民数記1章1−3節 「神の登録」

アウトライン

1A 神による人口調査
   1B 軍務につく者
   2B 奉仕につく者
2A ダビデの人口調査
   1B アブラハムの約束
   2B 自分の所有
3A 皇帝の住民登録
   1B 世の支配者
   2B 王の王
4A 救いの登録
   1B いのちの書
   2B 聖霊の保証

本文

 民数記1章を開いてください、私たちは新しい書物「民数記」に入ります。明日、1章から5章まで進みたいと思いますのでぜひ前もってお読みください。今晩は、11-3節に注目したいと思います。

人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。

1A 神による人口調査
 「民数記」という書名のとおり、民数記は民の数を数える話から始まります。今、イスラエルはシナイ山のふもとにいます。レビ記において、主が会見の天幕の中からモーセを呼ばれて語られ、聖めについての教えを与えられました。それは一ヶ月かかりました。それから、主は彼らを約束の地に導く旅を始めさせます。その時に初めに主が行われたのが民の人口調査です。

1B 軍務につく者
 初めに行われたのが、イスラエル人の成年男子の人口調査です。今読みましたように、軍務につくことのできる者たちを、軍団ごとに数えなければいけない、とあるように、敵との戦いに備えて調査をしました。言わば、徴兵制と予備軍の構成です。私たち日本人は徴兵制と聞くと、昔の善事中の日本を思い出す人もいるかもしれませんが、世界ではかなり多くの国で二十歳になると兵役につかなければいけないという義務があります。お隣の韓国はそうですし、そして現代のイスラエルはまさに男性のみならず女性も兵役につかなければいけません。

 当時の荒野の旅は、そのような緊張状態にありました。シナイ山に近づいていた時、レフィディムでアマレク人に襲われた時のことを思い出してください。つねに敵に狙われていました。けれども、これは信仰者にとっても同じです。荒野は言わば、この世そのものだと言っても良いでしょう。レビ記が、礼拝における聖さが主題であれば、民数記はこの世におけるキリスト者の歩みと言えば良いでしょう。私たちは、すぐに神の武具を身に付けなければならないのです。使徒パウロがこういいました。エペソ613-18節です。 

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

2B 奉仕につく者
 そして民数記を読み進めますと、イスラエルの部族の中でレビ族のみは軍務のための登録をしなくてもよくなっています。祭司アロンの家系はレビ族ですが、アロン族以外の氏族のレビ人がみな、幕屋の中にあるものの運搬を初めとする奉仕のために神から呼ばれています。民数記3章では、一ヶ月以上のすべての男子の登録、それから4章には奉仕の務めをすることのできる30歳から50歳までの人数を調べています。

 荒野における軍務は重要ですが、神はイスラエルの民が移動中であっても幕屋の奉仕を中心にすえるよう命じられている、ということです。私たちキリスト者は、この世において光となり、また地の塩となるよう召されていますが、光と塩気を保つためには必ず主に対する奉仕、すなわち礼拝中心生活が必要となります。イエス・キリストに対する信仰を持った人は、まず、自分の生活そのものを礼拝中心のそれに変えていく転換が必要です。

2A ダビデの人口調査
 このように、神がイスラエルの民の人口を調査させました。このことによって各人員は、自分は神の民なのだという所属意識を持つことができたことでしょう。登録を受けることで、自分自身が神の民の意識を持つことができました。イスラエルに神が与えられた使命と務めは、他人事ではなく、まさに自分がその一端を担っているのだという思いです。

 パウロはピリピ人の手紙127節で、「御国の民の生活をしてください(別訳)」と言っています。私たちがキリスト者の共同体、すなわち教会において、具体的に「ロゴス・クリスチャン・フェローシップは私の教会だ」という意識を持つのは大切です。教会を他人事にしないこと、「自分は教会に通っているのだ」というよりも、「自分は教会の一部なのだ」という認識です。

 このような形でイスラエルは大きな移動民族国家のように荒野の旅を続けましたが、約束の地に入る前にもう一度、主は人数を数えるように命じられました(民数記26章)。そして約束の地に入ります。彼らが次に人口調査を受けるのは、それから五百年近く経った後、ダビデ王が大きくなったイスラエル国家の人口調査を命じた時です。

1B アブラハムの約束
 歴代誌第一211節からその時のことを読んでみたいと思います。 

1 ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。2 ダビデはヨアブと民のつかさたちに言った。「さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラエルを数えなさい。そして、その人数を私に報告して、知らせてほしい。」3 すると、ヨアブは言った。「主が、御民を今より百倍も増してくださいますように。王さま。彼らはみな、わが君のもの、そのしもべではないのでしょうか。なぜ、わが君はこんなことを要求なさるのですか。なぜ、イスラエルに対し罪過ある者となられるのですか。」4 王はヨアブを説き伏せた。そこでヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。5 そして、ヨアブは民の登録人数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人であった。6 彼はレビとベニヤミンとを、その中に登録しなかった。ヨアブは王の命令を忌みきらったからである。7 この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。

 主はダビデを選ばれ、そして主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされました(2サムエル5:12)。ダビデは王ではありましたが、彼の上に主権者なる神がおられ、民は王の下にいましたが、神の所有の民だったのです。けれども、ダビデはそれに反して、自分が王であることを誇示するために、イスラエルの民が自分の臣民であることを見せつけるために、人口調査を行いました。ここにおいて、民数記における神による人口調査とは大きく異なり、これはサタンによる高慢、この国と民を我が物にしたいという所有欲でした。

 将軍ヨアブが3節で言っている言葉に注目してください。「主が、御民を今より百倍も増してくださいますように。」これは王にへつらう美辞麗句ではなく、神の約束に基づいたものだったのです。髪はアブラハムに、彼の子孫を星の空のように、海の砂のように多くすることを約束なさいました。イスラエルは、ダビデの国というよりも神ご自身の国なのです。キリストを王とする神の国の体現だったのです。それにも関わらず、それを自分のものにしようという貪りが出てきました。

2B 自分の所有
 私たちは、神の豊かさから恵みの上にさらに恵みを受けるという、尽きることのない祝福を受けるように定められています。それを何らかの形で受けないように阻むということを私たちは行おうとする肉の働きがあります。パウロがガラテヤ人に、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(3:3」というものがあります。

 どのような形で、神がしてくださった恵みを自分のものにしてしまうのでしょうか?一つは「自分の手柄」にすることです。主が自分を祝福してくださった。それを、まるで自分の信心深さであるとか、祈りをたくさん積んだとか、自分のものにしようとする欲求です。「自分ではなく、自分を通して主が行ってくださったのだ。これらは、ただ私が神に信頼して一歩踏み出しただけではないか。」ということです。

 もう一つは「律法主義」です。自分が主の恵みによって救われた、そして主が自分を既に捕えておられて、自分を通して働かれようとしていることを忘れています。主が行ってくださっているのに、あたかも自分は自分の努力で、自分の目標を立てそれに向かって進まなければいけないと考えます。そのようなことを行っているうちに、御霊の働きを阻んでしまうのです。

 さらに、「罪を犯す」ということがあるでしょう。主が私たちを守るために掟を与えておられるのに、その枠組みから自分の楽しみ、自分の欲のために出て行くことです。これまで主が行ってくださった麗しい、聖い御霊の働きをそこで止めてしまいます。このように、私たちはいつまでも御霊にとどまり、主が行われている恵みの業をそのまま行っていただく立場を取らなければいけません。

3A 皇帝の住民登録
 そして、人口調査と言えば、今度は異邦人の帝国の中でもありました。ローマ帝国です。

1B 世の支配者
 ルカによる福音書21-2節を読みます。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」これはまさにクリスマスの話です。この時代、強権のローマ帝国がイスラエルの地を支配していました。イスラエルは「ユダヤ属州」と呼ばれ、そして代理としてヘロデがそこをユダヤ人の王として治めていました。ダニエル書によれば、ローマは人の像の鉄のすね、そして第四の獣、鉄のきばを持つ十本の角をもつおぞましい獣です。

 歴史の中では「パックス・ロマーナ」と呼ばれていた時代です。「ローマによる世界平和」ということで、力による平和と秩序を成立させていました。その皇帝アウグストが、イスラエルの地においても住民登録をさせることにより、自らの支配と従属を誇示するために行ったのです。ローマの人口調査による搾取に対して、ガリラヤ地方では反乱が起こっていたことを使徒5章でガマリエルが伝えています(37節)。

 本籍地で登録せねばなりませんから、これはローマの中で生きていた者たちにとっては大変なことでした。この時に、ナザレに住むヨセフの許嫁であるマリヤは臨月になっていました。けれども、そのような事情を顧みるような支配者ではありません。とにかく旅に出かけねばならなかったのです。ヨセフはダビデの家系だったので、ダビデの出身地ベツレヘムまで行きましたが、そこには他に登録をするために来ている人々でごった返していて、宿に泊まることさえできなかったのです。そして与えられたのが、家畜小屋です。「小屋」と言っても、当時は洞窟の奥が家畜小屋になっていました。そこでマリヤが出産し、そしてその赤子は飼葉桶に置くしかなかったのです。

2B 王の王
 私たちはこのような状況を、あまり想像できないかと思います。日本は自由な民主国ですから、政府が何か指針を出しても、例えば年金であればそれに対する反対表明ができるし、また若者のも多くが支払ってもいません。そして失政をするや、自民党政権が民主党政権に移行したように、民はいつでも自分たちの権力を行使することができるのです。けれども、世界が全てそのようなところではないです。上が「こうだ」と言ったら、住民の人権などこれっぽっちも考えることなく、うんも言わせず行わせる専制国家が数多く存在します。

 けれども、驚くべきことに、神はそのような強権の支配者をさえ支配されていました。メシヤはベツレヘムから出てくるという預言を、かつてユダ王国で預言を行っていたミカが預言したのです。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(5:2」皇帝アウグストは、自分の権力によって住民を押しつぶしていたのですが、実はそのアウグストを自分の支配下に置き、その登録の命令をさせていたのです。

 当時、皇帝はローマ市民から「救世主」と呼ばれていました。けれども、ベツレヘムの羊飼いたちに対して、「救い主がお生まれになりました(ルカ2:11」と天使たちは告げました。そして力によってもたらしたローマの平和でしたが、この方は「愛による平和」、神の愛によって人々の心を変え、そして服従させる平和と秩序を持っておられました。飼葉桶の中の赤ん坊であったのですが、なんと当時の世界を牛耳るアウグストに対して力強く、「わたしがまことの王である」と宣言していたに等しいのです。

 私たちも、この世の中に生きていて、住民登録と似たような制約の中に生きているかもしれません。自分にはどうすることもできない状況の中にみなさんが置かれているかもしれません。自分は自由になりたいのに、そうしてくれない状況あるいは人がいるかもしれません。けれども、キリストを自分の救い主としているのであれば、あなたのほうがそれらの状況や人に対して高らかに勝ち誇っているのです。あなたは完全に自由人であります。神はそのような状況をむしろ用いられて、キリストにあるご自分の計画を成し遂げようとされているからです。

4A 救いの登録
1B いのちの書
 それでは今度は、教会にある登録を最後に考えてみたいと思います。教会の登録とは、もちろん教会員になるための転回届けを出さなければいけない、洗礼式の申請をしなければいけないというものではありません。教会というのは天に属しています。私たちがいかに小さな群れであっても、この世の測りにかければいかに卑しく見えても、天に登録された者たちの集まりなのです。

 イエス様は、七十人の弟子たちを遣わし、福音宣教を行わせました。彼らはイエスの御名を使って悪霊を追い出しました。それについて喜んでいる姿を見て、イエス様は言われました。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:18-20

 天に書物があり、そこに自分の名が書き記されているというのです。みなさん、どうかこのことを思い巡らせてください。天にある「いのちの書」にあなたの名前が書き記されています。自分の罪を悔い改め、神に立ち返り、イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れている人であれば、だれでも「いのちの書」に自分の名が書き記されているのです。

2B 聖霊の保証
 そして主は、私たちを天に登録されているだけではありません。その保証として聖霊を与えてくださいました。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:13-14

 御国を受け継ぐための保証、とあります。私たちはまだ御国を見ていません。イエス様が再び来られて、この地に神の国を確立されるまでは見ることはありません。またもちろん、天を見ていません。けれども、私たちは喜びに満たされています。それは聖霊が私たちの内に住んでおられるからです。ご聖霊によって、私たちは「証印」つまり、神の所有物としての確認の印を押していただいているのです。

 ここの「保証」という言葉は、「頭金」と訳すことのできる言葉です。私たちが本当に何かを買いたい時に、購入するための全額を支払うことなく、頭金を支払うことによって他の人の手にその商人が渡るのを防ぎます。例えば自動車のような大きな買い物をする時です。車の販売店の人は、他にもお客様がいますから、買う気がないのであれば他の人に売りたいです。けれども、自分が本当に買うのだという意志を見せるために、購入金の一部を支払うのです。

 皆さんが聖霊の喜びを味わっているのであれば、その愛、平安、喜び、親切、柔和、自制の実を味わっているのであれば、それは後に来る御国の祝福のごく一部であることを知ってください。そして、その御霊の愛と喜び、平安があるならば、それは神が「わたしは必ず、あなたをわたしの国に導くのだ。」という強い意思の表れであることを知ってください。このようにして、皆さんは主に登録された者となったのです。

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