民数記14章1−4節 「不信の罪」
アウトライン
1A 自分と敵との比較
1B 理不尽な命令
2B 神の意地悪さ
2A 神と敵との比較
1B 約束にある祝福
2B 神の裁き
3A 信仰なき行動
本文
民数記14章を開いてください。私たちが民数記の学びを中断して、一ヶ月近くが経ちますが、ぜひもう一度思い起こして、聖書通読の旅に参加してください。午後の礼拝では13章から15章まで学びますが、今は14章1-4節に注目したいと思います。
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
イスラエルの民は今、荒野にいます。シナイ山のふもとから旅立ちましたが、その過酷さから彼らは不平を鳴らし始めました。途中で、エジプトで食べたものを欲しがり、泣き出し始めましたが、神はうずらの肉を大量に与えられ、彼らが疫病で死ぬままにされました。貪ることに対する戒めです。
けれども彼らはついに、約束の地に境にまで到着します。そして、これから中に入っていくために、十二部族のかしらを偵察するため遣わしました。見てきたものは、確かに乳と蜜の流れる地、豊かな地であり、彼らはその証拠に二人で担がなければいけないほどの大きなぶどうの房を持って帰りました。けれども、そこの住民は力強く、町々が城壁を持っています。
十二人のかしらのうち、ユダ族のカレブとエフライム族のヨシュアとは、その地に入って攻め上ろうと励ましました。けれども残りの住人は、あまりにも大きい民であり、私たちは攻め上っていくことはできないと悪い知らせを持ってきました。そして今、私たちが読んだような状況になってしまったのです。全会衆は大声で泣き叫び、その住民の剣に倒れるぐらいなら、エジプトの地またはこの荒野で死んでしまうほうがましだ、と言ったのです。そして一人のかしらを立ててエジプトに帰ろうと言いました。
1A 自分と敵との比較
新しい年に入り、私たちは生活のそれぞれの場面で新しい挑戦や課題を受けていると思います。新しく信仰を持つ、という促しを受けている人がいるかもしれません。職場が新しくなる、という方もいらっしゃいますね。個人生活の中で、いろいろな新しく与えられた課題に応答しなければいけないでしょう。
私たちはアメリカの旅から帰ってきたばかりですが、宣教会義で数多くの証しを聞きました。その中には、ハイチに聖書訓練センターを建てた兄弟の証しを聞きました。ただ信仰だけで入っていき、略奪が横行している中で殺されるかもしれないという恐れも抱きながら聖霊の導きに従ったところ、なんとハイチ大統領の側近が信仰を持ち、政府の指示によってその施設を建てることが許されました。ラジオ番組もはじめましたが、資金も奇跡的に備えられています。
このように新しい働きを始めるにあたって、常にあるのは将来への不確実性です。そして私たちはそれに応答しようとする時に、恐れと闘わなければなりません。イスラエルの民がそうでした。神から与えられていたすばらしい約束がありました。そこは乳と蜜の流れる地でした。乳製品や農産物が豊かに取れるところでした。けれども、力ある住民と戦わなければならないという課題がありました。けれども神が約束されたのですから、必ず攻め取ることができるはずです。けれども、イスラエルの民はそれを信じきることができずに、恐れが先行して退いてしまったのです。
1B 理不尽な命令
イスラエルの民が、約束の地に入ることがなくその世代が死に絶えるまで四十年間、荒野を彷徨っていたという歴史は、後世の人々に対する教訓として主はずっと思い起こさせておられます。主からの約束の言葉を聞いていながら、それでも聞き従わないことを戒めています。
新約聖書において同じで、ヘブル人への手紙の著者が述べています。3章16節から読みます。「聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。(16-19節)」不信仰のためでした。
その不信仰について、4章2節でこう述べています。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」御言葉は聞いていたけれども、信仰によって結び付けられなかったと言っています。
なぜ彼らが、信じることができなかったのかを考えてみましょう。14章3節をもう一度、ご覧ください「なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」主が、私たちを剣で倒そうとされている、という言葉があります。ここには何の問題があるでしょうか?
一つは、「自分で戦わなければいけない」と考えていたことです。自分の力、自分の知恵、自分にあるものによってこれら巨人と戦わなければいけないと考えました。自分が神に命じられたものを行わなければいけないと考えました。だから、自分よりもさらに強い敵を見て、必ず倒されてしまうと考えたのです。
私たちが一歩、信仰に踏み出せないのはなぜでしょうか?それは、これまで自分の力と自分の知恵、自分の行いでこの世を生きてきたけれども、同じ考えで神の世界を見ているからではないでしょうか?キリストが私たちの罪のために死んでくださった、キリストが身代わりになって死んでくださったという福音を聞いた時に、「私には、キリストのように犠牲的な行為をすることはできない。だから、私はキリストには従えない。」と考えます。キリストが人間の犠牲とは到底比べることのできない、とてつもない犠牲を払ったということについては正しく考えていますが、それを神がキリストにあってしてくださったと考えられないのです。一方的に神がキリストにあってしてくださったことを受け入れて、その愛に感動し、恵みに応答するのではなく、すべて自分がしなければならないものだと考えます。
イスラエルが神を拒む力にはものすごいものがあります。2節に「エジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」自分が滅んでもいいから、自分が慣れ親しんでいる「自己の世界」の中に生きようとしているのです。私たちには二つの選択が与えられています。いつまでも自分という世界に固執して生きようとして死にまで至るのか、それともこの自分の世界に対して見切りをつけて、これからは神に拠り頼む世界に入ることを選び取るかの違いです。
皆さんは、神やキリストが自分に対して理不尽な命令を出していると感じたことはありますか?「このような罪を捨てなさい」と言われる時に、「私にはそれはできません。私にはその力がないのです。」と訴えたことはありますか?神は、自分で清くしなさいと命じておられるのではありません。キリストがあなたを清めるために、あなた自身の魂をわたしに任せなさいと命じておられるのです。けれども神の命令を聞いて、かえって自分自身でしなければいけない規則を作り上げ、その規則が山積みになり、重くて負いきれなくなっていることはないでしょうか?
2B 神の意地悪さ
もう一つは、主の良さを信じていないという問題があります。神が本質的に、根本的に善であることを信じられない、不信を抱いているところに問題があります。彼らは、神は剣で倒すためにわざわざ自分たちをエジプトから連れ出した、と言っています。理不尽な命令を出し、そして理不尽な死に方をさせるのだ、神は意地悪をしているのだという、神の善を信じていない姿勢です。
神が良い方であるか、そうではないか、その認識の違いによって信仰を持つか、そうではないかの違いが出てきます。そして、神がどのような方についての議論は、実は悪魔がもっとも攻撃をしかけてきている、霊の戦いの領域なのです。創世記3章にある、悪魔の誘惑を思い出してください。エバを蛇の形をして現れた悪魔が、こう語りました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(5節)」つまり、神が自分と同等の知恵を持つことのないように、あえて人間を劣等なままにしているのだ、と言っているのです。
とんでもないことです!人間は神によって造られました。神のかたちに似せて造られましたが、神は創造主であられ、人間は神によって造られた被造物という圧倒的な差があります。本質的な違いがあります。神は人間が自分よりもまさることを恐れるなど、これっぽっちも必要ないのです。それは、陶器を作っている陶器師が、陶器が自分よりも才能を持つことを恐れるなんて、絶対にしないのと同じです。
神は、ご自分に似せて人を造られたけれども、陶器の年度が陶器師のろくろの中に置かれて、陶器師の知恵の中に完全に依存しているように、人間が完全に神に拠り頼み、その中にいて創造的な働きをし、生産的な活動を行い、物事を管理し、治めていくように意図されています。知恵を振り絞り、計画を立てて、言葉を駆使し、動物にはない特性を十分に用いて行動するのですが、あくまでも神を全面的に礼拝して、神に祈り、神から聞き、神との交わりを深めていく中で、それが可能になるのです。神を礼拝している者こそが、最も創造的な働きをすることができます。
けれども、私たちは神の行動を、単に意地悪をしているのだとして疑う過ちを犯すのです。イエス様が、終わりの日についてタラントの例えを語られました。主人は一人のしもべに五タラント、もう一人には二タラントを任せました。主人が旅をしている間、それによって商売をし、もうけを主人に渡すためです。二人とも二倍の儲けを得ました。五タラントの人は、十タラントになりました。二タラントの人は四タラントになりました。それで主人は、それぞれに「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21,23)」と言いました。
けれども、もう一人、一タラントを主人から預かった人がいました。彼は商売をせずに、なんとそれを土の中に隠しました。そして主人が帰ってきたら、そのまま一タラントを渡しました。そしてこう言ったのです。「『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(24-25節)」なぜ隠しておいたのかと言いますと、主人が恐かったからです。主人の気前良さを信じていなかったのです。むしろ、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと思っていました。
数多くの人が、神をこのように見ています。人が行ったことのわずかな過ちをことさらに取り上げて、それをその人を地獄に送り込むための材料にして、人々をどんどん火と硫黄の池で燃やしている。こんな神は信じられないから私は関わることはしません、と言います。
神は、蒔かないところから刈り取る、散らさない所から集めるような方では決してありません。神は、取り上げるどころか、ご自分の子キリストの犠牲にするほど、惜しみなく与えてくださったのです。この方を受け入れるのであれば、神はその人の中でご自分の命を満たし、溢れさせ、そしてその良い行いを後に刈り取ってくださるのです。蒔いたものから刈り取るのです。
けれども数多くの人は、やはり神を信じることをせず、自分自身で商売をしなければいけないと思っているのです。神が与えられた財産で、商売すれば増えるにも関わらず、「私にはクリスチャンの生活はできない。あまりにも厳しすぎる。だから信じない。」と言います。神は、むしろ「あなたがたを休ませよう。」と言われているのに、むしろ今の自分を苦しめる苦役を課すように捕えるのです。神には、そのような不信を抱く者には、そのような苦役を課すしか方法がなくなります。神にある恵みの世界に入るのを拒む者には、それにふさわしい、自分の行いの中で永遠に償うことのできないがんじがらめの世界に入っていくのを許さざるを得ないのです。それぞれの決断を選択を曲げることは、神が人に自由意思を与えられた以上できないからです。
したがってイスラエルの民は、神なしの世界で、カナン人に対抗しなければいけないと考えました。当然ながら、相手のほうが強いです。自分が相手と戦わなければいけない、神がそのようにさせたのだ、と考えたのです。自分と、目の前にある問題を比べたのです。当然ながら、恐れが出てきます。落胆が出てきます。疲れます。諦めが出てきます。
2A 神と敵との比較
では、私たちはどのように対処すればよいのでしょうか?
1B 約束にある祝福
完全に失望しきっているイスラエル人に対して、ヨシュアとカレブとが励ましの言葉を語りました。7節から読みます。
14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。9 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
ヨシュアとカレブが強調したのは、「すばらしく良い地」です。「乳と蜜が流れている」とも言っています。これが神の約束なさったものであり、それを神が受け継がせてくださると約束してくださったものをそのまま受け入れていることです。8節には「主の御心にかなえば」と言っていますが、これは仮定ではなく、これは確かに主の御心であると信じている発言です。
神がキリストに与えてくださった、すばらしい約束に目を留める人は、それをただ受け入れて、喜びます。ヘブル10章の最後に、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」とあります。単純に受け入れていくのです。神が一方的に与えてくださる、良きものを受け入れていきます。
エペソ人への手紙1章には、キリスト者に与えられている、神の霊的祝福を列挙しています。一つ目は「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(1:4)」とあります。神が、世界を造られる前から自分のことを考えて、キリストにあって選んでくださっていたのだ!二つ目は、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた(5節)」です。ご自分の子にしようと定めておられたのです。しかも、愛によって定めておられます。
そして7節には、「御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている」とあります。あなたの罪はすべて赦されました。そして11節には、「彼(イエス・キリスト)にあって御国を受け継ぐ者となった」とあります。神が、将来、私たちをご自分の国の分け前を与えてくださるのです!そして、13節には「約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあります。イエス・キリストと同じ性質を持っておられる助け主、聖霊を与えてくださいました。だから、自分の力ではなく聖霊により頼んで生きることができるようになっています。
これらすばらしい神の恵みを、ただ受け入れれば良いのです。そして前に一歩進めばよいだけなのです。ここに必要なのは自分のすぐれた行為ではなく、信仰だけです。ただ信じて受け入れれば、自分の内に住んでくださる御霊が働いて、私たちが神に命じられていることを行うことができるようにさせてくださいます。
2B 神の裁き
ヨシュアとカレブは、「彼らは私たちのえじきとなるからだ。」と言いました。それは、「主が私たちとともにおられる」からです。つまり、主が戦ってくださり、主が裁きをくだしてくださると信じていました。
後に、神はイスラエルの王としてダビデを選ばれますが、彼が少年の時に、ペリシテ人ゴリヤテと戦いました。彼は石と石投げだけで、投げ槍を持って迫ってくる巨人を打ちのめしました。なぜ、そんな非対称なことが起こったのでしょうか?ダビデはゴリヤテに対してこう言っています。「ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。 (1サムエル17:45)」ダビデは、ペリシテがイスラエルの神をなぶったことによって、ゴリヤテに立ち向かっています。少年ダビデと巨人ゴリヤテが対峙しているのではなく、神ご自身がゴリヤテに立ち向かっておられるのを知っていたのです。
同じようにイスラエル人は、主を見上げれば良かったのです。私たちは下を向きすぎです。かつて坂本九が「上を向いて歩こう」と言って歌いましたが、もっと高き所に私たちの神は生きておられます。そして主に戦いをお任せするのです。主が見ておられるように、自分も見ていくのです。主が戦われることを信じて、前に進んでいくのです。ひたすら主が戦ってくださることを信じます。
3A 信仰なき行動
けれどもイスラエル人は、ヨシュアとカレブに石を投げつけようとしました。そこで神が介入します。そして彼らに、「荒野で死んだほうがましだ」と言った彼らをそのまま、荒野で四十年の間、さまよわせるようにされます。その世代が死に絶え、二十歳以下の若い世代のみが生きる時に約束の地にようやく入ることができるようにされました。
その後、彼らは「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主の言われた所へ上って行こう。(14:40)」と言いました。そしてカナン人が住んでいるところに出て行ったのです。モーセは、「行ってはならない。あなたがたは剣で打ち倒されよう」と警告したのですが、それでも出て行きました。案の定、彼らは打ち負かされて、追われました。
同じことを行っても、それが信仰によるものでなければまったく意味がありません。多くの人が、神との個人的な関係をキリストにあって持っていないのに、宗教だけを行おうとしています。神が命じられたこと、すなわち自分の罪のために死に、三日目によみがえってくださったイエス・キリストを自分の救い主、主として受け入れることをせずに、クリスチャンに命じられていることを行おうとします。
私たちはみな、新しい課題を持っています。それに対して、神から与えられた約束があります。神が共にいてくださいます。主を見上げます。主が行ってくださったことを受け入れ、喜びます。主がすでに世に打ち勝ったことを信じます。そうすれば克服することができます。イエス様が勝利してくださったことを信じるのです。その勝利を、自分の生活にもお迎えするのです。そのことを可能にするのは、単純な信仰です。自分の生活に生けるイエス様をお迎えするというだけの小さな信仰です。
もしそのことを行わずに、その周辺のことを行おうとするなら、信仰という小さな種粒を自分の心に蒔くことをせずに、教会に通っても、クリスチャンと同じようなことを行おうとしても、ちょうど罪を犯した後にカナン人のところに行こうとしたイスラエル人のように、なんら生活は変わることなく、敗北するだけです。
どうか信じてください。語られた御言葉が自分のものであることをただ受け入れてください。その時に、自分の内に神の御言葉が生きて働きます。神の御霊が住んでくださいます。そして、自分の力でしなければいけないかのように、神の命令を単なる規則に変えて自分の前に積み上げないようにしてください。そんなことをする神であれば、確かに神はとてつもなく意地悪な存在です。けれども、神はまず私たちにキリストとともにすべてのものを与えてくださいました。キリストご自身を与えてくださいました。この方に自分を明け渡してください。この方が自分の内で働かれるように願ってください。そうすれば、自分の思いや志、自分の行いにおいて、主の御手があることを知るようになるでしょう。