民数記27章1−11節 「女の相続地」
アウトライン
1A 相続地に対する神の御心
1B 一貫した心
2B 創造の回復
2A 男の下にいる人々
1B 願い出る女性たち
2B 主が置かれる志
本文
民数記27章を開いてください。午後礼拝では26章から31章までを学びます。今朝は、27章1節から11節に注目してみたいと思います。
1 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。2 彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。3 「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。4 男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」5 そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。6 すると主はモーセに告げて仰せられた。7 「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。8 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。9 もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。10 もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。11 もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」
前回私たちは、イスラエルの民が不品行と偶像礼拝の罪によって一万四千人が死んだという、バアル・ペオルの事件を読みました。そのことによって新しい世代のイスラエル人の数が少なくなったのですが、主はモーセが間もなく死ぬことを知っておられ、モーセに対してしなければいけない仕事を命じられます。一つは人口調査です。民数記が人口調査から始まったことを思い出してください。けれども、その時に数えられた二十歳以上の成年男子はみな死んでしまいました。新しく主に属している民になったことで人口調査を命じました。
そしてその数にしたがって、約束の地における相続の割り当てを決めなさいと神は命じられました。その時に、いま読んだ、女性たちの訴えがあったのです。それは、相続地は男の名にしたがって与えられるものです。女は嫁ぎますが、女の名で相続することはなかったのです。そこでここに出てくる姉妹たち五人がモーセのところに来ました。彼女たちには兄弟がいませんでした。そして父自身は、いま話しましたように荒野の中で死んでしまいました。けれども、父の名による割り当てがないということで、そんなことで所有地が父から削り取られてよいのか?という訴えです。
1A 相続地に対する神の御心
1B 一貫した心
モーセは、このことについては神から予め啓示を与えられていなかったので祈り求めました。すると、主は「彼女たちの言い分は正しい。」と答えられました。そして彼女たち自身が受け継ぐことができるし、それだけでなくたとえ娘がいなかったとしても、兄弟があるいは最も近い親戚がそれを受け継ぐことになると定めてくださいました。ここに神が、なんとしても各人に相続地を分け与えるというのが御心であることが分かります。
実はこの27章だけでなく、民数記の最後36章に同じ部族の人たちが出てきます。今度は、「彼女たちに土地が与えられたのは良いけれども、彼女たちが他の部族に嫁いだならば、その土地は他の部族のものとなってしまうのではないか。そうすれば、我々マナセ族の地が後世には削り取られていくことになるではないか。」という訴えです。この訴えに対しても主は、「彼らの訴えはもっともである。」と答えられました。そして、彼女たちは同じ部族に属する者に嫁がなければいけないという命令を与えられました。
興味深いですね、もう私たちはイスラエルの土地についての神の律法を学びましたが、レビ記25章において主は、「地はわたしのものであるから。(25:23)」と言われました。そして五十年に一度、どんなに土地の売り買いをしたとしても必ず元の所有者のところに戻ってくるヨベルの年と、近親者が土地を買い戻す権利について神はその掟を定められました。神は、ご自分が約束し、そして割り当ててくださった土地を必ずその者の所有とするように堅く守り、定めておられるということです。
このことを知って、この神の御心を守るために殉死した人がいます。ナボテという人です。北イスラエルに極悪王アハブが出てきました。彼は自分の宮殿のそばにぶどう園を持っていました。アハブが「譲ってもらえないか」と尋ねると彼は、「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。(1列王21:3)」と言いました。アハブは頭に来て、ふてくされて、甘ったれの子供のように寝床から出てきませんでした。そこで極悪の妻イゼベルが陰謀を謀ってナボテを石打ちの刑にしたのです。
2B 創造の回復
なぜ主が、それだけ約束の地にこだわりを見せておられたのでしょうか?それは、ご自身が人を造られた時に人に与えられていた存在目的から来ています。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。(創世1:26)」神は元来、人にすべての被造物を支配させることを考えて人を造られました。ご自身が被造物を支配しておられるように、ご自分に似せて造られた人にそれを任せて支配させようと意図しておられました。
それは、悪い意味での王様になることではありません。人は自分に所有物が与えられると、それを管理する能力が問われるのです。私たちは今、マンションに暮らしていますが、一軒屋に住んでいたことがあります。一戸建てを得るのが日本人には夢となっていた時期がありましたが、住んでみると面倒くさいなと思うことが沢山ありました。ゴミの収集はマンションであれば、いつでも出すことができるのに、決まった曜日の決まった時間にしか出せない。家屋の修繕をいつも気にしなければいけません。自ら所有をするというのは、決して楽なことではなく管理をすることそのものであるという念を強くしました。
しかし、そのように管理をすること自体を神は喜ばれます。全体を眺め、計画を立て、意思をもって物事を進めていく創造的な働きをしている姿こそが、神が元来人間に与えられた祝福なのです。もし所有だけして、管理することを怠るとどうなるでしょうか?それは、宝くじに当選した人が以前よりも不幸になる話しはたくさん聞きます。けれども幸せに暮らしている人もいます。その人たちは決まって以前の暮らしと変わらずに生きており、生活水準を引き上げたりはしていないそうです。つまり、所有物を自分の管理能力にしたがって管理することを知っていることが大切です。これが「所有をする」ことにある人間の存在意義です。
アダムは罪を犯しました。けれども子孫のノアとその家族が洪水から救われて、その息子から民族が分れ出ました。その中から神はひとりの人アブラハムを召し出されて、カナン人の地へ導かれそこをアブラハムの子孫に与える約束をされました。イスラエルによって、元来アダムに与えられていた、「地を支配せよ」という至上命令を果たそうと願われたのです。
したがって、神の警告は「わたしに背いて、神々に仕えるならば、あなたがたを土地から引き抜く」というものだったのです。そして離散の地で諸国の民に虐げられることによって、懲らしめを受けるということでした。けれども神は、彼らを連れ戻すと約束されています。そして近年、世界中に散らばっているユダヤ人がイスラエルの地に帰還しています。これは私たちの主イエス・キリストが再び地上に臨んでくださる時に完全に実現します。神の真実は変わることはありません。
ゆえに私たちキリスト者に対して、神は「わたしの国を相続させる」という約束を与えてくださっているのです。「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。(エペソ1:10-11)」すべてのものがキリストにあって一つに集められるのです。それが神の国です。それを私たちが受け継ぐという、とてつもない爆発的な約束なのです!ナルニア王国物語で、四人の兄弟が四人の王となりナルニアを統治する話がありますが、まさにそれは神の国で起こります。私たちはキリストにあって、王であり祭司となるのです。
そしてペテロ第一1章には、「また(神は)、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(1ペテロ1:4-5)」朽ちることも汚れることも、消えていくことのない資産です。ですからイエス様は、宝を天に積みなさいと命じられました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6:19-20)」
2A 男の下にいる人々
1B 願い出る女性たち
そこで本文に戻りましょう。ここに登場する女性たちは、相続地の約束があるのにそれを自分のものにすることができない、という不満をモーセにぶつけています。「男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。(4節)」男が相続地を受け継ぐのですが、それでも彼女たちは約束のものを求めました。今で言うならば、まさにウーマンリブ(女性解放運動)の活動家のようですね。けれども、主はこれを受け入れられたのです。
ここには女性が多いですが、皆さんがこのイスラエルの宿営地にいるとしたことを想像してください。これまで与えられた律法に従えば、彼女たちには相続地はないのです。そうした状況の中で、彼女たちは前に進み出ました。今、冗談で「ウーマンリブ」と言いましたが、もちろん彼女たちは、女性も同じ権利が与えられるべきだという政治的主張として言ったのではなく、「神の約束があるはずなのに、それを享受できないのは間違っている。」という信念から語った言葉であります。自分がその所有地を得るということではなく、もっと神中心に考えていました。神の約束を積極的に、貪るようにして得ようと渇望している、と言って良いでしょう。
言い換えれば、「私たちはこのままで良いのよ。」と悪い意味であきらめていなかったのです。神が与えられた約束なのであれば、私たちはそれを何としてでも受け取りたいという、霊的飢え渇きを表しています。イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8)」と言われました。
主はエレミヤに対して、将来と希望の与える平和の計画を与えていると、離散ユダヤ人に約束し、「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(29:12-13)」と言われました。自分が受動的になっていて、ぼうっとなっているところに神の祝福がぼとっと落ちてくるのではなく、食い入るような願いによって、その約束が明らかにされると主は言われているのです。
私たちには誤った安心感があります。主は私たちにすばらしい約束を与えておられます。それは、キリストの似姿に変えられていくという約束です。けれども、今の自分を見ればそれがあまりにも程遠い道のようにみえます。そして、「神はありのままのあなたを愛しておられる。」というメッセージを聞きます。けれども、そうすると「では、今のありのままの姿で良いんですね。」と反応するのです。今、その約束が手に入れられないと、「今のこのままの自分で良いのだ。」とあきらめ、飢え渇きをもって自分が変えられることをやめてしまいます。そして、それが御心なのだ、とまで自分を納得させようとしているのです。
私たちの先人の信仰者はそうやってあきらめたでしょうか?アブラハムはどうでしょうか?ヤコブはどうでしょうか?ヨセフはどうでしょうか?ダビデはどうでしょうか?約束のものを今、手に入れられないからといって、そして約束のものを手に入れようと求めると苦しみが伴うからと言って、「今の自分で良いのだ。」と納得させてしまうのでしょうか?
もちろん私たちを神はありのままの姿で愛し、受け入れておられます。けれども、ちょうどそれは相続の割り当ては男だけに与えられているから、とあきらめる姿と同じです。悪い意味で良い子になっているのです。そして「私たちには相続地はないのですか?」とモーセに直訴することは、まさに神があふれるばかりに与えようとされている、その恵みを受けることに他ならないのです。ヤコブは言いました。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わなかったからです。(4:2)」こうも言いました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(1:5)」成長に向かって願い続けるのです。
聖書の中には、しつこく願って受け入れられる人たちの話でいっぱいです。女でいうならば、ハンナがいました。サムエルの母ですが、彼女は不妊でした。それで苦しみました。けれども彼女は言葉にもならないうめきで祈り続けました。祭司エリからはその口の動きによって酒に酔っているのだと誤解されました。けれども、そのうめきの中で彼女はこう祈ったのです。「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。(1サムエル1:11)」そして生まれたのがサムエルです。「聞く」というヘブル語から派生して、「主が願いを聞かれた」という意味がその名の由来となっています。
福音書には長血をわずらう女がいます。彼女は律法によれば汚れたものであり、雑踏の中に入り込んだら他の人を汚してしまいます。けれども、入っていったのです。メシヤは病を負ってくださるという約束があったからです。「イエス様の周りは人がたくさんいるから駄目だ。」なんと言って、今の自分のままで良いのだなどと満足しなかったのです。
そしてカナン人の女がいます。娘が悪霊につかれていました。弟子たちは彼女を追い払おうとしました。イエス様までが「私はイスラエルの滅びた羊以外のところには行かない」と言われました。そして、「パンを子どもに与えないで子犬に与えますか?」と言われました。けれども女はそれでも食い入って答えたのです。「犬も落ちたパンくずを食べます。」そして、イエス様はその信仰に驚かれ、その瞬間にカナン人の女の娘から悪霊が出て行ったのです。
神は、キリストをも惜しまずに与えられた方です。なぜ、私たちに与えないものがあるでしょうか?イエス様は約束されました、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:7-8)」
ですからしつこく願ってください。「不正の裁判官の例え」は、実に分りやすいです。読んでみましょう、ルカによる福音書18章です。
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(1-8節)
信仰において「おしとやか」は、禁物です。うるさくて、ひっきりなしにやって来るやもめのような信仰を神に対して抱いているでしょうか?
2B 主が置かれる志
主はけれども、なぜ私たちに願うことを求められるのでしょうか?何もしなくても、主が自動的に与えてくださればよいのに?と思わないでしょうか?私たちがたくさん祈ったから、神の御心は変わるわけではないと言っているのに、どうして願う必要があるのか?と思われるかもしれません。確かにイエス様はこう言われました。「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:7-8)」
主が行なわれているのは、主ご自身に私たちが関わることです。主ご自身が願われていることを、私たちが願いとすることです。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)」英語で読むと、"He will give you the desires of your heart." 主があなたに願いを与えてくださる、となっています。私たちが主ご自身を喜んでいる時に、私たちは自分の外に神の願いがあると思わなくて良いのです。あなたの心の願いが、そのまま主の願いになっています。このようにして、主はあなたを通してご自分の願いを果たしたいと願われているのです。
私たちは自分の願っていることが、神からのものかどうなのか悩む時には、即座に主ご自身を喜ぶ決断をしましょう。その後与えられる願いは、そのまま主が与えてくださっていると確信することができます。ピリピ人への手紙2章にも同じことが書いてあります。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(12-13節)」願いのみならず、志にさえ主は働きかけてくださるのです。
決断をしない、というのは、主の御心ではありません。決断をしないというのも、一つの決断であるとよく言われますね。私はどちらか分からない、主の御心か分からないと言っているうちに、主の御心から離れていることが多々あります。主を喜んでいるのなら、願いを神は与えられ、志も神が与えられます。あなたが願っていること、「これを行なうぞ」と決めていることが、そのまま神からのものであることを知ることができるのです。