民数記16−18章 「思い上がりの罪」

アウトライン

1A 分を越えた反逆 16
   1B 有力者らによる対峙 1−19
      1C ケハテ族コラ 1−11
      2C ルベン族ダタンとアビラム 12−19
   2B 反逆者の滅び 20−40
      1C 生きたままの地獄 20−35
      2C 祭壇の被金 36−40
   3B 民のつぶやき 41−50
2A アロン系祭司職の認定 17
   1B 族長の杖 1−7
   2B アーモンドの花と実 8−13
3A レビ系礼拝の回復 18
   1B 祭司とレビ職 1−7
   2B 分け前 8−20
   3B 什一の捧げ物 21−32

本文

 民数記16章を開いてください。今日は16章から18章まで学んでみたいですが、16章から19章までは、荒野での放浪生活の四十年の間に起きた出来事です。私たちは前回、カデシュ・ベルネアまで来たイスラエルの民が、先住民を恐れて攻め入ることを拒んだところを読みました。その不信仰によって、二十歳以上の者はみな荒野の中で死ぬように神はされました。20章から新しい世代が約束の地に向けて歩き始めるのですが、16章から19章までは、その間に起こった出来事です。

 私たちは前回、神の約束のものを仰ぎ見て、信仰によって前に進み行くことの大切さを学びました。けれども、自分たちでその戦いを戦わなければいけないと思ったこと、また神がここまで連れてきて自分たちを滅ぼすような意地悪な方であると思ったこと、この二つが彼らを前に進み出させませんでした。このように私たちの内には、神に反抗する肉の性質を持っています。荒野の生活はまさに、神の約束が与えられていながらそれを十分に受け入れることのできていない肉に属するキリスト者の姿を表しています。そして、13-14章では「恐れ」という大きな問題を取り扱いました。

 そこで16章からの出来事も、肉の働きの大きな一つであります。それは、「神の権威と秩序に対する反抗」です。キリスト者は基本的に「服従」という生活を歩むよう召されています。けれども、「権威」という言葉を聞いた時には「反発」という反応をするのではないでしょうか?その問題をここでは取り扱います。

1A 分を越えた反逆 16
1B 有力者らによる対峙 1−19
1C ケハテ族コラ 1−11
16:1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

 この反逆の主導は「コラ」です。彼の紹介は「レビの子ケハテの子」であります。民数記において、神がレビ人に対して、ご自分の幕屋の奉仕を命じられたことを思い出してください。ゲルション族、ケハテ族、そしてメラリ族がいました。ゲルション族は幕を運搬する奉仕を執り行います。メラリ族は板であるとか、土台、柱、横棒などを運搬します。そしてケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇などを運びます。

 したがってケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中で最も主ご自身の栄光に近いところで奉仕をする光栄ある地位にいます。ところが、いや、それがゆえにコラは祭司を妬みました。祭司のみが、主の幕屋の中での奉仕をすることができます。祭司のみが、聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげます。主に捧げられた聖なる物を食べる分け前にあずかっているのも、祭司たちです。その祭司職は、レビ族の中でもアロンの家系が受け持つことを神は定められました。

 それを間近で見ていたコラは、私にもこの務めを行う権利があると思いました。しかも、私は多くの人から支持が与えられている。アロンがこの務めに留まっているのは越権行為である、と考えたのです。

 けれども、私たち人間は自分をたやすく欺くことができます。思い上がって、自分が支配したいという欲望がそうさせているにも関わらず、自分の思いの中ではそれを正義や公正のために行っているのだと思い込んでいます。コラは、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と訴えました。まさに、現在の民主主義や平等主義を訴えているような発言です。まことしやかに語っていますが、実は妬みによって突き動かされています。けれども、自分はモーセとアロンが越権行為を行っていると本気で思っていたのです。

 その他、ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀しています。ルベンはヤコブの長男でした。自らが第一の者であると考えました。そして、二百五十人の有力者が共に立ち向かっています。彼らも人々に認められているという自負があって、それでモーセとアロンに立ち向かっています。

 ここにある大きな問題の背景は、イスラエルが荒野を四十年間放浪しなければいけなくなったことがあります。それが苦みになっていたものと思われます。もう自分たちは、この荒野で死ぬしかありません。けれども、彼らはその神の定めを受け入れることはできませんでした。神の裁きに服することを拒んでいたのです。ペテロは第一の手紙で、「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。(5:6」とあります。私たちが置かれている所があります。それは神の力強い御手の中にあります。それを神からのものであると受け入れていく時に、自分ではなく神がちょうど良い時に自分を高めてくださるのです。

 またパウロは、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」と言っています。また、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5」と言いました。状況の中で自分自身を神の御言葉に照らして、正直に見つめなければいけません。そして、信仰にある幼子のように、素直に自分が置かれている立場、つまり、「まったく、神の恵みによって救われた者、神の子どもとされた者」であることを知るのです。その喜びと神の愛と平安の中で生きるように私たちは召されています。

16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

 コラたちの反逆に対して、モーセはひれ伏すことによって応じました。彼は、コラたちとは異なりへりくだることを知っていました。コラたちは、自分たちの力によって地位を得ようと動いていますが、モーセはこのとんでもない事態を主の前に出て行って、ひれ伏したのです。神の許しがあって、このようなことが起こっていることをまず彼は認めました。そして、神のみがこの事態を解決する知恵と力を持っていることを知っていました。だからひれ伏し、祈ったのです。

16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。16:6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、16:7 あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

 モーセは祈りの中で、このことを行うように示されたのでしょう。火皿をもって香を盛り、その煙を神の箱のところに持っていくことが祭司の大きな務めです。それを二百五十人とアロンが等しく、同じ条件で行ない、主が誰を選ばれるか見なさい、というものでした。

 ここでモーセは「ご自分が選ぶ者」ということを強調しています。ここがとても大切です。神の選びというのは、神の恵みによります。「今も、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ローマ11:5」とパウロは、イスラエル人でイエスを信じる者たちをそう語りました。神が一方的に憐れんでくださり、罪の中にいる者をキリストと共によみがえらせてくださった、というのが真実なのです。それが神の選びであり、人の行いではなく神からの贈り物であることが分かります。

 それはまた、神の主権であるということです。私たちが自分で自分のしたいこと、自分の能力を身につけるというものではなく、御霊がご自分の御心のままに賜物をそれぞれに与えられます。コリント第一12章には、御霊によってある人は知恵のことばがあたえられ、御霊によって、信仰が与えられ、御霊によってある人には癒しの賜物が与えられる、というように、「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(11節)」とあります。

 ですから、神の家は、コラたちの考えているような人間主体の民主主義ではないのです。教会はあくまでも神主体の、キリストを頭とし、御霊の主権の下にある存在であります。ですからパウロはこう言いました。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ12:3」だから、私たちのできることは、ただただ神の恵みに感謝し、与えられた信仰の中で喜んで生きることなのです。そして、その中で主に仕える時に必要な賜物を御霊が付与してくださいます。

16:8 モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

 午前礼拝を思い出してください、主が今恵んでくださっていることに対して感謝の思いがなくなるときに、他のものが恨めしくなり、それを欲しいと貪るようになります。

2C ルベン族ダタンとアビラム 12−19
16:12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。16:13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。16:14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」

 これはすごいです、公然たる反逆です。モーセの権威を真っ向から否定しています。彼らはモーセに立ち向かっているつもりです。彼が語った言葉をそのまま裏返しています。13節にの「私たちを乳と蜜の流れる地」というのは、エジプトのことです。いろいろな食べ物があり、我々も食べることができたのに、そこから我々を荒野に連れ出したのはお前だろ、ということです。そして、こんな酷いところに連れてきただけでなく、我々を君臨していると非難しています。

 そして、次に14節の「乳と蜜の流れる地」は実際の約束の地です。約束の地に行こうとしなかったのは、彼らイスラエル本人であり、モーセではありません。けれども、それをモーセが連れて行かないようにした、と非難しています。つまり、この根底にあるのは「モーセは、神の言葉を語っていると言っているが、勝手に自分で語っているのだ。そして俺らを操作しているのだ。」ということです。

 本人はモーセに立ち向かっているつもりですが、実は神ご自身に立ち向かっています。なぜなら、モーセは自分の言葉を語ったのではなく神の言葉を語っていたからです。私たちは、確かに権威を乱用して教会の人々を支配しようとする悪い指導者がいることは確かです。けれども、もし自分がその人が嫌いだ、その人を取り除きたいと思って迫るならば、それはその人を取り除くだけではなく、神ご自身を取り除こうとする動きなのです。その人は神の御言葉を語っているからです。

16:15 モーセは激しく怒った。そして主に申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」

 当然、モーセは怒りました。まったくのでっち上げ、真実の裏返しをダタンとアビラムは話しているからです。けれども彼は主に訴えました。再び主に自分の問題を打ち明けています。ここにモーセのへりくだりと柔和さの源泉があります。そして、モーセは彼らになんら悪いことをしていないことも申し上げています。やましいことはなかった、良心は神の前にきよく保っていたのです。

16:16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。16:17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの主の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。」16:18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。16:19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。

 コラは、徹底的に人を相手にして動いています。ルベン族の頭と共謀し、二百五十人の有力者を抱きこみ、最後は会衆全員を自分の味方に付けました。けれども、これらはすべて人を相手にして動いているのです。これは政治の世界ではうまくいくかもしれませんが、神の世界では反逆の何物でもありません。主の栄光が全会衆に現れています。ヨシュアとカレブに対して全会衆が石を投げようとした時も主の栄光が現れました。

2B 反逆者の滅び 20−40
1C 生きたままの地獄 20−35
16:20 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。16:21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」16:22 ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」16:23 主はモーセに告げて仰せられた。16:24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

 主の怒りが、はっきり表れていますね。カデシュ・バルネアにおける会衆の反抗よりも、さらに強い御怒りを言い表しておられます。けれども、モーセはアロンと共に執り成しをしています。ここでも、本来ならそそのかされている会衆も、コラとともに滅んでもおかしくありません。その罪を犯しています。けれども、主はご自分の寛容によって、この張本人のみが滅ぼされるように怒りを制限することを、モーセとアロンの執り成しの祈りの中で導いておられます。

16:25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、16:26a そして会衆に告げて言った。

 ここの「長老」は、かつて主がモーセの霊を分け与えた七十人の長老のことです。

16:26b「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」16:27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。

 ダタンとアビラムは妻子と共に出てきました。けれどもコラは、その子供たちは共にいません。コラの子たちは生き残ります。それが分かるのは、彼らが後にレビ人の奉仕者として残り、礼拝讃美にも積極的に関わるようになるからです。

 モーセは、「この悪者どもの天幕から離れなさい」と言いましたが、これは私たち教会に対しても語っている言葉です。使徒の書簡には、分裂を引き起こす者や論争を引き起こす者を避けなさいという勧告が数多くあります。例えばローマ1617-18節にあります。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。(ローマ16:17-18

 モーセは名指しして遠ざかりなさいと言っていますが、使徒ヨハネも教会で問題を起こしている者を名指しして警告しています。「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。(3ヨハネ9-10

16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。16:30 しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。16:32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。16:33 彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。

 ここから、陰府というのが地の深い所にあることがよく分かります。エゼキエル書においても、諸国が地に下って、そこに横たわっている幻をエゼキエルが見ています。イエス様は、人の子が三日三晩、地の中にいると言われました(マタイ12:40)。

 そして今、生きたまま陰府の中に下っていくというのは、神の激しい怒り、その裁きを表しています。反キリストが神を冒涜し、神とキリストに対して戦いましたが、彼の生きたまま火と硫黄の池に投げ込まれました。

16:34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。16:35 また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。

 イスラエル人は恐れたことでしょう。モーセとアロンの執り成しを通して示された神の憐れみなしには、コラの動きに対して同調したイスラエルの民は自分たちも地に飲み込まれてしまうかもしれないと恐れるは当然でしょう。

 そして、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった二百五十人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。けれども、同じように火皿を持っているアロンは聖なる者とされていたため、滅ぼされていません。

 私たちキリスト者も同じように聖徒、つまり聖なる者とされたので、後に降り注ぐ神の怒りからは救われます。ですから、私たちは汚れたものから離れるべきです。「私たちは・・・いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(2コリント7:1

2C 祭壇の被金 36−40

16:36 主はモーセに告げて仰せられた。16:37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。16:38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」16:39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、16:40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。・・主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。

 これからは、アロンの家系のみが祭壇の奉仕にあずかることになります。その青銅の祭壇にはりつけられた板金を見て、いつまでもこの出来事を思い出す戒めとしていきます。私たちは繰り返し、戒めが必要ですね。過ちを繰り返すのが人間だからです。パウロは、民数記で荒野の旅の話を思い起こしてこう言っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:11-12

3B 民のつぶやき 41−50
16:41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」16:42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。16:43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、16:44 主はモーセに告げて仰せられた。16:45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」16:47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。16:48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。16:50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。

 生きたまま陰府の中に入れられた、恐ろしい神の裁きを見たにも関わらず、会衆はコラに同情していました。それで、彼らの中で一万四千七百人死んでいます。死ぬまで心をかたくなにしているのです。これが私たちの肉の姿です。いつまでも神の御心に反抗します。自分を滅ぼすまで、言うことを聞きません。

 主から滅びが宣言された時に、彼らは語るべき言葉を失っていました。執り成す言葉がなくなってしまったのです。けれども、彼らは行動に移しました。祭司の務めである仲介、そして贖いを祭壇のからの火を、生きる者と死ぬ者の間に置くことによって行いました。これが、私たちの主イエス・キリストが神の右の座に着いて行なっておられることです。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34

 私たちが人の反抗を見るときに、がっかりします。疲れ果ててしまいます。なぜ、人はこうも向上できないのか?変わることができないのか?そして、人の悪を見てそれを怒り、ねたむ時に、ついに自分の心までもがその悪に浸食されます。ダビデも詩篇の中で、人の悪をねたむなと強く勧めています(詩篇37:1)。

 私たちは、恵みの中に生きなければいけません。イエス・キリストの執り成しを見つめることです。この方の忍耐を見上げることです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:2-3」キリストは、その人の反抗を忍ばれているし、そして私たちの反抗も忍ばれています。この方に目を向ける時に、初めてイスラエル人が死なずに生きることができたように、私たちも御霊によって生きることができます。石のように固い心が柔らかい、従順な心に変えられます。

2A アロン系祭司職の認定 17
1B 族長の杖 1−7
17:1 主はモーセに告げて仰せられた。17:2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。17:3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。17:4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。17:5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」17:6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。17:7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。

 主は、ご自分がお立てになったアロンによる祭司職をイスラエルの民に、はっきりと示されるためにこのように、平等にイスラエル十二部族のかしらの杖を取らせました。「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれます。

 それで、それぞれの杖にそれぞれの名前を書き、それを至聖所にある契約の箱の前に置きます。それに神は、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させると言われます。

2B アーモンドの花と実 8−13
17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。17:9 モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。17:10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」17:11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。

 いかがですか、アロンの杖は芽を出しただけではなく、つぼみを出し、花をつけ、何とアーモンドの実までも結ばせました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者が、アロンであることをはっきりとお示しになったのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」「見張る」という意味の動詞と同根の言葉になっており、主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しています。

 神は死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることのできる方です。木につけられたキリストを三日目によみがえらせました。この復活の命を私たちは与えられており、祭司の務めはこの命の恵みを分け与えるために存在します。

17:12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。17:13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」

 残念ながら、このことを通してもイスラエルの民は恐怖に怯えています。前回のメッセージを覚えていますか、私たちが恐れると、信仰を持つことができずに退いてしまいます。悔い改めて、祭司が行なう恵みの務めを受け入れれば良いのに、ただ神の裁きの恐ろしさだけで怯えています。彼らはまだ神の慈しみ深さ、神の善を疑っているのです。

3A レビ系礼拝の回復 18
 そこで主は、しっかりと祭司の制度を明言されます。18章は彼らの根本的な不信に対して、しっかりと祭司制度によって彼らの礼拝を回復させる言葉になっています。

1B 祭司とレビ職 1−7
18:1 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。18:2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。18:3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。18:4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。18:5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。

 アロンの家の者たちが、聖所に関わる咎を負わなければいけない、と主は命じておられます。つまり、神への礼拝についてはアロン家の祭司らがしっかりと責任を果たさなければいけない、ということです。そして、レビ人がアロンの奉仕をしっかりと補助します。天幕全体の奉仕は、一般のイスラエル人ではなく、レビ人が行ないます。そして神は5節で、「イスラエル人に激しい怒りが下ることはない」と言われます。レビ人のコラが反逆を起こしたので、祭司制度に亀裂が走り、そのためにイスラエルの民は仲介の務め無しの神の聖なる姿を見てしまったのです。それで怯えていました。仲介の祭司の務めがいかに必要であるかを私たちはここから分かるかと思います。

 もちろん、今はこの方は偉大な大祭司であられるイエス・キリストです。けれども、恵みの御霊の賜物を与えられた私たちは、それぞれが祭司の務めを行ないます。互いに、それぞれが神に対してしっかりと責任を負い、賜物を他の兄弟姉妹に対して用いていくことによって、恩恵を受けている人々は神の恵みと命を経験することができるのです。これがなければ、私たちは安心して神に近づくことはできません。神の聖さにあずかるには、神の恵みがなければいけないのです。

18:6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを主にささげられたあなたがたへの贈り物とする。18:7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

 祭司らにとって、レビ人は自分たちの奉仕の補佐になってくれます。神は同族レビ人を祭司たちの贈り物としてくださいました。

2B 分け前 8−20
18:8 主はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。18:9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。18:10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。

 ここから「分け前」の教えになります。祭司にとって、イスラエル人の捧げ物の一部を食べることは礼拝行為そのものでありました。そのいけにえを食べることによって、神と神秘的に一つになることを意味していました。深い交わりを表していました。今は、仲介者であられるキリストが、そしてキリストにつながれている者たちが、神の聖さに御霊によってあずかることができます。

18:11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前とする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。18:12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。18:13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。

 イスラエル人は、礼拝のためのいけにえを捧げただけではなく、奉納物を与えました。その奉納物は祭司の家族が食べることができるようにするものです。しかも、それは初物であり、また最良のものであります。彼らは相続地が与えられていない代わりに、イスラエルの人々の捧げるものによって生活ができるように定められていました。

 そして最良のもの、初物を捧げるという原則はとても大切です。自分自身の生活があって、その後に礼拝生活がある、という態度では駄目です。そうすれば、最良のものではなく残り物を捧げることになってしまいます。礼拝生活があって、それから次に日常の生活がある、と考えるべきです。したがって、捧げることは第一に考えていかなければいけません。

18:14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。

 主が、完全に滅ぼされるとお決めになったものや、誰のものにもしてはいけないと定められたものを「聖絶した」と言います。例えばヨシュア記でエリコを陥落させた後に、そこにある家畜や金銀はすべて聖絶されたものになりました。それらは、具体的には祭司がそれを受け取ることになります。

18:15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。18:16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。18:17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、主へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。18:18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。

 初子はすべて主のものである、という掟です。それを贖う、つまり自分のものとして買い取るために贖い金を支払します。それは祭司たちのものとなり、祭司はそれを神の礼拝のために管理することになります。ただし、いけにえとして捧げることのできる羊や牛、やぎは、祭壇で焼いて、それからその肉を自分たちが食べます。

18:19 イスラエル人が主に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

 「塩の契約」とあります。主は穀物の捧げ物にも、塩で味付けをしなければいけないと言われましたが(レビ2:13)、これは命を保つ永久的な契約である、ということを示します。中東の例えに、「これは、我々の間のパンと塩だ」という言い回しがあります。契約を結ぶ時に食事をするのですが、この契約がしっかりと恒久的に保たれていくという意味です。つまり、ここでは祭司が分け前として与えられる制度は、しっかりと保たれていく、ということです。廃れてなくなっていくものではなく、神がしっかりと保ってくださるという約束です。ダビデとの契約についてはも、後にアビヤ王がこう言っています。「イスラエルの神、主が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち、塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられた・・・(2歴代13:5

 私たちに対する神の契約もまた塩のように、永続するものであり、他の要素によって損なわれるものではありません。神の言葉も真理に、私たちはもっともっと触れる必要があります。それを、頭で整理するものではなく、心から魂から受け入れて、神が自分をキリストにあっていかに祝福してくださっているか知る必要があります。

18:20 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

 他のイスラエルの部族には割り当て地が与えられますが、レビ族にはありません。けれども、主ご自身が彼らにとっての割り当てです。礼拝の中で主のご臨在にあずかることができること、主の栄光を見ることができること、これが本当に喜びになり、自分への分け前になります。ダビデもこのことを詩篇でこう述べました。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。(16:5

3B 什一の捧げ物 21−32
18:21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。18:22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。18:23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。18:24 それは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

 什一の捧げ物についての教えが始まります。彼らが専属で会見の天幕の奉仕ができるように、イスラエルの民は相続財産の什一をレビ人に捧げなければいけません。きちんと奉仕をすることができるから、イスラエルの民は神の怒りではなく、神の恵みの便益を自分たちも享受することができます。

18:25 主はモーセに告げて仰せられた。18:26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として供えなさい。18:27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。18:28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を供えなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。18:29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから主へのすべての奉納物を供えなさい。

 レビ人がイスラエルの民から什一の捧げ物を受け取るからと言って、彼らが捧げなくてよいということではありません。彼ら自身も神への礼拝として受け取った什一のさらに什一を神に捧げるのです。そしてそれは祭司が受け取ります。

18:30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。18:31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。18:32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

 什一を捧げた後の残りのもので、彼らはそれらを奉仕の報酬として自分たちで食べて喜ぶことができます。

 このようにして主は、イスラエルの民全体が神の恵みの分与を受けることができるように、什一を捧げる制度を作られました。それらは、彼らが神に捧げるという礼拝行為であると同時に、神への奉仕者がその奉仕に専念できるように生活を支えるという目的もあるのです。

 午前礼拝でお話ししましたように、この教えは新約の教会にも受け継がれています。福音を伝える者はその報酬を受け取る権利があり、そして教会の長老は、その御言葉を教える労苦のゆえに二重の尊敬を受けるように使徒パウロは勧めました。初代教会において、やもめへの配分で問題が生じた時には、使徒たちは自分たちが祈りと御言葉に専念できるように、他に給仕をする奉仕者を立てました。確かに新約時代はすべての人が祭司でありますが、神は確かに奉仕に専念できるように福音宣教者を捧げるように定めておられます。

 そして什一献金も定めておられます。什一が始まったのは律法が始まる前であり、アブラハムがメルキデゼクに捧げました。そしてイエス様は、事細かく什一を計算しているパリサイ派のことについてこう言われました。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23」什一献金が、私たちの中心事項となってはいけません。もっと大切なもの、正義や憐れみがあります。けれどもイエス様は、什一そのものをおろそかにしてはいけない、と言われています。

 パウロは、コリントにある教会に対してこう手紙を書きました。「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:1-2」献金というのは、礼拝の時間に考え始めて、財布の中にあるものを取り出すのではなく、「収入に応じて、手もとに蓄えておく」ものであります。月給にしろ、週給にしろ、自分の収入が、自分の財産が第一義的に主のものであり、けれども十分の一は主のものであるという意識を持ちながら、そして礼拝において捧げるのです。

 教会に初めての人にとっては、いや教会に集っている人であっても、「お金の話をしている。教会も他の宗教と変わらないではないか。」という印象を持つかもしれません。お金という生活臭があり、ある意味汚さを感じるものが、聖なる礼拝において導入されてよいものか、という印象を私たちは持ってしまいます。事実、お金は不正の道具となっていることが多いです。金銭の欲によって、どれだけの人が堕落してしまったことでしょうか?教会も例外ではなく、金銭の欲に陥ってしまった人々は少なくありません。けれども、それでもこの不正の富によって、生活臭のするお金をもって主のために使っていただくということが、私たちが信仰生活と実際の物質的な生活とが連携して、信仰生活が私たちの人間臭い生活を支配するようになるのです。

 イエス様は言われました。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(ルカ16:9」つまり、永遠の命を受け継ぐ時に、自分がお金をどのように管理したのか、また神の御国のためにそれを効率よく使っていくことができたか、ということで主は報いを与えてくださるということです。

 ということで、私たちは「神の政治」を受け入れなければいけまません。神の支配を受けます。コラのように人間主体の生き方ではなく、神が定められ、選ばれた人々によって、また神の定められた制度によって生きる時に、私たちは神の恵みの命を受け取ることができます。

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