純粋な心から 2000/11/05

「ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。…(レビ記27:2‐3)」
昨日、レビ記27章の学びを終えました。テーマは、「誓願を立てる」でした。

私たちは、主のことを感謝して、何かをささげることによってその感謝を表したいと強く願うようになります。例えば、教会の奉仕のために時間を費やしたい、自分に与えられている技術を用いて、主にお仕えしたいと思います。また、ある人は家具や電気器具、時には建物や土地を福音のためにおささげしたいと欲するでしょう。そのときに、「これこれを、主のご用のために提供したいのですが」と言いますが、レビ記27章は、そのような発言を「誓願を立てる」と言っています。

けれども、誓願を立てるときに、私たちは、純真な思いからささげるのではなく、他に隠された動機があったりします。人によく思われたいとか、自分の心理的欲求を満たしたいとか、単純に主に感謝してささげるものと異なる場合があります。その場合、与えてしまったものに条件をつけたり、不満や文句を言ったりして、そのささげものを受け取った者が自由にそれを使えなくなる時があります。つまり、本当の意味でその人は与えていなかったのです。

イスラエル人が、誓願を立てたあとに、それを取り戻したいと思うとき、評価額というものがありました。成年男子が、自分自身を主の働きのために費やしたいと願い出て、途中で、「やはり、やめさせていただきます。」と言ったとしたら、銀50シュケル、つまり、50ヶ月分の給料に匹敵する金額を祭司に支払わなければなりません。同じく、家畜も家も土地もそれぞれ評価額があり、それにさらに20パーセントを加えた金額を支払わなければならないのです。それは、「ささげます。」と言っておきながら、「やはり、自分のものにしたいです。」と翻ることがないように、戒めているからです。

主は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい、とおっしゃられました。また、主に従うなら、その費用を計算してからついて来なさいと言われました。主は、私たちに、「ささげなさい。与えなさい。」と要求しておられません。むしろ、「ただ、わたしのことについて、喜びなさい。」と命じられています。そして、もしささげたいなら、純粋に、主を喜び感謝する心からささげなさい、単純にささげなさい、と命じておられるのです。


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