから、新しいいのちにある歩みをすることができます。


 こうして、神のさまざまな祝福について見ることができましたが、これら諸々の幸いは、3節にある、「もしあなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら」という条件にかかっています。つまり、イスラエルがなにかを行なったから祝福されるのではなく、あくまでも、主ご自身との、みことばによる関係によって、祝福が与えられたのです。ですから、イスラエルにとって中心的な関心事は、土地の収穫があること、平和があること、子供が増えることなどではなく、むしろ、主ご自身の声に聞き従うことでした。同じことをイエスさまもおっしゃっています。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらものはすべて与えられます。(マタイ6:33」私たちの周りで、目に見える祝福があることはすばらしいことです。けれども、その祝福を与える方に目を注いでいることが、最も大切なことであります。

2A 反抗によるさばき 14−39
 そして次から、主は警告を行なわれます。今までは、もし主のおきてに従ったらどうなるのか、という話しでした。けれども、次からは、もし主にそむいたのなら、主に反抗したのなら、という条件になります。

1B 病 14−17
 もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。

 もし主の命令を行なわないなら、さまざまな病をおくられて、また精神的な疲労も与えます。おきてを守れば、安らかに自分たちの地に住むことができるのに、今は、恐れが彼らの心の中に入ります。

 あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。

 
種を蒔いたら、収穫がありました。けれども、今度は敵が自分たちを襲って、それを食べてしまいます。

 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。


 先ほどは、「わたしはあなたがたの間に住む。」と言われたのに、ここでは、顔をそむける、と言われています。つまり、主の臨在がなくなってしまうのです。

 あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。


 先ほどは、敵が勝手に自分たちで負けていきましたが、今度は、自分たちが勝手に逃げて、負けていきます。これは、事実イスラエルの歴史に起こりました。ギデオンが生きていたときのイスラエルは、ミデヤン人が彼らを襲っていました。イスラエル人は、山々に逃げて、ほら穴や要害などに隠れて生きていました。士師記6章3節には、「イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。」と書かれており、まさに主がモーセにお語りになったことが実現しています。主の使いがギデオンに会ったときは、彼はミデヤン人を恐れて、ぶどう酒の酒ぶねの中で小麦を打っていたのです。


 主は、なぜこのようになるかの原因を、しっかりと教えておられます。「わたしの命令を行なわないから」です。「あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、」と、主は念を入れて、主のおきてを守っていないことを、これらの災いが起こる原因とされています。イスラエルがどのような働きをしているのか、は全く関係がないのです。イスラエルが主なる神の声に、耳をすましているのかどうかが問題なのです。

2B 不作 18−20
 そこで主は、再びこのように言われます。もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。

 
彼らが、神の懲らしめに対して、へりくだって、神を再び求めるのなら、神は彼らをあわれみ、すぐに彼らを救い出してくださいます。しかし、もし聞かないなら、さらに7倍の重い懲らしめを与えられます。

 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。

 
先ほど、安息日を守る理由は、自分たちの働きではなく、神の働きを認めることであると言いましたが、その反対は、自分たちの力を頼むようになることです。神はその高慢を打ち砕かれます。そして、天を鉄のように、地を青銅のようにすると言われていますが、それは、天から雨が降らず、土地は産物を生じさせないことを意味します。これも、イスラエルは経験しました。エリヤの時代、主は、二、三年の間、イスラエルに雨をふらせず、ききんがあるようにされました。


3B 猛獣 21−22
 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。

 
敵に襲われ、雨がふらず、作物が育たなくなって、それでもイスラエルが主に反抗するのであれば、主はさらに7倍激しく打ちたたかれます。野の獣が放たれて、そのため自分の子どもたちや家畜が襲われます。先ほどは、多くの子どもたちを与えると約束されていましたが、その祝福を取り上げてしまわれます。道が荒れ果てるとありますが、主要道路を歩いていると、獅子におそわれて殺されることが起こりました。ヤロブアムに神の宣告を告げた預言者が、ユダに帰る途中、食い殺されています。


4B 食糧不足 23−26
 そしてさらに、ひどい食糧不足に見舞われます。もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。神さまの声は、さらにさらに大きく、激しくなっています。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。

 
敵に取り囲まれて、それが食料が尽きるようになるというさばきです。エリシャが生きていたときに、サマリヤの町がシリア軍に包囲されました。そのため、激しいインフレーションが起こり、彼らは食べるのに事欠くようになってしまったのです。


5B 離散 27−39
 それでも彼らが悔い改めることをせず、神に立ち返らなかったらどうなるのでしょうか?神の最後の取り扱いは離散です。約束の土地に導かれたのは主ですが、今度は、この土地から彼らを追い出してしまわれます。

1C 土地の荒廃 27−35
 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。

 
あまりにもの飢餓状態によって、共食いを始めます。同じくサマリヤが包囲されて、食料がなくなったとき、イスラエルの女たちは、自分の赤ん坊を順番に出して食べていました。エルサレムがバビロンに包囲されたときも、彼らは赤ん坊を食べました(哀歌
2:20)。また、ローマにエルサレムが包囲されたときも、彼らは共食いを始めました。

 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。

 
ユダの王ヨシヤが、偶像をことごとくこわし、その粉を偶像崇拝者たちの墓の上にばらまきました。

 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。

 偶像はことごとく破壊され、そして、神殿も破壊されます。

 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。

 イスラエルを襲った敵でさえ、その荒廃を見て、恐怖におののきます。自分たちが攻めたのですが、彼らはその荒れ果てた姿を見て、神がこれを行なわれたのだ、神がさばかれたのだ、ということを理解するのです。

 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。

 
イスラエルの民は捕囚の民となります。アッシリア捕囚が紀元前
721年に、バビロン捕囚が紀元前586年に起こりました。

 そして次に、驚くべき主の御旨について書かれています。その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。

 25
章において、私たちは、神が7年毎に土地を休ませるように命じられたことを学びました。しかし、イスラエルはある時から、そのおきてを無視して作物を栽培しつづけました。それが490年の間そのようでありました。そして、エルサレムが廃墟となり、イスラエル人がバビロンに捕らえ移されました。彼らがエルサレムに帰還するまで70年経っています。神は、彼らが安息年を70回ないがしろにしたので、土地も70年間安息させるようにされたのです。これはすべて、神がモーセに、実際に起こる850年ほど前に語られたことばです。すべてのことが成就しました。

2C 離散の苦境 36−39
 彼らは離散しただけではなく、離散の地で苦境にあいます。あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。彼らは恐怖に襲われます。あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。

 自分たちの罪が重くて、そのために朽ち果ててしまいます。この姿は、バビロン捕囚だけではなく、ローマによる捕囚、そして離散に地における反ユダヤ主義、迫害と虐殺、ホロコーストにも見ることができます。ユダヤ人がなぜ、そんなに迫害されるのか。苦しみを受けているのかと言いますと、先祖たちが犯した罪、また自分たちが犯した罪によるのです。イエスさまは、「多く任された者は、多く要求されます。」と言われました。イスラエルは、神からたくさんのものをゆだねられたゆえに、神に反抗したときの罰もそれだけ大きかったのです。


3A 変わらない契約 40−46
 しかし、神はイスラエルをお見捨てになったのでしょうか。彼らがこれほどまでにかたくなであったから、神は彼らを見限って、倒れるままにされたのでしょうか。いいえ違います。神が、イスラエルを懲らしめるとき、それはある大きな目的をもって懲らしめておられるのです。それは、彼らがへりくだること、そして、また神に立ち返ることであります。

 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。


 神がイスラエルに願っておられたのは、罪の告白とへりくだりです。神がイスラエルに怒りを発せられたのは、イスラエルが憎いからではなく、むしろイスラエルを愛しておられるからです。父なる神は、イスラエルを子として諭すために、子を訓練するために、このような懲らしめを与えられたのです。バビロン捕囚のとき、ダニエルはバビロンにて、エルサレムに向かって祈りをささげていました。あるとき、エレミヤの預言を見つけ、それを読んで、捕囚の期間が
70年であることを知りました。そして、ダニエルは、イスラエルの罪を神の前に告白したのです。これまでに起こった災難は、神が正しいからであって、受けるに値することであることを認めました。そして、ただ神のあわれみのゆえに、イスラエルを約束の地へ戻してくださいとお願いしたのです。そのときに、天使ガブリエルがやって来ました。そして、イスラエルがエルサレムに帰還することについて、預言を与えたのです。

 そして次に、慰めに満ちた、すばらしい主のみことばがあります。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。

 神は、思い起こそうとおっしゃっています。神は、ご自分が結ばれた契約を決してお忘れになりません。神は、はるか昔に結ばれたヤコブとの契約を思い起こされます。主は、天からのはしごのそばにヤコブのかたわらに立たれて、こう言われました。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。(創世記
28:13-14」そして、この約束はイサクから受け継がれていたものであり、イサクへの契約は、もともとアブラハムのものでありました。そして、アブラハムに、「わたしが示す土地に行きなさい。」と言われたその土地を思い起こしてくださいます。神は、思い起こされる方です。考えてもみてください、すでに神がアブラハムに契約を結ばれてから、4千年近く経っています。それでも、神は決してご自分の立てた契約を忘れることなく、必ずその約束を実現させてくださるのです。

 そして、次のみことばも恵みに満ちたものであります。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、

 
この、「それにもかかわらず」が大事です。このようなひどいさばきを受けながらも、それにもかかわらず、

 彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。

 ここが大事ですね。イスラエルに対する神のさばきは、とても厳しいものです。しかし、彼らは滅ぼされることはありません。その取り扱いは厳しいですが、彼らが倒されたままにされることはありません。彼らはさばかれるのですが、それは罪に定められるためではないのです。彼らは、
こうした懲らしめを受けて、それできよめられて、そして約束通りの祝福を受けるために、残されているのです。

 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。


 イスラエルがエジプトから連れ出されて、紅海を渡り、エジプト軍はみな海に沈んだ事件は、全世界に伝わりました。それはどこでも、いつでも語り継がれて、そのために異邦の民はイスラエルを恐れていました。カナン人のラハブもそうであるし、ペリシテ人がイスラエルと戦うときも、このエジプトの出来事を思い出しては、恐れおののおいていました。この世の終わりも同じです。彼らの先祖たちの契約が思い起こされるとき、彼らは新たに生まれます。イエスを約束のメシヤであると信じて、悔い改めます。全世界からイスラエルの土地に戻り、この土地に住みます。そして再び、イスラエルが異邦の諸国の注目の的になるのです。彼らは再び、土地で豊かな収穫を得、安心して暮らし、平和を手に入れることができます。


 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。

 こうして、最後はすばらしい回復と祝福に満ちた約束になっていますが、けれども、イスラエルの歴史は、神からの懲らしめられる歴史でありました。神に反抗して、神から懲らしめられ、それでも反抗して、さらに7倍重い懲らしめを受け、また反抗して、さらに7倍重い懲らしめを受け、またさらに7倍の懲らしめを受ける、という歴史です。この懲らしめを通して、彼らはついに神に立ちかえり、きよめられ、祝福の中に入ることができます。レビ記は、神の聖めにあずかることを教える書物であることを思い出してください。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。」という命令が、この書物のテーマです。そして、そのクライマックスに、イスラエルがどのようにして聖なる者とされるのかを見ることができました。それは懲らしめによってなのです。


 神の懲らしめについて、私たちは、もっと知らなければいけません。ヘブル人への手紙には、神の懲らしめについて、詳しく教えられています。著者はまず、ソロモンが書いた箴言を引用しています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(12:5-6」子どもが父に反抗するときに、父は叱ります。罰を与えます。それは、父が子を憎んでいるからではなく、むしろ愛しているから行なうのです。愛してやまなく、罪を犯してその子が滅んでしまうことのないように、その子が罪の中で死んでしまうことがないように、懲らしめて罪から離れさせようとするのです。罪を犯したことによる結果を刈り取らせるようなことをさせることによって、子どもは、その罪を憎むことを学びます。これをするととんでもないことになるのだ、ということを学習します。そして、もう二度とその罪の中で遊ばない、罪をもてあそぶことをしないと決意します。そして、その子は、それ以降、義の実を結ぶことができるのです。

 ですから、ヘブル書の著者は続けて、こう言っています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」懲らしめられない子は、愛されていないのです。現代の子どもたちは、本当の意味で親を持っていないのかもしれません。「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」肉の父親は、自分が気に食わなくて怒り散らすことがよくあります。しかし、霊の父は、いつも私たちの益のことを考えて、懲らしめられるのです。そして、私たちがご自分の聖にあずかることができるように懲らしめます。そして、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」と言って、今は辛くて悲しいけれども、後にいつまでも残る平安な義の実を結ばせることができるのです。

 私たちは、主から懲らしめを受けるとき、二つの選択があります。一つは、苦みを持つことです。「なんで、こんなひどい目に会わなければいけないのだ。この野郎、クリスチャンやっているの、疲れるよ〜。」と嘆くことです。すると神は、私たちを何とかして罪から離れさせるために、さらに重い懲らしめを与えられます。それでも悔い改めなければ、さらに大きな懲らしめを与えられます。けれども、忘れてはいけないのは、もう一つの選択です。へりくだって、その罰は受けるに値することを認め、罪を告白することです。自分のありのままの姿を認めることは、心砕かれることです。しかし、神はその砕かれた心を、豊かなあわれみに包んでくださいます。そして、その心をいやし、すみやかに回復させてくださいます。回復した私たちは、もう一度、その罪の中に入ろうとも思いません。その罪を憎んでいるので、罪から離れて生きることはできるのです。


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