ネヘミヤ記7−9章 「律法の回復」


アウトライン

1A 指導者の任命 7
   1B エルサレムの警備 1−3
   2B 系図 4−68
   3B 工事のための捧げ物 69−72
2A 律法の朗読 8
   1B 民の反応 1−12
   2B 民の応答 13−18
3A 罪の告白 9
   1B 主への礼拝 1−5
   2B 神の恵みと契約 6−38
      1C 約束の神 6−8
      2C 真実の神 9−25
      3C 現在の苦境 26−38

本文

 ネヘミヤ記7章を開いてください、今日は7章から9章までを学びます。ここでのテーマは、「律法の回復」です。

 ネヘミヤ記の学びは、神さまの働きを始める志が与えられている人には本当に貴重な知恵がたくさんあります。彼が涙をともなった祈りから始めたこと、そして神さまがその志の中に働いてくださり、すみやかに完成してくださることを学びました。その中で、非常に熾烈な悪魔からの攻勢があります。激しい反対がありますが、けれどもネヘミヤの祈りと用心深さのように、私たちも目をさまし祈りつつ、忠実に行なっていくのであれば、敵は必ず退くことを学びました。

 そして、52日で城壁が完成しました。時は九月です。(前回の学び(音声メッセージ)にて、もっとはやい期間を申し上げましたが、ネヘミヤがペルシヤからエルサレムに旅する期間を加えるのを忘れていました。)そして今日読むところは、完成した後にネヘミヤが、いや、一般の民のほうの積極的な行動によって、神の律法が読まれる部分に入っていきます。

1A 指導者の任命 7
1B エルサレムの警備 1−3
7:1 城壁が再建され、私がとびらを取りつけたとき、門衛と、歌うたいと、レビ人が任命された。

 前回の学び6章にて、とびらが取り付けられるだけになった時、トビヤやサヌバラテなどがネヘミヤ個人に対して危害を加えようとしたところを読みましたが、とびらを取りつけたときに城壁の再建が完成しました。その後すぐに、門衛と歌うたいとレビ人が任命されました。後に律法を朗読することになりますが、その時に律法を解き明かすレビ人の教師がおり、また次回の学びで出てくる城壁奉献式にて門衛や歌うたいによる奉仕を読みますが、これら奉仕者がまず任命されました。

7:2 私は、兄弟ハナニと、この城のつかさハナヌヤとに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである。

 兄弟ハナニは、ネヘミヤがペルシヤにて献酌官の仕事をしていたときに、エルサレムの惨状を伝えた彼の肉の兄弟のことです。そしてハナヌヤという人も、エルサレムを治めるように任命されました。その理由が、「誠実」であることと「神を恐れていた」ことです。聖書に出てくる治める者の特質が、ここにも出てきました。モーセが一人でイスラエルの民を裁いていた時、姑のイテロはその重荷を分担しなければいけないと助言し、こう言いました。「あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。(出エジプト18:21

 この世では治める者にさまざまな能力が求められます。今日では、大衆に分かりやすい言葉を持っている指導者が、政治の中でもそして教会の中でさえ求められていますが、例えば映画俳優や監督に会ったりするパフォーマンスをどこかの国の首相は行なっていますね。けれども、聖書では誠実であることと、神を恐れている人が求められています。

7:3 私はふたりに言った。「太陽が高く上って暑くなる前に、エルサレムの門をあけてはならない。そして住民が警備に立っている間に、門を閉じ、かんぬきを差しなさい。エルサレムの住民のうちから、それぞれの見張り所と自分の家の前に見張りを立てなさい。」

 ネヘミヤは、城壁が完成した後でも周囲に敵がいることを意識して、門の管理を厳重に行なわせました。

2B 系図 4−68
7:4 この町は広々としていて大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった。7:5 私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた。私は最初に上って来た人々の系図を発見し、その中に次のように書かれているのを見つけた。

 ネヘミヤは、エルサレムの町に、きちんと系図をもったユダヤ人であると証明されるユダヤ人たちに住ませようと考えました。次回の学び11章にて、エルサレムに住むようになった人々の名が連なれています。

 そしてネヘミヤは、系図を記載することは神が自分の心を動かして行なわせたことであると明記しています。私たちはとかく、感情や状況の流れが変わるときに、神の導きを認めることが多いですが、このように志、つまり意思決定における神の働きがあることを認めなければいけません。例えば、結婚式はその典型です。結婚式を挙げてからしばらくしてから、「間違った人と結婚したのではないか」という感情が出てきて思いが乱れるとしたら、それはもちろん神の導きではなく逆に悪魔が結婚を混乱させるための仕業です。結婚式のときに神の前で決心したことは、神が行なってくださったのであり、意思や志に神が働きかけてくださったのです。

7:6 バビロンの王ネブカデネザルが引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。

 次から名前が列挙されていますが、私たちがエズラ記で学んだ時の系図と同じものです。多少人数が異なっていますが、エズラが書き記した系図を書き写した人が誤ったのか、あるいは他の何らかの意図で異なる人数が書き記されたものと思われます。

 7節には、ゼルバベルとともに帰還したおもだった人々の名前が書かれています。そして8節以降にイスラエルの一般人がそれぞれ氏族ごとに、また町ごとにその人数が記載されています。それから39節を見てください祭司の系図が記載されています。そして43節以降にレビ人の系図があり57節以降にソロモン王国で働いていた人々の子孫の系図があります。61節以降には、系図によって祭司であると証明できなかった人々の名があり、彼らは証明できるまでは神殿奉仕をすることはできないと書かれています。そして66節から全集団の合計人数と奴隷や家畜の数も記されています。

3B 工事のための捧げ物 69−72
 それから69節以降には、神殿建設に必要な材料を奉献したその奉献物が書かれています。それが終わってそれぞれの町に戻ったのですが、そこまでがエズラ記にも記載されていた内容です。それから、72節後半部分から新しい部分に入ります。72節から読みます。

7:72 こうして、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、民のある者たち、宮に仕えるしもべたち、および、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、

2A 律法の朗読 8
1B 民の反応 1−12
8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。

 第七の月は九月の後半です。九月に城壁の再建が完成したから、すぐにこの出来事、民が学者エズラに律法を朗読してもらうことを願う出来事が起こりました。

 思い出していただきたいのですが、エズラがエルサレムにやって来たのが紀元前458年で、ネヘミヤがエルサレムに来たのが紀元前445年ですのでまだ13年しか経っていません。エズラに課せられていた任務は神の律法をイスラエルの民に教えることでしたが、彼がエルサレムに到着してすぐに、イスラエルの中に外国人と婚姻関係に入っている者たちがいたことが発覚し、彼の顔の色が失せた出来事がありました。イスラエルの民の中にもそれを悔いる動きが出て、外国人の妻とその子供を切り離す過酷な決断をせざるを得ない状況でした。

 その後にも、学者エズラによる律法を教える働きは続いていたのでしょう。ネヘミヤが来た時には、イスラエルの民に主の律法を求める心が強く起こされていたに違いありません。イスラエルの例祭の中に、第七の月に一日がラッパを吹き鳴らす日、十日が贖罪の日、そして十五日に仮庵の祭りがあります(レビ記23章)。そのラッパを吹き鳴らす日にイスラエルの民が、城壁の水の前に律法を聞きにやってきました。

 このように、神の御言葉を人々のほうから主体的に聞こうとする態度は本当にすばらしいことです。教師から言われたから聞くのではなく自ら進んで聞くのですから、そこには神の御霊がその人の心を奮い立たせておられるに違いありません。

8:2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、8:3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。

 集まって律法の書を聞いていた人々は、理解できる人全員です。つまり、小・中学の国語の能力がある人であれば誰でも、でしたが、それが夜明けから真昼まで続いていたのだから驚きです。神の御言葉を慕い求めている時、時間はすぐに経ってしまいます。現在でも国や地域によっては礼拝の時間が三時間とか四時間続くところもあると聞いていますから、私たちが1時間の礼拝で長いと感じ説教が30分は長すぎると不平を漏らすのは、礼拝の態度がいかに受動的なものになってしまっているか相対的に知ることができると思います。

8:4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。

 みなが神の律法をエズラが朗読しているのを見ることができるように木の台を作りました。教会で言えば、説教檀のようなものです。そして、その周りにレビ人の律法の教師らがいます。

8:5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。

 律法に対する敬いがここにはあります。すべての人の前で書を開くと、みなが立ち上がりました。律法を開く場所は、すべての民よりも高いところにありました。ヨーロッパではかつての宗教改革の時の教会堂がまだ残っているところがあるのですが、その説教檀は上階のほうにあって聴く会衆たちが説教者を仰ぎ見るようになっています。それは、神の御言葉が何よりも高められていること、これが最高権威であることを示すものでした。詩篇138篇2節に、「その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。(新共同訳)」とあります。神の御名よりもまさって、仰せ、御言葉が大いなるものとされているのです。

 ところで、神の律法についてですが、今の新約時代に生きている私たちには生理的な拒否反応が起こるかと思います。「私たちは律法の下にいるのではなく、恵みの下にいます。」「律法の文字は殺しますが、御霊が私たちを生かすのです」と言います。しかし、律法は良いもので、聖なるものであり、正しいとパウロはローマ七章にて言いました。律法には何も悪いものはなく、むしろ私たちを生かすのです。問題は、これを自分の義を立てるため、肉によって行なおうとすることです。そうすると、完全な敗北を経験します。

 
しかし、神の律法は神の御言葉であり、神の命令です。私たちが内住されている御霊にあって信仰によって聞くとき、私たちは神の御言葉を行なうことができ、神の律法が要求していることが私たちのうちで完成されるのです(ローマ8章4節)。だから、御言葉を教えること、また御言葉を聞くことが教会における中心的な活動にならなければいけません。

8:6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン。」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。

 民が感情をもって反応しています。律法を朗読しているなかで、主の偉大さが明らかにされます。エズラがそれに呼応して、主をほめたたえます。そして民も呼応して、「そのとおりです、主は大いなる方です」ということで、アーメン、アーメンと言っているのです。また、地にひれ伏しています。これは主への畏敬を感じたときの反応です。

8:7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。8:8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

 エズラの横にいるレビ人たちが、律法を解き明かしました。ここに、聖書を教えることの定義とも言うべき、大事な事が書かれています。「神の律法の書をはっきりと読んで説明した」というところです。口語訳ですと、「彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。」とあります。

 三つのことが書かれています。一つは、律法を明瞭に読むことです。御言葉を読むことそのものが、私たちの集まりの中で非常に重要なことです。ある説教者が、どこかの教会に招かれました。そこの主催者は、説教者があまりにも多くの聖書個所を引用して読むのを知っているので、「時間に限りがありますので、要点だけを話していただけませんか?」とお願いしたそうです。そうしたら、「そうですか、では私の言葉は全部、はしょって、聖書個所と引用聖句だけを読んでいきます。」と答えました。主催者は恥じて、自分のお願いを撤回したそうですが。私たちは話者の話を聞きに来ているのではなく、御言葉を聞きに来るのです。

 そして二つ目は、「意味を解き明かし」ます。書かれてあることの意味を説明していきます。そして三つ目に、「その読むところを悟ら」せるのです。御霊が働かれているとき、この方法で神の御言葉が語られるとき、人々は何が神に受け入れられ、良いことであるか、完全なことであるかをわきまえ知ることができるようになります(ローマ12:2参照)。説教者の意見でもなく、また聞き手の気持ちや願いでもなく、神のお考え、神のおこころが一人ひとりの心に照らされるのです。

8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

 なぜ泣いていたのか、お分かりになりますね?自分の民が、自分たちの先祖がいかに悪いことを行なってきたのかを律法の解き明かしによって知ったからです。罪が、御言葉を通して、聖霊によって示されました。詩篇19篇7節に、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」るとあります。御言葉という鏡がなければ、自分たちの本当の姿を見ることができません。けれども、今は見ることができます。自分がどうしようもなく惨めな状態であることを悟り、いたってもいられなくなり、どうすればよいか分からなくなっている状態です。

8:10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

 神の御言葉によって、私たちは罪を悲しむ悲しみに導かれます。けれども、悲しみに沈ませるようなことはさせません。聖霊の実はいつも、喜びです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる(2コリント7:10」と使徒パウロは言いました。

 そして「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」とありますが、他の翻訳では「主を喜ぶことはあなたがたの力です」とあります。信者の喜びとは、主を喜ぶ喜びです。周りの状況に自分が拠り頼めば時には悲しくなり、落胆し、その幸福感は安定しませんが、主を喜ぶとき確かな力が与えられます。パウロがこう述べました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(2コリント4:8-10」苦境にある時でも与えられる力です。

8:11 レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」8:12 こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。

 人々が罪を捨て、悔い改め、神からの豊かな罪の赦しを得るとき、それは喜びとなって結実します。聖書の中で、主に出会った人々がどのような反応をするか、例えばピリポがサマリヤの町で伝道した時、「それでその町に大きな喜びが起こった。(使徒8:8」とあります。これが神の御言葉を本当に理解した後に出てくる反応です。

2B 民の応答 13−18
 こうして民が御言葉に反応していますが、次から読む箇所は反応に終わらず、御言葉に応答している姿を見ます。

8:13 二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。

 御言葉を調べました。ベレヤにいるユダヤ人たちが、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた(使徒17:11」のですが、受動的に御言葉を聞くのではなく、自分の手で自分の目で御言葉を読んで追ってゆき、そして自分で何が書かれているかを発見する作業はとても大切です。

8:14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。8:15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」

 先ほど話した、仮庵の祭りについてのことです。イスラエルが荒野の旅を無事に終えて、約束の地に入ることができたことをお祝いする祭りです。荒野で天幕、つまり仮庵の中でイスラエルの民は過ごしたのですが、同じように仮の庵を木の枝で作ってそこに住みます。

8:16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。

 書かれてある通りに、行ないました。これには勇気が要ります。私たちが今まで行なったことがなかったことを、聖書に書かれてあるという理由だけで自分の生活では前例がないのに行なうというのは、勇気が要ります。皆さんがイエス様を信じて、他の人にイエス様のことを伝えたとき、どういう気持ちでしたか?また、祈り会などで人々の前で祈るとき、どういう気持ちでしたか?私はものすごく緊張しました。けれども、普通は行なわない、不自然だと感じるようなことも、神さまが言われているからという理由で私たちは行動するのです。

8:17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。

 仮庵の祭りは、ソロモン王の時代にも行なわれたことが記述としてありますが、このように盛大に、実際に仮庵の意味を理解して行なったのは、ヨシュアの時代以降のことつまり、これまでかつてないものでありました。主の御言葉がその通りになっているのを見ることほど、喜ばしいことはありません。聖書が記録しているとおりに、聖霊の御業が起こっているのを見るほど、嬉しいことはありません。

8:18 神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行なわれた。

 祭りの間に続けて、律法の朗読は続けました。申命記31章には、仮庵の祭りは七年ごとに、律法の朗読をするようにとの命令があります。この命令にもエズラたちは従いました。

3A 罪の告白 9
1B 主への礼拝 1−5
9:1 その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。9:2 そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。

 イスラエルは、二十二日に仮庵の祭りを終えていますが、その翌々日から罪の告白の時を持ちました。断食、荒布を着けること、土をかぶることは、ユダヤ人たちが自分たちの犯した罪や過ちについて悲しむときに、行なうことです。

 イスラエルは喜びの祝いの時を持ちましたが、確かに、主にあって喜びを持たなければいけませんが、今は、あくまでもペルシヤ帝国の支配下にあり、神が王となって支配する、イスラエルの独立国が出来ているわけではありません。この状態の中にあっても悔い改め、悔いのない魂には喜びと平安が与えられますが、罪を犯したことによってもたらされる結果のすべてが解決するわけではないのです。それで、彼らは喜ぶべき時には喜びましたが、自分たちの先祖が犯したことについて、神さまの前で悲しむ時間を欲しました。

9:3 彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。

 第七つの月に集まったときも、夜明けから真昼まで律法が朗読されましたが、同じぐらいの時間帯を続けて律法の朗読のために割きました。それから、同じ六時間ほどの時間を罪の告白をしながら、主を礼拝する時間に充てました。

9:4 ヨシュア、バニ、カデミエル、シェバヌヤ、ブニ、シェレベヤ、バニ、ケナニは、レビ人の台の上に立ち上がり、彼らの神、主に対し大声で叫んだ。

 先ほどエズラの横にいて、律法を解き明かしていったレビ人たちと同じようなメンバーが、ここでの人々の前に立っています。

9:5 それからまた、レビ人のヨシュア、カデミエル、バニ、ハシャブネヤ、シェレベヤ、ホディヤ、シェバヌヤ、ペタヘヤは言った。「立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。」

 主を賛美しています。そして次から長い祈りが記載されています。

2B 神の恵みと契約 6−38
1C 約束の神 6−8
9:6 「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

 祈りの初めに、創造における神の偉大さを述べています。神は万物を造られ、またそれを保っておられます。そして地上にあるものだけでなく、天に属するもの、天使たちも神はお造りになられました。

9:7 あなたこそ神である主です。あなたはアブラムを選んでカルデヤ人のウルから連れ出し、彼にアブラハムという名を与えられました。9:8 あなたは、彼の心が御前に真実であるのを見て、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の地を、彼と彼の子孫に与えるとの契約を彼と結び、あなたの約束を果たされました。あなたは正しい方だからです。

 神は初めにアブラハムを選ばれて、それから彼の子孫に土地を与えるという約束をしてくださいました。そして次から彼らが述べる祈りは、いかに神がこの約束を守ってくださるのか、イスラエルの反抗があったにも関わらず、忍耐深く彼らを見捨てないでおかれたのか、神の真実を述べていきます。

2C 真実の神 9−25
9:9 あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。9:10 あなたは、パロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行なわれました。これは、彼らが私たちの先祖に対して、かってなことをしていたのをあなたが知られたからです。こうして、今日あるとおり、あなたは名をあげられました。

 エジプトで主がそれをさばかれたことによって、主の御名、ヤハウェが世界中に知られ渡ることになりました。

9:11 あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。9:12 昼間は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らにその行くべき道を照らされました。9:13 あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことの律法、良きおきてと命令を彼らにお与えになりました。9:14 あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令とおきてと律法を彼らに命じられました。

 イスラエルの民を、いろいろな側面から守り、養ってくださいました。敵からの救いを与えられました。砂漠の旅に必要だった日よけも用意し、夜に必要な光にもなってくださいました。そして、何よりも民が生きて、幸せになるために必要な律法を与えられました。

9:15 彼らが飢えたときには、天からパンを彼らに与え、彼らが渇いたときには、岩から水を出し、こうして、彼らに与えると誓われたその地を所有するために進んで行くよう彼らに命じられました。

 パンと水も与え、彼らが生きていくのに必要なものを与えておられます。

9:16 しかし、彼ら、すなわち私たちの先祖は、かってにふるまい、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。9:17 彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行なわれた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。

 こんなにも良くしていただいたのに、約束の地に入るために必要なものはすべて与えられたのに、それでもイスラエルは反抗しました。本当ならば、イスラエルは滅ぼされても仕方がないことです。神には彼らを滅ぼしても何一つ咎められない、正当な理由がいくつでもありました。けれども、出エジプト記、民数記の記述を思い出してください、主はずっと赦しとあわれみと、恵みを施しておられます。

9:18 彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ。』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、9:19 あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。

 金の子牛の事件も覚えていますね、あそこでも主はモーセの執り成しの祈りを聞かれて、その怒りの御手を引き下げられました。

9:20 あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。9:21 四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。

 金の子牛の事件の後も、またカデシュ・バルネアでの事件があり四十年の荒野の放浪のさばきを与えられましたが、そこでに滅ぼすことなく新しい世代が約束の地に入るために、その間彼らを養い続けられました。

9:22 あなたは彼らに王国や国々の民を与え、それらを領地として割り当てられました。こうして、彼らはシホンの地、すなわちヘシュボンの王の地と、バシャンの王オグの地を占領しました。9:23 あなたは彼らの子孫を空の星のようにふやし、彼らの先祖たちに、はいって行って所有せよ、と言われた地に、彼らを導き入れられました。

 モーセがヨルダン川の東岸にて、最後の説教を行なったときイスラエルの民は確かに何十万人、女子供を合わせたら、二・三百万人はいました。ヤコブの家族が七十人でエジプトに来たのですから、確かにアブラハムへの約束を神は果たしておられます。

9:24 こうして、その子孫は、はいって行って、その地を所有しました。あなたは、彼らの前でこの地の住民、カナン人を屈服させ、これを彼らの手に渡し、その王たちや、この地の人々も渡して、これを思いどおりに扱うようにされました。9:25 こうして、彼らは城壁のある町々と、肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物の満ちた家、掘り井戸、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹をたくさん手に入れました。それで、彼らは食べて、満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵みを楽しみました。

 ヨシュアの時にも、神はご自分の真実を尽くされました。戦いに勝つようにさせて、その土地の収穫を楽しむことができるようにされました。

3C 現在の苦境 26−38
9:26 しかし、彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法をうしろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加えました。9:27 そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなるあわれみによって、彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。9:28 しかし、ひと息つくと、彼らはまた、あなたの前に悪事を行ないました。そこで、あなたは彼らを敵の手にゆだねられ、敵が彼らを支配しました。しかし、彼らが立ち返って、あなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたのあわれみによって、たびたび彼らを救い出されました。

 これは士師の時代のことです。彼らが敵の支配による苦境に陥ったときに、主は救う者たちを与え、戦いに勝ち、その虐げから救ってくださいました。

9:29 あなたは彼らを戒めて、彼らをあなたの律法に立ち返らせようとされましたが、彼らはかってなふるまいをして、あなたの命令に聞き従わず、もし人がこれを行なうなら、これによって生きる、というあなたの定めにそむいて罪を犯し、肩を怒らして、うなじをこわくし、聞き入れようとはしませんでした。9:30 それでも、あなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。それであなたは、彼らを国々の民の手に渡されました。9:31 しかし、あなたは大いなるあわれみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神であられますから。

 士師の時代の後、王国時代が始まりました。そして、列王記、歴代誌に書かれてあることが起こります。その時はどうでしょうか、彼らは反抗して、主の言われたことに聞き従いませんでした。しかし、彼らは捨てられません。アッシリヤに、またバビロンに引かれていったとしても、民を残していてくださいました。そして、今、彼らはエルサレムに帰還することさえできています。エレミヤが破壊されたエルサレムの町を眺めながら、こう詠いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。』(哀歌3:22-23

 私たちは、これだけ神が憐れみ深いことを思い出さなければいけません。悪魔はこのように私たちに囁きます。「お前は、これだけ神さまに言われてきたのに、また失敗したな。もうお前は救われていない、神の前に出て行く資格もないのだ。祈る資格もない、あきらめなさい。」と。もし悪魔の言うとおりなら、イスラエルはとうの昔に存在すらしていなかったのです。私たちは確かに、反抗的なイスラエルの民と同じです、けれども神はそれにもましてご自分のあわれみを私たちに注いでくださっています。

9:32 私たちの神、契約と恵みを守られる、大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリヤの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちのつかさ、祭司、預言者たち、また、私たちの先祖と、あなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さい事とみなさないでください。

 今、主に嘆願しています。アッシリヤ捕囚以降の自分たちが置かれている状況について話し始めています。

9:33 私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行なわれたのに、私たちは悪を行なったのです。9:34 私たちの王たち、つかさたち、祭司たち、先祖たちは、あなたの律法を守らず、あなたの命令と、あなたが彼らに与えた警告を心に留めませんでした。

 今の状況を、神の正しさの中できちんと見つめています。私たち人間は、これがなかなか出来ません。必ず状況のせいや、そしてひどいのは神のせいにします。悪魔の仕業や、人間の罪によってもたらされた出来事を、なんでこんな酷いことを許すのかと神を責めるのです。しかし私たちがただ「私が罪を犯したからです」と責任を自分のものにすれば、そこから回復の道が開かれます。

9:35 彼らは、自分たちの王国のうちと、あなたが彼らに与えたその大きな恵みのうちに、また、あなたが彼らの前に置かれた広くて肥えた土地のうちにありながら、あなたに仕えず、また自分たちの悪い行ないから、立ち返りもしませんでした。

 まだイスラエルに王がいたときのことです。その時に自分たちの王国と土地がありながら、あなたに立ち返らなかった、と言っています。

9:36 ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。9:37 私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」

 ペルシヤの王によって帰還が許されましたが、あくまでも自治が許されただけであり、イスラエルの国があるわけではありません。王には納税しなければならないし、神が初めにイスラエルに約束してくださったその理想の姿から程遠い姿を今、祈りの中で述べています。

 私たちはここから、とても大事な教訓を学ばなければいけません。それは、罪を犯したら、その罪は赦されるし、もちろんやり直しはできるけれども、その罪によってもたらされる傷があるということです。自分が犯した罪によって被害が出て、その後遺症は残ります。その制約の中でも、神は豊かな赦しとあわれみを注いでくださり、私たちは平安と喜びの中で生き、時には完全に回復してくださいます。もちろん、最後、永遠の御国にはいるときは完全な回復が約束されています。

 けれども、神の懲らしめがあることを覚えなければいけません。私たちが犯した罪を私たち自身が憎み、もう二度とそれを犯したくないと強く願うためには、神は一時的にその後遺症を置かれる場合があります。帰還後のイスラエルの民が、本当に外国の民との縁を嫌っている様子がエズラ記とネヘミヤ記から読み取ることができますが、それはこのために、自分たちの自由が奪われたのだ、自分たちが招いたその代償はあまりにも大きいと、とことんまで嫌悪しているためです。そして、このような嫌悪を神はお許しになっています。罪に対する嫌悪感を持つことによって、これまで頑固にも手放すことのなかった罪を手放すことができるようになります。

9:38 これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。

 この盟約の内容については次回、10章にて学ぶことになります。外国人との縁を断つこと、安息日を守ること、神殿礼拝を大切にすることなどの約束事です。

 こうして城壁完成後のイスラエルは、心の中における律法の回復に時間を費やしました。私たちにも、このような回復への道が与えられています。真の主にある喜びと平安を獲得する道が開かれています。神のみことばによって、自分をへりくだらさせ、自らをさばくことによってもたらされます。


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