レビ記8−11章 「聖を現わす主」
アウトライン
1A 祭司の奉仕 8−9
1B 任職式 8
1C 全会衆の集合 1−5
2C 装束の着用と油注ぎ 6−13
3C いけにえ 14−36
1D 贖罪と全焼のいけにえ 14−21
2D 任職の雄羊 22−32
3D 七日の期間 33−36
2B 初めての捧げ物 9
1C モーセの指示 1−7
2C 祭司と民の捧げ物 8−21
3C 主の栄光の火 22−24
2A 異なった火 10
1B アロンの子の焼死 1−7
2B 区別する掟 8−11
3B 燃えつくされるいけにえ 12−20
1C 和解のいけにえの分け前 12−15
2C アロンの悲しみ 16−20
3A 清い動物と汚れた動物 11
1B 陸上 1−8
2B 水中 9−12
3B 鳥 13−19
4B 群生するもの 20−44
1C 昆虫 20−28
2C 腹で這うもの 29−44
5B まとめ 45−47
本文
レビ記8章を開いてください。前回私たちは、いけにえについて学びました。全焼のいけにえから始まり罪のため、罪過のためのいけにえに終わり、そして祭司たちがその分け前に預かることについて読みました。そして幕屋においての、実際の奉仕が始まります。それを執り行うのは祭司です。主は、イスラエルをエジプトから連れ上った時に、「イスラエルが聖なる国民となり、祭司の王国となる」と言われました。祭司の奉仕によって、聖なる神を表します。
もう一度思い出さなければいけませんが、新約聖書では、キリスト者が聖なる国民であり、王なる祭司であると教えています(1ペテロ2:9)。私たちが主に忠実に仕えることによって、世がキリストを知り、神を知ることができるようにしてあるのです。
1A 祭司の奉仕 8−9
1B 任職式 8
1C 全会衆の集合 1−5
8:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。8:2 「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、8:3 また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」8:4
そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。8:5 それで、モーセは会衆に言った。「これは主が、するように命じられたことである。」
主はシナイ山の上でモーセに既に、アロンとその子らの任職式について教えを与えておられました。出エジプト記29章です。6節から読むのは、まさに出エジプト記29章に主が命じられたことを行っているにしか過ぎません。5節に、「これは主が、するように命じられたことである。」とありますね。ここでは、主がイスラエルの全会衆が祭司の任職式に集うように命じておられます。イスラエル人の数は非常に多いので、おそらく代表のイスラエルの長老たちが会見の天幕の入口に近づいているものと思われます。
2C 装束の着用と油注ぎ 6−13
8:6 それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。8:7 そして、モーセはアロンに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着けさせた。すなわち、エポデを帯で締め、あや織りのエポデをその上に着けさせた。8:8 次に、モーセは彼に胸当てを着けさせ、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。8:9 また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。
任職式の始まりは、祭司に装束を着せることです。まず水洗いを行い、それから着せます。同じようにキリスト者は、御霊の水によって、また御言葉の洗いによって清められ、それでイエス・キリストご自身を、自分の義として身に付けます。
8:10 ついで、モーセはそそぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油をそそいだ。こうしてこれらを聖別した。8:11 さらにそれを祭壇の上に七たび振りかけ、祭壇とその用具全部、また洗盤とその台に油をそそいで、これらを聖別した。8:12 また、そそぎの油をアロンの頭にそそぎ、油をそそいでアロンを聖別した。8:13 次に、モーセはアロンの子らを近づかせ、彼らに長服を着せ、飾り帯を締めさせ、彼らにターバンを巻きつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。
油を、幕屋のあらゆる用具に注ぎ、さらに祭司自身にも注ぎます。これは「聖別」するためである、とありますが、用具と祭司がただ神だけのものとなり、この世にあるものと別たれるためです。彼らが油注がれるのと同じように、私たちは聖霊の油注ぎを受けました。聖い御霊によって、私たちはこの世にいながら、この世に属する者ではなくなり、神に属する者となりました。あらゆるところに油を注いだように、私たちも生活のあらゆる場面で聖霊に満たされるように命じられています。
3C いけにえ 14−36
次にいけにえを捧げます。
1D 贖罪と全焼のいけにえ 14−21
8:14 ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。8:15 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。8:16 モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。8:17 しかし、その雄牛、すなわちその皮とその肉とその汚物は、宿営の外で火で焼いた。主がモーセに命じられたとおりである。
まずは、自分自身の罪のためのいけにえを捧げます。なぜなら、祭司は人の弱さを思いやる奉仕に預かっているからです。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。(ヘブル5:2)」私たちが互いに仕える時に、まず「自分が罪人であり、弱い存在なのだ」と認め、それで相手を思いやりながら仕えるのです。
8:18 次に、彼は全焼のいけにえの雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。8:19 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を祭壇の回りに注ぎかけた。8:20 さらに、その雄羊を部分に切り分け、モーセはその頭とその切り分けたものと内臓の脂肪を焼いて煙にした。8:21 それから、その内臓と足を水で洗い、モーセはその雄羊全部を祭壇の上で焼いて煙にした。これはなだめのかおりとしての全焼のいけにえで、主への火によるささげ物であった。主がモーセに命じられたとおりである。
全焼のいけにえ、です。主に自分自身をすべてお捧げします。
ところで、モーセが全会衆に、「これは主が、するように命じられたことである。(5節)」と前もって言ったように、一つ一つの儀式を終える毎に「主がモーセに命じられたことである」とあります。9節、13節、17節、そして21節にありました。これから任職の雄羊のいけにえを見ますが、29節にもあり、そして最後の36節には、「主がモーセを通して命じられたことを残らず行なった。」とあります。私たちキリスト者が行う祭司としての務めは、「主が命じられたことを行なう」ことです。聖書にある命令をただ行なうことだけに目を留めればよいのです。他の人間がつくった哲学であるとか、教会の中に吹き込む教えの風にふりまわされることなく、主が命じられるところに留まります。
2D 任職の雄羊 22−32
8:22 次に、彼はもう一頭の雄羊、すなわち任職の雄羊を連れ出した。アロンとその子らはその雄羊の頭の上に手を置いた。8:23 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。8:24 さらに、モーセはアロンの子らを近づかせ、その血を彼らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗り、モーセはその血の残りを祭壇の回りに注ぎかけた。8:25 それから彼はその脂肪、すなわちあぶら尾、それと内臓の上の脂肪全部、また肝臓の小葉、および二つの腎臓とその脂肪、それからその右のももを取った。
任職の雄羊は、和解のいけにえに似ていますが、任職式のおいてのみ行うことは、ここにある血を右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗ることです。神の御声を聞くこと、自分が動かす手、そして自分が進む道がみな血によって清められることを表しています。
8:26 それにまた、主の前にある種を入れないパンのかごから、種を入れない輪型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個とを取り、それをその脂肪と右のももの上に置いた。8:27 それから、彼は、その全部をアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主に向かって揺り動かした。8:28 ついで、モーセはそれらを彼らの手のひらから取り、祭壇の上で、全焼のいけにえとともにそれを焼いて煙にした。これらは、なだめのかおりとしての任職のいけにえであり、主への火によるささげ物である。
一般のイスラエル人のための和解のいけにえは、胸と右ももは祭司のものとなります。けれども、任職式では右ももは、穀物の捧げ物と共に祭壇の火の中に捧げます。そして、これらを主は宥めの香りとして受け入れてくださっていますが、祭司は主と楽しく交わることがその務めの一つです。私たちが神との平和の中で、神に感謝して、賛美を捧げること自体が、大きな務めであります。
8:29 モーセはまた、その胸を取り、奉献物として主に向かって揺り動かした。これは任職のいけにえの雄羊のうちからモーセの分となるもので、主がモーセに命じられたとおりである。8:30 それから、モーセはそそぎの油と、祭壇の上の血を取り、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束の上に振りかけて、アロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束を聖別した。8:31 そして、モーセはまた、アロンとその子らに言った。「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。そしてそこで、それを任職のかごにあるパンといっしょに食べなさい。私が、アロンとその子らはそれを食べよと言って命じたとおりに。8:32 しかし、肉やパンの残りは火で焼かなければならない。
胸肉は煮て食べます。そしてパンの残りもいっしょに食べます。食べることによって、神と交わるためです。その他、これらいけにえを捧げた後の祭壇にある油と血を祭司の装束に振り掛けます。清められた祭壇にある血と油を祭司にもあてがうのです。聖霊に満たされることと、キリストの血を受けることを意味しています。
3D 七日の期間 33−36
8:33 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。8:34 きょうしたことは、あなたがたの贖いをするように主が命じられたとおりである。8:35 あなたがたは会見の天幕の入口の所で、七日の間、昼も夜もとどまり、主の戒めを守らなければならない。死なないためである。私はそのように命じられたのである。」8:36 こうしてアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことを残らず行なった。
任職式は七日間続きます。出エジプト記29章によると、その間、罪のためのいけにえを一日ごとに捧げます。その他、祭壇を清めるためのいけにえも捧げます。
そして、すばらしい言葉は36節、「こうしてアロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたことを残らず行なった。」です。これまではモーセが主体的に主の命令に従っていましたが、今、主語がアロンとその子らになっています。祭司が主の命令にしたがいました。
2B 初めての捧げ物 9
1C モーセの指示 1−7
9:1 それから、八日目になって、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、9:2 アロンに言った。「あなたは、子牛、すなわち、若い牛を罪のためのいけにえとして、雄羊を全焼のいけにえとして、それもまた傷のないものを取って、主の前にささげなさい。9:3 あなたはまた、イスラエル人に告げて言わなければならない。あなたがたは、雄やぎを罪のためのいけにえとして、また、一歳の傷のない子牛と子羊とを全焼のいけにえとして取りなさい。9:4 また主へのいけにえとして、和解のいけにえのための雄牛と雄羊を、また、油を混ぜた穀物のささげ物を、取りなさい。それは、きょう主があなたがたに現われるからである。」
一週間の祭司の任職式が終わり、その翌日初めての祭司の務めを執り行うことになります。初めに、祭司たちのための罪のためのいけにえと全焼のいけにえを捧げます。次に、イスラエル人が罪のためのいけにえと、全焼のいけにえを捧げます。
9:5 そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に持って来て、全会衆が近づき、主の前に立った。9:6 モーセは言った。「これは、あなたがたが行なうように主が命じられたことである。こうして主の栄光があなたがたに現われるためである。」9:7 それから、モーセはアロンに言った。「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげ、あなた自身のため、またこの民のために贖いをしなさい。また民のささげ物をささげ、主が命じられたとおりに、彼らのために贖いをしなさい。」
4節そして6節に、これらの捧げ物を行なう目的をモーセが言っています。「主の栄光があなたがたに現れるためである」です。出エジプト記40章にて、幕屋を建てたときに主の栄光の雲が満ちてモーセが入れなくなるほどでしたね。そして今、イスラエルの全会衆がその栄光にあずかることができるようにしています。
幕屋が建てられた目的は、主の栄光に預かることです。偶像礼拝を主が忌み嫌われる理由は、神の栄光を見えなくさせるためです。ローマ1章に被造物に現れている神の栄光を述べた後に、使徒パウロはこう言っています。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(ローマ1:21-23)」神と神としてあがめないことは、仏像や神棚の前で行なっていることだけでなく、むしろ天地万物の神を認めることなく、この世を生きている人間の思いそのものであります。
2C 祭司と民の捧げ物 8−21
9:8 そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。9:9 アロンの子らは、その血を彼に差し出し、彼は指をその血に浸し、祭壇の角に塗った。彼はその血を祭壇の土台に注いだ。9:10 彼は罪のためのいけにえからの脂肪と腎臓と肝臓の小葉を祭壇の上で焼いて煙にした。主がモーセに命じられたとおりである。9:11 しかし、その肉と、その皮は宿営の外で火で焼いた。
アロンたちが自分自身の罪のためのいけにを捧げています。レビ記4章には、祭司が罪を犯した時には聖所の香壇の角に血を塗るとありましたが、初めの捧げ物では一般のイスラエル人に対するのと同じように祭壇の角に塗っています。そして祭司が犯す罪のためのいけにえは、脂肪や内臓の一部を祭壇の上で焼きますが、肉や皮は宿営の外に捨てます。
ここで再び、主語が「アロン」また「アロンの子」となっていることに気づいてください。これまではモーセがいけにえを捧げ、その他の奉仕を行なっていましたが、今は祭司らが行なっています。
9:12 それから、アロンは全焼のいけにえをほふり、アロンの子らが、その血を彼に渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。9:13 また、彼らが全焼のいけにえの部分に切り分けたものとその頭とを彼に渡すと、彼はそれらを祭壇の上で焼いて煙にした。9:14 それから、内臓と足を洗い、全焼のいけにえといっしょにこれを祭壇の上で焼いて煙にした。
全焼のいけにえは、その言葉通り体の全てを焼きます。これは、自分を捧げるためのいけにえです。
9:15 次に、彼は民のささげ物をささげ、民のための罪のためのいけにえとしてやぎを取り、ほふって、先のと同様に、これを罪のためのいけにえとした。9:16 それから、彼は全焼のいけにえをささげ、規定のとおりにそうした。9:17 次に、彼は穀物のささげ物をささげ、そのうちのいくらかを手のひらいっぱいに取り、朝の全焼のいけにえと別に、祭壇の上で焼いて煙にした。
祭司のいけにえを捧げた後に、民のためのいけにえを捧げています。祭司が率先して行い、民が付いてきます。これが正しい順序です。霊的奉仕者が自らを捧げることなくして、どうしてその教えに一般の人たちが付いてくることができるでしょうか?牧者が信仰の模範となることなしに、どうして信徒に教えることができるのでしょうか。同じように、キリスト者が神の愛を実践することなしに、どうして未信者の人が自分の伝えている福音を知ることができるのでしょうか。
9:18 ついで、彼は民のための和解のいけにえの牛と雄羊とをほふり、アロンの子らがその血を渡すと、彼はそれを祭壇の回りに注ぎかけた。9:19 その牛と雄羊の脂肪の部分、すなわちあぶら尾、内臓をおおう脂肪、腎臓、肝臓の小葉、9:20 これらの脂肪を彼らが胸の上に置くと、彼はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にした。9:21 しかし、胸と右のももは、アロンが、モーセの命じたとおりに奉献物として主に向かって揺り動かした。
罪のためのいけにえ、全焼のいけにえの次に、和解のいけにえを捧げました。罪の告白、身を捧げる決意の後にあるのは、親しい神との交わりです。和解のいけにえは「平和のいけにえ」とも、「交わりのいけにえ」とも訳すことができます。私たちも罪を言い表し、主に再び身を捧げ、そうすれば主にある平安を楽しむことができます。
3C 主の栄光の火 22−24
9:22 それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。9:23 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、9:24 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。
すばらしい光景です。アロンはいけにえをささげた後に民を祝福しました。この言葉によって、神の祝福をイスラエルが意識し、事実その祝福の中に歩むことができるようにするためです。民数記6章最後に書いてある言葉に類似したものを宣言したのでしょう。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。(24-26節)」
そして再びモーセと共に会見の天幕に入りました。垂れ幕の香壇のところで、主に祈りを捧げたに違いありません。その親しい交わりを持った後で再び民を祝福すると、主の栄光が民全体に現れました。以前、モーセの顔が輝きましたが、ここでは火をもって主の栄光が現れました。主は全焼のいけにえについて、宥めの香りと呼ばれましたが、それを快く受け入れてくださいます。それが火で焼き尽くすことによって、主が全面的に彼らを受け入れたことを意思表示されました。
民は、畏れつつも、喜んでいたことでしょう。「これを見て、叫び、ひれ伏した。」とあります。詩篇2篇11節に「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」とあります。「私たちの神は焼く尽くす火です。(ヘブル12:29)」とあるように、私たちは主に対する喜び共に畏敬をもって臨むのです。私たちの集まりに、愛と共に「聖さ」がなければいけません。新しく来る人々が、教会の中で神の慈愛と共に、その聖さに触れて罪が示されて、悔い改めに導かれるようにしなければなりません。神の愛は聖なる愛です。
2A 異なった火 10
そして主の栄光がこのようにはっきりと現れた時に、突如として悲しい出来事が起こるのです。
1B アロンの子の焼死 1−7
10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。10:2 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。10:3 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。
アロンの長男と次男が、祭壇のいけにえを焼き尽くした同じ主からの火によって焼き尽くされてしまいました。これから主への礼拝が始まるというのに、初めから頓挫してしまいました。
なぜこのような厳しい処置を神が行われたのか?これまで「主が命じられたことを行なった」とある中で、ここでは二人が勝手に、自分の火皿を取って、自分で火を入れて、香を持って聖所の中に入っていったのが分かります。レビ記16章によれば、祭壇にある火から聖所に持っていかなければいけません。そしてそれを行なうのは、大祭司のアロンのみです。さらに大祭司は、年に贖罪日の一度だけそこに入ることができます。さらに、彼らは垂れ幕を開いて、至聖所にまで入った可能性がレビ記16章1節を読むと分かります。
私たちは専ら、主が命じられたことを行っていくのです。もしそれから離れた形で、自ら火を作り出すようなことをするものなら、それは擬似礼拝であり、主への礼拝ではありません。私たちは心にどんな火を持っているでしょうか?他の人によく思われたいと思っているでしょうか?他のクリスチャンがこのように振舞っているから、私も同じように振舞っていかなければいけない、と思っているでしょうか?私たちが心に持っているべき唯一の火は、キリストの愛です。神の御言葉を聞いて、それで心が燃やされて、熱心に主に仕えていきたいという御霊の思いです。キリストを愛するがゆえに、キリストの命令に従っていきたいという純粋な思いのみです。
二人がそのようなことを行なったのは、往々にして「自慢」であったと思います。父アロンと共に、いけにえを捧げる奉仕と特権に預かっていました。そして、自分たちの目の前で主の火がいけにえを焼き尽くしました。この大きな光景をみて、これを自分たちがやったのだと誇りたかったのでしょう。ですから彼らは、主のみが受け取るべき栄光を自分たちのものにしようとした、と言えます。神が現わしてくださった麗しい御霊の業を、あたかも自分自身の手柄のように考えていくことが、栄光を自分のものにすることです。
10:4 モーセはアロンのおじウジエルの子ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せ、彼らに言った。「進み出て、あなたがたの身内の者たちを聖所の前から宿営の外に運び出しなさい。」10:5 彼らは進み出て、モーセが言ったように、彼らの長服をつかんで彼らを宿営の外に運び出した。10:6 次に、モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆に下らないためである。しかし、あなたがたの身内の者、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。10:7 またあなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。」それで、彼らはモーセのことばどおりにした。
モーセは主の命令をすぐさま思い出しつつ、すみやかに指示を出しました。死んでしまったアロンの息子の二人を、大祭司アロン本人また三男、四男のエルアザルまたイタマルが触れることはできません。後に学びますが、死体に触れることは汚れるからです。また普通、当時のユダヤ人たちが葬儀の時に行なうように、嘆き悲しむために衣を裂いてもいけません。この祭司についての詳しい規定については、レビ記21章に書かれています。
そしてその装束を着たままで幕屋から出て行ってはいけない、「主の注ぎの油があるからだ」とあります。彼らはどんなときにも主の聖なる姿を表さなければいけなかったからです。私たちも同じように、イエス・キリストの証人として、キリストのうちにしっかり踏みとどまっていけなければいけません。例え、自分の感情はキリストの思いから離れたいと思っても、キリストのところに戻ってこなければいけません。
2B 区別する掟 8−11
10:8 それから、主はアロンに告げて仰せられた。10:9 「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。10:10 それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、10:11 また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」
そして主がモーセではなく、アロンに直接語っておられます。おそらくアロンのみが、ナダブとアビフが酒に多少酔っていたことを知っていたのでしょう。彼らは酒の酔いのために判断力が鈍って、主が命じたのではない異なった火を捧げたと考えられます。
エペソ5章にあるように、酒に酔いしれるのではなく、御霊に満たされる必要があります。酒は私たちの判断力を鈍らせますが、聖霊は鈍っている私たちの分別力に光を当てます。ここで主はアロンに、「聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別する」と仰せられています。これは御霊によって与えられる分別力です。私たちはこれから、11章から15章までに清いものと汚れたものの区別を神が行われる部分を読んでいきます。私たちは神の御言葉に従いつつ、主が御霊によって与えられる識別力を身につけることができます。
3B 燃えつくされるいけにえ 12−20
1C 和解のいけにえの分け前 12−15
10:12 そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。「主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。10:13 それを聖なる所で食べなさい。それは、主への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。10:14 しかし、奉献物の胸と、奉納物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。10:15 人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として主に向かって揺り動かさなければならない。これは主が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。」
モーセは、9章で中断していた和解のいけにえの儀式の続きをアロンとその子らに指示しています。和解のいけにえを捧げて、その胸肉と右のももを祭司が受け取って、それを食べる必要があります。
2C アロンの悲しみ 16−20
10:16 モーセは罪のためのいけにえのやぎをけんめいに捜した。しかし、もう、焼かれてしまっていた。すると、モーセはアロンの子で生き残ったエルアザルとイタマルに怒って言った。10:17 「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。10:18 その血は、聖所の中に携え入れられなかったではないか。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べなければならなかったのだ。」
先ほど民が捧げた罪のためのいけにえです。これも、その肉は祭司たちが聖なる所で食べることになっています。ところが祭壇に置いたまま、燃え尽きてしまいました。それで、再び主が命じられたことを行なわなかったので、モーセは再びアロンとその家族が火で燃やされるのではないかという懼れをもって、彼らに強く迫っています。
10:19 そこで、アロンはモーセに告げた。「ああ、きょう彼らがその罪のためのいけにえ、全焼のいけにえを、主の前にささげました。それでこういうことが私の身にふりかかったのです。もしきょう私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか。」10:20 モーセはこれを聞き、それでよいとした。
アロンは、彼らが罪のためのいけにえを捧げて、それで二人が罪を行なったのだから、自分たちがその儀式に参加することは御心にかなっていることなのか、と説いています。もし私が、例えば説教をすることによって、何らかの形で言葉による罪を犯したのであれば、すぐに再び説教をしてよいか?ということです。その罪を悲しむ期間が必要で、説教壇から降りなければいけない、と言っているのと同じです。
ただ儀式を行なうのが良いのではなく、心の入っている儀式のみが主に認められます。アロンの言葉は、後に預言者ミカが語ったことを表しています。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:6-8)」
3A 清い動物と汚れた動物 11
そして11章に入ります。ここから15章まで、生活の様々な面における「清さと汚れ」について見ていきます。11章は、食べることのできる清い動物と、汚れている動物の区別です。12章には女の出産時の出血について、13-14章にはらい病について、15章には漏出する体液についての汚れです。そして16章で主は、ナダブとアブヒが犯した過ちに戻られて、アロンが行なうべき贖罪日におけるいけにえの教えを与えられます。
動物の区別については、実は創世記7章にて、主がノアに対して、箱舟にはいる動物の中で、清い動物と清くない動物を雄雌七つがいずつを取りなさい、という命令を行なわれています(2-3節)。それを主は今、モーセとアロンにはっきりとイスラエルの食生活の中でその区別をお見せになります。
この箇所が、私たちに何の関係があるのか?ともしかしたら思われているかもしれません。読み進めれば豚は汚れていることが分かりますし、イカやタコ、貝も駄目です。私たち日本人は多くの寿司を食べることができなくなるでしょう。まずその質問に対しては、「大いにある」と言うべきでしょう。新約聖書で「きよい」と「汚れ」という内容は数多く出てくるからです。私たちがこの世で生きていながら、この世の価値観と妥協することなく、自分が聖なる民として生きなさいという命令が与えられています。コリント第二6章14節から7章1節までお読みしたいと思います。
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
そして私たちが「食べる」という非常に日常的な生活の場面において、そこでも主の栄光を現さなければいけないことを使徒パウロは教えています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31)」
けれども、私たちがこれらの食物規定を守るべきかどうかは、新約時代の教会として「いいえ」とはっきりと言えます。イエス様は、すべての食物をきよいとされましたが、こう言われました。「「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。(マルコ7:18-19)」パウロは、コロサイ書2章17節には、食べ物については「次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」と言いました。ですから、教会はこれらの食物規定を守る義務はないのです。
イエス様は、食べ物は厠に出されてしまうことを述べた後で、汚れは内側から来ると言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23)」いかがでしょうか、汚れは私たちに非常に身近な問題です。目の前にある心の問題です。
したがって私たちがこれから読む箇所は、私たちの霊的生活の聖さを表している影のようなもの、目で見える形で「清い」とは何を表しているかを教えている箇所であります。ある人たちは、11章から15章までの律法は、衛生を考えていると言います。例えば豚は汚れていますが、豚を冷蔵する器具がない時代では、その中にある寄生虫を考えてのことだ、と言います。そのような面はあるでしょう。けれども、一義的には霊的な側面を映し出す教材と言えます。
1B 陸上 1−8
11:1 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。11:5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。11:6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。11:7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。
初めの分類は「陸上の動物」です。神が六日目に創造された被造物ですね。ここで清さと汚れの区別を決めるのは、「蹄が完全に分かれている」ことと「反芻をする」ことです。どちらかが抜けていても汚れています。
「らくだ」は中東にあるありふれた動物で、私たちがエジプト旅行をしたときガイドがエジプト人はらくだを食べることを聞きましたが、ユダヤ人は食べません。ところで、ユダヤ人は今でも、特にイスラエルにおいては「コーシャ」と呼ばれる食物規定を守っています。イエス様がパリサイ人に、「あなたは、ぶよをこして除くが、らくだはのみこんでいます。(マタイ23:24)」と言われたとき、ものすごい皮肉であったことがここから分かります。
そして「岩だぬき」と「野うさぎ」ですが、厳密にはどちらも反芻しません。けれども、その草を一生懸命、むしゃむしゃ食べている姿は反芻している姿と似ています。レビ記において大事なのは、「目で見て、どのような姿をしているか」であるようです。それから「豚」は、ユダヤ人のみならずイスラム教徒にも忌み嫌われています。反芻しないどころか、餌を食べあさる姿が特徴的です。イエス様が、悪霊レギオンを豚の群れの中に移されましたが、人々は、不法なビジネスを行なっていたことがここから分かります。
そして他の動物にも共通しているのが、「死体を食べても、また触れてもいけない」という戒めです。
2B 水中 9−12
11:9 水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。11:10 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。11:11 これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。11:12 水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
主が五日目に造られた水中の生き物についてです。ここでの清さの区別は、「鰭と鱗」を持っているかどうかです。いわゆる「魚」と私たちが呼んでいるものは清いです。新約聖書では、弟子たちは漁師で、イエス様は復活後も弟子たちと共に魚とパンを食されました。
けれども、鰭や鱗のないもの、つまりイカやタコ、貝、ウナギなどはみな汚れているとみなされます。お寿司の多くは食べられませんね。イエス様は地引き網のたとえを語られましたが、こう言われました。「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。(マタイ13:47-48)」ここの「良いものを器に入れ、悪いものを捨てる」のは、食物規定によります。イスラエル人の漁師は、ひれとうろこのあるものを器に入れ、ひれとうろこのないものを捨てました。
3B 鳥 13−19
11:13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、11:14 とび、はやぶさの類、11:15 烏の類全部、11:16 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、11:17 ふくろう、う、みみずく、11:18 白ふくろう、ペリカン、野がん、11:19 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。
同じく五日目に造られた空の生き物です。ここでは主に「猛禽類」が汚れたものとみなされます。肉を血のついたまま食べるその姿が汚れている、とみなされているようです。その他の例えば「鳩」は、ノアが箱舟から飛ばしたし、いけにえにも用いられていて、清い動物であります。
4B 群生するもの 20−44
1C 昆虫 20−28
11:20 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。11:21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。11:22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。11:23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。
ここは昆虫です。基本的に汚れているのですが、興味深いことに「はね足で地上を飛び跳ねるのは、清い」と判断されています。ばった類ですね。バプテスマのヨハネはこれを食べていました。
ここまでざっと見て、私の観察では一つの原則を見つけました。それは、「地上あるいは外界に密着しているものは汚れたものとみなされている。」ということです。
陸上の動物では、「蹄が完全に分かれている」姿は地上の上を歩いているけれども、実際の足は地面に面していない姿を見ます。蹄が分かれていないと、そのまま足が地面に接しているように見えます。実際は接していないのですが、ここで大事なのは見た目です。後で猫のように、足の裏のふくらみで歩く動物も汚れているとされていますが、その場合は完全に地面に接しています。そして「反芻」している姿は、外界にあるものを取り寄せるのですが、そのまま飲み込むのではなく、噛み分けていく姿を表しています。反芻しなければ、そのまま外にあるものを取り入れています。
新約聖書の中で、天に属するものと、地に属するものの違いを述べています。パウロは、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2)」と言いました。天にあるものとは、神の右の座におられるキリストのことであり、そして地上にあるものとは、「不品行、汚れ、情欲、そしてむさぼり」と言っています(5節)。
そしてヤコブ書でも、こうヤコブが言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:14-17)」上にあるものは純真、平和、寛容、温順だけれども、ねたみや争い、邪悪な行いは地に属している、と言っています。
したがって、地上にいるようでそこには接していない姿は、「この世で生きているけれども、この世から離れている姿」に見立てることができます。反芻すうことも、この世から受ける情報をそのまま受け入れるのではなく、熟慮して良いものを見分ける姿に似ています。
同じように水中動物を考えてください。鰭と鱗のある魚は、基本的に水中で生きています。けれども、その二つを持っていない生き物は海底であったり、穴の中であったり、地面に接しているところに生きていることが多いです。さらに鱗があれば自分の体は直接、外界に接していませんが、なければ接しています。
鳥類については、猛禽類は血のついた肉をそのまま食べることになります。血を食べてはならないとする神の命令に違反する姿です。また、見た目にも肉の行いをしている姿です。
そして昆虫については、地面を這っている四つ足の生き物とは異なり、はね足のあるものは空中に飛ぶことによって地面から離れる時があります。ここにも、「地上のものに軽く接しているが、決して密着しない。」という原則があります。
私たちは、この世で生きている限り、この世の汚れに触れざるを得ません。避けることのできないものです。けれども、その汚れに接するときに、交わることもできれば離れることもできます。ルターは、「鳥が私の頭の上を飛ぶのは防げないが、鳥が私の頭に巣を作るのは防ぐことが出来る。」と言ったそうです。世から入ってくるものは避けられないが、そこに自分を留まらせることをしないことはできます。世とは軽く接していくのであり、深入りしてはいけない、ということです。
11:24 次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。11:25 また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。11:26 ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていないか、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。11:27 また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。11:28 これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れたものである。
ここでは「死体に触れる」ことについての強い戒めです。死体は、「罪から来る報酬」を示しています。死は罪によって入ってきました。ですから、罪を避けなければいけないという教えです。ただ、「夕方まで汚れる」という期限があります。これは、日々私たちは洗いによる清めを行っていかなければいけない、ということです。この世における生活で、一日のうちに汚れたものをその日のうちに、神のみことばで清めていただく必要があります。
ところで士師サムソンは、死んだ獅子の中にある蜜を食べました。彼は、まさにここの戒めに違反していました。汚れに近づき、そしてついに実際の罪にも近づいてしまった人です。
2C 腹で這うもの 29−44
11:29 地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、11:30 やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。11:31 すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。
地に這うものは、まさしく地に属する存在を示しており汚れています。もぐらは、地上どころか地中にも入りますね。聖書では地の下に陰府があるとしています。
そして次に、これら爬虫類は私たちの生活の中に突然入り込む場合について話しています。
11:32 また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。11:33 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。11:34 また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。11:35 さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。
天井にいたイモリが死んで、突然、台所に落ちてきた、なんていう場合は十分ありえることです。そのときは、細心の注意を払って触れたものは砕くか、割らなければいけません。このように、私たちは不意に自分たちの中に罪が入ってくることがあるかもしれません。それを面倒くさいと思って、清めたり、取り除いたりしなければ、汚れが広まっていくのだよ、ということです。
11:36 しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。
興味深いですね、泉は次々と新しい水を湧き出します。イエス様は、ご自分の与える水は、私たちのうちで泉となり、永遠のいのちに至る水をもたらすと言われました。私たちが汚れに打ち勝つには、常にイエス様の命にあずかっている必要があります。汚れから離れるのは、主との命ある交わりが最大の清めです。罪を犯しているときは、その罪に対する弱さ以上に、交わりが希薄になっていることが原因です。
11:37 また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。11:38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。
興味深いですね、種の中に水が入ったその姿が汚れているとみなされています。
11:39 あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。11:40 その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
清いとされている動物であっても、それを死んだ後に食べるのならば汚れます。
11:41 また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。11:42 地に群生するもののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。11:43 あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。11:44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。
主は何度も、地に群生するもの、地に這うものに対する警告を発しておられます。決して食べてはならない、と言っています。その理由は、「わたしはあなたがたの神、主であるからだ」そして「あなたがたは聖別し、聖なる者となりなさい」であります。
5B まとめ 45−47
11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」11:46 以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、11:47 それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。
ここに、レビ記の主題となる大切な言葉があります。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」です。生活のこのような細部に至るまで、主は清いもの、汚れたものを区別されたように、私たちの生活の細部に至るまで、神の聖さを表すように私たちは召されています。アロンの兄息子二人のように、ちょこっと自分の栄光を求めてみよう、ではいけないのです。ペテロがここの箇所を引用して、こう勧めています。「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。(1ペテロ1:14-16)」あらゆる行ないにおいて、とあります。どうかこの呼びかけに、神からの呼びかけに応えてみましょう。