レビ記27章 「誓願のささげもの」

アウトライン

1A 誓願のささげ物 1−25

   1B 自身評価 1−8
   2B 家畜の評価 9−13
   3B 家の評価 14−15

   4B 土地の評価 16−25

2A 主のもの 26−34
   1B 家畜の初子 26−27
   2B 聖絶のもの 28−29
   3B 十分の一 30−34

本文

 レビ記27章を開いてください。ここでのテーマは、「誓願のささげもの」です。

 この章はもちろん、レビ記最後の章です。私たちはこれまで、約束の土地において、イスラエル人がどのように生きるべきかを教えている主の戒めについて学びました。例祭、安息年、そして、26章には、土地に関する神の警告と約束が書かれていました。神は、主の戒めを守らないことによる厳しい懲らしめがあることを予告されていましたが、彼らがへりくだって主を求めるとき、すばらしい回復があることも約束されました。神は愛する父であり、子を懲らしめる、という真理が、この個所から学ぶことができます。そして、これらの神のご性質やみわざに対して、イスラエル人が感謝の心を持ち、ぜひ自分自身のものを主におささげしたいと思うようになります。そこで、主に誓いを立てて、何かをささげようとします。そのときの戒めがここに書かれています。

1A 誓願のささげ物 1−25
 1節をご覧ください。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、

 とあります。誓い、というと、私たち新約聖書に親しんでいるクリスチャンは、「誓ってはいけません。」というイエスさまの戒めを思い出すでしょう。けれども、これは旧約からの教えでもあるのです。箴言
2025節には、こう書いてあります。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」イエスさまが、誓ってはいけない、と言われたのは、このことを指しています。つまり、軽々しくよく考えもしないで、「私はこれこれをします。」と発言したり、行動したりすることです。したがって、私たち新約時代のクリスチャンは、「誓い」という言葉を使わないかもしれませんが、ある意味で、絶えず誓いを立てているのです。英語ではcommitmentという言葉があります。それは、一つの事柄に専念することを決意する、という意味であります。コミットメントがない言動は、軽々しい誓いと同列に並べることができるのです。

 誓い、というのは、それが決して強制的ではなく、完全に自発的であるところに特徴があります。ささげることを全く行なわなくても、だれも咎めないし、それで立派な信者になれるわけでもありません。けれども、主が自分に成してくださったことを思うとき、感謝の思いからぜひささげてみたい、と願うようになります。だれに言われなくても、これは行ないたいという強い願いが与えられます。それに基づいて、ささげるのです。これはすばらしいことであり、奨励されるべきことであります。けれども、この誓いを通して、自分が本当は何を欲していたのかが明らかにされてきます。ささげたいのではなく、実は、人からよく思われたいと願っていたり、また、周りの流れに任されたりいたことだったかもしれません。そのささげものを通して、自分の心の状態が如実に現われます。しかし、そのようなことを行なうことによって、他の人々は大きな迷惑をこうむり、究極的には主ご自身の御名を汚すことになります。ですから、誓いを立てることにおいて、私たちはよく考えて、その誓いにともなう犠牲を自己責任として受け入れてから、誓いを立てる、ということをしなければいけません。このことについて、イエスさまは、「はい」は「はい。」、「いいえ」は「いいえ。」だけ言いなさい、と言われました。このみことばを引用して、ヤコブも、「ただ、『はい。』を『はい。』、『いいえ。』を『いいえ。』としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。(5:12」と言いました。さらに使徒パウロは、自分がコリントにいく旅程を変更したことについて、私のことばは、「しかり。」と言って、同時に「否。」と言うようなものではない、と弁明しています。

 私たちは、表向きの自分とそうではない本当の自分を使い分ける二心の傾向を持っています。そのような私たち人間が持つ性質に対して、主はモーセを通して、具体的に戒めを与えられているのです。

1B 自身評価 1−8
 それでは2節から読みます。イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。

 
これから、いろいろなささげものについての例が書かれていますが、一つ目は自分自身を主におささげすることです。「人身評価」とありますね。おそらくこれは、神の幕屋に関することや祭司について、自分が労働することによっておささげする、ということであろうと思われます。例えば、あるイスラエル人女性がこう言うとします。「何か、祭司さんたちのお仕事で、必要な労働はありますか。服が擦りきれていますね。私は裁縫ができますから、私が直しましょう。」と言うわけです。そして評価額というのがあります。誓願を立てて、それで考え直し、誓願を果たさない場合、その労賃に相応する額を支払う額であります。


 2節の後半をご覧ください。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。

 もっとも高い評価額は、成年男子です。銀50シュケルとあります。1シュケルは約1ヶ月分の労働賃金に値しますから、4年分ほどの給料を支払わなければいけないことになります。相当大きな額ですから、そのことで、後で考え直すということが制される動機にあるのです。これだけ、コミットメントというのは大事な決断であり、私たちクリスチャンも考えなければいけないことなのです。イエスさまが、エルサレムに向かっている途中、いっしょについて来ていた群衆に対して、費用を計算しなさい、というたとえを話されたことを覚えていますか。こうおっしゃられました。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めたはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。(ルカ
15:28-30」イエスさまに従うことはすばらしいことであり、また、このようにみことばの学びをすることは、とてもすばらしいことなのですが、それにともなう犠牲をよくよく考えなければいけないのです。

 ここで成年男子は、50シュケルの評価額であるのに対し、成年女子は30シュケルです。約二分の一です。それは、その人の価値ではありません。そうではなく、労力の差を表しています。男のほうがこなす事が出来る仕事が多いためであります。また、これは責任の度合いも表しています。男のほうが、女よりも責任が大きく、自分の身の周りで起こったことに対して、男が弁明をしなければいけないのです。たとえアダムがエバの言うことを聞いて禁断の実を食べても、それは、エバのせいではなく、アダムの罪とされました。またアブラハムがサラの言うことを聞いて、ハガルを迎えたときも、サラの罪ではなく、アブラハムの失敗とされました。男性はキリストをかしらとして、しっかりと自分が与えられている責任を果たさなければいけない立場に置かれています。

 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。

 
少年や少女期から十代まだの人の評価額です。成年よりもちろん低いです。これもまた、成人に対する責任が、少年少女や
10代よりも大きいことを表しています。

 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。

 
これは面白いですね、乳児と幼児も少額ながら、支払わなければいけないお金があります。彼らが何のために働くことができるでしょうか。いや、できます。彼らは、親から主の道を学び、訓練を受けるというお仕事があります。サムエルを思い出してください。乳離れして大祭司エリのものに彼を連れていくまで、ハンナはおそらくサムエルを、神のみことばによって教えていたでしょう。また、モーセもそうでした。乳離れして、パロの娘の息子になるまで、モーセの母親は、イスラエルに与えられた神の契約について教えたに違いありません。パウロの同労者テモテは、幼少のころから聖書に親しんできた、とパウロは言っています。このように、幼いときにも、主に対するお仕事があり、主におささげすることができるのです。


 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。

 老人に対しても、評価額が決まっています。むろん、これも、老人の果たす役目は大きいからです。教会において、今まで奉仕をしてきた年老いた人々を、教会はねぎらわなければいけません。もう戦力にならないから、奉仕ができないから、という考えは、聖書から全く逸脱しています。律法には白髪の老人の前では起立しなさい、と命じられています。若いテモテに対して、パウロは、年寄りをしかってはならない、父のように勧めなさい、と命じています。これが聖いことであり、神のみこころなのです。


 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。

 他のレビ記の個所でもそうであったように、ここでも貧しい人たちに対する規定があります。主は、貧しい人、支払い能力がない人のためにも、ご自身におささげすることができるようにしてくださっています。逆に、能力がないから、ささげることはできないという言い訳ができないようにされているのです。主は、私たちができないことについて、責任を問われることは一切ありません。しかし、できることについて責任を問われます。だから祭司は評価して、その人の支払い能力を定めます。


2B 家畜の評価 9−13
 そして次に、家畜をささげる誓願を立てるときの戒めです。主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。

 主が自分にしてくださったことを感謝して、「ああ主よ、家畜をもって自分のものをおささげしたいと思います。」と考えます。けれども、私たちは、レビ記の初めの数章において、ある特定の家畜は、主に対する火によるささげものとして定められたことを学びました。傷のない雄羊、子羊、やぎなどですね。これらは、誓願のささげものというよりも、主を礼拝するために用いられます。


 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。

 主を礼拝するためにささげものを連れて来るときに、人間の傾向として、今読んだようなことが起こります。良いものを悪いものに取り替えたり、悪いものを良いものに取り替えたりすることです。「この牛はとても良質である。これをささげてしまうのはもったいない。だから、他のをささげよう。」と考えて、良いものを悪いものに取り替えようとします。あるいは、「あの祭司に火で焼いてささげてもらうのだ。私はあの祭司に良く思われたいから、もっと良いささげものを持っていこう。」と考えます。このように、周りの状況に合わせて、打算的なことを考えて主を礼拝することを、神は戒めておられるのです。主の御前には、純真さが必要です。「私は、これこれをささげます。」と単純に願ったところにしたがってささげることを、主は喜ばれます。人間的な思惑によって動くとき、私たちは、この「悪いものを良いものに変える」「良いものを悪いものに変える」ようなことをしてしまうのです。

 もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。

 
「この家畜ではなくて、他のものに代用します。」と言ったとき、元々の家畜と代用する家畜のどちらをもささげなければいけません。これでは代用しようとする気が失せてしまうでしょう。主はこのようにして、軽々しくささげることを戒めておられるのです。


 主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。

 汚れた家畜、つまり、主によって火によるささげものとして指定されていない動物は、誓願のささげものとしてささげることができます。その際、主へのささげものは祭司によって評価し、それによって価値が決まります。先ほども、貧しい人の評価を祭司が行なっていました。このように、祭司が評価をすることによって、その人が本当にどれだけのものをささげることができるかを知ることができます。私たちも同じです。イエスさまは私たちの大祭司であり、イエスさまによって私たちは、本当の自分の姿を知っていくことになります。本当は自分はこれこれのことをできると思っていたのに、イエスさまは、「いや、あなたにはできない。」と言われるときがあります。あるいは、自分にはできないと思っていても、イエスさまは、「いや、わたしが命じることを行ないなさい。」と言われるかもしれません。私たちは、イエスさまによって評価を受けている者です。それによって、私たちは自分がどれほど主におささげしているのかを知っていくことができるのです。

 もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。

 
例えば、家畜の評価が
10万円だったとします。そして後で、「あの牛を取り戻したいので、買い戻します。」と言ったとします。そのときは10万円で買い取ることができません。10万円の五分の一、二万円を加えて12万円で買い取らなければいけないのです。ここにも、自分が本当にコミットメントしていることと、自分が発言していることに遊離があることへの犠牲があります。私たちは、イエスさまに評価をいただき、本当の自分を知り、そして「しかり」と言って、主の呼びかけに応答しなければいけないのです。

3B 家の評価 14−15
 次に、家を主におささげすると誓願を立てるときの話しです。人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。

 家を主に聖なるものとして聖別する、とあります。これは具体的には、おそらく、家を祭司が住む家として使ってもらうことなのでしょう。主のご用のためにささげることを意味します。

 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。

 
家畜のときと同じように、買い戻すときは評価額の二割を加えます。


 このように、人身評価、家畜の評価、そして家の評価という順番でした。そして次に土地の評価があります。ここで私が気づいたことは、ささげるものが移動性のあるものから不動のものへと話題が移っているということです。動産から不動産に変わっています。主が最も求めておられるのは、私たち自身です。他のどのようなささげものよりも、神とともに歩む私たち自身を主は求めていられます。ある人がこのように言いました。「主が求めておられるのは、できるかできないかという能力ではなく、『主よ、私はここにいますから用いてください。』という姿勢です。」自分自身が、主への奉仕のために身を整えているでしょうか。そして次に家畜をささげること、つまり主との交わりが大切です。自分自身を奉仕の場におくようにして、そのときに主との交わりをしていきます。そらから、家、土地へと、自分の所有物や周囲のものをどのようにささげればよいのかを知ることができるのです。この流れの中にいないときに、私たちは喜んで主におささげするという好循環の中に入っていくことができません。

4B 土地の評価 16−25
 16節をご覧ください。人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。

 今度は土地を誓願としてささげるときのことです。土地の評価額は、その土地の収穫量によります。やせた土地をささげても、それは主の前ではなきに等しいです。主は、私たちから結ばれる実をご覧になっておられます。私たちが、ご聖霊によって結ぶ実によって、神は私たちに報いてくださるのです。自分が、信仰によってどれだけの実を結んだのか、それを考えなければいけません。その実とは、むろん回心した人の数ではありません。どれだけの信仰の歩みを深めてきたのか、主との歩みをどれだけ長くおこなったのか、に掛かっています。


 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。

 
土地を誓願としてささげるとき、ヨベルの年が関わってきます。ヨベルの年とは、解放を告げるときです。すべての人が、どのような境遇の中にいようと、自分の所有の土地に戻ることができるという回復のときであります。新約聖書では、これはイエス・キリストが再臨されることを指していると言われています。したがって、ヨベルの年までの年数によって金額を計算するということは、主イエス・キリストが再臨されるときまでの、地上における行ないと言いかえることができるのです。私たちは、主が戻って来られるときに、地上でこのからだにおいて行なったことに報いが与えられます。ですから、「まあ、あとで主におささげすればいいや。」と思っていると、それだけ、主に対して実を結ぶことが少なくなってしまう、と言うことなのです。

 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。


 先ほどと、話しは同じです。再び自分のものにしたいのであれば、評価額に五分の一を加えて支払わなければいけません。


 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。

 
聖絶される、という言葉が出てきました。自分の所有のものが断たれて、主の御手の中に入る、ということです。自分の相続がまったくなくなってしまうことです。ここの場合、自分の土地をささげると言いながら、やはり主に用いてもらいたくない。それで自分が買い戻せばよいのに、それを他人に売りつけて、それで評価額プラス五分の一を支払おうという魂胆の人であります。まったく自分で責任を取りたくない人の場合であり、本来ならその嗣業の地をヨベルの年には取り戻せるところが、完全に失ってしまうことを意味します。これを私たちのクリスチャン生活に当てはめると、クリスチャンのふりをしながら、クリスチャンとしてのコミットメントをなんら行なっていなかった人のことでありましょう。クリスチャンのようにふるまい、クリスチャン用語を話し、洗礼も受け、教会にも通い、それでもって、何も心をキリストに明け渡すことのなかった人のことです。イスカリオテのユダのような存在の人です。そのような人は、神の国を決して相続することはできません。すべての相続は主によって聖絶せしめられ、残されているものは何もないのです。


 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。

 
買った畑を主におささげするのですが、この場合、おそらく買った土地のすべての返済を終えていないのだと思われます。ローンにでもしていたのでしょうか、すべて支払っていないので、それをささげるときは、祭司が金銭を、土地を売った人に支払わなければならないのでしょう。したがって、評価額に相当する金銭を祭司に支払わなければなりません。ここで注目していただきたいのは、「その日に」支払うということです。その日に評価額の金銭を支払うことができないのに、それを主におささげするというところに、その人が二心をもってささげているということになります。けれども、その日に与えることができるということは、その人は本当に犠牲を払って、その土地をささげたいと思っていることが分かります。ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。金額は一定になっています。主にささげるものですから、聖所の通貨が適用されます。


2A 主のもの 26−34
 こうして、誓願のささげものを見てきました。もう一度くりかえしますが、これらはみな、自分が本当にささげたいと強く願っている、自発的なささげものであります。そこに、他の動機がからんではならないのです。純粋に、単純に、「しかり」と言えるところにしたがってささげるのです。

 ところが、26節からのささげものは、自発的なものではありません。ささげなければいけない、と命令として述べられています。

1B 家畜の初子 26−27
 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。

 家畜の初子は、主におささげすることができません。なぜなら、すでにそれは主のものであるからです。主のものであるものを、主におささげすることはできませんね。ここに選択肢はないのです。私たちクリスチャンには、選択できることと、そうではないことがあります。選択できないことは、たとえば、互いに愛することです。人を愛するべきか、愛さないべきか、という選択肢はないのです。愛しなさい、という命令のみがあるだけです。ですから家畜の初子をおささげすることはできません。

 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。

 汚れた家畜の初子であれば、主におささげることもできるし、しなくてもよいです。主におささげしたいときは、そのまま主のみもとに、自分のものとしたいときは、評価額の五分の一を加えて買い取ります。

2B 聖絶のもの 28−29
 次は聖絶のものです。しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。

 
先ほども説明しましたように、聖絶するとは、ここに書かれてあるとおり、殺されるということです。また、ヨシュア記のことを思い出してほしいのですが、エリコの町をイスラエルが陥落したとき、主は、そこの家畜でも貴金属でも、聖絶したものであるから略奪してはならない、と命じられました。これは、神のさばきが怠りなくされる、と言うことができるでしょう。私たちは、神の量りをさらに重くすることも、軽くすることもできません。主がこれだと判断されたことを、そのとおりに受け入れるしかないのです。


3B 十分の一 30−34
 そして最後に、什一献金について書かれています。こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。

 
十分の一は、主のものであり聖なるものであるというのは、聖書全体を貫いた教えです。新約にも、イエスさまが、おろそかにしてはならないと教え、また、アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげた、という話しを引用しています(ヘブル
7:1-7)。預言者マラキは、大胆にも、什一献金をしない者は、主から盗んでいると預言しました。私たちは、このような感覚を持っているでしょうか。自分の財産の十分の一は、すでに自分のものではないことを知っているでしょうか。自分のものではないのに、それを置いておくというのは盗んでいることになるのです。什一というのは、選択ではなく命令なのです。

 人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。


 誓願のささげものと同じように、五分の一を加えて買い戻します。


 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。

 家畜の什一において、良い物や悪い物を自分で選ばないように戒められています。杖の下の十番目にとおるものが聖なるものであると決められることによって、自分がどの家畜が主のものであるかを決めることができないのです。


 以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。

 
これでレビ記のしめくくりです。主におささげすることで、レビ記が終わりました。ふさわしい終わり方です。主との交わりに必要不可欠な、ささげものから始まり、祭司の規定、きよめの儀式、そして贖罪日、十戒の適用、土地の教えなど、さまざまな聖めへの教えが書かれていましたが、こうした聖めにあずかると、私たちは自分でささげたくなるのです。主はそれによって、私たちをとかく良くみてくださることはありません。けれども、ささげたいのであれば、その純粋な動機でささげるのです。



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