民数記20章2-13節 「御霊の岩」
アウトライン
1A 渇き
1B 罪から来る渇き
2B 神に打たれる岩
2A 潤いの水
1B あふれ出す水
2B 御霊の約束
3A 人の怒り
1B 仲介者の不従順
2B 人の義
3B 恵みの約束
本文
民数記20章を開いてください、午後礼拝では19章から21章までを学んでみたいと思いますが、ここでは20章2節から13節に注目してみたいと思います。
2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。7 主はモーセに告げて仰せられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
イスラエルがついに、荒野の旅の第四十年目を迎えました。私たちは前回、イスラエルが四十年間、荒野の旅をすることを神に宣言されて後に、モーセとアロンに対して反逆したコラたちの動きを読みましたが、ついに新しい世代の人たちが約束の地へ向かう旅を始めます。
第四十年目の第一月に、モーセとアロンの姉であるミリヤムが死にました。かつて約束の地に入る時の町、カデシュまで来ていましたが、そこで彼女が死にました。そこにはオアシスがあり、水が普通は存在しているはずなのですが、その時にはなかったのです。それで新しい世代になったイスラエル人が、なんと全く同じ不平をモーセとアロンに対して鳴らしたのです。「私たちの兄弟が主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。(3節)」コラの反乱によって、主がコラやその他の反逆者らを殺されましたが、そのことを悔いているのです。
それで、モーセとアロンはいつものように会見の天幕の入口まで行き、そこでひれ伏しました。そこで主が語られました。「杖を取って、岩に向かって命じれば岩は水を出す。」と言われました。かつて、イスラエルの民がエジプトから出て、シナイ山の近くまで来た時に、彼らが水がないことでモーセに争ったとき、同じような命令を神が出されました。けれども違いは、「杖をもって、岩を打ちなさい。」というのがその時の命令でした。ここでは違います。ここでは、「岩に向かって命じなさい」あるいは「語りなさい」というものです。
ところがモーセとアロンは岩を打ちました。しかも一度で満足することはできず、二度打ちました。彼は怒っています。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。(10節)」水が出てきましたが、主はモーセとアロンに言われました。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前で聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(12節)」なんと、モーセとアロンはこの一度の失敗で、長年待ち望んでいた約束の地に入ることができなくなってしまいました。
後に、このことを主は繰り返してモーセに語っておられます。「あなたは、約束の地を見るが、そこに入ることはできない。」ということを言われます。彼にとっての、実に痛々しい経験です。
1A 渇き
神は、なぜそこまでして、モーセとアロンに対して厳しく戒められたのでしょうか?主は、「あなたがたは、わたしを聖なる者としなかった」と言われます。彼らは、人々の前で神を代表する仲介者の務めを行なっていました。仲介を行なうはずの者が、自分の利得で動いてしまったからです。
モーセとアロンはこの時点ではそのすべての霊的意義を悟ってはいなかったでしょうか、私たち新約時代に生きている者には、使徒パウロによってその重要性を教えられています。コリント人への手紙第一10章を開いてください、1節から4節までを読みます。
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
イスラエルの民の荒野の旅は、イエス・キリストにつく者たちのこの世における歩みを表していました。エジプトにおいて奴隷であったイスラエルは、罪の下にあって奴隷であった私たちの姿を表しています。そして海の中を通ったイスラエルは、イエス・キリストのつくバプテスマを受けた私たちを表しています。古い人がキリストと死に、葬られ、そしてキリストと共によみがえり、今は新しい被造物にされたのだという真理です。
そして天からのマナは、御霊による食べ物、つまり御言葉を表しています。それから、「御霊の飲み物」とありますが、それが御霊ご自身の命です。そして岩から出てきた時にその水が出てきたのですが、その岩はキリストを表しているとパウロは説明しています。聖書の中では、岩がしばしば神の救いであり、メシヤご自身の喩えとして出てきますが、ここではキリストが打たれて、そのために御霊の水が勢いよく出てきたことを表していたのです。
1B 罪から来る渇き
民数記には、この出来事の後にも荒野における水の話題が出てきます。モアブ、今のヨルダン中部において井戸を見つけた時にそこから水が湧き出しました。それでイスラエルが歌っています。「わきいでよ。井戸。―このために歌え。―(21:17)」彼らを生かす潤いの水が湧き出ましたが、それがない時の渇きは彼らを疲れさせ、元気を失わせるものです。
そして、それが心の中で起こっているとき、それは私たちがしばしば罪を犯している時であります。ダビデがバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その罪を隠すために彼女の夫ウリヤを殺したことによって、彼の心に生じた状態を、彼自身が詩篇の中で歌っています。32篇3-4節です、「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ」彼はウリヤが死んだ後に、やもめとなったバテ・シェバを娶りました。それは当時の王としては、非常に高潔なことです。部下の死によってやもめになった女を、妻にすることによって養い育てるという意味合いがあるからです。けれども、イスラエルのほとんどの人には知られていなかったけれども、彼の心の中はからからに乾いていたのです。
2B 神に打たれる岩
このように罪は、告白しない罪は私たちを疲れさせ、心に渇きをもたらします。私たちは知らず知らずのうちに、神ご自身ではない他のものに命を求めることによって渇くこともあります。サマリヤにいた女は、男によって自分の心の渇きをいやそうとしましたが、決して満たされることはありませんでした。けれどもイエス様は、「わたしから飲む水は飲んでも決して渇くことがなく、その人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水をもたらす」ことを約束されたのです。
この人生や生活におけるボタンの掛け違い、罪の問題を処理してくださったのはキリストご自身です。私たちに渇きをもたらしている罪を背負い、ご自分の肉体で打ち砕かれることによって私たちに癒しをもたらされました。イザヤ書53章5節に、キリストの御業が預言されています。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)」私たちの乾いた心をどのように癒していただけばよいでしょうか?私たちの疲れをどのようにして取っていただけばよいのでしょうか?それは、私たちが罪を犯したことを告白し、そしてその罪がキリストの肉体の上で打ち砕かれたことを受け入れることです。この悔い改めの時間を持つことによって、私たちは魂の癒しを受けることができます。
2A 潤いの水
1B あふれ出す水
岩は打たれることによって、水を湧き出させました。荒地に水が与えられました。メシヤの到来と共に神の国が建てられるとき、荒地に水が流れることをイザヤは預言しています。「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所となり・・・(35:6-7)」そしてこの出来事は、私たちの心の中に起こることをイエス様は、仮庵の祭りの終わりの日に大声でこう宣言されたのです。ヨハネ7章37-39節です。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
「聖書が言っているとおりに」とイエス様が言われたのは、いま読んだイザヤ書にある約束です。荒地に水がわき出て、川となるという約束です。イスラエルに行けば、数多く「ワジ」と呼ばれる涸れた川を見ることができます。荒野に行っても、そこに確実に水の流れがあったことを示す跡を見ることができます。これは雨季である冬に、年に一・二度、雨が降った時に川が生じるためです。
そしてそれは、単なるちょろちょろ流れる川ではありません。突如として、急流に変わる鉄砲水であります。カラカラに干上がった荒地に、水がそのように勢いよく流れていくのです。イエス様が、「生ける水の川が流れ出るようになる」と言われたのは、この鉄砲水のことを指していました。
2B 御霊の約束
そしてそれは、使徒ヨハネによると「約束の御霊」のことであるということです。使徒たちは、エルサレムの屋上の前で祈りを捧げている時に、五旬節が満ちた頃、聖霊が上から炎の分かれた舌のように臨まれ、それで彼らが聖霊で満たされ、それぞれ外国の言葉で神をあがめだしたところで成就しました。私たちが、心の奥底から、これまで罪や重荷によってカラカラに乾いていた所に、聖霊が鉄砲水のように溢れ流れ出してくださるという約束です。
そしてイエス様が言われた言葉に注意してください。この御霊の約束は、「わたしを信じる者は」とあるように、信じることによって与えられるものです。神の御言葉を聞いて、それを信じます。そして、キリストご自身にそのことを言い表します。そうすることによって、御霊の満たしと潤いを受けることができます。
ですから民数記に戻ってください、主は「岩に命じなさい」とモーセとアロンに命じられたのです。岩はすでに一度、打たれています。それはキリストがその肉体において、私たちの罪のために打たれたことを表していました。一度打たれた方は、再び打たれることは必要ないのです。その後は、岩なるキリストに語るだけでよいのです。
私がしばしば受ける質問は、「イエス・キリストが今の時代に私のために死んでくださったのであれば、『自分のためにイエス様が死んでくださった。』」と信じやすいのに。」というものです。興味深いですね、けれどももしそのようであったのなら、キリストは何度も、全人類のために各時代に死ななければならなかったことになります。そして私たちは、その死なれたキリストを見ても、死なれた後にも私たちが罪を犯したら、その後、またキリストの罪の赦しの有効性がなくなり、私たちの世代にも何度も死ななければいけないことになります。
けれども、イエス様は十字架の上で、「成就した」と言われました。それは神の贖罪が成就したということであり、全人類の一切の罪の赦しを成就させたということなのです。確かに二千年前の出来事ですが、そのただ一度の死によって、私たちは過去の罪だけではなく、今、そして死に至るまでに犯すであろうすべての罪のために死んでくださったのです。「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(ヘブル9:25-26)」
したがって、私たちはただ一度死んでくださった方を信じて、この方に語りかけることによって、仮に今の時代にこの方が死んだということ以上の、永遠の罪の赦し、永遠の命という至福を味わうことができるのです。私たちのこれからの人生は、この方が成し遂げてくださった、完成された御業を思い起こし、御霊に満たされた神の栄光を見ることです。これは一過性の出来事ではありません。むしろ、私たちが神に近づくごとに、新たな、命ある体験を許されている、永続的な関係です。
3A 人の怒り
したがってモーセとアロンが、岩を再び打ったということは、このキリストのすぐれた御業を台無しにしたことに他なりません。ただ一度、死なれて永遠の贖いを成し遂げてくださったキリストに、さらに杖で打つという行ないを加えたものであります。ここに、約束のものを受け継ぐことのできないという大きな対価の理由となっているのです。
1B 仲介者の不従順
モーセとアロンが犯した過ちは、神から目を離したことにあります。彼らは会見の天幕に入って、ひれ伏したところまでは良かったのですが、その後に、新しい世代になってもなお反抗している彼らのかたくなな心を見ました。これに腹を立てたのです。しかし、彼らはあくまでも仲介者でした。神の恵みと祝福を民に分け与えていくところの管でしかすぎませんでした。にも関わらず、彼らは彼らの反抗に対して自分たちで反応したのです。
前回の学びでも引用した、ヘブル12章2-3節を再び引用したいと思います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」主は、「イエスから目を離さないでいなさい」と言われます。しかも、罪人たちの反抗を忍ばれたイエスから目を離さないでいなさい、と言われます。私たちに信仰を与えてくださった方は、最後まで責任を取ってくださり、私たちの信仰を完成へと向かわせてくださいます。私たちはあきらめずに、イエス様に目を向けて、この方から任されている務めを果たしていかなければいけません。
2B 人の義
モーセは地上で最も謙遜な人でした。柔和な人でした。その彼が一度だけ失敗したのが、この出来事でした。ここは「メリバ」と呼ばれますが、かつてシナイ山の近くでもイスラエルが争った時に「メリバ」と呼ばれました。モーセはイスラエルの反抗に対して強く反応したのですが、彼自身も怒り散らすことによって彼らと同じになってしまったのです。
私たちは、自分たちが正しいと思っている時に大きな過ちを犯すことがあります。ヤコブ書には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(1:20)」とあります。私たちが怒るのは、それが正しいと思っているからです。けれども、それはあくまでも人の義であり、神の義ではないのです。たとえ怒っても、主にその裁きを任せなければいけません。そして主が命じておられることに服従しなければならないのです。
教会の一致について、パウロがこう言いました。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3)」謙遜と柔和の限りを尽くします。寛容を示します。愛をもって忍びあいます。そうすれば平和の絆が与えられて、御霊の一致を保つことができます。ここには自分を主張する余地は残されていません。むしろ、その自分を横に追いやって、神の命令に従います。自分を捨てて、キリストを選び取ります。
私は妻と結婚して19年になろうとします。今でも口論になってしまうことがありますが、新婚の時は深刻でした。私は新婚であったのに、独身の時と同じようにして土曜日にクリスチャンの友人と路傍伝道に出かけました。月から金はもちろん仕事です。けれども、主の福音を伝えたいという思いが強くて、それで休みの日には伝道に行ったのです。
けれども、家に帰ったら怒っている妻がいました。引っ越したばかりの荷物も片付けないまま出かけたからです。彼女の不満は溜まってきました。そして、今振り返ればとても恥ずかしいことですが、私はこう思ったのです。「キリストの命令に従っているのに、妻はむしろその私に反対している。彼女がもっとキリストに従い、夫であるこの私にも従わなければいけない。」
律法には、新婚の一年は戦いに出て行ってはならないという掟があります。そして私は次のみことばを読んで、打ちのめされました。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(1ペテロ3:7)」私は、妻と共に生活していませんでした。そして、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬していませんでした。女性としての弱さをわきまえていませんでした。私は、自分はキリストに従っているという正しさを持っていましたが、それは神の前には、ことごとく反対のことを行なっていたのです!
それで私がこの御言葉に従うように努め、そして20年近くが経っています。私はますます、自分の正しさがいかに愚かしいかを見ます。私の妻は、私の奉仕の働きに妨げになっているどころか、神は、彼女を通してこの私に数多くの働きを備えていてくださっていたのです。彼女がいることによって、主が広げてくださった働きというのはものすごくたくさんあります。これが神の義であり、神の恵み深さであります。私が正しいと思っていることは、とんでもなく愚かで、近視眼でありますが、私が神の義を求めて、御言葉に全幅の信頼を寄せる時に、神は大いなる恵みをもって臨んでくださるのです。
3B 恵みの約束
モーセは、約束の地を見ながらその約束にあずかれない者となってしまいました。もちろん、彼はその死後、新約の時代にイスラエル領内の高い山において、エリヤと共に変貌されたイエス様と共にいました。彼は約束のものを死んだ後で手にしましたが、けれども生きているうちには入ることができませんでした。私たちも同じです。救いの約束は手にしていますが、その救いの偉大さを知る機会が、この地上にもあります。けれども私たちが愚かにも、自分の正しさを貫き、神の命令をないがしろにするならば、神ではなく自分が前面に出てきて、神の聖さではなく自分の醜さが出てきます。そして自分自身は自分の正しさには満たされるかもしれませんが、神の用意されている、すぐれて大きな恵みの中に入ることができなくなるのです。
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(ガラテヤ3:9)」信じる者が約束の祝福を受けるのです。神のみことばをひたすら信じて、自分の悟りに頼らず、自分を捨てて、ただその命令に従うなら、神は今まで自分が見たことのない大きな祝福の中に入れてくださいます。このことを信じてください。決して、神よりも自分のほうが賢いと思わないでください。神が命じたことが知恵であり、そこには平和があります。