民数記11章4-6節 「楽しくない過去の罪」
アウトライン
1A 混じった者の激しい欲望
1B マナへの不満足
1C エジプト(古い生活)の食べ物
2C 減退する新しい歩みの楽しさ
3C 都合よく忘れる苦しみ
2B 天幕で号泣する民
3B 欲望を満たされる主
1C 一ヶ月の肉
2C 食べられない量
3C キブロテ・ハタアワ(欲望の墓)
2A 私たちへの戒め
1B 教会における肉
1C 与えるよりも受ける者
1D 聖霊
2D 御言葉への服従
2C 教会用語を使った同好会
2B 肉の奴隷
本文
今晩は民数記11章4-6節を読みます。
また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」
私たちは明日、民数記10章から12章までを学んでみたいと思っていますが、イスラエルの民がついにシナイ山のふもとから旅立つ話から始まります。イスラエルの民はこれまで、主からたくさんの教えを聞いてはいましたが、それを実際に行動に移す時が来ました。その結果は、初めから大失敗でした。彼らは、荒野における過酷な生活について不平を鳴らすことが度々でした。私たちも、たくさんの聖書からの教えを聞くと、それをあたかも自分が体得したかのように錯覚します。けれども、御言葉を聞くのとそれを実行するのとは別問題です。私たちは実践することによって、初めて自分にどれだけ御言葉が身についているのかを知ることができます。
1A 混じった者の激しい欲望
ここに出てくる「混じってきていた者」というのは、イスラエル人がエジプトを出て行く時に、イスラエル人ではいけれども、共に出て行った人々のことを指しています。出エジプト記12章には、「イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。(37-38節)」と書いてあります。
彼らもイスラエル人と同じように、エジプトの中で抑圧されていた人々でした。エジプトはイスラエル人だけでなく他の異民族やエジプト人の一部を奴隷として酷使していました。そこで、エジプトの中で初子が殺されて、それでパロがイスラエル人を強いて出て行かせた時に、その大いなる出発の時に便乗して出てきたのです。神はイスラエル人に対しては、過越の祭りによってこれは主なる神の救いであることを教えてから贖いを経験したのですが、彼らは単に物理的な抑圧から、あるいは政治的な抑圧から解放されるために出てきました。
イエス様は十字架につけられる前にピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。だから、弟子たちはイエス様のために武器を取って戦うことはしなかった、と言われます。あくまでも「解放」とは、自分の心を縛っている罪からの解放であり、その後に外側の解放や、物理的な解放があるかもしれませんが、霊的な解放が神の与えようとされていることです。けれども、イスラエルの民とは異なり、その異なる人々は霊的な解放のことは度外視して、政治的な、物理的な解放だけを願っていました。
これら神の契約の民になっていない人々が、問題を引き起こす原因を作りました。彼らに影響されて、契約の民であるイスラエル人までが貪り始めたのです。
1B マナへの不満足
1C エジプト(古い生活)の食べ物
彼らが求めた者はエジプトで食べた物でした。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」覚えていますか、エジプトというのは、アブラハムの時代から「世」を表していました。ナイル川の流れる巨大な文明を築いたエジプトは、雨が降らずにすぐに土地が乾燥してしまうカナン人の地に比べれば、実に魅力的なものでした。それでアブラハムは飢饉のときにエジプトに下ってしまいました。けれどもエジプトは表向きは豊かですが、数多くの奴隷を抱え、専制によって成り立っていた国でした。この世も同じです。私たちに多くの約束を与えます。豊かになれる約束を与えますが、いったんその中に入ると自分がその欲望の奴隷になってしまいます。
私たちキリスト者は罪から贖われ、今の世から贖われた者です。使徒パウロはガラテヤ書でこう言いました。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。(1:4)」ペテロは第二の手紙でこう言っています。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(1:4)」
けれども、私たちはこの世のもたらす欲に、イスラエル人と同じように引き寄せられることがあります。主イエス・キリストを知る前に楽しんでいた事柄です。主イエスにあずかる恵みを知って、喜んでいるところを、古い過去に引きずられていく誘惑であり、またそれに陥る過ちです。
2C 減退する新しい歩みの楽しさ
彼らの根本的な問題は、主が与えてくださっている食物に飽き飽きしたところにあります。「だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」主が、彼らがエジプトから出て荒野の旅を始めたら、間もなくして与えてくださったのがマナであります。それは、ここ民数記11章に書いてありますが、7節から読みます。「マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。(7-9節)」
確かに、同じものをずっと食べていると飽きてしまうでしょうが、けれどもこのマナは単に同じ食べ物ではなかったのです。出エジプト記16章には、これが各自食べる分だけ集めるようにできていました。貪って多く集めた者が、実際にかごに入れた量を見てみると、一オメル、2.3リットルでした。そして、多く集めた者によって少ししか集めることのできなかった者たちが、かごの中を見てみると、一オメル、2.3リットルでした。このことから、主がご自分の民に対して等しく必要を見てくださる神であることを、毎朝のマナによって実感することができたのです。
そして、一日に食べる分のみのマナしか与えられませんでした。次の日の分を蓄えることはできません。けれども、次の日がどうなるか分からないと不安になった人が、神の約束を信じることができずに、それを保管しておきました。ところが、日が昇るとそれは溶けてしまったのです。このことからも、主に絶えず拠り頼むことによって、主の真実を知ることを彼らは知ったのです。
さらに、安息日には集めてはならないと主は教えられました。労働してはいけないからです。その代わり、主は安息日の前日は二日分のマナを与えられました。そして、次の日の朝になってもそのマナは溶けませんでした。安息日にもマナを集めて、他の人たちに売ろうとでも思っていた人たちはがっかりするしかありませんでした。マナは安息日には全く与えられなかったのです。ここから彼らは、自分たちの働きを止めて、主を敬うために休むことを覚えたのです。そして、たとえ休んでも主が不足分を補ってくださることを知りました。
このように、確かに同じ味の食べ物を彼らは食べなければいけませんでした。けれども、物理的な味の背後には、霊的な養いをいっぱいに受けることのできる霊的栄養価の高いものだったのです。イエス様がユダヤ人に何と言われたかご存知ですか?「わたしは、天から下って来た生けるパンです。(ヨハネ6:51)」イエス様が、私たちにとってのマナであります。同じイエス様です。そして同じ福音です。私たちの罪のために死んでくださり、三日目によみがえり、天に昇られ、そして定められた時に再び戻ってきてくださる方です。この方は神の独り子であられ、この方に永遠の命があります。
いつも、いつも同じ方であります。けれども、その日々に出会いは新鮮であります。イエス様は同じであられますが、そして同じ神の御言葉ですが、実際の生活の中でいろいろな働きを与え、これまでにない新鮮さを与え、これまでにない悟りを与え、それによって私たちはイエス様をますます好きになっていくのです。ところが、そうではなく同じことの繰り返しではないか、と思う時があります。イエス様との交わりが色あせる時があります。徐々に、イエス様との交わりにある楽しみが減っていく経験をするのです。
その時が危険信号です。イスラエル人と同じように、「いつもマナだけだ」と叫ぶのです。「私が楽しんでいた趣味のほうが、よっぽど楽しかったではないか。なんで、いつもいつも同じ話ばかり聞かなければいけないのだ。いつもいつも、同じ教会生活なのか?いつもいつも、同じ御言葉ばかりなのか。」とつまらなくなるのです。趣味、過去の楽しかったこと、また他の世の中にある可能性、いろいろなものを求めるようになります。
3C 都合よく忘れる苦しみ
ここでイスラエル人が忘れていたのは、エジプトにおける苦しみです。彼らは確かに、「肉、魚、きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにく」を食べていたかもしれません。けれども、イスラエル人は激しい労役のために呻き、喚いていました。神はその叫びを聞かれて、また彼らの悩みを見て、その痛みを知って、それでイスラエル人を救い出されました(出エジプト3:7)。けれども、彼らは過去の奴隷状態であったことは都合よく忘れて、その食べたかったものだけを思い出しているのです。
私たち人間は不思議なものです。欲望に駆られると、その欲望によって自分がどれだけ苦しんだのかを都合よく忘れることができます。過去のことが羨ましくなってきます。その過去によって、いかに自分が絶望の淵に立たせられていたのかをすっかり忘れてしまいます。そして、今目の前にある苦しみや、不便に思われることだけに注目します。それで拙速な判断を下してしまうのです。パウロが言いました。「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。(ローマ6:20-21)」
2B 天幕で号泣する民
私たちが一度、自分の欲望を満たすままにしてしまうと、大変なことになります。取り戻すのが難しくなってしまいます。10節には、「モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の入口で泣くのを聞いた。」とあります。彼らは、エジプトで食べ物が食べたくて、食べたくて悲嘆にくれていたのです。
3B 欲望を満たされる主
1C 一ヶ月の肉
そこで主は、彼らに裁きを下されます。その裁きとは、彼らを火で焼き尽くすとか、天罰を与えるようなものではありません。そうではなく、彼らが思う存分、その欲望を満たすことのできるように、なすがままにさせるという裁きです。
主はモーセにこう言われました。「主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけでなく、一ヶ月もあって、ついにはあなたがたの鼻から出てきて、吐きけを催すほどになる。(18-20節)」ものすごいですね!モーセは、「徒歩の男子だけで六十万です。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか?」と聞きました。けれども主はモーセに答えられました。「主の手は短いだろうか。(23節)」
主は、彼らに与えることができずに、仕方がなくマナを与えられたのではありません。いくらでも、肉でさえも荒野の中で与えることのできる方なのです。私たちは今の生活に不足を感じて、神は無力なのではないかと不信を抱く過ちを犯しそうになります。けれども、決してそうではなくて、神はご自分の方法で、ご自分の時で、お与えになるのです。
2C 食べられない量
私たちの主は「不思議な方」と呼ばれていますが、私たちの思いをはるかに超えて事を行うことのできる方です。天が地よりも高いように、神の思いは私たちの思いよりも高いです。31節以降を読みますと、主は強い風を吹かせて、その時に中東の大陸間を渡っている渡り鳥である「うずら」を荒野に落ちてくるようにさせました。宿営の回りに、一日の道のりに渡って、なんと約90センチほどうずらを積み上げてくださったのです。
そして彼らは、終日終夜、休むことなく、その翌日も一日中出て行ってうずらを集めました。なんと、最も少なく集めた者も2300リットル分のうずらを集めたのです!人の欲望というものは恐ろしいです。とどまることを知りません。底なしです。仏教ではよく「餓鬼」を描いています。どんなに食べても決して満ちることがなく、いつも痩せこけているけれども腹部だけは丸く膨れ上がっています。私たちは、自分の欲望をそのままにすると、それを満たそうとどんどん貪るのですが、いつまで経っても、満ちることはありません。
3C キブロテ・ハタアワ(欲望の墓)
そして彼らの最期は悲惨です。33節をご覧ください。「肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。」これは、おそらく彼らが生のままでうずらの肉を貪り食ったので、自ずと菌が彼らの中に入り、そして死んだと考えられます。そして、ここの名前は「キブロテ・ハタアワ」であり、これは「欲望の墓」という意味です。欲望を満たした末、行く着くところは死だったのです。
主が行われる裁きの中で、最も恐ろしいのはこれです。主が、私たちが欲望のなすがままに明け渡されることです。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(ローマ1:24)」私たちが、自分の欲望を満たすことができず、何らかの妨げが入ったり、不都合が生じた時に、それは神の憐れみであって、裁きではありません。私たちは思うままに事を行っていって、何事も起こっていないことを「神は見ておられない。何も起こっていないのだから。」と考えたら、とんでもない過ちです。最も恐ろしい裁きは、不干渉なのです。私たちの欲望が途中で阻まれた時に、むしろ主に感謝しましょう。
このように「欲望の墓」という地名のように、私たちが肉の欲を満たすと、自分自身を滅ぼすことになります。
2A 私たちへの戒め
民数記の出来事は、主に新約聖書において私たちの教訓として引用されています。コリント第一10章5-6節を読みます。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1コリント10:5-6)」私たちへの戒め、私たちへの教訓なのだよ、と使徒パウロは警告しています。
1B 教会における肉
今の私たちに当てはめるとどうなるでしょうか?イスラエルの民の中にいる混じった者というのは、「生まれながらの人々」と言い換えることができるでしょう。まだ御霊によって生まれたことのない、けれども教会には集っている人々ということが出来るかもしれません。そして、教会の中にまだイエス様を信じていない人がいることは、決して間違ったことではありません。むしろ、大歓迎します。イエス様は、罪人の中で食事をされました。けれども、その罪人がイエス様に触れることによって悔い改めたのであり、イエス様が罪人から影響を受けることは一切なかったのです。
けれども、イスラエルの人々は混じった人々に影響を与えることなく、むしろ影響を受けてしまいました。同じように、キリスト者が生まれながらの人々の価値観や考え方から影響を受ければ、それはイスラエル人と同じ過ちを繰り返すことになります。
1C 与えるよりも受ける者
未信者の人が物理的に教会の中にいないとしても、私たちの肉に存在する、信仰を持つ前に持っていた考え方や価値観が教会の中で現れるなら、結果は同じです。その主な動機は「与えるよりも、受ける」であります。イエス様は、「受けるよりも与える者が幸いである」と言われましたが、その反対で、「私は受けたい」という欲求をもって教会に集っていることです。聖書ではこれを「肉」と呼んでいます。
物理的な肉欲の問題もあるでしょう。教会で出てくる食べ物、お菓子がおいしい。これが楽しみだけれども、教会の礼拝や奉仕は嫌いだ。ましてや献金はもっとも嫌いだ、とするのはまさに肉の欲であります。教会から受けることはあっても、与えることはしません。
そして精神的な欲求があります。私たちには社会的欲求や心理的欲求があります。人々に認められたい、人々に愛されたい、注目を寄せてほしいなど、それらの欲求を満たすために教会に集います。自分が誰かに話しかけられなかった、とすると、すぐに癇癪を持ちます。「ここの教会はなんと冷たく、愛のないところでしょうか。」と思います。そして他の教会に移り、また同じ経験をします。いつまでも受けようとしていて、自分が与えようとする霊的成長へと進もうとしていないことが問題であることに気づいていません。
そして自分の意見が少しでも否定されたかに感じると、すぐに言い争います。自分が認められることを求めているので、自分の意見が完全に通るまでいつまでも自己主張をするのです。そして、自分自身以外の人々に非があるとします。そこにあるのは「肉」そのものであり、いつまでもいつまでも受けたいと貪る肉があるからであり、与えるという考えの隙間がないのです。
1D 聖霊
けれども、「与えなさいと言っても、受けることができなければ与えられないじゃないですか。」と言われるかもしれません。確かにその通りです。けれども、どこから受けるのか、というのが問題なのです。
教会というのは、キリストが頭であられ、キリストが満ち満ちているところです。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:22-23)」すべての源はキリストにあります。したがって、確かに教会に来ていっぱいに受けるのですが、それはあくまでもキリストにつながることによって、キリストから受けるのです。そして、キリストから受けたものを互いに分かち合うのがキリストの体であり、キリストから受け、そして自分は与えるのです。
その一つは具体的に、ご聖霊によって与えられます。使徒パウロは言いました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:17-19)」御霊の力によって、私たち人間には決して悟ることのできない、神の知識を得ることができます。目に見えない方を目で見るようにして信じることができます。この方の御力に触れる時に、私たちはキリストからの力を受けることができるのです。
2D 御言葉への服従
そして、私たちは神の御言葉に服従します。主が一人ひとりの心に語りかけてくださった言葉があります。それを聞き入れてください。その命令に服してください。自分の意志を神のみこころにゆだねてください。「主よ、わかりました。私は意地を張って、これこれをすると主張していましたが、今、あなたの言われることに従います。」と告白してください。そうすれば、自分ではなく、神からの力があなたを満たすことでしょう。
2C 教会用語を使った同好会
このようにして、私たちは受けるのではなく、互いに分け与える仲になることができるのです。自分自身を喜ばせるのではなく、相手の益になることを求めるようになります。私たちが避けなければいけないのは、教会が「キリストの名を使った同好会」になることです。自分より弱い人、霊的にまた物質的に貧しい人、悩んでいる人、困っている人、そして何よりも霊的に失われている人々に心を向けることなく、自分たちの楽しみのために集まっているのであれば、それは教会という名前を使っても、同じ趣味でつながっている同好会と成り下がってしまうのです。
けれども主は、私たちを荒野の旅に導かれます。私たちが自分の肉を満たすことのないところに導かれます。ただマナにより頼む、つまり主ご自身により頼むようにされます。その時に私たちは「不便になった」と嘆くことなく、むしろ主が私自身を訓練しておられて、キリストにある成熟へと向かうように導いておられるのだということを喜んでください。
2B 肉の奴隷
そして最後に、自分自身を滅ぼす肉の欲を満たさないように気をつけてください。キリストとの交わりが希薄になっている時に私たちは、過去に戻りたくなります。けれども、その過去は悪いところを都合よく省いた、現実から離れた夢想に近いものです。どうか、主が新たに与えようとされている恵みに気づいてください。イエス様は、初めの愛から離れてしまったエペソにある教会にこう言われました。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2:5)」