民数記1−4章 「神の登録」
アウトライン
1A 軍務 1−2
1B 人口調査 1
1C 部族のかしら 1−16
2C 各部族 17−46
3C レビ族 47−53
2B 配置 2
1C 東 1−9
2C 南 10−17
3C 西 18−24
4C 北 25−32
2A 幕屋の奉仕 3−4
1B レビ族 3
1C 聖別 1−13
2C 一ヶ月以上 14−39
3C 主の初子 40−51
2B 任務 4
1C 用具の運搬 1−33
1D ケハテ族 1−20
2D ゲルションとメラリ 21−33
2C 三十から五十歳 34−49
本文
民数記1章を開いてください。今日は、民数記1章から4章までを学びます。ここでのテーマは、「神の登録」です。
私たちはこれまで、創世記からレビ記までを学んできました。それぞれに、私たちに大切なテーマが隠されていました。創世記には、神がアブラハムに対して約束してくださったことから、約束を得ることについて学びました。そして、出エジプト記では、イスラエルがエジプトから救い出されたことから、救いについて学ぶことができました。そして、その救われた者たちが主なる神を礼拝すること、つまり礼拝について、レビ記で学ぶことができました。そして、民数記に入ります。ここではキリスト者の歩みについて学びます。救いにあずかった私たちがまずしなければならないのは、キリストにあって堅く立つことです。キリストによって神をいかにあがめるべきかを学ばなければいけません。けれども、それだけではなく、私たちはこの世において歩むべき道があります。隠遁者のようにこの世から分離するのではなく、しっかりと地に足をつけて歩まなければいけません。これから、イスラエルの民は、シナイ山から約束の地に向けて歩みだし始めます。この荒野における旅から、私たちは、キリスト者の歩みについて学ぶのです。
民数記は、大きく三つの部分に分かれます。一つ目は、1章から14章までです。この14章には、シナイ山からカデシュ・バルネアまでのイスラエルの旅について描かれています。カデシュ・バルネアは、約束の地の入り口であった場所です。この道のりは11日間だったのですが、イスラエルは罪を犯して、40年間、荒野を放浪するさばきが与えられました。そして、民数記の二つ目の部分に入ります。15章から20章までです。ここでは、この荒野での流浪の旅について描かれています。この間に、イスラエルの成人が、ヨシュアとカレブを除き、みな死に絶えました。そして、残された新しい世代のイスラエル人が、カデシュ・バルネアから約束の地に向かって、ヨルダン川の東を通って旅をします。この部分が三つ目です。21章から36章までとなります。
こうして、イスラエルの民は、約束を与えられていたのに、それを得ることができなかったのですが、新約聖書において、これはクリスチャンに対する戒めとなっています。使徒パウロがコリント人に対してこう言いました。コリント書第一10章です。「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。…にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1-6)」イスラエルが荒野で滅ぼされたのは、悪をむさぼることのないようにするための戒めであるのです。その後で、パウロは、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)」と言っています。神の恵みの下にいるのだから、何を行なっても安心であるという誤った思い上がりについて、パウロは戒めています。
それだけではありません。ヘブル人への手紙にも、荒野で滅ぼされたイスラエル人のことが描かれています。3章16節にこう書かれています。「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。(16-19)」イスラエルが荒野で滅ぼされたのは、不信仰のためであり、私たちがみことばを聞きながら、それを信仰によって結びつけないことの恐れについて学ぶことができるのです。
こうした神さまの厳しさだけが、民数記ではありません。新しい世代が約束の地に向かって歩いているときに、神は彼らを養い、守り、また罪を赦して、最後まで導いてくださいました。神の真実をそこで読み取ることができます。
そして、今日学ぶ1章から4章に入っていきます。ここでは、この書物の題名「民数記」という名のごとく、民の人数を数えるところから始まります。人数を数えて、また、どこに宿営すれば良いのか、その配置について教えています。
1A 軍務 1−2
1B 人口調査 1
1C 部族のかしら 1−16
人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。
モーセとイスラエルの民は今、シナイ山のふもとにいます。モーセは、建てられた会見の天幕のところにいます。エジプトを出て二年目の第二月の一日とありますが、幕屋が建てられたのは第一月の一日でした。したがって、一ヶ月間の空白があるのですが、そこにレビ記が入るのでしょう。幕屋に雲が満ちて、主はモーセに語られました。そして、今、イスラエルをシナイ山から出発させるときの指示を出されます。イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。これから人口調査をするのですが、それはすべてのイスラエル人を数えるのではありません。軍務につくことのできる者たちの人口を数えます。兵役につくのですから成年男子でなければならず、二十歳以上と定められています。
民数記は、この軍務と、そして軍旗とラッパによって始まります。シナイ山から約束の地に旅をするのに、戦いに備えなければいけないのです。覚えていますか、イスラエル人たちがまだシナイ山に到着する前に、彼らにアマレク人たちが襲ってきました。イスラエル人が疲れて、弱っている時に、後ろに歩いている者たちを切り落とすという卑劣な手段を取っていました。そこで、ヨシュアがアマレク人と戦って、モーセが丘の頂で、手を上げて祈っていました。その戦いに勝つことができましたが、モーセは祭壇を築き、ヤハウェ・ニシ、つまり「主はわが旗」と呼んだのです。このように、荒野には多くの敵がいます。イスラエル人たちが敵から守られるために、神は軍務につくことのできる者たちを数えるように命じられたのです。
私たちもキリストの兵士です。私たちがクリスチャンとなり、そして教会の中から出て、この世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。クリスチャンになるということは、まさに戦いの中に入っていくようなものです。私たちは、ゆっくりとしたい、平穏に何事もなく生きていきたいと願います。そして、自分が憩うことができる場を求めて、キリスト者生活を送りたいと願います。しかし、それは主が望まれる場ではありません。主は、私たちが神の御国に向かって歩くことを願っておられるのです。ですから、キリスト者生活は、おのおのにおいて波乱万丈の人生となっていきます。敵から身を守り、また敵を徹底的に攻撃していく、こうした戦闘精神を、私たちクリスチャンが身につけなければいけないのです。パウロが言いました。「神のすべての武具を身に着けなさい。」「神のすべての武具を身に着けなさい。」主は、軍務につくことのできる者たちを、まず数えさせました。
また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。
人数を数えるときに、モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、二人の助手となりました。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。そして次から一人一人の名前が呼ばれています。16節に飛んでください。これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。
2C 各部族 17−46
そして、全会衆が召集されます。さて、モーセとアロンは、これら指名された者を伴い、第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した。ひとりひとりを数えて、その家系を登記しました。
そして、18節から、それぞれの部族の人数が記されています。ルベンは46500人、シメオンは59300人、ガドは45650人です。そして、ユダは74600人です。すべての部族の中でユダの人数が優っています。イッサカルは54400人、ゼブルンは57400人です。エフライムは40500人、マナセは32200人、ベニヤミンは35400人です。そして、ダンは62700人、アシェルは41500人、ナフタリが53400人です。この12部族で全員が、60万3550人です。ものすごい数ですね。女や子どもを含めれば、おそらく200万人は越えていたでしょう。覚えていますか、ヤコブがエジプトを下るときには、たった70人しかいませんでした。それから約215年の歳月が経ったのですが、その間に200万人以上の民に増えたのです。神はアブラハムとイサクとヤコブに、「あなたの子孫は星のように、海の砂のようになる。」と約束されましたが、はたしてそのようになっているのです。
このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士であると数えられなければいけませんでした。だれが兵士であるのかを、主が数えておられたのです。主は、だれが戦うのかをご自分で知っておられ、その者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださいました。私たちも同じです。主は、キリストを信じる者を、義人として数えておられます。罪ある者を、キリストの犠牲の供え物によって、正しいと数えてくださいました。そして、私たちはキリストによって、天国に入籍し、神の子どもとされ、天にその名が書き記されているのです。つまり、天の神は、私たちをキリストにあって、ご自分の家系に登記してくださいました。私たちは、すべての戦いの前に、自分の名が天に書き知るされていることを確信し、確認すべきなのです。自分が神の子どもであるという確信なくして、この世において戦うことは決してできません。自分が救われているかどうかも分からずに生きることほど、私たちに不安定をもたらすものはありません。まず自分が、確かに神の国に入ることができるという確信を持つ必要があります。
3C レビ族 47−53
そして47節からは、レビ人についての説明です。
しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。主はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。」
レビ人は、軍務につく者として登録されません。なぜなら、レビ人は、幕屋の奉仕をしなければならないからです。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。レビ人の具体的な奉仕は、イスラエルが旅をするときに、幕屋の用具や付属品を取り外し、それを運び、また、それを取り付ける奉仕をします。幕屋の中における礼拝の奉仕は、アロンとその子らが行ないますが、幕屋の運び手はこのレビ人になります。彼らは、その任務を負っているので、軍務からははずされているのです。
イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。
レビ人は、幕屋の回り、すぐそばに宿営します。イスラエルの軍団は、その外側に宿営します。こうして、イスラエルが幕屋に近づくことがないようにします。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであり、外の世界に接触している者が入ると、打たれて死んでしまうからです。
2B 配置 2
こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。
1C 東 1−9
主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。
イスラエルの民は、自分の好きなところにどこでも良いから宿営するのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張ります。そして、そのしるしがこの旗でありました。旗しるしのもとに宿営することになっていました。
この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。まず、東から見てみたいと思います。前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとにユダの宿営の旗の者でなければならない。と2章2節に書かれていますが、モーセは今、幕屋の入り口にいます。前方は東であり、そこにユダ部族が宿営し、ユダ部族の旗が掲げられます。そして、その右隣には、イッサカル族がいましたが、彼らもユダ部族の旗じるしを見て、宿営します。そして左隣は、ゼブルン族です。この三つの部族が幕屋の東に宿営します。合計の人数は18万6400人であり、他の方角にまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。彼らが先頭に進まなければならない。とありますが、これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進のです。
この東という方角が、地上の幕屋にとって、もっとも大切な方角になります。なぜなら、そこは幕屋の入り口に当たり、そこに入り口の掛け幕があり、中に入ると、聖所の垂れ幕があり、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕も、この東側にあるからです。つまり、外界と、主ご自身がおられる至聖所は、実質的につながっており、聖なる神と汚れたこの世との通気口となっている方角であるからです。ここにユダ族がいるということは、とても意義深いのです。ヤコブは息子ユダに対して、次のような預言をしました。「ユダは獅子の子。…王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:9-10)」このシロとはメシヤのことです。つまり王なるメシヤがユダから出て諸国の民を従わせる、という預言なのです。メシヤなる方が、聖なる神とこの世とをつなぐ仲介者となってくださり、メシヤをとおして、人々が神のみもとに近づくことができます。イエス・キリストは、「ユダの獅子」と呼ばれております。ユダ族がこの東に宿営していることは、メシヤが来られることを予告しているのです。
2C 南 10−17
そして10節からは、南に位置する部族について書かれています。南にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければいけません。
そして17節をご覧ください。次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。
レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中につねに、主なる神が住んでおられたのです。また、彼らはつねに、主なる神を中心にすえて生活を営んでいたのです。私がアメリカにいたとき、教会のすぐそばに住んでいました。そこから歩くと30秒後には教会の姿が見えました。回りには、その教会に通う人ばかりが住んでいました。ある人が、「まるでイスラエルの宿営のようだね。」と言っていましたが、なるほどと思いました。この世と教会という二重生活をするのがクリスチャンではなく、この世での生活は教会生活の延長線上にあることを思い起こしてくれるのです。この幕屋には雲の柱が立っています。イスラエル人の宿営のテントの入り口は、幕屋の方角に向かっていました。朝起きると、自分たちの真ん中に主がおられることをすぐに思い起こすのでした。私たちがそのようになっていなければいけません。それは、自分の生活の真ん中にキリストがおられること、そしてキリスト教会があることを知っておられるでしょうか。ここに、キリスト者の歩みの確かさが左右されるのです。
3C 西 18−24
18節からは、西にいる部族について書かれています。表で見れば分かるように、ちょうど、幕屋の裏側、ユダ部族たちがいる方角と反対になります。そこにエフライム族が宿営し、エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、左隣にベニヤミン族が宿営します。マナセではなくエフライムが中心になっていることは、ヤコブの預言のとおりです。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになりました。
4C 北 25−32
25節からは、北に宿営している部族です。ダンが宿営し、ダンの旗が掲げられます。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族がいます。
こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営している姿は、遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。無秩序ではなく秩序ある、幾何学的な姿です。事実、これを預言者バアルが絶賛しています。「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。(民数記24:5-6)」バアルは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われた預言者です。バラク王は、イスラエルを肉の武器ではなく、霊の武器によって攻めようとしました。しかし、イスラエルは、肉の武器を持っていただけではなく、霊の武器を持っていたのです。神の霊がイスラエルに宿り、神ご自身が、バラムの預言を祝福に変えてしまわれたのです。
そして、それぞれの方角の総人数に注目してください。東の総数が18万6400人と一番多いです。そして、南と北がそれぞれ15万人強です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数です。そして、西がもっとも少ない人数13万5400人です。真上からこの宿営全体を見たら、どのような形になっているでしょうか。十字架のかたちです。下が一番長く、左右が同じ長さで、上が一番短いです。幕屋の中も十字架のかたちをしていたことを覚えていますか。契約の箱から香壇を通り、外庭の祭壇までが上下の線。そして、南側にある燭台と北側の供えのパンを置く机が左右の線。これで十字架ですが、幕屋もイスラエルの宿営も、来るべきメシヤ、イエスを表していたのです。
2A 幕屋の奉仕 3−4
こうして軍務につくイスラエル人の登録が終わりました。先ほど少し出てきましたが、レビ人の登録がまだ終わっていません。そこで3章からは、レビ人の登録について、主がモーセに命じられています。
1B レビ族 3
1C 聖別 1−13
まず、アロンとその子たちのことについて述べられています。主がシナイ山でモーセと語られたときのアロンとモーセの系図は、次のとおりであった。アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。しかしナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なった火をささげたとき、主の前で死んだ。
覚えていますね、レビ記10章にこの出来事が記されています。祭司の任命式と任職式のときに、主に命じられたことと異なる火をささげて、主の前から火が出て、彼らは焼けてしまいました。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。こうして、アロンと残された二人の子エルアザルとイタマルが、幕屋において礼拝の奉仕を行ないます。これはレビ記において、私たちは詳細に学びました。さまざまないけにえや、きよめの儀式や規定などです。
けれども、民数記は、他のレビ人に当てます。主はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。
他のレビ族の人たちは、アロンと二人の息子の幕屋の奉仕を助ける奉仕をすることになります。聖所における奉仕はみな、アロンと息子、つまり祭司が執り行ないます。けれども、荒野を旅しているので、幕屋を部分部分に取り外し、それらを運び、また組み立てる奉仕をする人たちが必要です。その奉仕に、レビ人が任命されました。あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。レビ人も、聖所の中での奉仕には、あずかることはできません。祭司のみが行ないます。
そして、レビ人を初子の代わりとして聖別することを、主は告げられます。主はモーセに告げて仰せられた。「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」
モーセに与えられた律法には、すべての初子が神のものである、ということです。男の子の長男は、その親のものではなく、神のものであります。ですから、親はそれを自分のものにしたければ、お金を支払って買い取る、つまり贖わなければいけません。これが律法であり、イスラエルが守り行なう戒めです。けれども、神はここで、この初子の代わりに、レビ人を取るようにすると言われています。初めての生まれてきた男の子は神のものなのですが、神は、支払わなければいけない贖い金の代わりに、レビ人をもらいます、とおっしゃっているのです。
そして、なぜ主がそこまでして初子にこだわるのかと言いますと、それはイスラエルがエジプトから救い出されたときのことに基づいています。エジプトにいるすべての初子が殺すさばきを主は行なおうとされました。けれども、子羊をほふって、その血を家の門柱と鴨居にぬったところの家族の初子の家には、そのさばきが過ぎ越しました。このようにして、主は、イスラエルの初子を贖われて、ご自分のものとされたのです。したがって、神にとって初子は大切な存在であります。そして、神は、終わりの時に、ご自分の初子、長子をこの世に遣わされました。イエスさまは、神の独り子であり長子です。御子をこの世に現わすために、初子はわたしのものであると、主は宣言されました。
2C 一ヶ月以上 14−39
そして主は、レビ人の登録を行なっていきます。主はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ。あなたは一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」そこでモーセは主の命により、命じられたとおりに彼らを登録した。
イスラエル人は、20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられます。イスラエル人は軍務につくのですから、成人でなければその任務を行なうことはできません。けれども、レビ人は、幼少のころからすでに神のものとして数えられます。もちろん、一歳にもならない赤ん坊が、幕屋の用具を運ぶようなことはできません。けれども、彼らは臨在される主のみそばに小さなことからいて、また親から主のことを教えてもらい、そのことがすでに主の前で奉仕として数えられているのです。したがって、ここから私たちは、自分たちもレビ人であることを知ります。私たちは、御霊によって新たに生まれ、主のご用にあずかる者として召されました。生まれたばかりの赤ん坊は、ただ親の胸の中で抱かれるように、御霊によって新たに生まれた者も、ただ主の恵みと愛の中に浴すことを学ばなければいけないのです。教会が、クリスチャンになったばかりの人に、さまざまな奉仕を行なわせるようなことがあります。彼らにはできないことを、行なわせようとします。しかし、みことばを聞くこと、これが彼らにとっての奉仕なのです。祈ること、みことばを学ぶことが、彼らにとって大切になります。むろん、長年のこと、聞くだけであり、奉仕ができないのであれば逆に悲劇でありますが、初めのときは聞く者であって良いのです。
そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、その人数は7500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営します。表をご覧ください。そして、彼らの奉仕についても、25節に書かれています。会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてである。幕屋は主に三つのものによって成り立っています。契約の箱、祭壇などの祭具が一つ。そして、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒。そして、その上にかける幕です。ゲルション族は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕を行ないます。
そして27節からはケハテ族について書かれています。ケハテ族の人数は8600人であり、彼らは幕屋の南に宿営します。そして彼らは、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕と、それに関する奉仕を行ないます。そして32節をごらんください。レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。
それぞれの氏族に長になる人がいました。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルであり、エリアザルはとくに、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要するからです。そして33節から、メラリ族について書かれています。人数は6200人、北側に宿営します。彼らは、幕屋の板、その横木、その柱と台座など、そして、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての務めを行ないます。
そして38節をご覧ください。幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちであった。ほかの人でこれに近づく者は殺される。
東側の幕屋に隣接して宿営するのは、モーセとアロンとその子たちのみです。ここは、先ほど説明しましたように、幕屋への入り口であり、聖所への通り道であります。したがって、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されないのです。そして、39節です。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人であった。二万二千人です。
3C 主の初子 40−51
そして40節以降は、イスラエル人の初子が数えられている個所です。その数が、レビ人の人数を273人超過しました。レビ人がイスラエルの初子の代わりであることを思い出してください。そうすると、273人分は、いつものように贖い金を支払わなければならないのです。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。
こうしてレビ人が数えられたのですが、なぜレビ人が、他のイスラエル部族から取られて、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。レビ人は、必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがレビとシメオンについて預言しました。「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。(創世49:5-7)」彼らは、自分たちの妹ディナが破廉恥な行為をされたことの復讐に、虐殺を行ないました。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたというのは、神の恵みというしか他ありません。彼らは、自分たちの行ないにかかわらず、神の恵みによって、幕屋の奉仕を行なうように登録されたのです。このようなことを行なう資格がない、と言われたら、まずこのレビ人だったのではないでしょうか。けれども、神は彼らをこの奉仕にふさわしい者として資格をお与えになったのです。
イスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおいて、救いにあずかったクリスチャンを表すなら、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をするクリスチャンを表しているのではないでしょうか。私たちは神の恵みによって、教会において奉仕をさせていただくのです。キリストの弟子たちが、使徒たちが召命を受けるときのことを思い出してください。ペテロは三度、イエスさまを否みました。イエスさまが復活されて、そして、「わたしを愛しますか。」と三度聞かれて、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに、主にお仕えするように呼び出されたのです。そして、パウロのことも思い出してください。彼は神の教会を迫害して、殺害の意に燃えながら、ダマスコにいるクリスチャンを縛り上げるために、そこへ向かっていました。そのときに主に出会い、異邦人へ、イスラエル人へ福音を運ぶ宣教者として召されたのです。自分がもっとも、主にお仕えしてはいけないというところで、主に呼ばれています。私たちもそうです。自分ができるから奉仕をするのではありません。自分がそれにふわさしくないと思っているときに、主が呼び出されるのです。
2B 任務 4
そして4章に入ります。ここでは、レビ人たちの奉仕が具体的に書かれています。
1C 用具の運搬 1−33
1D ケハテ族 1−20
主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」
実際に仕事をすることができるのは、30歳以上50歳までと定められていました。重い用具を運ぶのですから、体力がある人でなければ行なうことができません。そして新約聖書には、このことが主イエスさまにあって実現しているのを見ます。イエスさまは、推さないころから主にお仕えしていました。けれども、30歳ごろになったとき初めて、メシヤとしての公の働きを出発させることになります。
ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。宿営が進むときは、アロンとその子らははいって行って、仕切りの幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを掛け、またその上に真青の布を延べ、かつぎ棒を通す。
ケハテ族は、聖所の用具を運ぶので、とくに注意が要されました。まず、その一つ一つの用具は、すべて覆われなければいけません。聖なるものなので、見ることさえも許されません。アロンとその子たちが、そのおおう作業をします。契約の箱は、まず聖所と至聖所の仕切りになっていた垂れ幕で、それをおおいます。ケルビムが織り込まれた、青、紫、白、緋色の糸で織られた幕ですね。それから、じゅごんの皮のおおいをかけます。どす黒い色をしています。これは聖所の一番外側の幕と同じ材質のものです。それから、真青の布を延べます。これで出来上がりです。ですから、旅をしているとき、イスラエル人は青色の契約の箱を見るのです。青は天を表しています。天からのもの、神からのものを表しています。イエスさまは、神から来られた方でした。したがって、これはイエス・キリストを表しています。
また、供えのパンの机の上に青色の布を延べ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のためのびんを載せ、またその上に常供のパンを置かなければならない。これらのものの上に緋色の撚り糸の布を延べ、じゅごんの皮のおおいでこれをおおい、かつぎ棒を通す。
パンを供え物ととして置く机がありますが、これはまず青色の布を延べます。それから付属品を載せて、パンをその上に置きます。そして、緋色の布を延べて、最後にじゅごんの皮でおおいます。ですから、外側からはじゅごんの色をした、机を見ることになります。これはもちろん、人としてのイエスさまを表しています。イエスさまは人であり、見栄えのしない方でした。けれども、その肉において血を流されました。緋色の布です。そしてイエスさまの本質は神であり、そのもっとも奥には青色の布が延べられているのです。
青色の布を取って、燭台とともしび皿、心切りばさみ、心取り皿およびそれに用いるすべての油のための器具をおおい、この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮のおおいの中に入れ、これをかつぎ台に載せる。
机の向かい側には金の燭台がありました。これを青色の布でおおい、それからじゅごんの皮でおおいます。また金の祭壇の上に青色の布を延べなければならない。それをじゅごんの皮のおおいでおおい、かつぎ棒を通す。金の祭壇、つまり聖所の中にある香をたく祭壇も、同じように青色の布を延べて、じゅごんの皮のおおいをかけます。
次は、外庭にある青銅の祭壇の取り扱い方についての教えです。聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮のおおいでそれをおおい、これをかつぎ台に載せ、祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に延べる。
祭壇は、青色の布ではなく紫色の布を使います。聖所の用具は、みな天にあるもの、神に属するものを表していましたが、ここでは神のさばきについて表しています。外から入るとこの祭壇があるのですが、神と人との境目には、人に対する神のさばきがあるのです。そこで、そのさばきを執り行なう場が必要であり、神は犠牲の供え物によって、そのさばきを祭壇の上で行なってくださいます。そこで紫色です。これはもうおわかりになったでしょうか、イエスさまが十字架につけられる前に、ヘロデ王が紫色の衣をイエスさまに着せました。ユダヤ人の王という罪状書きで十字架につけられたイエスさまを、この紫の布は表しています。
その上に、祭壇で用いるすべての用器、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮のおおいをその上に延べ、かつぎ棒を通す。
そして、次に、このおおいをする目的について書かれています。それは、ケハテ族が聖所の用具を見てしまわないようにするためです。もし見たら、彼らは殺されてしまいます。彼らは聖所の中の奉仕のためには、聖別されていないからです。
私たちがケハテ族から学ぶことは、奉仕はキリストを中心に行なわなければいけないということです。用具を運ぶ中にも、キリストの栄光が現われていました。同じように、私たちは、教会の活動をするときにキリストを見つつ歩まなければいけないということになります。私たちは、奉仕のためにかえってキリストが見えなくなってしまった人のことを知っています。マルタです。彼女はイエスさまにお仕えしようと思って、かえってイエスさまのおこころを見失ってしまいました。私たちは、イエスさまをあがめつつ、具体的な奉仕を行なって、主を喜びつつ行なうというところから離れてはいけません。
2D ゲルションとメラリ 21−33
そして21節からはゲルション族の務めについて書かれています。ゲルション族は、幕についてのすべてを運ぶ務めにあずかっています。彼らの務めは、幕を運ぶことです。これを、アロンの子イタマルが監督します。28節です。以上がゲルション諸氏族の会見の天幕においての奉仕であって、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある。
29節からはメラリ族です。メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。彼らの務めは、幕屋の板、横木、台座、釘などです。彼らに指示を与えて、だれがどのように、どの用具を取り扱うのかを割り当ててます。ここから、ゲルション族とメラリ族から私たちが教えられるのは、コンビネーションです。まずアロンとその子らが、聖なる用具におおいをかけます。それをケハテ族に託します。そして、手が空いた祭司は、ゲルション族に幕を取り外すように指示します。取り外されたところで、板、横木、釘などを取り外すように命じます。ここで、だれかが勝手気ままなことをすれば、全体の作業が遅れてしまいます。コンビネーションが問われているところです。私たちは、教会の奉仕において、このコンピネーションを必要とされます。御霊はみこころのままに、おのおのに賜物を分け与えられました。そのときに、おのおのが補い合い、助け合うために与えられました。そこには分裂がなく、たがいにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられています。私たちは、他の人たちとのコンビネーションを持っているでしょうか。御霊の導きに敏感になり、自分が今、何をしなければいけないかを知っているでしょうか。この作業が始まるのは、雲の柱が動いたときです。同じように主の御霊が動かれるとき、私たちも、互いに仕え合っていっしょに主にお仕えしなければならないのです。自分だけは、ということが許されないのです。
2C 三十から五十歳 34−49
そして34節以降からは、30歳から50歳までのそれぞれの氏族の登録人数について書かれています。最後の節を読みます。モーセを通して示された主の命令によって、彼は、おのおのその奉仕とそのになうものについて、彼らを登録した。主がモーセに命じたとおりに登録された者たちである。モーセは主の命令にしたがって、これらのことを行ないました。
こうして見てきましたが、イスラエルが旅立つにあたって、主はこのような登録と割り当てをなされることがお分かりになったと思います。私たちも旅立たなければいけない日々を送っています。実際の生活を、主にあって歩むように導かれています。私たちはこの世にあって、キリストを向いているでしょうか。自分が登録されているところの旗を眺めているでしょうか。中心軸であるキリストご自身を見つめることによって、初めてこの世において戦うことができます。それから、教会も旅立ちをします。この世との接触の中で、私たちは手足を動かさなければいけません。ただ漫然と聖書を読むのが教会生活ではありません。私たちの周りでは、私たちのキリストにある奉仕を必要とする人たちがたくさんいるのです。この人たちのために、主にあって動かないといけないのです。この登録は恵みによるものでした。自分から出るものではなく、主からの資格です。戦うものとして数えられていること、また奉仕するものとして数えられていることを思ってください。