レビ記4−7章 「主に捧げる物 その2」
アウトライン
1A 罪と罪過の為のいけにえ 4章−6章7節
1B 罪のためのいけにえ 4章−5章13節
1C 聖所への血 1−21
1D 大祭司の罪 1−12
2D 全会衆の罪 13−21
2C 祭壇への血 22−35
1D 上に立つ者 22−26
2D 一般人 27−35
3C 過失の事例 1−13
1D 見過ごされる過ち 1−4
2D 必ず捧げるいけにえ 5−13
2B 罪過のためのいけにえ 5章14節−6章7節
1C 聖なる物 14−19
2C 人の物 1−7
2A 祭司たちの奉仕 6章8節−7章
1B 全焼のいけにえ 8−13
2B 穀物のささげもの 14−23
3B 罪のためのいけにえ 24−30
4B 罪過のためのいけにえ 1−7
5B 祭司の分け前 8−10
6B 和解のいけにえ 11−34
1C 穀物の添え物 11−14
2C 汚れた肉 15−21
3C 脂肪と血の禁食 22−27
4C 胸と右もも肉 28−34
7B まとめ 35−37
本文
レビ記4章を開いてください、今日は7章までを学びたいと思います。私たちは、いけにえを通して聖なる神に近づくことを学んでいます。1章から7章までに、祭壇におけるいけにえの教えを神が与えておられます。前回の1章から3章までには、自発的に捧げる全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、そして和解のいけにえがありました。今日は罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえを学び、そして祭司たちがどのようにこれらいけにえを受け取るのかについて学びます。
1A 罪と罪過の為のいけにえ 4章−6章7節
1B 罪のためのいけにえ 4章−5章13節
1C 聖所への血 1−21
1D 大祭司の罪 1−12
4:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。4:2 「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、4:3 もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。
レビ記は、すでに神の所有の民とされたイスラエルに対して語られていることを思い出してください。会見の天幕から主がモーセに呼びかけられて、ご自分が聖であるように民も聖でなければならないという命令を与えられました。したがって初めの教えは、罪から救われるためのいけにえではなく、自分自身を全て捧げる全焼のいけにえから始まりました。そして自分の生活を捧げることを表す穀物の捧げ物、神に感謝して、神と交わる和解のいけにえがあったのです。それから、ここに書かれてある罪のためのいけにえがあります。
つまり、救いを得るための罪のためのいけにえではなく、すでに救われている者が罪を犯した場合をここで主は問題にされています。ぜひ第一礼拝の説教を聞いていただきたいのですが、キリスト者になったと言えども罪を犯します。神の民とされた者たちが罪を犯したらどうなるのか、そして何をしなければいけないのかを教えています。
すでに昨晩学んだように、この罪は「誤って」犯したものです。故意に犯した罪は赦されることがなく、民から断ち切られます。故意に犯した罪とは、罪のいけにえを捧げることを厭う罪です。キリスト者で言えば、自分の犯した罪を告白しないこと、キリストの十字架にその罪をつけてしまわないことを意味します。キリストの十字架のところまで自分が行くことなく、十字架は要らないと言っていることを意味します。けれどもその他の罪に対しては、主は罪の赦しを備えていてくださっているのです。
初めに、1節から12節には祭司が罪を犯した時について取り扱っています。そして次にイスラエル全体が犯した罪について、その次に、上に立つ者が犯した罪、最後に一般の人が犯す罪について取り扱っています。この順番で、罪の深刻さが変わってきます。それだけ責任が重いのです。イエス様は、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。 (ルカ12:48)」と言われました。祭司はまさに、民に代わって神のところに行く代表者です。大祭司が犯す罪は、イスラエル全会衆に大きな咎となります。
4:4 その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。4:5 油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。4:6 その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。
頭に手を置いて、それを屠るところまでは全焼のいけにえと同じです。けれども、その血をそのまま祭壇に注ぐのではなく、会見の天幕、つまり聖所の中に携えていきます。そして初めに、垂れ幕の前で血を七度振りかけるのです。大祭司が犯した罪は、至聖所に栄光の御座を持っておられる主の前に傷を与えた、ということです。そこに血による清めが必要だということです。私たちが罪を犯すと、単に精神的に感情的に痛みを伴うだけでなく、神との交わりという営みが損なわれるという霊的な痛みを伴います。
そして、垂れ幕の手前にある香壇の角に血を塗ります。香壇の煙は祈りを表していますから、罪を犯したことによって祈りに深刻な障害が生じたということです。私たちのうちに不義があると、祈りは聞かれないのです(詩篇66:18)。そこに血をあてがうことによって、神との意思疎通に清めが与えられるようにします。
さらに、残りの血を外庭にある青銅の祭壇に注ぎます。興味深いのは注ぐ場所です。7節に「土台に注がなければならない」とあります。全焼のいけにえも和解のいけにえも、祭壇の回り、つまり側面に注がなければならない、とありました。罪のためのいけには、祭壇にさえその血を注ぎかけられないほどの深刻さを表しています。これは罪の重みを表しており、キリストの流れた血の重みを知らなければいけない、ということです。
4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。
分かりますか、焼くのは和解のいけにえの時と同じ、脂肪の部分と腎臓と肝臓の上の小葉です。けれども和解のいけにえでは、肉は祭司と捧げた人が食べるのに対して、皮も肉も、その他の部分も、すべて宿営の外に持っていって、そこで焼かなければいけないということです。それは、その肉体が罪を負っているため、イスラエルの宿営の中に置いておくことのできない汚れをまとうことになったからです。
これはヘブル13章10-12節で言及されています。そして、これはイエス・キリストを表しており、イエス様が十字架を背負わされエルサレムの門の外に連れて行かれて、そこで十字架につけられたことを表しています。私たちが神の都の中にいることができるようにするため、主ご自身が神の民から疎外され、呪われた者となられたのです。
2D 全会衆の罪 13−21
4:13 また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、4:14 彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。4:15 そこで、会衆の長老たちは、主の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を主の前でほふりなさい。
祭司の次は、イスラエル全会衆が犯してしまった罪に対するいけにえです。私たち教会も、全体として犯している罪があるかもしれません。黙示録の七つの教会に対して、イエス様は責めるところがありました。「さばきが神の家から始まる時が来ている(1ペテロ4:17)」とペテロは言いました。こうした罪に気づいた時の対処です。出てくるのは、会衆全員という訳にはいかないのですから、代表者である長老が数人、祭司の時と同じように牛に手を置いて、いけにえをほふります。
4:16 油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持ってはいり、4:17 祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。4:18 彼は、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の角に塗らなければならない。彼はその血の全部を、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。4:19 脂肪全部をその雄牛から取り除き、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。4:20 この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。4:21 彼はその雄牛を宿営の外に運び出し、最初の雄牛を焼いたように、それも焼きなさい。これは集会の罪のためのいけにえである。
全会衆が犯した罪は、大祭司が罪を犯した時と手順は同じです。血は会見の天幕の垂れ幕の前で七度ふりかけ、香壇の角に血を塗り、残りの血は祭壇の土台に注ぎます。そして脂肪は祭壇で焼きますが、残りは宿営の外で焼きます。
2C 祭壇への血 22−35
1D 上に立つ者 22−26
4:22 上に立つ者が罪を犯し、その神、主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、4:23 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、4:24 そのやぎの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、主の前にそれをほふりなさい。これは罪のためのいけにえである。4:25 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。また、その血は全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。4:26 また、彼は和解のいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪を全部、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさい。その人は赦される。
三つ目は、上に立つ者が罪を犯した時です。霊的な事柄ではなく、政治や行政面における首長のことです。いけにえの動物が雄牛から雄山羊に変わりました。それだけ責任の重さが相対的に軽くなった、ということです。政治指導者が犯す罪と、霊的な指導者が犯す罪とでは、後者のほうを神は深刻に考えておられることを知ってください。十字架刑を下そうとしているローマ総督ピラトに対して、イエスは、「わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。(ヨハネ19:11)」と言われました。
そして、いけにえの血は聖所の中の香壇の角に塗るのではなく、そのまま青銅の祭壇の角に塗ります。そして肉は、後で説明が出てきますが、外に捨てるのではなく祭司が食べることになります。祭司自身が罪を犯せば、仲介者がいなくなりますが、ここでは祭司自身が仲介を果たすことができるためです。
ここで思い出していただきたいのは、私たちはこのような一般のイスラエル人ではなく、霊的には祭司に匹敵するということです。私たち自身が神の御霊の宿る宮となり、私たちは霊的な神の家に仕える霊的な祭司だということを、ペテロは第一の手紙で教えています。つまり、誰かにしてもらうのではなく、私たち自身が神の前に出て行かないといけないということです。私たちには、一般の人々とは異なり、父なる神にイエスの御名によって祈る権威が与えられています。そうでなければ、神との親しい交わりを深刻なまでに損害を与えてしまうからです。
2D 一般人 27−35
4:27 また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、4:28 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、4:29 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。4:30 祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。4:31 また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。
四つ目に、一般の人々が罪を犯した時のいけにえです。二種類あり、一つは雌山羊でもう一つは次に出てくる雌羊です。三つ目の上に立つ人の時は雄山羊なので、その責任の重さが相対的に軽くなっている、ということです。その他は、上に立つ人が犯した罪の赦しと同じ手順を取っています。
4:32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。4:33 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。4:34 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。4:35 また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。
一般の人々は、雌の山羊か雌の子羊かの二つの選択があります。
3C 過失の事例 1−13
そこで次から、誤って罪を犯す事例を取り上げながら、罪のためのいけにえを捧げなければいけない必要性について述べています。
1D 見過ごされる過ち 1−4
5:1 人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら・・彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに・・、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。5:2 あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。5:3 あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。5:4 あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。
主は、実に私たちの思いの中でないがしろにされていく、見過ごすのが極めて容易な事例を挙げておられます。
初めは、1節にありますが「良いことを行わない」ことについての過ちです。証言をしなければいけないのに、それを見て見ぬふりをすることです。ある人が無実であることの証言かもしれないし、あるいは罪を犯したことの証言かもしれませんが、いかがですか、大抵私たちは「自分が関わったら、面倒くさいことになる」という思いが出てきてしまいます。「良きサマリヤ人」の例えがそうですね、半殺しになった人が道に横たわっているのに、祭司やレビ人は通り過ぎました。私たちは「しないことによる罪」があることを知らなければいけません。ヤコブ書4章17節には、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」とあります。
次にあるのは、2節「汚れが移る」ことであります。この教えについては、レビ記11章以降に「きよい」「汚れている」の区別をしていく箇所があるので、そこで詳しく学びたいと思いますが、死体に触れればもちろん衛生的に腐敗にある菌がついて汚れることはありますが、ここでは儀式的に汚れたことを話しています。さらにそのような形で汚れた人に触れた場合も、その汚れは移ります。このこともしばしば見過ごされます。イエス様は内側から出てくるものが人を汚すと言われましたが、例えば怒りや悪口、噂などはいかがでしょうか?自分が発生源ではなくとも、その感情に共鳴しているならば、私たちは他の人にもその汚れを移していることになるのです。
ここで興味深いのは、「それを知ったときには、罪に定められる」とあることです。つまり、物理的な衛生面での汚れではなく、明らかに私たちの良心に関わることがであることが分かります。ローマ14章23節に、「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあります。罪ではないかと思っているその良心があるならば、それを避けるべきです。「他の人は何の問題もなく行っているから」と思って、良心では行ってはいけないと感じているものを行えば、その行為は自分を汚すことになるのです。
そして次に4節、「軽々しい誓い」についてです。私たちは、「これこれをします」という誓い、あるいは約束をしたのに、それを実行しないことがどれだけあるでしょうか。ある注解書で興味深い例えがありました。クリスチャンがしばしば犯す「軽々しい誓い」です。
「もっと祈ります」
「もっと、他の人々のために執り成しの祈りをささげます」
「もっと朝にデボーションの時間を持って、聖書を読みます」
「もっとしっかり、聖書を学びます」
「もっと、人々に証しをします」
「もっと十一献金を忠実にささげます」
「もっと良い模範になりたいと思います」
「もっと子供に忍耐強くなります」
「性的な事柄について、もっと聖くなります」
いかがでしょうか、私たちは実に容易に、このような罪を見過ごしているのです。
2D 必ず捧げるいけにえ 5−13
5:5 これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。
第一礼拝で学びましたが、「罪を告白」することはとても大事です。告白することは、神に同意することです。神が罪であるといわれていることに同意することです。
5:6 自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。
ここに「罪過のためのいけにえ」とありますが、ここでは単に「罪のための代償として」(新共同訳)という意味でしょう。
5:7 しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。
覚えていますか、全焼のいけにえの時に、雄牛を捧げることのできない人は羊や山羊、羊や山羊を捧げることのできない人は、山鳩や家鳩を捧げました。同じように、罪のためのいけにえは経済的な理由で捧げない、ということがないようにしています。
そして罪のためのいけにえの他に、もう一羽を「全焼のためのいけにえ」とします。罪を告白した後に、私たちは新たに主に従う決心をするのです。
5:8 彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。5:9 それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。5:10 祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。
他の家畜の時は祭壇の角に血を塗っているところを、代わりに祭壇の側面に振りかけます。そして他の家畜と同じように土台のところに血を絞り出しています。捧げ方が簡易になっています。
5:11 もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。5:12 彼はそれを祭司のところに持って行きなさい。祭司はそのひとつかみを記念の部分としてそれから取り出し、祭壇の上で、主への火によるささげ物といっしょにそれを焼いて煙にしなさい。これは罪のためのいけにえである。5:13 祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。 その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。」
非常に興味深いです、家畜によるいけにえをすることができなければ、小麦粉を罪のためのいけにえとしなさい、と命じておられます。全焼のいけにえにも、和解のいけにえにも、そのような項目はありませんでした。ここには、主による、罪のためのいけにえに対する執念があります。どんなに極貧であっても、罪のためのいけにえだけは捧げなければいけないという、神の強い意思の表れです。
全焼のいけにえ、穀物の捧げ物、和解のいけにえに特徴的だったのは、それが自発的なものであったことです。それをしてもしなくても良いですが、自らが主を愛して、主に自分を捧げたいという願い、あるいは感謝したいという思いをいけにえによって表明します。けれども罪のためのいけにえは、選択ではないのです。絶対に捧げなければいけないものなのです。それは、このいけにえを捧げないと、神との聖い交わりが途切れてしまうからです。
さらに興味深いのは、自発的に捧げる穀物の捧げ物とは異なり、それに油を加えたり、乳香を添えたりしてはいけないということです。油は聖霊の麗しい働きであり、乳香は祈りを表し、主にとって香ばしく、快いものとなります。全焼のいけにえにも、和解のいけにえにも、「主への宥めの香り」という言葉がありましたが、罪のためのいけにえにはありません。ここには、罪の深刻さが描かれています。罪は決して麗しいものでも、すばらしいものでもありません。醜く、恐ろしく、悲しく、落胆させるものであり、死に至るものです。
2B 罪過のためのいけにえ 5章14節−6章7節
そして次から「罪過のためのいけにえ」が始まります。
1C 聖なる物 14−19
5:14 ついで主はモーセに告げて仰せられた。5:15 「人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したときは、その罪過のために、羊の群れから傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀に当たるとあなたが評価したものを取って、罪過のためのいけにえとして主のもとに連れて来る。5:16 彼は、その聖なるものを犯した罪の償いをしなければならない。それにその五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される。
ここに「聖なるもの」とあるのは、例えば祭壇であるとか、主によって聖められたものであります。それに対して、何らかの損害を与えた時です。
罪は、主が命じられたことに違反するということですが、罪過は、何らかの形で損害を与えることです。ゆえに罪過のためのいけにえは、必ず償いが伴います。いけにえは損害額の評価に相応する雄羊を選びます。そしていけにえを捧げるだけではなく、損失を与えた額を支払い、さらに五分の一を加えて支払うことを命じられています。以前に学んだ、さばきつかさに与えられた定めの中にも、損害や盗みに対して倍にして償うことが命じられていましたが、物理的な損失以上の精神的傷も補わなければいけないからです。
私たちは「罪の赦し」というのと、「償い」というのをきちんと区別しなければいけません。私たちは完全な罪の赦しを得ることができます。そして、罪の赦されたことを知りながら、かつ自分が加えた損失分を償うことができるのです。
かなり前の話になりますが、1998年にテキサス州で、殺人犯の死刑が執行されました。けれども、彼女は真実に悔い改め、イエス・キリストを信じて新たに生まれました。彼女の言動が何度も、その真実を表していました。けれども、彼女はできれば死刑を免れたいけれども、私には死んだ後にすぐにイエス様に出会えるという確信があると言って、死刑執行の日が近づいても、恐れや悲しみを一つも見せませんでした。彼女は神の前における罪の赦しは完全に受け取っていましたが、死刑執行の直前にも遺族に対する謝罪を忘れませんでした。したがって、損害を与えたことに対する償いをも果たしたのです。
みなさんがもしかしたら、自分が過去に犯した罪によって、その結果を今も刈り取っている人がいるかもしれません。けれども、その結果の刈り取りは決して神が未だに罪を赦していない、ということでは決してないのです。私は、アメリカにいたときに、新しく信じた人たちの集まりで、エイズ患者の女性が救いの証しをしていたのを覚えています。彼女のエイズはイエス様を信じたことで必ずしも直らないのです。彼女が過去に犯したことの償いがあるのです。けれども、彼女は完全に罪から赦されたということを受け入れています。
5:17 また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。5:18 その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。5:19 これは罪過のためのいけにえである。彼は確かに主の前に罪に定められた。」
ここに書かれていることも、幕屋における礼拝に関することでの罪です。自分が行っていた時には気づいていなかったけれども、やはり罪に定められます。私たちは、「知りませんでした」ということだけで、その償いから免れることはありません。
2C 人の物 1−7
次は、人に対する損害に対する償いです。
6:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。6:2 「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、6:3 あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行なうどれかについて罪を犯すなら、6:4 この人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、6:5 あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。6:6 この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。6:7 祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」
あらゆる形での「盗み」について書いてあります。預かった物を返さないのも盗みです。また詐欺も盗みです。また落し物を届けないことも盗みです。いかがでしょうか、私たちが意外に盗みという罪を犯しているのではないでしょうか。
そして聖なる物に対して罪を犯したときと同じように、人に対しても償いをします。元の物を返すだけでなく五分の一を加え、さらに罪過のためのいけにえをささげます。
私たちは罪の赦しと回復をもっと求めるべきですね。イエス様は、和解についてこのように強調されました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)」これは礼拝をおろそかにしろ、という意味ではありません。そうではなく、神に礼拝するという神との関係において、人との仲直り、あるいは償いによる和解は直結しているのだよ、ということです。イエス様は祈りなさいと命じられた祈りの中で、「私たちが私たちの罪を赦すように、私たちの罪を赦してください。」というのがあります。それも、人との和解が神との関係に直結しているのだよ、ということです。
2A 祭司たちの奉仕 6章8節−7章
以上、私たちは合計五つの捧げ物についての教えを読みました。6章8節からは、これらの捧げ物を祭司たちがどのように受け取るのかについての教えです。これまでは捧げる物、礼拝者の視点からの教えでしたが、祭司がこれらのいけにえを受け取る時にどのように行っていくのかを教えています。
1B 全焼のいけにえ 8−13
6:8 ついで主はモーセに告げて仰せられた。6:9 「アロンとその子らに命じて言え。全焼のいけにえのおしえは次のとおりである。全焼のいけにえそのものは、一晩中朝まで、祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。6:10 祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならない。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇のそばに置きなさい。6:11 祭司はその装束を脱ぎ、別の装束を着けて、脂肪の灰を宿営の外のきよい所に持ち出しなさい。6:12 祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。6:13 火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。
全焼のいけにえについての教えです。これは個々人が主にささげる全焼のいけにえとは別に、イスラエル会衆全体のために捧げている物です。一日中、火が消えることなくそこで捧げていなさい、と主は命じておられます。そこには、いつも、絶えず、主にお捧げしている姿を見ることができます。イエス様は、ご自分に枕するところがないほど絶えず神に、そして人に仕えておられました。そして、絶えず仕えてくださるイエス様に私たちは触れて、私たち自身もイエス様に従っていきたい、神に仕えていきたいと願います。朝起きても、昼仕事をしていても、そして夜寝る前にも主に捧げていきたいと願うのです。
そして全焼のいけにえを捧げる時には、そのときのための亜麻布の服装があります。外に出て灰を捨てる時には服装を着替えなければいけません。これは、私たちが新たな心で主に捧げていく姿を表しています。私たちは日々、内なる人を神に新たにしていただかなければなりません。
2B 穀物のささげもの 14−23
6:14 穀物のささげ物のおしえは次のとおりである。アロンの子らは祭壇の前でそれを主の前にささげなさい。6:15 すなわち、その中から穀物のささげ物のひとつかみの小麦粉と油を取り出し、穀物のささげ物の上の乳香全部といっしょに、この記念の部分を、主へのなだめのかおりとして祭壇の上で焼いて煙にしなさい。6:16 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。6:17 これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。6:18 アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」
穀物の捧げ物に対する教えです。祭司の大きな務めの一つに「食べる」ということがあります。「食べることが、なぜ仕事なのか?」と思われるかもしれません。けれどもそうなのです。ここでは、祭司が行っている食べる行為は幕屋の外庭の中においてであり、かつ男だけが食べるものであり、そして「最も聖なるものである」「永遠の分け前である」と神が言われているように、完全に礼拝行為です。
これはちょうど聖餐式と同じです。キリストの肉、そして血を表しているパンとぶどう酒を腹の中に入れることによって、私たちはキリストの裂かれた肉、そして流された血を信仰によって自分のものにしていきます。私たちは頭の中で十字架を理解するだけでは不十分です。それを「食べる」という行為に表れているように、自分のものとして体験していく必要があります。イエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)」と言われました。
そして、これは一般のイスラエル人の穀物の捧げ物で、捧げた残りの物であることに注目してください。祭司は仲介者です。神から受けて、それを人々に分かち合っていく存在です。祭司たちは彼らの代わりに神のものを受けて、そして彼らに神の祝福を宣言していきます。私たちキリスト者も同じです。私たちはキリストにあるものを受け取ります。そして神からの分け前として受け取ったキリストを周囲の人々に分かち合っていくのです。
6:19 ついで主はモーセに告げて仰せられた。6:20 「アロンとその子らが、その油そそがれる日に、主にささげるささげ物は次のとおりである。小麦粉、十分の一エパを常供の穀物のささげ物とする。半分は朝、他の半分は夕方の分である。6:21 それを油でよくこねて平なべの上で作らなければならない。それを、粉々にした焼いた穀物のささげ物として持ってはいらなければならない。主へのなだめのかおりとしてささげなければならない。6:22 さらに、彼の子らのうち、油そそがれて、彼の跡を継ぐ祭司は、このことをしなければならない。永遠の定めによって、それを主のために完全に焼いて煙にしなければならない。6:23 このように、祭司の穀物のささげ物はすべて全焼のささげ物としなければならない。これを食べてはならない。」
一般のイスラエル人ではなく、自分自身が祭司に任命されるときに捧げる穀物の捧げ物についてです。このときは自分自身のためにささげているのですから、自分自身が仲介することはできないので、その穀物を食べてはいけません。
興味深いのは、穀物の捧げ物のうちで、平鍋で焼いたパンを捧げることです。それは焼いた後に粉々にして主に捧げます。祭司の務めを果たすことのできる人は、心が砕かれた人です。私たちが心が砕かれれば砕かれるほど、人々の弱さに同情することができ、神の恵みを分かち合うことができます。
3B 罪のためのいけにえ 24−30
6:24 ついで主はモーセに告げて仰せられた。6:25 「アロンとその子らに告げて言え。罪のためのいけにえに関するおしえは次のとおりである。罪のためのいけにえは、全焼のいけにえがほふられる場所、主の前でほふらなければならない。これは最も聖なるものである。6:26 罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。6:27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。また、その血が少しでも着物の上にはねかかったときには、あなたは、そのはねかかったものを聖なる所で洗わなければならない。6:28 さらにそれを煮た土の器はこわされなければならない。もしそれが青銅の器で煮られたのであれば、その器はすりみがかれ、水で洗われなければならない。6:29 祭司たちのうち、男子はみな、これを食べることができる。これは最も聖なるものである。6:30 しかし、聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。これは火で焼かれなければならない。
罪のためのいけにえを祭司が食べることについての教えです。30節に書いてあるように、祭司自身が犯した罪、またイスラエル会衆全体が犯した罪については、皮、肉などはみな外の灰捨て場で焼かなければいけませんが、一般のイスラエル人が捧げる罪のためのいけにえについては、肉が聖なるものとなっています。
ここで強調されているのは、「主イエス・キリストは罪を負われたけれども、ご自身は聖であられた。」ということです。イエス様の上に全人類のすべての罪が置かれたけれども、この方自身は聖なる方であった、その内に罪の性質はなかったことを表しています。ここはとても大事ですね。主イエスは罪人とみなされましたが、実際は正しい人でした。罪を赦される私たちは、義人とみなされますが、実際は罪人です。義人とみなされることは、義人になることではありません。未だ罪の性質を持っているのです。その性質さえが変えられるのが、栄光の体、新しい体が与えられるときであり、それは主が教会のために戻ってきてくださるときです。
私たちがもっとも聖くなるための方法は、キリストの十字架を、そしてその鞭打たれた肉体を自分のものとすることです。「あなたの罪のために十字架につけられた」ということを、観念的にではなく現実に受け入れることです。
そして血については、それは罪によって汚れたとみなしています。ゆえに、それが服に付着した時には洗わなければいけません。土器は中にしみこんでしまうので、壊さなければいけません。青銅の器はごしごし磨きます。ここには、私たちが罪に触れて、汚れることのないようにという戒めがあります。
4B 罪過のためのいけにえ 1−7
7:1 罪過のためのいけにえのおしえは次のとおりである。これは、最も聖なるものである。7:2 罪過のためのいけにえは、全焼のいけにえをほふる場所で、ほふらなければならない。そして、その血を祭壇の回りに注ぎかけなければならない。7:3 それから取った脂肪を全部、すなわち、あぶら尾と内臓をおおう脂肪、7:4 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなければならない。7:5 祭司は、それらを祭壇の上で主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。これは罪過のためのいけにえである。7:6 祭司たちのうち、男子はみな、それを食べることができる。それを聖なる所で食べなければならない。これは最も聖なるものである。7:7 罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえについてのおしえは一つである。そのいけにえはそれをもって贖いをする祭司のものとなる。
罪過のためのいけにえについて、その捧げる手順について先に書いてありませんでしたが、ここに書いてあります。罪のためのいけにえと同じ手順、ということでした。ただ若干違うのは、血を祭壇の角に塗るという記述がないこと、そして祭壇の基ではなく側面に注ぐことです。
5B 祭司の分け前 8−10
7:8 祭司が、ある人の全焼のいけにえをささげるとき、そのささげた全焼のいけにえの皮はその祭司のものとなる。7:9 さらに、かまどで焼いた穀物のささげ物全部、およびなべや平なべで作られたものはみな、それをささげる祭司のものとなる。7:10 また、穀物のささげ物で油を混ぜたものも、かわいたものもみな、ひとしくアロンの子ら全員のものとなる。
全焼のいけにえは、そのすべてを焼くのですが、けれども皮は祭司のものとなります。そして穀物の捧げ物については、小麦粉のみならず、焼いてパンにしたものも残りは祭司のものとなります。そのまま穀物の粒のままで捧げたものに限っては、それをささげた祭司のものだけではなく、息子や娘含めて全ての人に分け与えられます。
このように祭司は受け取ることがある意味で仕事になっています。それは、彼らが生活の糧を外で得ていないという実際的な理由もありますが、主から受け取っていくことそのものが彼らの務めになっているからです。私たちの務めも同じです。キリストから受け取っていくことがその務めなのです。私も、主から受けたものを分かち合っています。分かち合う前に受け取らなければいけないのです。
6B 和解のいけにえ 11−34
次に和解のいけにえについての教えです。和解のいけにえは、まさに神と人が同じものを食べることによって一つになるという大きな意味がありますから、ここで食べることについて主は教えを垂れておりますので、多くのことを語っておられます。
1C 穀物の添え物 11−14
7:11 主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。7:12 もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。7:13 なお和解のための感謝のいけにえに添えて、種を入れた輪型のパンをささげなさい。7:14 そのうちから、おのおののささげ物の一つを取って、主への奉納物として、ささげなければならない。これは、和解のいけにえの血を注ぎかける祭司のものとなる。
和解のいけにえにおいては、感謝のいけにえと誓願のいけにえがあります。感謝のいけにえは、単純に主が与えてくださったものを喜び、感謝することです。その時には穀物の捧げ物も添えて捧げます。
興味深いのは、ここに「種を入れた輪型のパン」があることです。これは祭壇の上で焼くことはせずに、そのまま祭司が受け取りますが、種なしのパンを捧げなければいけないという教えの中で唯一存在するのです。これは、神との交わりにおいて、それを捧げている人たちが必ずしも完全にされているのではないことを表しています。神はそれを知りつつも受け入れているという現実を表しているのです。
イエス様が天の御国の奥義の例えにおいて、良い麦の畑のところに悪魔が来て毒麦の種を蒔いた話をされました。それが育って、毒麦だと分かったのですが、しもべたちが「私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」と申し出たところ、主人は、「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」と言いました。(マタイ13:24-30)
私たちの交わり、教会には毒麦もあるのだ、ということです。けれども、それが如実に明らかにされないうちに裁いて取り除いてしまってはいけない、ということです。それよりも憐れみによって受け入れていきなさい、ということです。けれども、それは罪を許容しているということではありません。それが明らかにされた時には取り除かなければいけない、ということです。
2C 汚れた肉 15−21
7:15 和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。7:16 もしそのささげ物のいけにえが、誓願あるいは進んでささげるささげ物であるなら、彼がそのいけにえをささげる日に食べなければならない。残った余りを、翌日食べてもさしつかえない。7:17 いけにえの肉の残った余りは三日目に火で焼かなければならない。7:18 もし三日目にその和解のいけにえの肉を食べるようなことがあれば、それは受け入れられず、またそれをささげる人のものとは認められない。これは、汚れたものであり、そのいくらかでも食べる者はその咎を負わなければならない。
冷蔵庫で保存することもできない状態ですぐに食べなければいけないというのは、衛生上も必要なことですが、ここでは儀式的あるいは霊的な側面を話しています。感謝のいけにえは、その日のうちに食べなければいけないというのは、「いつも感謝していなさい」ということです。数日前に起こったことは感謝だけれども、今起こっていることは感謝できない、ということではないのだ、ということです。感謝は貯めておくことができません。その場その場で、自然発生的に心から湧き上がってくるものです。
そして誓願や進んで捧げる物については、二日は取っておいて食べて良いことになっています。これは「私はこれこれのことをします」と言っているのですから、持続性がもとなうからです。昨日そのように決意したことが、今日その延長で行っています。けれども、それも三日坊主ではないけれども、三日目には効力を失います。私たちは主にあって決意したことを、確認して、再度決心していきながら歩んでいかなければいけない、ということです。
7:19 また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。7:20 人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。7:21 また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」
何か汚れたものに触れることによって自分が汚れるという教えは、11章以降に詳しく出てきますが、汚れた状態で和解のいけにえは食べることができません。私たちの主との交わりには、汚れがあってはならないということです。主にある互いの交わりにも汚れがあってはならない、ということです。使徒パウロは、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ5:3)」と勧めました。
3C 脂肪と血の禁食 22−27
7:22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。7:24 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。7:25 すべて、火によるささげ物として主にささげる動物の脂肪を食べる者、これを食べる者は、その民から断ち切られるからである。7:26 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。7:27 どんな血でもこれを食べる者はだれでも、その者はその民から断ち切られる。」
脂肪と血を食べてはならないという強い戒めです。これはすでに3章の和解のいけにえの教えのところで出てきましたね。脂肪については「豊かさ」を表しており、豊かさは神のものであることを表しているからです。ただし、死んだ動物とか、いけにえの動物として使うことのできない獣の脂肪は主に持ってくることはできませんから、それは燃料に使うなど、食べること以外に用いてもよい、ということです。そして「血」については、もちろん「命の尊厳」を表していますから食べてはいけません。
4C 胸と右もも肉 28−34
7:28 ついで主はモーセに告げて仰せられた。7:29 「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを主にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を主のところに持って来なければならない。7:30 その者は、主への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として主に向かって揺り動かしなさい。7:31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。7:32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。7:33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。7:34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」
和解のいけにえのうち、「胸」と「右もも」についての教えです。「胸」は「奉献物」として主にささげなさい、とあります。これは感謝を表しているとされ、「主の前に揺り動かしなさい」とありますが前後に動かすと言われています。そして「右もも」は奉納物になり、それは上下に動かすと言われています。賛美を表すと言われています。「胸」は「アロンのその子」という一般的な表現から、アロンの家族すべてに分け与えられますが、「右もも」はその捧げた人本人が受け取ります。
「胸」は心を表しています。主への感謝の思いを心から言い表す行為です。そして「右もも」は力を表しています。私たちが思いを尽くすだけでなく、力を尽くして主を愛することを意味しています。私たちがここまで来たのはインターネットでロゴス・ミニストリーの音声を聞くだけでなく、体を動かして主に賛美と感謝を言い表したいからですね。心と力で私たちは主と交わるのです。
7B まとめ 35−37
7:35 これは、モーセが彼らを近づけて、祭司として主に仕えさせた日から、アロンとその子らが、主への火によるささげ物のうちから、受ける分であって、7:36 それは、彼らが油そそがれた日から永遠のおきてとして、代々イスラエルの人から取って彼らに与えるよう、主が命じられたものである。7:37 これは、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについてのおしえである。
これは全体のまとめです。35-36節は、6-7章にあった祭司の受け取る分け前のまとめ、そして37章は1-7章にある全体のまとめです。37節に「任職」とありますが、次回の学び8-9章に実際の任職式の話が書かれています。