ネヘミヤ記10−13章 「継続する改革」


アウトライン

1A 神への誓い 10−12
   1B 神殿礼拝 10
      1C 印を押した者 1−27
      2C のろいと誓い 28−39
   2B エルサレム居住 11
      1C 使命 1−18
      2C 支援 19−36
   3B 城壁奉献 12
      1C 系図 1−26
      2C 聖歌隊 27−47
2A 叱責による矯正 13
   1B 世との分離 1−3
   2B 改革 4−31
      1C 敵の居住 4−9
      2C 奉仕の軽視 10−14
      3C 安息日の軽視 15−22
      4C 雑婚 23−31

本文

 ネヘミヤ記10章を開いてください、今日は10章から13章最後までを学びます。ここでのテーマは、「継続する改革」です。私たちは前回、律法の朗読を聞いてそれに応答する民の姿を読みました。仮庵の祭りも行ない、その後、悔い改めの祈りを中心とした礼拝を行ないました。その後のネヘミヤたちの行動が次に書かれています。

1A 神への誓い 10−12
1B 神殿礼拝 10
1C 印を押した者 1−27
10:1 印を押した者は次のとおりである。ハカルヤの子の総督ネヘミヤ、およびゼデキヤ、

 印を押しましたが、このことについては前の節、9章38節に書いてあります。「これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。」堅い盟約を、神との間、また互いの間で結びました。10章1節から27節までその名が列挙されています。その初めがネヘミヤです。指導者として、自分がこのことの第一責任者としています。28節に飛びます。

2C のろいと誓い 28−39
10:28 このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、10:29 彼らの親類のすぐれた人々にたより、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行なうための、のろいと誓いとに加わった。

 盟約に記名しなかったけれども、のろいと誓いに加わった人々のことです。それは、「神の律法に従って歩み、主の命令を守り行なうため」とありますが、それだけでなく、「彼らの親類のすぐれた人々にたより」とあります。もちろん神の御言葉を自分自身が宿すことは必要ですが、それだけでなく、キリストにならっている人々を模範としていくことは大切です。つまり、教会としてともに訓戒し合える仲において、初めて聖書の言葉を自らのものとしていくことができます。パウロは、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(1コリント11:1」と言いました。ペテロは牧者たちに、「その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:3」と勧めています。

 そして「のろいと誓い」とは、かつてイスラエルが約束の地に入ったら、ゲルジム山においては祝福を、エバル山においてはのろいを宣言するように命じられた箇所があります。申命記27章ですが、レビ人は例えばこのように宣言しています。「「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。(15-18節)」律法に違反したときの呪いのことです。

10:30 すなわち、私たちの娘をこの地の民たちにとつがせず、また、彼らの娘を私たちの息子にめとらない。10:31 たとい、この地の民たちが安息日に、品物、すなわち、いろいろな穀物を売りに持って来ても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない。また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。10:32 私たちは、私たちの神の宮の礼拝のために、毎年シェケルの三分の一をささげるとの命令を自分たちで定めた。

 のろいと誓いには具体的に三つの事柄がありました。一つは雑婚の禁止です。これは、彼らが周囲の民と交わったために、偶像礼拝に関わり、そのために最終的に捕囚の民となったことに対する反省です。そして、安息日と安息年を守ります。安息日はよく聞きますが、七年の一度、土地を休ませる安息年というものがありました(レビ記26章参照)。歴代誌第二の学びで最後に、この律法についての言及があります。「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(36:21」とあります。ですから、安息年を守らなかったことによってその地から引き抜かれた、とも言えるのです。そのため、二度と安息日や安息年をないがしろにしないことを誓いの中に入れました。

 それから神の宮のために年に一定額献金することを定めましたが、その他神殿に関する誓いを細かく定めました。

10:33 これは、並べ供えるパンと、常供の穀物のささげ物、また常供の全焼のいけにえ、また、安息日、新月の祭り、例祭のいけにえ、聖なるささげ物、また、イスラエルの贖いをなす罪のためのいけにえ、さらに、私たちの神の宮のすべての用途のためであった。

 祭司が礼拝をささげるときのおきてについてです。

10:34 また私たち、祭司とレビ人と民とは、律法にしるされているとおり、私たちの神、主の、祭壇の上で燃やすたきぎのささげ物についてのくじを引き、毎年、定まった時に、私たちの父祖の家ごとに、それを私たちの神の宮に携えて来ることに決めた。

 「たきぎのささげ物」という言葉は新出ですが、祭壇の上でいけにえを燃やすときの燃料も、ささげ物として定めたようです。

10:35 また、私たちの土地の初なりと、あらゆる木の初なりの果実とをみな、毎年、主の宮に携えて来ることに決めた。

 土地の収穫の初物は主にささげる掟が、出エジプト記2319節にあります。けれども、初めのもの、最上のものをささげる掟は聖書の中で至るところにあります。カインのささげ物は退けられ、アベルのは受け入れられましたが、それも初子でした(創世記4:4)。私たちがもっとも大事にしているものを主にささげるとき、それが礼拝となるのです。

10:36 また、律法にしるされているとおり、私たちの子どもと家畜の初子、および、私たちの牛や羊の初子を、私たちの神の宮に、私たちの神の宮で仕えている祭司たちのところに携えて来ることに決めた。

 律法の中に、家畜であれ人であれ、初子、つまり初めに生まれた男子はみな主のものである、という定めがあります。ただ人間の子の場合は、もちろんいけにえとして屠ることはしないので、贖い金を支払うことによって取り戻します。初子が主のものというのは、神に独り子キリストがおられることを表しています。

10:37 また、私たちの初物の麦粉と、私たちの奉納物、およびあらゆる木の果実、新しいぶどう酒と油を、祭司たちのところに、私たちの神の宮の部屋に携えて来ることにした。また、私たちの土地の十分の一はレビ人たちのものとした。レビ人が、彼ら自身で私たちの農耕するすべての町から、その十分の一を集めることにした。

 レビ記の最後のところに、すべての収穫の十分の一が主の聖なるものであるとの掟があります。

10:38 レビ人が十分の一を集めるとき、アロンの子孫である祭司が、そのレビ人とともにいなければならない。レビ人はその十分の一の十分の一を、私たちの神の宮へ携え上り、宝物倉の部屋に納めなければならない。

 民数記の1826節に、レビ人は自分が受け取った十分の一のさらに十分の一を祭司にささげなければいけないとの掟があります。レビ人の奉仕を支えるのがユダの人々であり、そして祭司を支えるのがレビ人です。

 ちょうど教会において、教会の人々の献金によって生活費を得ている牧師が、自分自身も礼拝のときに主に十分の一をささげているのと同じです。「だったら、その分を牧師給からさっぴけばいいじゃないか。」なんていう人が出てきそうですが、それは献金の意味をまったく分かっていない証拠です。献金は、お金の流れではなく礼拝行為の一部であり、賛美をし、説教を聴くのと同じく、献金によって礼拝しているのです。

10:39 この部屋に、イスラエル人とレビ人たちは、穀物や、新しいぶどう酒や油の奉納物を携えて来るようになっているからである。そこには聖所の器具があり、また、当番の祭司や門衛や歌うたいもいる。こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。

 神殿の部屋の中に、ささげものを保管している部屋がありました。これが後で、もっとも冒涜的なかたちで汚されるのですが、後で読みます。

 そしてネヘミヤは、「こうして、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」としめくくっています。今の新約時代、私たち自身が神の宮であり、神の御霊が宿っているところです。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:16」とパウロはコリント人に言いました。かつては神殿の建物の中に御霊が働かれて、ご自分の臨在を示されましたが、今は私たちのうちに宿り、私たちの間でご自分の臨在を表されます。

 ですからネヘミヤのことば、「神の宮をなおざりにしない」というのは、私たちがキリスト者としての集まりと礼拝をなおざりにしない、ということです。迫害を受けて疲れて、もう集まるのをよそうと考えていたユダヤ人の信者に対してヘブル書の著者は、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25」と言いました。

2B エルサレム居住 11
1C 使命 1−18
11:1 民のつかさたちはエルサレムに住んでいたが、ほかの民は、くじを引いて、十人のうちからひとりずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし、あとの九人をほかの町々に住まわせた。11:2 すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。

 エルサレムの町は、まだ廃墟から完全に立ち直っているわけではありませんから、そんなに整えられた町ではありません。しかし、ここが「聖なる都」つまり神の都であるからもっと人が住まなければいけないと考えました。十分の一の人たちが住みましたが、その他の人々も犠牲を払って住む人たちを祝福しました。

 この「祝福した」行為がとても大切です。エルサレムに在住する人たちは、彼らだけが住むのではなく霊においてすべての人が住んでいることを意味するからです。同じように、主が命じられているからというだけで、ある不慣れな土地に住み伝道や宣教の働きをする人々がいて、その人たちのために祈り、支援をするとき、その霊的分け前は祈って支援している人たちも同様に与えられます。これが神の働きの中ですばらしいことです。

11:3 エルサレムに住んだこの州のかしらたちは次のとおりである。ユダの町々には、イスラエル人、祭司、レビ人、宮に仕えるしもべたち、ソロモンのしもべたちの子孫が、それぞれ、自分たちの町々の自分の所有地に住んだ。

 エルサレムの周囲のユダの町々に、祭司、レビ人、その他宮に仕える人、ソロモン時代の役人の子孫たちが住んでいましたが、十分の一はエルサレムに住みます。

11:4 ユダ族とベニヤミン族のうちのある者は、エルサレムに住んだ。

 4節以降に、エルサレムに住んだ人々の名が記されています。初めにユダ族、7節からベニヤミン族、10節からは祭司15節からはレビ人です。ところで歴代誌第一9章3節は、エフライム、マナセ族もエルサレムに住み着いていることを記しています。バビロン捕囚後も十部族は失われていなかったことを示す、もう一つの聖書個所です。

 エルサレムの住民の名が列挙されている最後18節に、再びエルサレムのことが「聖なる都」と記されています。どの時代においても地上のエルサレムは神が選ばれた町でありますが、私たちには天からのエルサレムが用意されています。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブ12:22」とヘブル書にあります。さらに黙示録の最後に新しいエルサレムの姿が書かれています。天にある望みを抱いて信仰の一歩を踏み出す人はだれでも、エルサレムに住むような人です。

2C 支援 19−36
 19節以降には、周囲のユダの町々に住んでいる人たちの名が書き記されています。初めにレビ人のことが書かれています。23節から読みます。

11:23 彼らについては王の命令があり、歌うたいたちには日課が定められていた。11:24 またユダの子ゼラフの子孫のひとりで、メシェザブエルの子ペタヘヤは、王に代わって民に関するすべての事がらを取り扱った。

 エズラがエルサレムに来るときに、ペルシヤの王が神殿での奉仕と礼拝を絶やすことのないよう具体的に命令しました(エズラ7章)。

 そして25節以降にユダの町々が書かれていますが、エルサレムに隣接した南の地域からベエル・シェバまでのところに住みました。31節以降にベニヤミンの町々が書かれていて、これらも従来のベニヤミンの土地と同じところに住んでいます。

3B 城壁奉献 12
1C 系図 1−26
12:1 シェアルティエルの子ゼルバベル、およびヨシュアといっしょに上って来た祭司とレビ人は次のとおりである。

 再び系図が記されています。イスラエルがバビロンから帰還するときの人々、またさかのぼってバビロン捕囚の前の時代からの系図を記しています。例えば12節に、「エホヤキムの時代に」とありますが、南ユダの王の一人です。また22節には「ペルシヤ人ダリヨスの治世に祭司として登録された」とありますが、おそらくはバビロン崩壊後、クロスが王となる前に一時的に王となったダリヨスのことと思われます。そして26節に、

12:26 以上はエホツァダクの子ヨシュアの子エホヤキムの時代と、総督ネヘミヤ、および、学者である祭司エズラの時代の人々である。

 とあります。よく考えれば、よくも系図が残っていた、生き残っている人々がいたものだと思います。彼らは絶ち滅ぼされず、神は彼らをお見捨てにならなかったのです。当時、エレミヤが生きていた時代、だれがバビロン捕囚という過酷な取り扱いを神がなされると思ったでしょうか?一時的な安寧を約束する偽預言がはびこりましたが、そのときの理解や感情では安寧の約束の飛びついておかしくありません。けれども、神はご自分の主権の中で、人間の理解や思いを超えてご自分の約束を必ず果たされる、真実な方です。

2C 聖歌隊 27−47
12:27 彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行なおうとした。

 のろいの誓いをして、エルサレムの住民を定めた後、城壁の奉献式を行ないました。申命記20章5節などには、新しい家の奉献について書かれていますが、新しいものを主におささげする行為は主に喜ばれます。新しい子の誕生で、教会の中で献児式を行ないますがこれも主に喜ばれることでしょう。

12:28 そこで、歌うたいたちは、エルサレムの周辺の地方や、ネトファ人の村々から集まって来た。12:29 また、ベテ・ギルガルや、ゲバとアズマベテの農地からも集まって来た。この歌うたいたちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたからである。12:30 祭司とレビ人は、自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめた。

 奉献式のときに主に感謝の歌をささげながらささげます。そこでレビ人の賛美の奉仕者を招集しました。それから城壁、門、また一般のイスラエル人たちも儀式的にきよめて、奉献式に備えます。

12:31 そこで私は、ユダのつかさたちを城壁の上に上らせ、二つの大きな聖歌隊を編成した。一組は城壁の上を右のほうに糞の門に向かって進んだ。

 「聖歌隊」と訳されていますが、本当は、「感謝の歌を歌う者」です。

12:32 彼らのうしろに続いて進んだ者は、ホシャヤと、ユダのつかさたちの半分、12:33 アザルヤ、エズラ、メシュラム、12:34 および、ユダ、ベニヤミン、シェマヤとエレミヤであった。12:35 祭司のうちのある者もラッパを持って進んだ。すなわち、ヨナタンの子ゼカリヤであった。このヨナタンはシェマヤの子、順次さかのぼって、マタヌヤの子、ミカヤの子、ザクルの子、アサフの子である。12:36 また、ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタヌエル、ユダ、ハナニであって、神の人ダビデの楽器を持って続いて行った。学者エズラが彼らの先頭に立った。12:37 彼らは泉の門のところで、城壁の上り口にあるダビデの町の階段をまっすぐに上って行き、ダビデの家の上を通って、東のほうの水の門に来た。

 この光景を想像することができるでしょうか?聖書の巻末にある地図に、ネヘミヤ時代の城壁が記されていたらそこに矢印が書かれてあるのに気づくでしょうか?新改訳の聖書では、谷の門から二手に矢印が出ていて、「再建した城壁の奉献式巡回行路」と書かれています。エズラを先頭にする列は時計と反対回りを歩いています。

12:38 もう一組の聖歌隊は左のほうに進んだ。私は民の半分といっしょに、そのうしろに従った。そして城壁の上を進んで、炉のやぐらの上を通り、広い城壁のところに行き、12:39 エフライムの門の上を過ぎ、エシャナの門を過ぎ、魚の門と、ハナヌエルのやぐらと、メアのやぐらを過ぎて、羊の門に行った。そして彼らは監視の門で立ち止まった。

 もう一組は時計回りで城壁を巡りました。そしてネヘミヤがうしろに従っています。ネヘミヤから、指導者とは何たるものかを数多く学ぶことができますが、「責任を取る人」と言い換えても良いでしょう。先ほど呼んだ、盟約に署名するときは、その誓いを果たさなかったら決して言い逃れできないように、最初に署名しました。今ここでは、先頭に立って目立つところにいるのではなく、最後に回って巡回の様子を見守っていました。常に自分が責任を取ることができる立場においています。ローマ12章8節に、「指導する人は熱心に指導し」とあります。「熱心に」という言葉は英語ではdiligenceです。普通「勤勉に」と訳されますが、絶えず自分を、責任を取らなければいけない立場に置いていくとき、それが勤勉であり熱心さにつながります。

12:40 こうして、二つの聖歌隊は神の宮でその位置に着いた。私も、私とともにいた代表者たちの半分も位置に着いた。

 どちらの聖歌隊も半周して、神殿のところで合流しました。

12:41 また祭司たち、エルヤキム、マアセヤ、ミヌヤミン、ミカヤ、エルヨエナイ、ゼカリヤ、ハナヌヤも、ラッパを持って位置に着いた。12:42 また、マアセヤ、シェマヤ、エルアザル、ウジ、ヨハナン、マルキヤ、エラム、エゼルも位置に着いた。それから、歌うたいたちは、監督者イゼラフヤの指揮で歌った。12:43 こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。

 すばらしいですね、歌をうたって、その後数多くのいけにえをささげて、みなで喜び歌いました。神さまが律法によって示してくださったデザインが、そしてダビデ、ソロモンの時代に与えられたエルサレムの町がこのような形で回復したのですから、喜びも一入(ひとしお)です。

 そしてそれを、「神が彼らを大いに喜ばせてくださった」とあります。ネヘミヤ記全体のテーマと言っても良いでしょう、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせる(ピリピ2:13)」とあります。私たちは、私たちが願って、私たちが喜んでいるように見えるかもしれませんが、主を第一にして生きているとき、みことばを自分の心に宿しているとき、私たちが行なうこと、感じていること、願っていることは、実は神ご自身がそれをなしておられることが多いのです。

12:44 その日、備品や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人々が任命され、彼らは祭司とレビ人のために、律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務についている祭司とレビ人をユダ人が見て喜んだからである。

 先ほどの、十分の一を納める掟をユダの人々は喜んで行ないました。祭司とレビ人が行なっている奉仕を見て、それに感動して喜んでささげています。本当にすばらしい御霊の流れですね。御霊が働かれるところには、自由があります。いやいやながらではなく、喜んで与えます。本当にその奉仕者を支えたいという喜びの思いからささげます。

12:45 彼らおよび歌うたいや門衛たちは、ダビデとその子ソロモンの命令のとおりに、彼らの神への任務と、きよめの任務を果たした。12:46 昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。

 私たちがサムエル記、列王記、そして歴代誌で学んだダビデとソロモンの王国隆盛の時代に行なわれていた神殿礼拝が復活しました。

12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代には、イスラエル人はみな、歌うたいと門衛のために定められた日当を支給していた。彼らはまた、レビ人には聖別したささげ物を与え、レビ人はその聖別したささげ物をアロンの子孫に渡していた

 ダビデとソロモンが定めたこと以外に、歌うたいと門衛が専ら奉仕に時間を注ぐことができるように、日当を支給しました。

2A 叱責による矯正 13
 ここまで読むと、イスラエルの人々がようやく神さまの回復の中で生きていけそうに見えますが、現実はそうではありません。人間の堕落の問題があります。新約聖書には、数多く「とどまっていなさい」「しっかり立っていなさい」「堅く保っていなさい」という命令と勧めがあります。「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1」「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:7」「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。(ヘブル6:11」「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。(1ヨハネ2:24」このように、たくさんあります。

 しかし人間の問題は、一見、非常に単純でたやすいに思える「とどまる」という行為をすることができない存在です。このネヘミヤ記の最後の章で見るのは、とどまらずにさまよってしまうイスラエル人の姿を見ます。

1B 世との分離 1−3
13:1 その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。13:2 それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。13:3 彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた。

 旧約聖書の学びでかなり前に学んだところですが、モアブの王バラクが呪い師バラムを雇って、イスラエルを呪おうとした出来事のことです。この出来事は一過性のものではなく、ずっと覚えておかなければいけないものとして、主がお定めになりました。申命記23章3節に書かれています。

 この律法にしたがってイスラエル人は混血の者を取り除きますが、かなり前のことをなぜ主はこのように厳しく取り扱われるのか、と疑問に思われるかもしれません。けれども、その敵対意識が後の子孫にも特徴的に現われることを見据えて、神はモーセを通してそのように警告したのです。次をお読みください。

2B 改革 4−31
1C 敵の居住 4−9
13:4 これより以前、私たちの神の宮の部屋を任されていた祭司エルヤシブは、トビヤと親しい関係にあったので、13:5 トビヤのために大きな部屋を一つあてがった。その部屋にはかつて、穀物のささげ物、乳香、器物、および、レビ人や歌うたいや門衛たちのために定められていた穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、および祭司のための奉納物が保管されていた。

 トビヤを覚えていますか、神殿の城壁建設に反対し、あらゆる敵対行為をネヘミヤに行なった首謀者の一人です。彼はアモン人です。これでお分かりになると思いますが、バラクがいた時から千年もたった今もこのようにしてユダヤ人のすることに敵対しているのです。

 そしてなんと、大祭司エルヤシブとトビヤが親しい関係にありました。もっとも起こってはならないシナリオが起こっています。神の仕事に一番責任をもっている人が、神の仕事に一番敵対している者と仲良くしているのです。これが霊的には一番致命的です。霊的に指導的な立場にいる人が、神に敵対するこの世のことを取り入れるときに、霊的な損害は甚大です。

 事実、今さっき読んだ、ユダヤ人が礼拝奉仕者を支えるためにささげたものを保管しておく場所に、トビヤの部屋を作っています。これは人間の心臓に毒を注入しているようなもので、神のご臨在の中枢部分に悪が入り込んでいる状態です。

13:6 その間、私はエルサレムにいなかった。私は、バビロンの王アルタシャスタの三十二年に、王のところに行き、その後しばらくたって、王にいとまを請い、13:7 エルサレムに帰って来たからである。そのとき、エルヤシブがトビヤのために行なった悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。

 ネヘミヤがペルシヤからエルサレムへ経ったのは、アルタシャスタ王の治世第二十年目でしたから、彼は12年間エルサレムにいました。それからペルシヤに戻って再びエルサレムに戻ってきました。その期間は一年だったのでしょうか、二年だったのでしょうか、そう長い期間ではなかったかと思われます。その間にこの悪事が行なわれました。

13:8 私は大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し、13:9 命じて、その部屋をきよめさせた。そして、私は、神の宮の器物を、穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めた。

 大いにきげんを悪くしていますが、もっともなことです。怒ることは、多くの場合自己中心から来ていますが、ネヘミヤのように神の正義から来る怒りもあります。イエスさまが、神殿をきよめられたときもそうでした。神殿を強盗の巣にしていると言われて、怒られました。神から来る怒りの感情が存在します。

2C 奉仕の軽視 10−14
13:10 私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。13:11 私は代表者たちを詰問し、「どうして神の宮が見捨てられているのか。」と言った。そして私はレビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせた。13:12 ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を宝物倉に持って来た。

 ネヘミヤの二つ目のきよめの行為は、レビ人をその奉仕に戻らせることです。奉仕がないがしろにされた理由は明白です。ユダの人々がささげものを持ってきて、彼らが奉仕に専念できるようにできなくさせていたことです。自分の生活がきちんとできていなかったら、レビ人は自分の農地に戻りました。

 こうして汚れは、私たちの中にもいつの間にか入り込むのではないでしょうか?いつの間にか、自分たちの生活が中心になっていき、神の働きがなおざりにされていくことです。牧師の生活が苦しくなること、教会の建物が汚らしくなってくること、礼拝がマンネリ化してくること、いろいろあると思いますが、これも一人ひとりの心が神から離れてしまったことによる、目に見える現われなのです。

13:13 そこで私は、祭司シェレムヤと、学者ツァドクと、レビ人のひとりペダヤに宝物倉を管理させ、マタヌヤの子ザクルの子ハナンを彼らの助手とした。彼らは忠実な者と認められていたからであった。彼らの任務は、兄弟たちに分け前を分配することであった。

 ネヘミヤによるさらなる改革です。

13:14 私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。

 この祈りが、他に三回出てきます。自分のしたわざを思い出して、あわれんでください、という祈りです。この祈りは必ず聞かれます。ヘブル書6章10節に、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6:10」とあります。主のために労苦したこと、特に愛の動機によって労苦したことを、神は決して忘れることはありません。

3C 安息日の軽視 15−22
13:15 そのころ私は、ユダのうちで安息日に酒ぶねを踏んでいる者や、麦束を運んでいる者、また、ろばに荷物を負わせている者、さらに、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじくなど、あらゆる品物を積んで、安息日にエルサレムに運び込んでいる者を見つけた。それで私は、彼らが食物を売ったその日、彼らをとがめた。13:16 また、そこに住んでいたツロの人々も、魚や、いろいろな商品を運んで来て、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。

 覚えていますね、のろいの誓いにおいて彼らは安息日を守ることを決めました。ここでさっそく破っています。自分たちが商売を営んでいるだけでなく、海洋都市ツロから来た商人との売買も行なっています。

13:17 そこで私は、ユダのおもだった人たちを詰問して言った。「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか。13:18 あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの町の上に送られたではないか。それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている。」

 ネヘミヤはむやみに怒っているのではありません。彼は、こんなことをしていたら神の怒りがくだるという深刻な状況を見据えて、怒っているのです。

13:19 安息日の前、エルサレムの門に夕やみが迫ると、私は命じて、とびらをしめさせ、安息日が済むまでは開いてはならないと命じた。そして、私の若い者の幾人かを門の見張りに立て、安息日に荷物が持ち込まれないようにした。

 再びネヘミヤの熱心さの現われです。対処をした後も、再び同じことが起こらない対策を立てています。

13:20 それで、商人や、あらゆる品物を売る者たちは、一度か二度エルサレムの外で夜を過ごした。13:21 そこで、私は彼らをとがめて言った。「なぜあなたがたは、城壁の前で夜を過ごすのか。再びそうするなら、私はあなたがたに手を下す。」その時から、彼らはもう、安息日には来なくなった。

 ほとんど脅迫ですが、安息日を守るための真剣勝負です。

13:22 私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。

 再び祈っています。彼は、今のイスラエルが神の大いなるあわれみのゆえに、成り立っていることを良く知っていました。本当ならこの民族が完全に滅ぼされても不思議ではなかったのです、けれども今、残りの民が生かされています。そこでイスラエル人は、自分の罪を拭い去って神のあわれみの中で生きるはずだったのです。だからネヘミヤは、「あわれんでください」と祈っています。本当ならばさばかれなければいけないけれども、どうかあわれんでください、と祈っています。

4C 雑婚 23−31
13:23 そのころまた、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人たちのいるのに気がついた。13:24 彼らの子どもの半分はアシュドデのことばを話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤのことばがわからなかった。

 彼らが誓ったことは、ことごとく破られています。事態も深刻でユダのことばが分からない子が出てきたほどでした。

13:25 そこで、私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせて言った。「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。

 事実、彼らは「のろい」の誓いに入っていました。毛を引き抜く行為は、相手の尊厳を傷つける好意です。男性の毛、とくにひげはその人の尊厳を表していましたが、貶めるときにひげをそらせる行為をしていました。そこで、ネヘミヤはこのことを行ないました。

13:26 イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。13:27 だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」

 安息日同様、外国の女をめとったがゆえに、ユダヤ人が国を追われた身となったことを思い出させています。罪を犯すといかに深刻な結果をもたらすか、ネヘミヤは分かっていたのです。時に私たちは、神からこのような訓練、懲らしめを受けることがあります。けれども、それはもっともっと深刻な事態、罪によって滅ぶことからまぬかれるための、神の愛のむちです。

13:28 大祭司エルヤシブの子エホヤダの子のひとりは、ホロン人サヌバラテの婿であった。それで、私は彼を私のところから追い出した。13:29 私の神。どうか彼らのことを思い出してください。彼らは祭司職を汚し、祭司やレビ人たちの契約を汚したからです。

 サヌバラテはトビヤとともに城壁再建を阻止しようとした首謀者です。エルヤシブが敵トビヤと仲良くしていたために、孫はなんと敵の家族と婚姻関係に入っていました。

13:30 私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、13:31 定まった時に行なうたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。

 こうして、いつくしみを請う祈りでネヘミヤ記は終わっています。

 私たちもイスラエルと同じように、堕落した性質を持っています。ついさっき「このことは二度としません」と神様に約束したことでさえ、見事に破ってしまうような存在です。ローマ8章には、「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(7節)」とあります。私たちは絶えず、御霊に導かれている必要があります。ネヘミヤが二度目の改革を行なったように、私たちは一度だけでなく二度も、三度も変革され続けなければいけません。最後にローマ12章2節を引用します。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2


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