マラキ書1−4章 「形だけの礼拝」

アウトライン

1A 御恵みを疎かにする者 1
   1B ヤコブへの愛 1−5
   2B 祭壇の蔑み 6−14
2A 契約を破る者 2
   1B レビとの契約 1−9
   2B 離婚 10−17
3A 主を恐れない者 3
   1B 主の使者の到来 1−6
   2B 什一献金の祝福 7−12
   3B 主を恐れる者の会話 13−18
4A 主の恐ろしい日

本文

 マラキ書を開いてください、ついに私たちは旧約聖書の最後の書物に来ました。今日の説教題は「形だけの礼拝」です。

 時は、ハガイとゼカリヤが預言をした約100年後です。エルサレムに帰還したユダヤ人が、神殿を再建させてから、しばらくの月日が流れています。歴史的には、ちょうどネヘミヤがペルシヤのユダヤ州の総督であった時です。およそ紀元前400年頃にマラキが預言をしたと思われます。そして、バプテスマのヨハネが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(マタイ3:2」と預言をする時まで、イスラエルには神の言葉が与えられない沈黙の期間に入ります。

 私たちは、ハガイ書とゼカリヤ書で、神殿を再建させていたユダヤ人たちが、主からの慰めの幻を見たことを学びました。彼らは、その神殿が、王である祭司であるキリストの国を指し示すことになることを知りました。そのような大きな幻を受けて、当時の彼らは情熱に燃えていたことでしょう。

 けれども、その情熱も長くは続きませんでした。再建後にエズラがエルサレムを訪れた時に、既に外国人と結婚しているイスラエル人が、しかも祭司の子らの中にもいて、彼が愕然としているのをエズラ記で読みます。そしてネヘミヤがエルサレムの城壁の再建を終えて、ペルシヤの王のもとに戻り、そして32年後にエルサレムに戻ってきたところ、大変なことが起こっていました。十一の捧げ物が滞って、レビ人が自分たちの家に戻っていたり、安息日に商売をしている人たちがいたり、そして外国の女を妻にしている者たちがいました。この時の状況が、マラキ書の背後にはあります。形としては礼拝を行なっていますが、心が神から離れている状態です。

 マラキ書において特徴的なのは、本人たちが、心が神から離れていることに気づいていなかったことです。何度も、「どのように」という疑問詞が出てきます。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。」「どのようにして、私たちは(主に)帰ろうか。」等です。主によって、自分たちの欠けたところを指摘されて、「え?どのように欠けているのですか?」と問う位、自分の霊的状態が悪くなっていることに気づいていなかったのです。

 これは、私たちが常日頃から注意していなければいけないことです。自分は主に仕えていると思いながら、実は、それが心からのものではなく、表面的なものになっていきます。ユダヤ人だけでなく、教会に対しても主イエスは、「あなたがたには非難すべきことがある。」という言葉を、ご自分が復活されてから60年ぐらいしか経っていない教会に対して語られたのです。

1A 御恵みを疎かにする者 1
1B ヤコブへの愛 1−5
1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。

 「マラキ」という名前は「わたしの使者」です。後で、預言の中にその名前が出てきます。

1:2 「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。・・主の御告げ。・・わたしはヤコブを愛した。1:3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」1:4 たといエドムが、「私たちは打ち砕かれた。だが、廃墟を建て直そう。」と言っても、万軍の主はこう仰せられる。「彼らは建てるが、わたしは打ちこわす。彼らは、悪の国と言われ、主のとこしえにのろう民と呼ばれる。」1:5 あなたがたの目はこれを見て言おう。「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ。」と。

 主が初めに語られた叱責の言葉は、後に出てくる全ての問題の根源になっています。それは、「自分たちが主から愛されているという確信が薄まった」ということです。神が自分を愛しておられるという認識が薄まると、礼拝におけるあらゆる領域に悪影響を及ぼします。

 私が久しぶりに、知り合いの牧師にメールを出した時のことを思い出します。そして暖かい言葉の返信がありました。その中の一つが、「君に覚えてもらいたいことがある。イエス様は君を愛しておられるよ。」でした(実際は英語で書いてあります)。私は、はっとしました。「何をいまさら。」という気持ちが初めに心をよぎったからです。ここのユダヤ人と同じ反応をしてしまいました。

 「何をいまさら」「どうして、そんなことをいまさら言うのですか。」と思う時、実は、主に愛されているという思いが、世にあるもろもろの思い煩いによってかき消されていることがあるのです。ある時は、生活の忙しさがあるでしょう。またある時は、試練に遭って、頭では主が愛しておられることは分かっていますが、心のどこかで「いや、愛しておられるならこんなことを起こすようにされないだろう。」と思っています。また、世の中における楽しみが多くなって、「神に愛されていると言われても、神は目に見えない方だし、あまり感じることができない。」と感じているかもしれません。けれども、自分は信仰者ですから、礼拝は守らなければいけないとは思っているのです。

 主は、ご自分がイスラエル人を愛されている証拠として、「わたしはヤコブを愛した。」と言われます。神が一方的にヤコブを愛された、その憐れみに、神が確かに彼らを愛しておられることの表れがあります。

 神の選びというのは、私たちの行ないとは関係ないものです。アブラハムもイサクも、その行ないだけを見れば、神から見捨てられてもおかしくない過ちを犯していますが、神は一切彼らを咎められず、むしろ祝福し、恵みを与えてくださいました。その選びが最も明らかな形で行なわれたのが、ヤコブです。先に母の胎から出てきたのはエサウなのに、弟のヤコブが生まれる前から、神の約束の相続者として選ばれていました。

 そして、ヤコブの人生はお世辞にも正しいとは言えませんでした。アブラハムとイサク以上の過ちを犯しました。けれども、やはり神はヤコブを決して咎めることなく、むしろ彼を祝福し、ご自分を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んで憚らなかったのです。

 この一方的な憐れみと愛があります。そして、その憐れみを与えられなかったエサウがいます。「わたしはエサウを憎み」という言葉は、憎たらしいという感情のことではありません。「エサウではなくあえてヤコブを愛する」という、堅い意志を表しています。イエス様が、「「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26」と言われた時の「憎む」と同じ用法です。

 本来なら、ヤコブの子孫もエドム人と同じように、その行ないに従えば、イスラエルの地が荒廃し、永久に廃墟と定められてもおかしくなかったのです。けれども神はあえて、彼らをそうしないと決められました。一度、憐れむとお決めになられた者を途中で捨て置くことは決してなさらないのです。マラキの時代のユダヤ人は、すでにエドムの地が、ここに書いてあるように廃墟となっているのを見ました。バビロンが攻めてきて、また後にナバテヤ人がやって来ます。イスラエルの地は、ユダヤ人が散らされても再び集まって定住することができたのに、エドム人は再び集まっても、必ず散らされていき、最後は民族として滅んでしまったのです。

 これが、ユダヤ人にとっては、確かに神が自分たちを愛しておられることの印でありました。それは救いの選びの計画に基づくものです。私たちキリスト者にとっては、何でしょうか?「キリストの十字架」です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13」「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8」「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10

 いかがでしょうか?私たちは、生活の煩雑さの中で、目で見えるもの、また感じることにしたがって神の愛を推し量ります。それで、霊的な目が鈍ってしまいます。私たちに必要なのは、御霊の注ぎかけによって、キリストの十字架にある愛が、いかにすぐれたものであるかを今更のように感じることです。

2B 祭壇の蔑み 6−14
1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。・・万軍の主は、あなたがたに仰せられる。・・わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか。』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい。』とあなたがたは思っている。1:8 あなたがたは、盲の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないのか。足なえや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。・・万軍の主は仰せられる。・・

 二つ目の、主の叱責の言葉は「祭壇を蔑ろにしている」ことです。日毎に祭壇にいけにえを捧げている祭司たちに対して、主はこの言葉を語られました。ですから、「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。」と彼らは驚いています。けれども、その捧げている物を見たら一目瞭然でした。律法の中で、欠陥のある家畜は捧げてはならないという戒めがあるのに、そのようなものばかりを祭壇で焼いていたのです。

 この過ちは、実に容易に陥ります。主は、「主人」「父」そして8節に「総督」と比べて、神に対する彼らの態度を明らかにしておられます。自分が仕えている主人であれば、また肉の父であれば、決して行なわない失礼なことを、私たちは主に対してあまりにも簡単に行ないます。また、当時はペルシヤが支配していたので、ユダヤ地方を治めていた者は総督でした。人間の総督に対して、決して捧げないであろう貢ぎ物を、いとも簡単に主に対して捧げていたのです。

 なぜか?一つに、「目に見えないから」という理由が考えられます。人間は目に見えます。だから、敬わなければいけないことを感じることができます。けれども、神は目に見えない方なので、御霊によってしか尊敬の思いを抱くことができません。ですから、霊的に鈍くなると、いとも簡単に捧げ物を疎かにすることができるのです。

 実際的にも教会の中で起こりますね。「時間のある時だけ奉仕をしよう。」「余裕のある時だけ献金を捧げよう。」「これは自分の家で要らなくなったから、教会に捧げよう。」という態度です。

 そしてもう一つの理由は、先に話した「神の愛の確信が薄くなっている」ことです。神が自分をこよなく愛しておられることを知っているから、自分の全てのものを主にお捧げしたいと心から願うのです。ちょうど、多くを赦されたので、多くを愛した罪深い女と同じです(ルカ7:47)。

1:9 さあ、今、恵みを受けるために神に願ってみよ。これはあなたがたの手によることだ。神はあなたがたのうちだれかを、受け入れてくださるだろうか。・・万軍の主は仰せられる。・・1:10 あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。

 主は、「このままのあなたでは、その捧げ物を受け入れることはできない」と言われています。主はむしろ、祭壇に欠陥のある動物を捧げることのないように、そこに火を点ずることのないよう、戸を閉じる者はいないか、と問われているほどです。主は、欠陥のある動物を受け取るよりも、むしろ何も受け取らないほうが良いと考えておられます。

 ですから私たちは、「いやいや神に仕えるよりも、むしろ仕えないほうがましである。」ということを肝に銘じていなければなりません。礼拝という形だけのことを行なうよりも、むしろ、それを行なう心を神は見ておられるからです。

1:11 日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・1:12 しかし、あなたがたは、『主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。』と言って、祭壇を冒涜している。

 11節にある場面は、キリストが再臨されて立てられる神の国の幻です。イスラエルだけでなく、世界中のあらゆる民が主の御名をあがめて、礼拝を行ないます。これだけ、全世界に主の御名があがめられるほど、その御名は偉大なのに、肝心の祭司たちはそれを「汚れたもの」「蔑まれている」ものとしている、という叱責です。

 「主の食卓は汚れている」というのは、祭壇のことです。彼らが、祭壇で火を焼くことに嫌気が差していることを示しています。そして「果実も食物もさげすまれている」というのは、主への捧げ物の一部を祭司への分け前として受け取る部分です。つまり、「何だよ、こんなものしかもらえないのか。」と自分たちの分け前を見下している姿です。

 これは、礼拝が人々の間で敬われなくなった時に、そこで奉仕をしている者たちが陥る過ちです。「人々が世の中の思い煩いで礼拝を大切にしなくなってきた。残された私たちが守っている礼拝は、あまり価値のないものだ。」と思うことです。そして牧師など、報酬を受け取っても、「なんだ、これしか給料は受け取れないのか。」と不満を言っているのと同じです。

 福音は、人をサタンの国から奪い取り、神の国へと招き入れる、ものすごい力と恵みを持っているものです。これを受け入れて救われた人の中には、「なぜこのすばらしい知らせを、だれも早く教えてくれなかったのか?」と言います。ところが、肝心の信仰者たち、教会に集う人々がその福音のすばらしさを卑しいものであるかのように取り扱っているのです。それが、ちょうど諸国の間では敬われている神の名が、神の民の間では卑しめられているというのと同じです。

1:13 あなたがたはまた、『見よ。なんとうるさいことか。』と言って、それを軽蔑する。・・万軍の主は仰せられる。・・あなたがたは、かすめたもの、足なえのもの、病気のものを連れて来て、ささげ物としてささげている。わたしが、それをあなたがたの手から、喜んで、受け入れるだろうか。・・主は仰せられる。・・

 礼拝生活に煩わしさを感じたら、要注意です。「適当に守っておこう」という心の声を聞いたら、主の前に悔い改める祈りを捧げてください。

1:14 群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者は、のろわれる。わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・

 これは、「言葉を守らない罪」あるいは「偽善の罪」とも言えます。一度、主に対して、「私はこれこれのことを行ないます。」と宣言しながら、全くそのことをしなければ偽りの誓いの罪を犯したことになります。また、そのように言うことによって自分は霊的な人である事を他の人々に見せることができます。実際はそうではないのですから、偽善の罪を犯しています。

2A 契約を破る者 2
1B レビとの契約 1−9
2:1 祭司たちよ。今、この命令があなたがたに下される。2:2 もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、・・万軍の主は仰せられる。・・わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ。2:3 見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる。2:4 このとき、あなたがたは、わたしが、レビとのわたしの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知ろう。・・万軍の主は仰せられる。・・

 マラキ書は、主に祭司たちに対する神の言葉になっています。したがって、モーセを通して与えられた契約の中でも、祭司に対して神が結んでくださった契約に焦点を合わせています。モーセの律法には、神に聞き従えば祝福が、背けば呪いがありますが、祭司たちに対しても呪いがあります。

 神はそれを、「祭りの糞をあなたがたの顔に撒き散らす」と表現しておられます。これは、祭壇にささげる動物の中に残っている糞のことです。祭りという日に人々の前でその糞を撒き散らす、つまり大恥をかかせる、ということです。

2:5 わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。2:6 彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。2:7 祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。

 すばらしいですね、これが本来の祭司の務めです。これは、信仰によって祭司となった私たちに対する契約でもあります。その大きな特徴は「命と平和」です。私たちの内に、また私たちを通して命が流れ、また平和が広がります。

 そして、彼が気をつけていたことは「主への恐れ」です。恐れがなかったから、当時の祭司たちは形だけの礼拝を捧げることができました。「恐れ」とは、主から命じられたことをそのまま、真面目に、真剣に受けとめることです。御言葉が語られた時に、それを人間の言葉ではなく、事実、神の言葉として心から受け入れることです(1テサロニケ2:13)。

 さらに祭司は、口から真理の言葉が出ます。真理の言葉を教えることが彼の特徴です。エペソ書にも同じ言葉がありますね。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15

 そして「平和と公正」があります。自分の周りの人々と、神の平和を保ちます。さらに、えこひいきをしません。これは、私たちには難しいことです。どうしても、自分の好きな人、嫌いな人を選り分けてしまいます。人々に霊的な助けを与えるとき、平等に接していく必要があります。さらに、「わたしとともに歩み」とあります。主と交わりながら日々を送っている、生活の特徴が主ご自身になっていることです。

 そして、「罪から立ち返らせる」働きがあります。これが私たち奉仕者の主な働きであることを必ず覚えていてください。罪の中にいる人々をそのままで受け入れることが私たちの働きではありません。また、罪を罪として断じていながら、何の助けも与えないことも私たちの働きではありません。何とかして罪から立ち返らせるために、重荷をもって働くのです(ガラテヤ6:12)。

 そして、「知識を守り」ます。十分に神の知識を教えることができる能力が必要です。パウロが牧者テモテにこう命じました。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(2テモテ2:15

2:8 しかし、あなたがたは道からはずれ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。・・万軍の主は仰せられる。・・2:9 わたしもまた、あなたがたを、すべての民にさげすまれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをして教えたからだ。」

 レビ人は、多くの人を罪から立ち返らせ、命を分け与える大きな祝福がある一方で、多くの人々をつまずかせる大きな呪いもあります。イエス様も、「忌まわしいものだ。」と言って、当時の律法学者とパリサイ人を責められましたね。「あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。(マタイ23:13」だから、教える者には格別に厳しい裁きがあります(ヤコブ3:1)。

2B 離婚 10−17

2:10 私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。2:11 ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。2:12 どうか主が、このようなことをする者を、たといその者が万軍の主にささげ物をささげても、ひとり残らずヤコブの天幕から断ってくださるように。

 先に話しましたように、エズラとネヘミヤの時代のユダヤ人の大きな問題は、異国人の女をめとったことです。それは次の節に出てきますが、既に結婚しているユダヤ人の妻と離婚して、これら外国人の女と結婚したようです。かつてイスラエルは、モアブの娘たちを自分の天幕に入れたために、不品行を行って、モアブ人の神々を拝みました。ソロモンは神を愛していたのに、外国の女たちと数多く結婚し、その女たちが持ってきた神々の祭壇を高き所に立てました。ゆえに、これは絶対に行なうな、というのが神の命令であり、それゆえエズラもネヘミヤもこのことについては激しく良かったのです。

 神は、「ただひとりの父を持っているではないか」と仰っています。神と人との関係は一対一です。一つに結ばれた仲です。これを破棄することは、どれだけ大きな傷を残すか、またそれがどんなに酷い裏切り行為であるかを、神はここで指摘しておられます。私たちは今、たやすく契約を破ることができると考える文化の中に生きています。自分の幸せ、自己実現と称して、神が与えられた一対一の関係を破棄することができると思っています。それがいかに裏切り行為であるかを考えもせず、自分だけを考えています。

2:13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。2:14 「なぜなのか。」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。

 祭壇の涙と悲鳴と嘆きは、離婚された妻たちのものであると考えられます。簡単に離縁した男たちのいけにえは決して受け入れない、と主は言明しておられます。

2:15 神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。2:16 「わたしは、離婚を憎む。」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう。」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。

 ここに、イエス様が教えられた結婚の背景があります。イエス様は、「ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10:8-9」と言われました。マラキは、それを「一つになった霊」として語っています。肉体が結び合うだけでなく、霊も主にあって一つになるので、それを引き離すことは、暴力に等しいのです。そして、「神の子孫」とあるのは、主を恐れる夫婦の間に生まれた子のことです。神を恐れる子孫を離婚によって絶やすという警告です。

 「暴力でその着物をおおう」とありますね。当時、着物を女に覆うことによって、「私は生涯、あなたを守る」という意志を男が示します。ルツ記でルツがボアズにこれをしてくれと頼みましたね。けれども離婚をすることによって、彼女に暴力をふるっていると咎めておられるのです。

 主は繰り返し「霊に注意せよ」と言われます。心がかたくなであるから、離婚するのだとイエス様は、離婚状についての律法について説明されました。問題は外側にありません、内側にあり、心がかたくなになっているから離婚へと向かうのです。

 それゆえ主は、「離婚を憎む」と言われます。それは、離婚をした人々を憎みなさいという意味ではありません。人が離婚をすれば、これだけの被害が出るのだ、人に不幸をもたらすのだ、という意味で憎むことです。したがって、私たちは離婚を憎んで、なおかつ離婚をしてしまった人々には神からの癒しが与えられるよう願い求めなければいけません。

2:17 あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。」とあなたがたは言っているのだ。

 祭司たちは、自分たちが神を煩わしているとはまさかあり得ないだろう、と考えていました。祭壇にいけにえを捧げ、その他、祭司が行なわなければいけないことを行なっているのですから、それがかえって煩わしいなどとは考えもしなかったでしょう。けれども、もし私たちがこう考えたらどうでしょうか?「教会に来ている人をみな、神は喜ばれる。悪いことを行なっているとか、そんなことを考えないで、すべての人を受け入れなければならない。神の祝福を与えればよいのだ。」この考えが、実は神を煩わしているのです。

 神は報復される方です。悪を行なう者には悪をもって、善を行なう者には善をもって報いられる方です(ローマ2:610)。このことをはっきりさせるために、主は次にメシヤ到来の預言を与えられます。

3A 主を恐れない者 3
1B 主の使者の到来 1−6
3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。

 ここには、二人の使者がいます。一人目は「主の前に道を整える主の使者」です。「わたしの使者」というのが、ヘブル語では「マラキ」です。この使者は、次に来る契約の使者、主ご自身の道を整えます。そして契約の使者は、突然、神殿に来られます。

 この預言は、一人目はバプテスマのヨハネによって(マルコ1:2)、そして二人目は主イエス・キリストによって実現しました。マラキの預言から四百年以上の空白期間がありますが、福音書はあくまでもマラキ書の継続であることがここから分かります。「道を整える」というのは、当時、王が大路を通るときに、その道に大きな石やくぼみがあるといけないので、前もって平らにすべく先にやってくる人がいました。それがバプテスマのヨハネであり、ゆえに彼は、悔い改めのバプテスマを説いたのです。

 そして主が「神殿に来る」というのは、イエス様が神殿で宮清めを行われた時に実現しました。その公生涯の初期(ヨハネ2:1322)と十字架につけられる最後の週に行なわれました。マラキの時代に祭司が陥っていた罪と、イエス様が地上におられた時の祭司長たちの罪はまったく同じだったのです。

3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3:3 この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、3:4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。

 これは、主の再臨の預言です。これは祭司の中で悪い者たちを滅ぼす裁きであると同時に、純粋に主を求める者を精錬する裁きであります。具体的には、大患難に主はこれを行なわれます。

3:5 「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。・・万軍の主は仰せられる。・・3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

 滅ぼし尽くされる祭司どもが行なっている悪事を主がここに列挙されています。けれども、彼らを滅ぼしつくすことはされません。なぜなら、神はヤコブを愛すことに決めておられるからです。途中でその思いを変えることはないからです。神は、私たちをもご自分の新しい契約の中に入れられました。ゆえに、懲らしめこそすれ、滅ぼさないという決意は変えられることはありません。

2B 什一献金の祝福 7−12
3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 主が「わたしに帰りなさい」と言われたとき、「どうやって帰ればいいのですか?」と聞いています。私たちは霊的に鈍くなると、どうやって悔い改めればよいか分からなくなります。そこで主は具体的に、「盗みを働いている」と言われました。これでも、悪い意味でまじめな人は気づかないでしょう。人のものを盗むことはしていないからです。けれども、什一を捧げないことはそのまま神のものを盗むことだったのです。

 什一を捧げることは、モーセの律法の中で定められています。「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。・・・牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。(レビ27:30,32」これがレビ人の生活を支えることになり、またレビ人はその受け取った十分の一を神に捧げます。その分け前を祭司が受け取ります。

 したがって、什一を主に捧げることは、主の働きを行なう人々の生活を支えることでもあり、それゆえ主の働きが継続する力です。これを行なわないことは、神の働きを留めることに加担して、結局のところ、神から盗みを働くことになります。ネヘミヤ記に「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。(13:10」とあります。

 新約聖書において、献金は義務として書かれているでしょうか?答えは、「はい」です。コリント第一9章14節、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」テモテ第一5章17,18節、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。(1テモテ5:17-18」けれども新約聖書には、所得の十分の一を主に捧げなさいという定めはありません。しかし、捧げなさいという命令はあり、十分の一を捧げるというのは神が与えられた非常に良い目安であります。

 なぜ什一献金を惜しむのか?それは、もちろんお金が惜しいからです。お金がなくなると思っているからです。けれども、聖書には、もう一つの原則が働いていることを教えています。それは、「与えれば、与えられる」という原則です。主に捧げれば、主がその人を祝福してくださるという原則です。この原理はあまりにも明らかに働いているので、神は、「わたしを試してみよ」と命じておられるのです。いかがでしょうか?まだ、喜んで捧げているという実感を持っていない方は、ここにある約束にしたがって、「与えれば、与えられる」という祝福の中に入ってみませんか?

3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

 律法の中にある祝福と呪いの中に、「いなご」があります。主はいなごの襲来を阻まれることによって、彼らの収穫に勢いをつけることを約束してくださっています。そして、主に捧げる者たちが豊かになることを、他の国々の民が見届けるようになることも約束してくださっています。

3B 主を恐れる者の会話 13−18
3:13 「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」3:14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。3:15 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

 この「かたくななことを言う」というのは、「主に対して心を閉ざしている」と言い換えてもよいでしょう。主は、ご自分に仕える者たちをよく覚え、豊かにしてくださいます。その神のお気持ちを推し量ることなく、世で栄えている人々をうらやみ、自分が行なっている霊的生活が空しいと言っています。主に仕えることを「何の益になろう」と言って、主に対して心を堅く閉ざしているのです。

 この危険は徐々にやって来ます。教会生活を送っていても、むしろ家庭や職場で問題が起こっている。そのことに疲れて、しかも教会の中ではその悩みを打ち明けることもできず、礼拝はただ形式だけのものとなり、その間に世の中で行なっていることが楽しくなってくる。それで、ついに教会に通うのを止めて、世にある活動に専念します。

 その一番大きな原因は、「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」という心の鈍さです。神が、はっきりと私たちの咎を責めてくださるのは豊かな祝福なのです。何をもって誤っているかをはっきりとしり、何を正せばよいかを知ることができ、その義の道に歩むことのできることは祝福なのです。戒めや懲らしめを避ける人は、ラオデキヤにある教会の人たちのように「なまぬるく」なってしまいます。

3:16 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。3:17 「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

 これが、「主に仕えるのは空しい」と感じる時の処方箋です。主を恐れている者たちを、神はしっかりと記憶してくださっている、すべての会話までを聞いてくださっている、という約束です。私たちは、「主に仕えても何ら報いがあるように見えない」と思ってしまうのですが、それは完全に間違いであり、すべての良いわざを主は覚えておられるのです。

 そして私たちを「」とまで呼んでくださっています。どうか、主の働きに疲れを覚えている人がいれば、ぜひこの御言葉をそのまま受け入れてください!他の人が認めなくても、私たちの主、唯一の審判者が宝と呼んでくださっているのです!

 とどのつまり、マラキ書における主題は「主を恐れる」ことです。霊の部分で、主ご自身の言葉を感じることができるかどうか、です。主を恐れることを学ぶと、礼拝生活が楽しくなります。今週は、主は何を語ってくださるのだろう?という期待感でいっぱいになります。牧師の説教はもちろんのこと、賛美、そして祈り、また献金の時間さえもが待ち遠しくなります。そして一週間、与えられた御言葉を思い出しては、主を仰ぎ見ることができます。

 そして最後の説に、「正しい人と悪者の違いを見るようになる」と主は言われますが、それをはっきりと行なってくださるのは再臨のときです。次の章は、主の到来の預言です。

4A 主の恐ろしい日
4:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。・・4:2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・

 イエス・キリストが再臨されるとき、主から出てくる光は、悪者には燃えつくす恐ろしい火となり、正しい者には、非常に心地よく、心を晴れやかにする、快晴のときのような光となってくださいます。「義の太陽」が、ここではメシヤの呼び名の一つになっています。

 私たちは、主に仕えることは空しいという憂鬱感に陥らないようにするのは、心を世ではなく、神の国に向けるべきです。今日、あまりにも多くの教会がこの世で幸せになるための方法を教えています。これは人々を憂鬱にさせます。なぜなら、世には憂鬱にさせるものしかないからです。教会では、主の再臨を説きましょう!そこには後の世にある、明らかに主の報いが約束されているからです!

4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。

 これから四百年の沈黙期間が続きます。ユダヤ人はその間、モーセの律法を覚えていなければなりません。けれども残念ながら、覚えていると思っていながら、次にバプテスマのヨハネ、そして主ご自身が来られた時、マラキ書に書いてある形だけの礼拝になってしまったのが現実でした。

4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 旧約聖書の最後の預言は、主が来られる前の先駆者としてエリヤが来るということでした。この預言は再臨の時に実現します。4節にモーセが出てきましたが、エリヤとモーセは新約においてコンビで登場します。高い山で主が変貌された時、そこにはモーセとエリヤがいました。そして、黙示録11章には、偽りの神殿の前で預言をしている二人の証人が登場します。たぶんモーセとエリヤだと考えられます。

 主が初めに来られた時は、エリヤ自身ではなく、エリヤの霊と力をもってバプテスマのヨハネが来ました。かつてエリヤに働いておられた御霊が、バプテスマのヨハネにも働いてくださるということです。したがって、その説教はここに出てくる神の裁きとそっくりでした。「彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」とマラキは預言しましたが、ヨハネは「斧もすでに木の根元に置かれています。(マタイ3:10」と言いました。

 そして興味深いのは、旧約聖書の最後の最後の言葉は、「のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」と、呪いで終わっていることです。これが律法の限界でした。イエス様は、イザヤ書の預言を引き合いに出して、「主の恵みの年を告げ知らせるために(ルカ4:19」と言われました。それで新約の終わりは、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示22:21」なのです。

 キリストの十字架によって、私たちは全ての律法の呪いがその上に置かれたことを知っています。暗闇の中にいる人々に光が与えられました。私たちはもはや律法の下にではなく、恵みの下にいます。この福音を携えています。私たちは、この恵みに感動しながら、かつてのユダヤ人、そして黙示録の七つの教会にあるような無感動という敵と戦って、心からの礼拝が捧げられるようにしましょう。


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