ナホム書1−3章 「復讐にある神の慰め」

アウトライン

1A 復讐の定め 1
   1B 力強い神の怒り 1−8
   2B 主への悪巧み 9−15
2A 復讐の様 2
   1B 散らす者たち 1−9
   2B 獅子の棲家 10−13
3A 復讐の謂れ 3
   1B 流血の町 1−7
   2B ノ・アモンの例 8−17
   3B 癒えない傷 18−19

本文

 ナホム書を開いてください、今日は全て、1章から3章までを学びます。メッセージ題は「復讐にある神の慰め」です。「復讐の中に、なぜ慰めなどあるのか?」と思われる人がいるかもしれません。また、「復讐するのは悪いことではないのか?」と言う人がいるかもしれません。新約聖書のイエス様の命令である、「敵を愛しなさい」を思い出すからです。

 けれども私たちは、「悪に対する神の報復の中に、究極の慰めがある」ことを知らなければなりません。私たちがこれから読むのは、アッシリヤの首都ニネベを神が裁かれる預言です。アッシリヤがいかに残虐で傲慢なことを行なったかは、ヨナ書の学びで習いました。生きたまま目を抉り出し、手足を切り、生きたまま人間の皮膚を少しずつ剥ぎ、また生きたまま串刺しにする。このような恐ろしく、おぞましいことを行いながらアッシリヤは国々を征服していったので、預言者ヨナは、それでも神が憐れみを彼らにかけるかもしれないと思って、ニネベに対する預言を初め拒んだのです。

 私たちは、人間はこれだけ残虐なのだということを知らなければいけません。戦争などの時に人間の悪、残虐性が如実に現れます。それは戦争によって人がそうなるというよりも、戦争などの状況をきっかけにして、元々備わっている人間の罪の性質が露になると言ったほうが正解なのです。

 けれども神は、この暴虐に対して正しい裁きを行なってくださいます。暴虐を働いたその同じ量りで、同じ仕打ちを受けます。人間はその悪をそのままにしておくかもしれませんが、究極の主権者であり、審判者であられる神は、必ず正義を執り行ってくださるのです。このことを知る時に、私たち人間は究極の慰めを受けるのです。これが「神の復讐における、慰め」なのです。「ナホム」という名前は、実は「慰め」という意味です。ニネベに対する神の復讐を預言するナホムは、その名にふさわしく、慰めを与えます。

1A 復讐の定め 1
1B 力強い神の怒り 1−8
1:1 ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。

 ナホムがこの預言を行なったのは、紀元前663年から654年までの間であろうと言う人たちがいます。3章に出てくる、エジプトのテーベが滅ぼされる預言が実際に起こったのは、663年です。そして、テーベの町は654年に再興しています。したがって、その間に起こっていないとナホムの預言の意義が失われてしまうから、というのが理由です。

 そして預言の内容は、紀元前612年に、バビロンとメディヤの連合軍がニネベの町を倒すことに集中しています。

 ヨナが預言を行なっていたのは、ヤロブアム二世の治世の時、彼が領土を大きくした時の前なので、ナホムの預言より一世紀半前のことです。その時は、ニネベの王を始めとする全住民が悔い改めて、神は彼らをお赦しになられたのですが、間もなくして彼らは元の行ないを再開しました。もしヨナがナホムの預言を携えていたならば、彼はタルシュシュに行かずに喜んでニネベに行ったことでしょう!けれども、神は怒るのに遅い方です。一世紀半の時を経て、ようやく裁きを行なわれました。

 そして彼は「エルコシュ人」であるという紹介があります。エルコシュという町がどこにあるか、定かではありません。伝承として、ニネベの数十キロ北に「ナホムの墓」があり、イスラム教徒とキリスト教徒によって敬われていますが、16世紀に始まった伝承なので違うでしょう。他に、エルコシュが、ガリラヤ地方、特に「カペナウム」ではないか、という人たちもいます。カペナウムはまさに「ナホムの家」という意味だからです。そして、ユダの地方、ミカがいたモレシュの近くにエルコシュがあったのではないか、という人もいます。 

もしガリラヤ地方の説が正しいとしたら、彼は既にアッシリヤの手に落ちた北イスラエルからユダに移り、そしてユダに対してニネベが滅びるという慰めの言葉を伝えた、と考えることができます。ナホム書には、ユダに対する慰めの言葉もたくさんあるからです。

当時、ユダの王はマナセでした。彼は有名な極悪王ですが、歴代誌第二を読むとアッシリヤが彼を捕えて、バビロンに移したことが書いてあります。マナセはそこでへりくだったので、神が返してくださっています。その悔い改めたマナセに対して、アッシリヤの滅亡の言葉が与えられたのかもしれません。

1:2 主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。1:3a 主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。

 ナホムは、ニネベへの宣告をするにあたって、まず神の御性質を宣言しています。「ねたみ、復讐する神」です。「ねたむ」とか「復讐する」とか言いますと、私たちは否定的な印象を持ちます。けれども人がねたんだり、また復讐したりするのは、往々にして悪いことだからです。神が持っておられるねたみや復讐は、人間が抱くような自己中心的なものではなく、悪に対する正義の怒りであります。

 けれども、神は「怒るのにおそ」いです。これはとても大切な神の御性質です。主がモーセにご自分の栄光の後姿をお見せになった時に、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、(出エジプト34:6」と宣言されました。神はご自分が造られたものに対して裁きを行なうことを喜んでおられません。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(18:23」とエゼキエルは言いました。

 けれども、それは私たちが考えるように、神はこの世の悪に対して、何の正義も行なわずそのままにしているのではありません。ある人はこのことで失望し、神への信仰を捨てます。またある人は、自分が罪を行なっているのに何の悪いことも起こらないので、神は罰することはないのだと開き直ります。けれども、それらはとんだ誤解です。神は怒りに遅い方ですが、必ず裁かれる方なのです。英語で「忍耐深い」を"longsuffering"と言いますが、それはlong(長い)とsuffering(苦しむ)という言葉が一つになっている言葉です。長いこと苦しんでいるのが、忍耐なのです。

1:3b主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。1:4 主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる。バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる。

 神が実際に裁き、その裁く力を持っていることを示すために、自然界を揺り動かすことができることをお示しになっています。「つむじ風と嵐」は、神が引き起こされています。また積乱雲のようにそびえ立つ雲も、主が起されたものです。「」が涸れたのは、覚えていますね、出エジプトにおける紅海が別れた出来事です。そして「」は、ヨシュアがヨルダン川を渡る時に、堰き止められました。

 そしてイスラエルの地において豊かな地域として、「バシャン」と「カルメル」があります。また北にはレバノンも豊かな所です。バシャンは今のゴラン高原で放牧に適しています。カルメルは雨がたくさん降り、ぶどう栽培で有名です。レバノンには豊かな森があります。これらを荒れ果てた地にすることができるのは神であり、その力でニネベを滅ぼされます。

1:5 山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。1:6 だれがその憤りの前に立ちえよう。だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。

 主はこれらの山々、大地を造られた方ですから、これをもう一度揺り動かして、くつがえすこともおできになります(ハガイ2:3)。そして、山々が動いた時、また丘々が溶け去るとき、人々が「だれがその憤りの前に立ちえよう。」と叫びます。これは、終わりの日、災いが地上に降り注いだ時に人々が叫ぶ声です(黙示6:17)。

1:7 主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。1:8 しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、主に逆らう者を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。

 ここに、主に身を避ける者と、主に逆らう者に対する、真っ二つに分かれる道が書かれています。主は、ご自分を信頼する者に対しては徹底的に善なる方です。ここの「いつくしみ深く」と訳されているところは「良い」という意味です。

 私たちは、この神の御性質を決して忘れてはなりません。信仰の根幹に、「神は善である」という真理がなければなりません。これを忘れる時に私たちは信仰を離れます。一タラントを主人から預かった者が、主人が戻ってきた時に、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。(マタイ25:24」と言いました。意地悪な方だと思ったから、彼は自分に与えられた人生を、神と関わることなく費やしたのです。悪魔がエバを誘惑した時も、「神は、あなたが食べる時に、神のようになるのを知っておられるから、食べてはならない、と言われているのだ。(創世3:5参照)」、つまり神は意地悪をしているのだと疑わせたから、エバは食べてしまったのです。けれども神は良い方なのです。善であられるのです。

 そして、「苦難の日のとりで」であられます。神の民になった者は、この世においては苦しみがあります。けれども、かの日には慰めを受けます。神に逆らう者はこの世においては快楽があるでしょう。けれどもかの日には、自分の行ないにふさわしい苦しみが待っています。

 全ての人に主が良くしてくださるのではないことに、気をつけてください。ここに主に身を避ける者たちを知っておられる、とあるように、主が良くしてくださるのは主に信頼する者たちだけです。有名な聖句、ローマ828章で「神がすべてのことを働かせて、益としてくださる」という約束の前に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには」という条件が付いています。神を愛していないのに、益を、または善を期待することはできません。

 そして、「主に逆らう者」に対しては、「あふれみなぎる洪水で」滅ぼされるとナホルは預言しています。これは、紀元前612年にどのようにしてニネベが陥落したのかを教える箇所です。また後でこの出来事を指す預言が出てくるのでその時に詳しく説明しますが、洪水によって城壁が崩れ、その破れ口を通って、バビロンとメディヤの連合軍はニネベに侵入することができました。

 ナホム書は、その612年の出来事を実に詳細に、正確に伝える書物です。歴史文書の中で、またニネベの町の考古学の発掘によって、ことごとくこの預言書の記述が事実であることが証明されました。

2B 主への悪巧み 9−15
1:9 あなたがたは主に対して何をたくらむのか。主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない。1:10 彼らは、からみついたいばら。大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、かわいた刈り株のように、全く焼き尽くされる。1:11 あなたのうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ。

 主に対する悪巧みは、一体何でしょうか?聖書には、はっきりと、アッシリヤの王セナケリブによって遣わされたラブ・シャケの言葉が残っています。ヒゼキヤが王の時、エルサレムをアッシリヤが包囲しました。そしてラブ・シャケがこう叫んでいます。「ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。(イザヤ36:15」また、「これらの国々のすべての神々にうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでも言うのか。(同20節)」アッシリヤの王は、ヤハウェなる神よりも自分に救う力があると豪語しています。また、エルサレムに御名を置かれている主を、他の神々と同列に置いています。これが、主に対する悪巧みであり、よこしまな計画です。

 このことに対して、主はもちろんアッシリヤ軍の185千人を滅ぼされましたが、それだけでなく、紀元前612年に、彼らが大酒を飲んで酔っ払っている所にバビロン・メディヤ軍が入り込み、彼らをことごとく滅ぼしたのです。アッシリヤの王が、一時的に包囲しているその連合軍を追い散らすことができたので、それで城に戻り、酒に酔いしれていたという記録が残っています。

1:12 主はこう仰せられる。「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。1:13 今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。」

 12節の前半から後半にかけて、主が語られている相手が変わっています。「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる」はニネベに対して、そして、「わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない」以降はユダに対する言葉です。

1:14 主はあなたについて命じられた。「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳造を断ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。」

 「あなたの子孫はもう散らされない」は、口語訳では「あなたの名は長く続かない」となっています。アッシリヤの王は、自分の名を建物の銘文など、必ず残すように民に命じていたので、これはその自尊心に対する裁きです。

 そして、神々の宮の彫像や鋳造を倒すとありますが、アッシリヤ人はものすごい多神教信仰を持っていました。バビロンを発祥とする神々です。アシュルを始め、アヌ、ベル、エア。そして月の神シン、太陽の神シャマシュ、そしてイシュタルなど、あらゆる自然にあるものを神としてあがめました。エルサレム陥落に失敗したセナケリブは、「ニクロスの宮で拝んでいたとき(イザヤ37:38」彼の息子たちが剣で殺した、とありますね。

 そしてアッシリヤは、国々を征服する時、その国々の神々、その宮をことごとく滅ぼしていきました(イザヤ36:1819参照)。ですから、これはアッシリヤが行なったことに対する神の報復だったのです。事実、ニネベの発掘現場で、頭なしのイシュタルの像が見つかっています。

1:15 見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、断ち滅ぼされた。

 ニネベが紀元前612年に陥落した知らせを受けて、その良い知らせがユダの山々で告げ知らされる、という預言です。けれども、これの究極の実現は、キリストが再臨されて神の国が到来するのを待たなければならないでしょう。また使徒パウロは、この箇所を使って宣教に遣わされることの重要性を説いています(ローマ10:15)。

 このように、主に逆らうアッシリヤは苦しみを受けて、これまで苦しみを受けてきたユダが主に信頼することによって救われる、という対比を神が行なっておられます。復讐が単なる復讐ではなく、苦しみを受けてきた者に対する慰めになっているのです。

2A 復讐の様 2
 2章でナホムは、ニネベの陥落を実に細かく描写し、預言しています。

1B 散らす者たち 1−9
2:1 散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。

 バビロンとメディヤ連合軍の姿です。そして「塁を守り、道を見張り・・・」と皮肉を込めて、主はニネベにさらなる防備を勧めています。メディヤの王キュアクサレスは紀元前614年にこの城を攻め始めますが、一部の郊外を除いて占拠できませんでした。それでバビロンの、ネブカデネザルの父であるナボポラサルに援軍を頼み、それで612年に征服します。

 けれども、この預言を聞いたニネベは、この励ましに対して一笑に伏したしたことでしょう。以前、セナケリブは六年間かけて巨大な兵器庫を城内に造っています。そしてエサル・ハドン(イザヤ37:38参照)は、さらに戦車、馬、騾馬、槍、矢を補充し、兵器庫を拡充しています。さらに、町の中央を走る王の道を幅約25メートルに広げ、兵隊が動くことのできるようにしていたのです。

2:2 主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される。・・かすめる者が彼らをかすめ、彼らのぶどうのつるをそこなったからだ。

 再び、イスラエルに対する回復を約束してくださっています。アッシリヤは卑しめられ、卑しめられたユダが引き上げられます。

2:3 その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、2:4 戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。

 侵入したメディヤとバビロンの連合軍の姿です。ものすごい速さで走ってきています。「盾が赤く、兵士は緋色の服をまとい」とありますが、当時、バビロンやメディヤはそのようにしていました。赤銅で造られたその盾は、太陽の光線で赤く輝き相手を威圧させましたが、それと同時に、自分たちが刺されて飛び散った血を相手に見せないためであったと言われます。

2:5 貴人たちは呼び出され、途上でつまずき倒れる。彼らはその城壁へ急ぎ、防柵を設ける。

 ここの「貴人」とは新共同訳のように「将軍」のことです。先に話しましたように、彼らは王から酒を支給されていて、べろんべろんに酔っ払っていました。それで「つまずき倒れ」ています。そして城壁を強固にするために防柵を設けていますが、これも遺跡で見つかっています。壁の煉瓦を壕に積み上げた跡が残っています。

 本当にナホムの預言は、こんなに詳細に渡り正確なのです。1章1節に「ナホムの幻」とありますが、彼は612年に起こるこの出来事をそのまま幻の中でじっくりと見ていたのです。

2:6 町々の門は開かれ、宮殿は消え去る。

 新改訳がなぜ、ここを「町々」と訳しているのか非常に不思議です。直訳は「川々」であり、これがこの戦いの勝敗を決める重要な箇所なのです。

 ニネベの町は川に囲まれていた所です。今のイラクの北部に「モスル」という町がありますが、その隣にティグリス川があります。そこを渡るとすぐニネベの遺跡群があります。ティグリス川とその支流の間に城壁があり、そしてセナケリブは内側に水を取り入れるため水道を作っていました。また洪水を防ぐためにダムも町の外に造っています。

 そして先ほど話したように、614年に始めた攻撃と包囲は勝算が尽きませんでした。ところが、三月、四月に雨がたくさん降り、ティグリス川が氾濫したのです。そして乾燥した煉瓦で作られていた壁が、その水を含むことによって崩れ始めました。城壁の北西部分です。そこから連合軍は侵入しました。

 その時のアッシリヤ王は、宮殿の敷地に薪を数多くくべて、その中に金銀と自分の王服を積み上げ、自分の側近の宦官、また自分の妻やそばめを閉じ込めて、自分自身もそこにいたたま火をつけて自殺した、という記録があります。したがって、「川側の門が開かれ、宮殿は消え去る。」という預言がそのまま成就したのです!

2:7 王妃は捕えられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ。

 「王妃」と訳されているのはヘブル語で「フツァブ」ですが、これは「定め」と訳すことができます。神の定めにより、彼らは捕えられて連れ去られた、ということです。神がこれをお定めになっていた、ということです。

2:8 ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、「止まれ、立ち止まれ。」と言っても、だれも振り返りもしない。

 あまりにも素早い攻撃のため、人々は慌てふためいて逃げている姿です。

2:9 銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ。

 これも歴史文書の中に残っています。ニネベは、とてつもない量の金銀を蓄えていました。これまでの国々の征服で、略奪した金銀は数知れなかったそうです。これをバビロンとメディヤの連合軍が見つけました。

2B 獅子の棲家 10−13
2:10 破壊、滅亡、荒廃。心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる。

 略奪後の姿です。ここの「破壊、滅亡、荒廃。」のヘブル語は、似た言葉を繰り返して、そしてその音によって何かが砕け壊れる姿を表しているそうです(bûqâh ûmebûqâh umebul-laqâh)。

2:11 雄獅子の住みかはどこにあるのか。それは若い獅子のためのほら穴。雄獅子が出歩くとき、雌獅子と子獅子はそこにいるが、だれも脅かす者はない。2:12 雄獅子は子獅子のために、十分な獲物を引き裂き、雌獅子のためにかみ殺し、そのほら穴を、獲物で、その巣を、引き裂いた物で満たした。

 アッシリヤは獅子を象った装飾で満ちていました。上半身が人間で翼のついた獅子の彫刻が有名です。そしてアッシリヤの王は、自分自身で、いかに自分が国々の王を倒したか、それを略奪したかを誇らしげに語りました。今、大英博物館にある碑文などに、ユダの王の名前も含める様々な王を倒し、貢ぎ物を持ってこさせたかを自慢している文章が残っているのを見ることができます。

2:13 見よ。わたしはあなたに立ち向かう。・・万軍の主の御告げ。・・わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす。あなたの使者たちの声はもう聞かれない。

 この主の宣言「わたしはあなたの立ち向かう」は、英語ですと、”I am against you.”です。わたしはあなたに敵対する、という意味にもなります。神が私たちに味方になっておられるのか、それとも敵になっておられるのか?これは大きな分かれ道です。パウロが言ったように、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31」キリストにあって、私たちは神との平和を持つことができます。そして世がいかに自分を憎もうとも、神が味方しておられるなら私は平安であると言うことができます。

 けれども、立ち向かっておられるならどうでしょうか?どんなに自分に味方がいても、自分に財産があり、名声があっても、どんなに自分に才能があっても、美貌があり、容姿が良くても、何の役にも立たないのです!ちょうどラザロと金持ちの死後のようであり、地獄の中で熱くて苦しんでいる金持ちが、その金によって自分の命を贖うことができないのと同じです。

3A 復讐の謂れ 3
 そして3章には、主がこのようにニネベを滅ぼされる理由を見ることができます。

1B 流血の町 1−7
3:1 ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。3:2 むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。3:3 突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

 このようにニネベの町には、山となって死体が積み上がることとなりましたが、それは、まさに彼らが他の国々対して行なっていたことです。初めに「流血の町」とあります。先に説明したように、とてつもない残虐な行為をアッシリヤは働きました。そして「虚偽」、これは条約を結んでもすぐに破棄して相手を襲ったことを指しています。それから「略奪」と「強奪」です。これらの行為をやめなかったので、それで今、ここに書かれている生々しい攻撃を受けているのです。

3:4 これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。

 ニネベが滅ぼされたもう一つの理由は「偶像礼拝」です。先ほど説明しましたように、アッシリヤには数多くの神々がいました。

 そして「淫行」を、自分たちの国にとどまらず諸国に広げているようですが、これはおそらく軍事力のことを指しているのでしょう。危機に陥っている国がアッシリヤに軍事的支援を求め、それによって自分たちの影響力を広げていったのです。覚えていますか、ユダの王アハズは、北イスラエルとシリヤの連合軍が自分たちを攻めると恐れて、アッシリヤに援軍を求め、それでアッシリヤがダマスコを倒し、それから北イスラエルを滅ぼしました。ところが、それだけに終わらず、アッシリヤの貢ぎ物の要求は続きました(2列王16章参照)。

3:5 見よ。わたしはあなたに立ち向かう。・・万軍の主の御告げ。・・わたしはあなたのすそを顔の上までまくり上げ、あなたの裸を諸国の民に見せ、あなたの恥を諸王国に見せる。3:6 わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする。

 売春婦が、公衆の面前で自分の裸を露にしなければいけない辱めを受けています。これは当時の中東の女性にとっては、もっとも卑しめる方法でした。このようにアッシリヤがなるのだという説明です。しかも、彼女は汚物をかけられています。

3:7 あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。「ニネベは滅びた。」と。だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか。

 誰もニネベを慰める者たちはいません。なぜなら、みながアッシリヤによって苦しめられていたからです!

2B ノ・アモンの例 8−17
3:8 あなたは、ナイル川のほとりにあるノ・アモンよりもすぐれているか。水がこれを取り囲む。その塁は海、その城壁は水。

 ニネベの三つ目の過ちは、自分たちが無敵であると自負していたことです。ニネベはとてつもない大きい町で、考古学の間では、おそらく発掘しつくすことはできないであろうと言われているそうです。バビロンと同じく、その分厚い城壁の上には戦車が三両走ることのできる幅があり、15の門があり、一つ一つに雄牛の石像がありました。そして城内外に、セナケリブは公園、植物園、動物園を作り、先ほど話したように水道設備も整えました。また、川の洪水から町を守るためのダムも建設したそうです。

 これは十九世紀に発掘されたのですが、それ以前は、ニネベは神話的存在で、聖書の批評家は笑っていたそうです。笑っているのは神ご自身で、人間はその一部を後で知るに至っているだけです。

 ですからニネベは永遠に堅く立つと信じられていました。けれども、主はエジプトの「ノ・アモン」の例を挙げておられます。これは「テーベ」の別名です。ナイル川の上流にある、今でも有名な観光地になっているエジプトの古代都市で、一時期、首都になっていました。

 この都市もニネベと同じく、倒れることはとても考えにくいことでした。ここにあるように、テーベもニネベと同じく、川の水という自然の要塞がありました。けれども、それが事実倒れたことは、ニネベ自身がよく知っていたのです。なぜなら、アッシリヤの王アシュルバニパル(エズラ記410節の「オスナパル」)が、紀元前663年にこの都市を破壊していたからです。

3:9 クシュとエジプトはその力。それは限りがない。プテ人、ルブ人もその助け手。

 「クシュ」はエチオピヤ人です。「プテ人、ルブ人」は今のリビアにいた人々です。彼らを傭兵としてエジプトは雇っていました。

3:10 しかし、これもまた、捕囚となり、とりことなって行き、その幼子たちもあらゆる町かどで八裂にされ、その高貴な人たちもくじ引きにされ、そのおもだった者たちもみな、鎖につながれた。

 これがニネベが、かつてテーベに対して行なったことです。この残虐な行為を、そのまま自分たちも受けるのです。「目には目を、歯には歯を」という原則です。

3:11 あなたも酔いしれて身を隠し、敵から逃げてとりでを捜し求めよう。3:12 あなたのすべての要塞は、初なりのいちじくを持ついちじくの木。それをゆさぶると、食べる者の口に落ちる。3:13 見よ。あなたの兵士は、あなたの中にいる女だ。あなたの国のもろもろの門は、敵のために広くあけ放たれ、火はあなたのかんぬきを焼き尽くす。

 先ほど話したように、攻められた時に、彼らは泥酔していました。それで、バビロンとメディヤは彼らを初なりのいちじくのように簡単に食い物にすることができました。また、兵士どもも女と等しかったのです。

 このように主は、彼らが無敵だと誇っていた力を、ことごとく弱めることによって裁きを宣言されています。私たちにとって最大の敵は、高慢です。自分の力、自分の知恵を誇ることです。

3:14 包囲の日のための水を汲み、要塞を強固にせよ。泥の中にはいり、粘土を踏みつけ、れんがの型を取っておけ。

 これは壁が川の氾濫で決壊し始めて、慌てて防柵を設けた、先ほど出てきたことの繰り返しです。

3:15 その時、火はあなたを焼き尽くし、剣はあなたを切り倒し、火はばったのようにあなたを焼き尽くす。あなたは、ばったのように数を増し、いなごのようにふえよ。3:16 あなたの商人を天の星より多くしても、ばったがこれを襲って飛び去る。

 神の裁きを「ばった」に例えています。実際に出エジプト記ではその災いが下り、またヨエル書ではとてつもない数の、おぞましい軍隊が来ることの予兆としても出てきました。ニネベの住民はどんなに多くても、ばったが草を食い尽くすように火で焼き尽くされてしまう、と預言しています。事実、ニネベの発掘現場では、灰の層が見つかっており、町全体が火に包まれたことを証言しています。

3:17 あなたの衛兵は、いなごのように、あなたの役人たちは、群がるいなごのように、寒い日には城壁の上でたむろし、日が出ると飛び去り、だれも、どこへ行くか行く先を知らない。

 いなごは、夜はとどまっているけれども、日が出てくると一気に飛び去っていくそうです。同じように、衛兵や役人が住民を見捨てて逃げ去ってしまう、という預言です。

3B 癒えない傷 18−19
3:18 アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない。

 最後にナホムは、ニネベから逃げたアッシリヤの王に対して預言しています。ニネベからからがら逃げた王がハラン(カラン)に逃げましたが、ほとんどの者たちはもう死んでいます。ここで「牧者」「貴人」が眠っている、とありますが、これは既に死んでいるということです。

3:19 あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。

 癒えない傷です。傷であれば癒えるはずなのですが、神は審判として、癒えない傷を与えられます。永遠の処罰です。

 そしてその姿を見て「手をたたく」者たちがいます。これはあざ笑って、喜んでいる姿です。理由は、「だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。」であります。一部ではなく、だれもかれも、です。アッシリヤは至る所で、誰に対しても残虐な行為を行なっていました。だから、裁きも全ての人からの嘲笑なのです。

 イエス様は言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:2」自分が相手に行なったことにしたがって、主はそれを報いとして与えられるということです。

 これは自分自身にも、すべての他の人にも当てはまる原則です。自分自身に対しては、「自分を裁いて、吟味する」と言うことです。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」と言いました。自分が行なったことを、公平に、正直に、神の基準に照らして吟味します。そして、自分を神の前でへりくだらせ、悔い改めるべき所を悔い改めます。

 そして他の人々が行なっていることについては、すべてを主の復讐に任せるのです。どうやったら私たちが、相手が私たちにしたことを赦せるのか?どうやったら、そのわだかまりと恨みを晴らすことができるのか?すべて、今日学んだ、復讐の神を見ることによってです。その人が行なったことを、自分ではなく、神が正しくその人に対して報いられるからです。神の復讐を信じることによって、初めて究極の平安と慰めを得ることができます。

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