民数記15−17章 「クリスチャンの祭司職」
1A 信仰と希望 15
1B 豊かないのち 1−21
2B 罪の処理 22−41
2A あわれみ 16−18
1B そむきの罪 16
1C 分を越えた行為 1−19
2C しるし 20−40
3C 間に立つ祭司 41−50
2B いのちの実 17
3B 任務 18
1C 重荷 1−7
2C 分け前 8−32
民数記15章を開いてください。今日は、15章から18章を学びたいと思います。ここでのテーマは、「クリスチャンの祭司職」です。私たちクリスチャンは、祭司として神に召されています。このことの意義を、アロンの祭司職から学んでみましょう。
1A 信仰と希望 15
15章は、13章と14章からの続きになっています。そこには、イスラエルの民が、カデシュ・バルネアまで来ていたこときに、不信仰になって、恐れて約束の地に入ろうとしなかったことが書かれていました。そのため、主は、20歳以上の者たちを40年間荒野でさまよわせるようにさせ、彼らが荒野で死に絶えるようにされることを宣言なさいました。しかし、主は、そこで話しを終わらせることをなさいませんでした。さばきのすぐ後に、希望のメッセージをモーセに伝えておられます。
1B 豊かないのち 1−21
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたがはいり、特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、主へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を主にささげるときは、そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを主にささげなければならない。また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンを主へのなだめのかおりとして、ささげなければならない。
この主のことばが、まだ荒野にいるイスラエル人に対して告げられています。イスラエル人は今、荒野で40年間、さまよわなければならないことを告げられたばかりです。しかし神は、この死の宣告をされた後にすぐに、命あふれる約束に目を向けるようにされました。「あなたがたの古い世代はみな、死に絶えなければならない。しかし、イスラエルよ、それは新しい世代のためなのだ。新しい世代が、もはや自分自身に拠り頼まず、わたしを信じて生きるためなのだ。いのちを得るためには、古い人が死ななければならない。しかし、あなたがたが死ぬのは、この約束の希望に基づくのだよ。」と主は、語りかけておられるのです。
民数記全体をとおして、古い世代の死と、新しい世代の歩みを読むことができます。最初の10章において、主は、さまざまな教えによって、イスラエルが旅をすることができるように整えてくださいました。しかし、11章から20章までには、彼らがことごとく失敗して、荒野で滅びなければいけないことについて書かれています。しかし、21章からは、イスラエルの若い人たちが約束の地に向かうために、敵と戦って勝利していく場面を読んでいくことができます。古い世代の死と、新しい世代の歩みが、この民数記には描かれているのです。
ここに私たちは、「死ぬことによって、生きることができる」という原理が働いているのを見ることができます。それは、キリストが十字架上で死に、そして、よみがえられたという原理です。私たちは、この世に対して、肉に対して、また律法に対しても死んでいます。それは、キリストのいのちが、私たちのうちに現われるためであり、私たちが死んでいるところにキリストが生きてくださるためです。神は、そのため、イスラエルが荒野を通らせるような、肉を剥ぎ取り、死に至らせるようなプロセスを通らせました。そして、古い人の死によって、新しい人としていのちを得させるようにされているのです。荒野で死なせることを告げられた後に、約束の地における収穫物のささげものについて語られた主は、そのような配慮をもっておられるる方なのです。
ですから、イスラエルの民は、動物のいけにえをささげるときに、穀物とぶどう酒を添えました。では8節から読みます。
また、あなたが特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとして主にささげるときは、その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの、火によるささげ物である。
牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。
すべてこの国に生まれた者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行なわなければならない。また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。
主はまたモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたがはいり、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。」
約束の土地で得た収穫物は、家畜のいけにえに添えるだけではなく、その初物を供えました。主はいつも、「初めのもの」を私たちに求められます。初めに生まれてきた男子、つまり初子は主のものであります。残りものではなく、自分にとって最も大切なものをささげるのです。
これらのささげものが、「誓願のささげもの」であることに気づいてください。自分から喜んで、主におささげしたいと思ってささげたものです。私たちが、主の御霊にふれられて、主を賛美して、感謝しているとき、自分のもっとも大切なものをささげようとするはずです。自分によって、仕事があるなら、そこから得る給料を主におささげしよう。自分に時間があるなら、それを主におささげしよう。自分に音楽の能力があるなら、これをささげよう。自分が大切にしているものを、主に明け渡すのです。
2B 罪の処理 22−41
ここまでは、ささげものについての教えでした。次からは、あやまって罪を犯したときの教えです。
あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも、主が命じられた日以来、代々にわたって主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行なわないときは、もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、主への火によるささげ物、罪のためのいけにえを主の前に持って来たからである。イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。
イスラエル人が、会衆として、気づかずに罪を犯してしまったとき、雄牛を罪のためのいけにえとしてささげます。ささげれば、その罪は赦されます。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。…もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Tヨハネ1:7,9)」と書いてあるとおりです。
もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。
ここでは個人の罪について取り扱われています。雌牛をささげます。会衆全体の罪は雄牛でしたが、それは、その責任がより重いからです。
イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にも、あやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。
あやまって罪を犯したのではなく、故意に罪を犯したときの戒めについてです。このときは、罪の赦しのための、いけにえは残されておらず、断ち切られなければならなくなります。ヘブル書10章にも、「ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。(10:26)」とありますが、主の前に罪のためのいけにえを持ってくることさえも拒むことであります。つまり、イスラエル人の場合は、雄牛や雌牛をたずさえてくることを拒むこと、私たちクリスチャンの場合は、キリストの十字架のところに行かないことです。罪の赦しを請わなければいけない、と考えることもなく、十字架による救いの道が示されているのに、それを拒むのであれば、神のさばきがその人のうちにとどまります。これが故意に罪を犯す、という意味です。
そして次に、故意に罪を犯している人の例が出てきます。
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。
安息日に仕事をしている男がいました。知らずにではなく、意図的に、故意に、知りながらたきぎを集めていました。そこで主は殺されなければいけない、と命じられました。
そこで主は、イスラエルの対して戒めとしての教えを与えられます。
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、主である。」
2A あわれみ 16−18
こうして主は、イスラエルが不信仰に陥ったため、さばきを行なわれましたが、同時に希望を指し示してくださいました。しかし、16章からは、さらにまた別の問題について話しておられます。それは、「そむきの罪」についてです。
1B そむきの罪 16
1C 分を越えた行為 1−19
レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
レビ人でケハテ族に属するコラが、ルベン人のダタンとアブラムと共謀して、モーセとアロンに逆らいました。また、会衆から選び出された250人のリーダーも誘い込み、二人に立ち向かわせています。そして、彼らは、モーセとアロンが、主を礼拝する幕屋における奉仕において、彼らだけが独占し、イスラエル人を神に近づけなくさせている、と訴えています。「全会衆が聖なる者であるのに、なぜ自分たちだけが主に近づけるようにさせているのか。あなたがたは主が与えられた分を越えて、自分たちとイスラエル人の間に立ちはだかっている。」と訴えています。
モーセはこれを聞いてひれ伏した。それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」
モーセは、コラの言い分に対して、「主の選び」をもって戒めています。「主が、ご自分に近づかせる人は、人が選ぶのではなく主が選ばれるのだ。火皿を持ってきなさい。だれが主に選ばれているかを、主ご自身に裁定していただく。分を越えているのは、私たちではない。あなたがたのほうなのだ。」と言っています。
そしてさらに、戒めています。モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」
コラは、レビ部族のケハテ族に属する者でした。レビ人は、荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役目を担っていました。特にケハテ人は、聖所の中の用具を運搬するということで、他の氏族のレビ人よりも、さらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていました。しかし、コラは、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕と礼拝までを要求しました。
つまり、ここで取り扱われているのは、アロンの祭司職に対する攻撃です。もっと突き詰めると、主の前で礼拝することに対する攻撃です。カデシュ・バルネアでは、イスラエル人は、約束の地に入ろうではないかと言ったヨシュアとカレブに対して、石を投げつけようとしました。けれども、今は、主の前に近づいて、民に代わって奉仕をするアロンに対して攻撃しています。彼を、政治的手法をもって巧妙な手段をもって取り除こうとしているのです。コラは、ルベン人のダタンとアビラムに共謀しましたが、それは、イスラエルの民をさばく務めをモーセが担っていたからです。ルベンはヤコブの長男ですから、イスラエルの民をさばく働きをレビ人であるモーセが行なっていることに対して、ねたみを抱いていたのでしょう。それを利用して、コラは、アロンの祭司職をくつがえそうとしました。
私たちは今、エペソ人への学びで、キリストにあって、神の御前に確信をもって、大胆に近づくようにされた、という真理について学んでいます。ですから、私たちキリストのうちにある者は、アロンの子どもたちのように、主にある祭司となっています。祭司というのは、神に対して、人々を代表して、人に対して神を代表している務めであります。人々の弱さや罪のために執り成しをし、人々に対しては、神との和解、神の平和と恵みを分かち合います。神の前では礼拝をささげて、主と交わりをしますが、人の前では、キリストについて証しします。これが祭司の務めであり、今は、キリストを信じるすべての者に与えられている賜物です。
したがって、コラが行なったことを、新約時代の私たちに当てはめると、このようなキリスト者の務めを阻止しようとする仕業であります。クリスチャンが神の前に近づくのを止めさせようとする仕業、また人の前にキリストのことを証しするのを妨げようとする要因です。
ローマ人への手紙12章を開いてください。ここでは、クリスチャンが、神への供え物としてささげなさいという勧めであります。その勧めの中に、3節ですが、使徒パウロはこう言っています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」思うべき限度を越えて、思い上がってはいけない。なぜならば、神がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りがあって、その量りにしたがって考えていくべきだからだ、と言っています。そして、私たちはキリストのからだであって、それぞれの器官があって、そして6節には、「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」と言っています。神が私たちそれぞれに信仰を与えてくださり、それぞれが異なる量りを持っています。その量りにしたがって動くときに、ある人は預言をするし、ある人は教えるし、ある人は分け与えるし、ある人は奉仕をします。このように、一人一人が、神の恵みによる、信仰による歩みによって、アロンの子たちに与えられていたところの務めを果たすのです。
しかし、私たちが、思うべき限度を越えて思い上がってしまったらどうなるでしょうか?イスラエル人は、神から与えられたところの信仰をないがしろにして、アナク人と自分たちを比べ、信仰の賜物を受け取っていたカレブとヨシュアに歯向かいました。そして、希望を失ったイスラエルの民が、神の恵みを分かち合う賜物を受けて奉仕をしているアロンに立ち向かいました。私たちも、それぞれに与えられた信仰の量りをないがしろにしているなら、同じようなことを引き起こしてしまいます。主にお仕えている奉仕者の働きに、文句を言ったり反対したりします。自分に与えられていない賜物をあるがごとき主張して、教会における一致に亀裂をもたらします。
そうすると、キリスト者が果たすべき最も重要な務め、つまり、神に近づくこと、礼拝することを妨げるようになるのです。むろん、世に対しては、キリストの証しをしていませんから、人々に対する祭司の務めの妨害にもなります。コラのそむきを通して、私たちが得なければいけない教訓は、信仰を持つ、ということです。そして、神から与えられたところの賜物を、よくわきまえることです。そして、与えられた分にしたがって歩み、忠実にそのことを行なっていくという姿勢です。ですから、自分が教会の中で、どのような立場にいるのかを吟味しなければいけないでしょう。果たして、神にあって、神の召しを受けて教会に集っているのか、それとも、自分の単なる望みによって来ているのか、考えてみる必要があります。
12節を読みます。モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」
モーセは、ダタンとアビラムも、コラたちが会見の天幕の前に集まるときに、来るようにと呼び寄せました。ところが、彼らは拒みました。彼らの言葉が、実にいやらしいです。彼らは、エジプトのことを、モーセがよく使っていた、「乳と蜜の流れる地」と摩り替えています。「あなたは、乳と蜜の流れる地から私たちを連れ出して、荒野で死なせようとしている。」と言っています。「私たちを支配して君臨している。それでも不足があるのか。」と言っていますが、これは、先ほどモーセが、コラに対して、「それでも不足あるのか」という言葉をもじっています。そして、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、と言っています。
コラがモーセとアロンに立て付いたのもそむきの罪ですが、この二人が集まらないのも同じようにそむきの罪です。自分が何も言わないことによってそむくこともできますし、何の行動も起こさないことによってそむくこともできます。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)」とあります。
モーセは激しく怒った。そして主に申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」
モーセは、イスラエルの民からむさぼったことはありません。また、彼らは分を越えていると言っていましたが、とんでもありません。彼は地上においてもっとも謙遜な人でした。モーセは、いつものように怒りを人にぶつけるのではなく、主に申し上げました。
それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの主の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。」彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。
モーセもアロンも他の者たちと同じように火皿をもって、天幕の入口に立ちました。
コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。
なんとコラは、最後の最後に至るまで、イスラエルの民を扇動しています。何と悪い奴かと思ってしまいますか、しかし、私たちは自分自身を十分に欺くことができます。このようなことを行なっているとき、自分が罪を犯していることが分かりません。自分は正しいことを行なっていると確信することさえしてしまいます。私たちは常に、主の御前にへりくだって、自分の心を調べていただかなければいけないでしょう。
2C しるし 20−40
しかし、主の栄光が現われました。そして、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」
モーセが怒っている以上に、主がお怒りになられていました。ここでモーセとアロンは、「はい、分かりました。あのような反逆分子たちはもちろんのこと、会衆たちも、たちどころに滅ぼしてください。」と祈ることもできたのです。しかし、彼らは違いました。
ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」
主はモーセに告げて仰せられた。「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」
主はモーセとアロンの祈りを聞かれて、会衆を滅ぼさないようにされます。そこで、会衆をコラ、ダタン、アビラムの住まいから引き離すようにおっしゃられています。
モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。
モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
モーセは、決して自分が自分でイスラエルの民を導いたのではないことを、試しています。彼は決して、自分の意志で行ったのではないことを確かめたかったのです。主がお立てになっているのでなければ、このようなひどいことを言ったコラもダタンもアヒラムも、死なないであろう。しかし、もし主がお立てなっているのであれば、これは、酷いそむきの罪である、と。
モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。
彼らは生きながらにして、よみに下りました。よみは、新約聖書では、「ハデス」と同義語です。よみ、あるいはハデスは、死んだ後に行くところですが、彼らは生きたまま、ハデスの中に入ってしまいました。
このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。
イスラエルの民のこの反応は間違っています。主なる神は、彼らがご自分を礼拝できるように、アロンの祭司職をつくってくださいました。自分たちがそのまま近づけば、たちどころに滅んでしまうのですから、神は、仲介者をお立てになっていたのです。その仲介を取り外そうとしたのが、コラであったのです。(まさに、キリストなしに神の前に立とうとする試みであります。)ですから、主は、イスラエルの会衆が滅ぼさないように彼らを滅ぼされたのです。この神のおこころを、彼らは分かりませんでした。
そこで、主は、さらに、イスラエルに理解できる方法で、しるしを置かれました。
また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」
今、アロンが攻撃の的にされているので、このしるしをつける作業は、その子エルアザルにさせました。
そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、
イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。・・主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。
エルアザルは、燃やし尽くされた250人のところから、まだ炎が出ている中、火皿を取り出しました。そして、それを引き延ばして、金属の板と板をつなげる被金としました。そして祭壇に打ちつけます。
3C 間に立つ祭司 41−50
ところが、イスラエルの民は、コラの事件について、まだ合点が行きませんでした。そして、ついに、モーセとアロンに対して、彼ら自身が不平を鳴らします。
その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。
再び、主の栄光が現われました。
モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。
今度は会衆自身がアロンに逆らっているので、主は会衆を滅ぼされるとおっしゃっています。しかし、モーセとアロンは、彼らを何とかして贖おうとします。
モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。
これは贖いが何を表しているか、また仲介の務めがどのようなものであるのかを表す、象徴的な出来事です。死んでいる者と生きている者の間に立ったときに、贖いの祭壇から持ってきた火によって、神罰がやみました。このアロンの務めは、今、大祭司なるイエス・キリストが行なってくださいました。神と人との間に立ち、そして、人に対する神のさばきをご自分の身に受けて死んでくださいました。
コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。
こうして、アロンは仲介の役を果たしました。彼がいてくれることによって、イスラエルは生きることができたのに、彼らはそのアロンを否定してしまったのです。なんと愚かなことでしょうか。しかし、神のあわれみは、なおもアロンをとおして注がれているのです。こんなに反抗しているのにも関わらず、これでもかとばかりに、アロンは仲介に入り、イスラエルの民が滅ぼされないようにしています。これが祭司の務めというものなのです。民に代わって執り成しをし、そして、神の恵みとあわれみを人々に分かち合う、これが祭司なのです。
私たちも、このことを知るべきでしょう。私たちが神から与えられている賜物は、恵みを分かち合い、仕え合うために与えられています。使徒ペテロは、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(Tペテロ4:10)」と言いました。
2B いのちの実 17
そして主は、さらに、アロンが祭司であることを、しるしをもってお現わしになります。
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
イスラエルの12部族のかしらの杖を、会見の天幕の中に入れます。レビ族からは、アロンが選ばれます。すべて平等に、契約の箱の前に置きます。そして、死んだはずの杖から芽を出すしるしを見せることによって、主は、アロンが選ばれた祭司であることを、イスラエルの前にお示しになります。
モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。
アロンの杖から芽が出て、アーモンドの花と実が結ばれていました。そして、その杖をイスラエル人の前に示しました。死んだ木からいのちが出ています。このような、いのちの実のわざを、主はアロンをとおして行なわれました。主によって選ばれた者はみな、このように、永遠のいのちの実をもたらします。人がどのように工夫して、牧者のふりをしてみたり、伝道者のふりをしても、主によって立てられているのでなければ、実を結ばせることはありません。いのちをもたらすのは、主のみであり、私たちが人々を永遠のいのちへの導くのは、主によって立てられて、主によって賜物が与えられることによってなのです。
主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。
主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。実を結ばせた杖という、いのちの象徴によって、イスラエル人たちに、祭司の務めによる恵みのみわざを示そうとされているのです。しかし、やはり、イスラエル人は分かっていません。
しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」
彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。彼らが死なないためにアロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立てているのに、まだそのことに気づきません。そこで18章からは、アロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めを、アロン自身に語られます。彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ぬことがないように、守ってくださいます。そして、19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめを完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いるからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪をきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。
もう時間が経っていますので、18章と19章の詳しい学びは次回に回しますが、私たちが、祭司からのミニストリーを受けなければいけない存在であることを、知ることができたかと思います。祭司の務めとは、主のあわれみと恵みを分かち合うところのミニストリーです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受けつづけることができます。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、今、神の右の座におられる大祭司なるイエスが、私たちにはいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。