民数記19−21章 「旅の再開」

アウトライン

1A 赤い雌牛 19
   1B 雌牛の灰 1−10
   2B 死体に触れた者への清め 11−22
2A モーセとアロンの怒り 20
   1B メリバの水 1−13
   2B エドムの対峙 14−21
   3B アロンの死 22−29
3A 約束の地への旅 21
   1B 青銅の蛇 1−9
   2B 主の戦い 10−35
      1C モアブの地 10−20
      2C シホンとバシャンへの戦い 21−35

本文

 民数記19章を開いてください。19章は前回の学びの続きになります。時は、荒野の旅をしていて、四十年間、そこをさまよっている時です。コラがモーセとアロンに反逆し、イスラエルの民もそれに同情し、それに対して神は裁きを下されました。そして神はアロンの杖に、アーモンドの花と実を結ばせることによって、彼が確かに神の祭司であることを示されました。それでもイスラエルの民は聖なる神の前に死なずにいられるのか、と言って恐れています。そこで主は、アロン家による祭司の務めとレビ人の幕屋の奉仕をはっきりと語られて、彼らの務めによってイスラエルが死ななくても良いことを語られました。

 そしてまだ残っている章が19章です。イスラエルの民の間にたくさんの死者が出ました。コラの事件の他に14700人死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れると汚れると神は言われました。そこで主は、遺体に触れる者が清められるための特別ないけにえのしきたりを定められました。それが、「赤い雌牛」のいけにえです。

1A 赤い雌牛 19
1B 雌牛の灰 1−10
19:1 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。19:2 「主が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。19:3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。19:4 祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。19:5 その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。19:6 祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。19:7 祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営にはいることができる。しかしその祭司は夕方まで汚れる。19:8 それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。19:9 身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。19:10 この雌牛の灰を集めた者も、その衣服を洗う。彼は夕方まで汚れる。これは、イスラエル人にも、あなたがたの間の在留異国人にも永遠のおきてとなる。

 そして次の11節以降に、この灰を水の中に入れて、それを死体に触れた者を清めることとしています。

 これまで私たちがレビ記において見てきた、いけにえや清めの教えを思い出せば、ここで主が命じておられることの理解は難しくありません。一つは、「牛の色が赤である」ということです。これは、犠牲の血を表しています。人が犯した罪のために、神がその赦しと清めを与えられるために流される血です。そして次に、「宿営の外でほふられる」ということです。罪のためのいけにえが、脂肪は祭壇で焼くけれども、その他のところ、すなわち肉と皮と汚物、内臓などは宿営の外で焼きました。さらに、「会見の天幕に向かって、血を振りかける」というのは、贖罪日の時に大祭司が贖いの蓋の前でも同じように、七度、血を振りかけました。

 そして「杉の木とヒソプと緋色の糸」を祭司が火の中に投げ入れます。らい病人が清められた時のことを思い出してください。木の器の中に湧き水を入れ、その上で一羽の小鳥をほふります。その血がしたたって水の中に落ちますが、その水に杉の木と緋色の撚り糸、そしてヒソプを浸します。そして、生きたもう一羽の小鳥を入れて、それを空に放ちます。それが、イエス・キリストの十字架と復活を表していることを思い出してください。杉の木は、キリストがかけられた木を表しています。緋色の撚り糸は流された血を表しています。そして最後に、雌牛のいけにえを捧げた人、その灰を集めた人もみな汚れます。

 ヘブル人への手紙に、この儀式をキリストの血による清めに当てはめている箇所があります。913-14節です。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」イスラエルの宿営の中に死体が広がっていて、それを処理する中でイスラエルの民は、死という現実を味わったことでしょう。そしてそれが自分たちの反逆の罪のせいであることも感じ取ったことでしょう。私たちが歴史上の戦争映画で死体が積みあがっている姿を見るときに、そこに人間の罪と闇を見ない人はいないと思います。

 「罪から来る報酬は死」なのです。それからの清めを、主は旧約時代においては、動物のいけにえによってこのような掟によって定めてくださいました。主が、罪を、宿営の外でほふられた牛によって処理してくださいました。そのことを、灰を水の中に入れてそれを人々に振り掛けることによって清められたと宣言してくださいますが、その実体はキリストです。この方がユダヤ人の共同体から外されて、エルサレムの外で十字架につけられ、血を流されましたが、その血が注がれる時に私たちは肉体という外側ではなく、良心から清めてくださり、それで肉体の行いを改めることができるようにしてくださいました。それだけ、キリストの血は力があるのです。

2B 死体に触れた者への清め 11−22
19:11 どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。19:12 その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。19:13 すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。

 三日目と七日目に、赤い雌牛の灰で作った水を振りかけます。三日目は主が死んでよみがえられた日数、七日は神が聖なる日を設けられた完全数です。

19:14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕にはいる者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。19:15 ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。19:17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。19:18 身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。

 死体に触れずとも、天幕の中で人が死んだ時の対処です。

19:19 身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。19:20 汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は主の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。19:21 これは彼らに対する永遠のおきてとなる。汚れをきよめる水を振りかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れをきよめる水に触れた者は夕方まで汚れる。19:22 汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。」

 清めを行なわなければ、集会の中から断ち切られるという強い戒めがあります。ヘブル人の手紙12章にも、「聖くなければ、だれも主を見る事ができません。(14節)」とあります。汚れた思いをそのままにしておくことはできません。

2A モーセとアロンの怒り 20
 そしてついに時は四十年目に入ります。

1B メリバの水 1−13
20:1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。

 ここの「第一の月」はエジプトを出てから第四十年の第一の月のことです(民数33:38)。以前、カデシュ・バルネアで彼らが約束の地に入れなかった時、すでにエジプトから出て一年以上経っていましたので、放浪したのは実際には三十八年になります。そして彼らは「ツィンの荒野」に着いています。これはパランの荒野の北隣にあります。そして彼らは「カデシュ」に再び来ました。そこからかつてイスラエルの十二部族のかしらを偵察に送りました。

 そしてついに、「ミリヤム」が死にました。彼女はすでに百三十三歳になっていたことでしょう。モーセが生まれたときに彼女は十三歳で、モーセは百二十歳で死んでいるので彼女は百三十三歳だと考えられます。その他の人々はほとんどが新しい世代です。古い世代は死に絶えています。

20:2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。20:4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。20:5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

 非常に興味深いです。人間の心というのは、かくも変わらないものなのだろうか、と思います。午前礼拝でも触れましたが、カデシュにはオアシスがあります。そこに水がありませんでした。それを契機にこのような不平を鳴らしたのです。それが、かつてコラの反逆において同情していたイスラエルの民と同じ内容であり、またカデシュにおいて偵察から帰ってきた十人の悪い報告を聞いたイスラエル人の親の世代と同じことを言っています。

 おそらく、ミリヤムが死んだという悲しみがあったでしょう。そしてかつてここから偵察を遣わしたということ、そうした記憶もよみがえったことでしょう。私たちは平素では希望を持っていても、いざ状況が悪くなると同じ古い不満を言いやすいものです。

20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。20:7 主はモーセに告げて仰せられた。20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

 モーセとアロンはいつもと同じように、主の前にひれ伏しました。かつて主は、イスラエルに対して「この民を滅ぼす。あなたから国民を造る。」とまで言われました。けれども、ここで主はそのように語られていません。むしろ、水を出すことを約束されています。ここに主の忍耐を見ることができます。新しい世代に対して、初めから彼らを教えることを決めておられたようです。たとえ彼らが、親から受け継いだ肉の性質を宿していても、彼らを最初から教え戒め、そして約束の地に入る備えを始めておられます。

20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」20:13 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

 主の忍耐が、ここでは「聖なる者」と言われています。前回の礼拝の後で、「聖というのは、どのようなものなのですか?」という質問をしてくださった方がいますが、「別たれていること」という答えをしました。この世にあるものから別たれています。被造物から隔絶されています。そして、ここで主の忍耐も、私たち人間が持っている忍耐とはあまりにも引き離された形で現れている、ということです。

 ヨナ書においては、ヨナがアッシリヤの首都ニネベに行きなさいという主の命令に反して、タルシシュに行こうとしました。彼はニネベが赦されるのではないか、と懼れたからです。あれほどの悪を行なったアッシリヤを神は忍耐をもって憐れまれるのではないかと懼れて、はたしてそうだったのです。神の忍耐は気が遠くなるほど長いのです。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:8-9

 この忍耐を働かせなさい、と主は命じられます。教会の中ではパウロがこう言いました。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3」そして、牧者に対してはこう勧めています。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。(2テモテ2:24-26」私たちは、人々のいつまでも変わらない姿を見て、しびれを切らす時がありますが、主はそうではないのです。それでも待ってくださいます。その柔和と忍耐の御霊を私たちも受けています。この方に服従しなさい、というのが神の命令です。

2B エドムの対峙 14−21
20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。20:15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。20:16 そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。20:17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」

 エドムのことを思い出してください。ヤコブは、母リベカの兄ラバンのところから故郷に戻ってくる時にエサウに再会しました。エサウはそのままセイルに帰りましたが、ヤコブはヨルダン川を渡り、約束の地へ入りました。「セイル」がエサウの子孫、エドム人の住むところとなりました。

 セイルは、死海の南にあり、紅海のアカバ湾のところまで続く地域であります。今のヨルダン南部です。以前お話ししたように、ガリラヤ湖、ヨルダン川、死海、そして紅海には地溝が走っており、大きな渓谷のようになっています。低地が南北に広がっています。セイルはこげ茶のごつごつした岩が山脈を成しているところであり、世界遺産になっている「ペトラ」もその一つです。

 カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは今、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に行こうと思っていました。そこにエドムの地が広がっています。モーセは、「王の道」を行くと言っていますが、王の道はシリヤのダマスコから紅海に面するアカバの町まで南北に走っている国際幹線道路です。今もヨルダンはそこを幹線道路として使っています。そこを通って迂回したいと思っていました。

20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」20:19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない。」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。

 この出来事が起こる前に、主はすでにモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました。申命記で、モーセが語ったイスラエルへの言葉の中にそれが書かれています。その理由は、「彼は同族であるからだ」ということです。ヤコブの兄であったので、戦ってはいけない、ということです。主はこのように、兄弟における平和を求めておられます。

 ところがエドムは、モーセの平和的な接し方に応じていません。戦争も辞さない姿勢でいます。エドムはこれから、いつまでもイスラエルの神に対して恐れを抱きながらも、決して服することはありませんでした。何かがあれば、イスラエルに敵対し、そしてエルサレムがバビロンに捕え移される時には、エルサレムにまで入って、苦しめられているユダヤ人を助けることなくそのままにさせ、どさくさまぎれにユダの地を自分のものとして奪ったのです。エドムには永遠の廃墟という預言が与えられていました。いつまでも悔い改めず、苦みを持っている者がどうなってしまうのかを、エドムはよく教えています。

3B アロンの死 22−29
20:22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。20:23 主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。

 ホル山はエドム領にあるとありますが、明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく形で道を進んでいます。

20:24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地にはいることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。20:26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」20:27 モーセは、主が命じられたとおりに行なった。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。20:28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。

 ミリヤムに続き、アロンも死にました。ホル山において、アロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて、それで引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。祭司の務めを、主にあって引き継ぐことができました。後に預言者エリヤも、エリシャに対して自分の着物を渡して去っていきましたが、エリシャがエリヤの行った働きを受け継ぎました。

3A 約束の地への旅 21
1B 青銅の蛇 1−9
21:1 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕えて行った。21:2 そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」21:3 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。

 「アラデ」は、死海の南から紅海のアカバ湾にまで至る低地の地域です。そこでカナン人の王が彼らを攻めてきました。主がカナン人たちを絶ち滅ぼすという御心があり、それをヨシュア記の中ではっきりと認めることができますが、まだ約束の地に入る前からその御心を表しておられます。「ホルマ」とは「聖絶する」という言葉から派生してできた言葉です。

21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

 「葦の海の道」とは、紅海への道のことです。本当は北上したいところなのに、このようにして迂回しなければいけなくなってしまい、それで不満が噴出しました。「アラビアのロレンス」を観た人は、アカバにあるオスマン・トルコ軍に向かっているアラブ軍団が通った砂漠を思い出してください、あの辺りを歩いています。彼らはカナン人に対して勝利を主が与えらえたので、その喜びの中に留まれば良いのですが、決して人間の心はそう単純ではありません。不便を強いられる時には、このようになってしまいます。

21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。21:8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 この地域は今でも、毒蛇が数多くいるそうですが、主はイスラエルがそれらに噛まれることをお許しになりました。けれどもすばらしいのは、彼らの罪の告白です。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました」と言っています。モーセに対して非難したのですが、主が語られていた約束に対して不信の罪を犯したことを悔いているのです。モーセがそれを語っていたのですが、モーセを非難することによって、神ご自身を非難していたことに気づきました。

 そして主は興味深いことを命じられます。かつてマラの水を癒された時も、木の枝を投げ入れれば水が甘くなると神は命じられましたが、モーセはそのまま従いました。ここでは、彼らを噛みついている蛇と同じものを青銅で作り、それを旗竿にかけなさいというものです。そして、なんとそれを仰ぎ見れば生きる、と約束されています。モーセは命じられた通りにしました。民はモーセが言うとおりにしました。そうしたら彼らは生きました。信仰の従順による癒しと救いです。

 ところで、この出来事の七百年後に、ヒゼキヤ王はこの青銅を打ち砕いています。その時に民はこの青銅の蛇に香を焚いていました。ヒゼキヤは「ネフシュタン」と言いました。「青銅の物」という意味です。青銅にしか過ぎないものを拝んでいた、と非難したわけです。

 この出来事について、イエス様はニコデモに対して語られました。彼はイスラエルの指導者です。ユダヤ人の教師です。ですからこの話を十分に知っていました。そしてこう言われたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14-15

 人の子が上げられる、というのは、十字架につけられることです。ヨハネ1232-33節に、イエス様が言われたことをヨハネが説明しています。「『わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。』イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇は、ご自身が十字架の木の上に上げられることを指していることを教えられました。

 まず蛇が彼らに死をもたらしたことに注目しましょう。エバを惑わしたのは蛇です。黙示録129節によると、蛇は悪魔であったことが分かります。そして主は、蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました。蛇の子孫は女の子孫のかかとを噛むが、頭が打ち砕かれます。それが十字架においてキリストが行なわれたことです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15

 つまり、蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えて良いです。そして青銅で蛇を作りなさいと主は命じられました。青銅は、青銅の祭壇があります。そこでいけにえが焼かれます。罪に対する神の裁きを表しています。つまり、罪が裁かれたことを表しています。しかもそれが、旗竿という木の上で裁かれました。キリストの十字架は、このようにキリストにあって罪が裁かれたことを指していました。

 そしてイエス様は永遠の命を得るための方法を示されました。仰ぎ見る、ことです。この方を仰ぎ見ることです。十字架につけられたキリストが、自分の命を救うことを仰ぎ見ることです。それが信じることであり、ニコデモにイエス様が語られた「御霊によって新しく生まれなければならない」ということであります。

2B 主の戦い 10−35
 この、彼らのへりくだりと、神による罪の赦しの体験によって、彼らの霊は高められます。これからの旅で、彼らは主が戦ってくださる戦いを経験することができるようになります。

1C モアブの地 10−20
21:10 イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。21:11 彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。21:12 そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、21:13 さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。21:14 それで、「主の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、21:15 谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」

 今、イスラエルの民はモアブの領土を通過しています。今のヨルダン中部で、死海のちょうど東を歩いています。エドムからモアブに移る時に出てくるのは、「ゼレデの谷」です。死海の南端にその川の水が入っていきます。私が2010年にヨルダン旅行をした時にそこを通りましたが、バスでもその峡谷を渡りきるのに一時間はかかりました。アルノン峡谷と並び、ヨルダンのグランド・キャニオンと呼ばれています。

 そしてゼレデを越えてさらに北上しますと、アルノン峡谷があります。アルノン峡谷から北は、当時、エモリ人が住んでいました。ですからモアブは当時、ゼレデ川とアルノン川の間にありました。

21:16 彼らはそこからベエルに向かった。それは主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える。」と言われた井戸である。21:17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。・・このために歌え。・・21:18 笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」彼らは荒野からマタナに進み、21:19 マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、21:20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた。

 主は途中で、水を与えてくださいました。今度は岩からの水ではなく、主が導かれたところで井戸を掘ったらそこから水が出てきました。それで彼らは喜んで、主に感謝の歌を捧げています。すばらしいですね、彼らは不平を鳴らすのではなく歌をうたいました。私たちの霊が生きると、このようになります。

 そして彼らはさらに北上して、ピスガの頂に着きました。後にモーセがそこに立って、約束の地を見下ろし、そこで死にます。

2C シホンとバシャンへの戦い 21−35
21:21 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。21:22 「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がってはいることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」21:23 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。21:24 イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。21:25 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。

 アルノン川を越えると、そこから死海とガリラヤ湖の中間辺りでヨルダン川と合流しているやヤボク川があります。ヤコブがかつて主の使いと格闘したところです。そこにエモリ人が住んでいました。そしてモーセたちは、エドム人に対するのと同じようにただ通過させてくださいと頼んでいます。

 ところがシホンは、イスラエルに戦いを始めました。そのためイスラエルが応戦し、その結果、エモリ人の地が彼らのものとなります。後にここがルベン族とガド族の相続地となります。興味深いことに、ヨシュア記においても彼らは攻められることにより攻め取り、そして領土を拡大させていくことになります。不思議なことに、イスラエルが1948年に独立宣言を行なった後、同じことが起こりました。周辺アラブ諸国が一気に攻め入ったのですが、結果は、初めに国連が定めた分割案以上の領土を獲得したのです。そして1967年に、エジプト、ヨルダン、シリアが攻めたのですが、彼らの土地は四倍に拡大しました。

 地上のイスラエルは、キリスト者が霊の戦いにおいても経験することです。悪魔はキリスト者に反対します。けれども、キリストはその反対に戦ってくださり、かえってご自分の業を進められます。「死は勝利にのまれた。(ローマ15:54」とありますが、復活の主イエス様は、悪魔が行なった仕業をも飲み込み、ご自分の勝利に変えてくださるのです。

21:26 ヘシュボンはエモリ人の王、シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで取っていた。21:27 それで、ことわざを唱える者たちが歌っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。21:28 ヘシュボンから火が出、シホンの町から炎が出て、モアブのアルを焼き尽くし、アルノンにそびえる高地を焼き尽くしたからだ。21:29 モアブよ。おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ。おまえは滅びうせる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕われの身である。エモリ人の王シホンによって。21:30 しかしわれわれは彼らを投げ倒した。ヘシュボンからディボンに至るまで滅びうせた。われわれはノファフまでも荒らし、それはメデバにまで及んだ。」21:31 こうしてイスラエルはエモリ人の地に住んだ。

 ヘシュボンは、死海の北端の東側にあります。ネボ山のピスガの頂よりも、やや北東にあります。私も王の道を南下している時に、ネボ山に行く手前でその丘状遺跡を写真に収めることができました。そこがエモリ人の王シホンの町でありました。そして、ここの記録によると、この地域一帯はモアブの地でした。シホンがそこを攻め取っていたのです。

 いま読んだ歌は、シホンがモアブを倒したことを歌ったものです。「ケモシュ」とはモアブを代表する神です。モアブを倒すことは、ケモシュの民を滅ぼしたのだ、と勝ち誇っています。ところが皮肉なことに、この勝ち誇っている歌は今、イスラエルにそのまま当てはめることのできる歌となってしまいました。モアブのところに、エモリ人シホンの名を入れればよいのです。イスラエルがこれらの町々を奪い取りました。霊的にも同じでしょう。世において勝ち誇っている人は、後の時代には神の御国を受け継ぐ者たちに奪い取られていくようになります。

21:32 そのとき、モーセはまた人をやって、ヤゼルを探らせ、ついにそれに属する村落を攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。21:33 さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。21:34 しかし、主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行なったように、彼に対しても行なえ。」21:35 そこで彼らは彼とその子らとそのすべての民とを打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。

 「バシャン」は今のゴラン高原です。ヤボク川をさらに北上して、ガリラヤ湖の南端の付け根に、ヤムルク川がヨルダン川に合流しています。そこから北の部分がバシャンです。そこも彼らは占領しました。ここの土地が後に、マナセの半部族のものとなります。

 このようにして、主はすでに約束の地に入る前に、約束の地における主の勝利を見せ始めてくださっています。彼らは不平から始まったのですがこのように立ち返り、井戸の水を喜び、そして主が滅ぼそうとされている先住民を打ち負かしています。私たちにも主は立ち返りを与えてくださいます。新しい世代が行進していますが、同じように私たちは神の恵みによって新たな歩みをすることが許されています。

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