民数記32−36章 「約束の相続」

アウトライン

1A 約束手前の相続地 32
   1B モーセの非難 1−32
   2B 領土の付与 33−42
2A 民の道程 33
   1B 出エジプトから約束の地まで 1−49
   2B 住民の追放 50−56
3A 相続地の境界線 34
   1B 東西南北の境界線 1−14
   2B 相続地とする名 15−29
4A 逃れの町 35
   1B レビ人の町々 1−8
   2B 故意なき殺人 9−29
   3B 贖い金の拒否 30−34
5A 氏族間の婚姻 36

本文

 民数記32章を開いてください。前回の学びから、モーセが死ぬ前に起きた出来事を学んでいます。主が、新しい世代の人口調査を命じ、そして各部族の人数に応じて相続地を割り当てなさいと命令されました。そしてモーセの次にヨシュアを指導者として任命しなさいということを命じられました。そして、イスラエル人をつまずかせたミデヤン人に対する復讐を命じられました。

1A 約束手前の相続地 32
 そこである事件が起こります。非常に興味深い出来事です。

1B モーセの非難 1−32
32:1 ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、32:2 ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。32:3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。32:4 これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

 約束の地に入る前に、相続を下さいと言っています。「ルベン族とガド族」が言っていますが、後にマナセの半部族も加わります。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

 午前礼拝で話しましたが、主は約束の地に入る前から彼らを祝福しておられました。「非常に多くの家畜」を持っていました。そして、確かにヤゼルとギルアデは緑のある高地であり、主はそこをエモリ人の手から彼らに与えられました。けれども、占領地にしてもそこを相続するように神は命じておられません。神の与えられる地は、東の境界線はあくまでもヨルダン川でした。

 箴言の中に、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(3:5」という言葉があります。自分の目に見えるところに従えば、そして自分の心に従えば、そこは実に所有するのに実に適しています。けれども、どんなに自分の目や心に良いと思えるようなことでも、箴言の著者ソロモンは、「自分の悟りに頼るな」と言っています。「心を尽くして主に拠り頼め」と言っています。私たちは主に拠り頼むことが、何か弱々しいもの、あるいは現実逃避にように考えます。いいえ、最も勇気あることなのです。心を尽くして、全力で、自分の悟りではなく、主に判断を委ねるのです。極めて能動的に、積極的に主の約束のみを信じていく必要があります。

32:6 モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。32:7 どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。32:8 私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。32:9 彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。32:10 その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。32:11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。32:12 ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』32:13 主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。32:14 そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。32:15 あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

 モーセは、四十年前に起こったことを引き合いに出して、彼らの言ったことを詰っています。約束の地に入ろうとしなかった、あなたがたの父たちは同じ過ちを犯したのだ、と言っています。けれども、問題は微妙に違います。彼らが約束の地に入らないことを問題視しているのではなく、「これから戦っていかなければならないのに、身を引く」ということを問題視しています。「イスラエルがこれから約束の地に入って戦うのに、あなたがたが行かないことによって彼らの意気をくじくことになるのだ。」ということです。その結果、戦いを全うすることができず、約束の地を手に入れることができないという懼れがあります。

 信仰によって歩むとは、前進して戦うことを意味します。信仰の戦いとその勝利については、ヨシュア記でじっくりと学ぶことができますが、私たちは今までも信仰によって歩んでいたかもしれません。その信仰もすばらしかったのです。だから、イスラエルの場合はエモリ人シホンを打ち倒すことができたのです。けれども、戦うことを止めてしまったら、そこで留まってしまったら、自分は満足しているかもしれませんが、結果的に約束のものを手に入れられなくなります。

 午前礼拝でも話しましたが、信仰は血流のようなものであります。血が体内にあれば良い、ということではありません。それが動いている、流れていることがその体の細胞を生かしているのです。補助輪なしの自転車にも似ているでしょう。足でペダルを漕いでいるからこそ、自転車が前進しているからこそ、その本体は立っていることができます。

 そして、それには戦いがあります。けれども、その戦いは「成長」と言い換えても良いかもしれません。再び自転車の例を使うと、お母さんが前にも後ろにも子供を乗せて走っているのを見て、なぜそれができるのか不思議ですが、初めから二人の子供がいるわけではないからです。一人が生まれ、徐々に大きくなり、そしてもう一人が生まれ、というように、突然二人を乗せているのではなく、少しずつ慣らしているから二人を乗せることができるのです。

 ですから私たちには無理は禁物ですが「ちょっとした無理」は必要です。主が与えてくださっている約束に向かって、今の自分では少し無理かもしれないというものにも、果敢に信仰によって前に出る必要があります。そこに祈りが生まれます。自分の力ではなく神の力に拠り頼むという訓練になります。「むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべての有益です。(1テモテ4:8

32:16 彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。32:17 しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。32:18 私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。32:19 私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

 主のために戦う、共に川を渡る、先頭に立って戦うとまで約束しました。けれども、ヨルダンの東に住み、そこに町を建て、城壁のある町に住む。女子供はここに住む、と既に決めてしまっています。すでに具体的に計画まで立てています。ですから初めにモーセに相続地を下さい、と言いましたが、初めから心に決めていたのです。私たちはしばしば、主に対して自分の心で決めていることを願います。

 ある牧師が信仰の若い時のことを話してくれました。「主よ、私はあなたに全てをお任せします。どうか私に仕事を下さい。」と祈りました。そうしたら主が与えてくださったのですが、それは鶏の屠殺工場で、鶏の首を切る作業を延々と数時間行なう単純作業でした。彼は数日で止めてしまった、とのことです。そこで気づいたのは、「私たちは祈りの聞かれることよりも、聞かれる祈りに対して自分がそれを受け入れられる心の準備ができているのか。」ということでした。

32:20 モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、32:21 あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、32:22 その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。32:23 しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。32:24 あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」

 モーセは釘を刺しています。武装して戦うことを、「その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば」という条件を付けています。ヨルダン川の東に自分たちの所有地があるのに、心がそこに行ってしまうのは人間の自然な条理です。だから、このようにして強く戒めています。

 そして、「あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい」とモーセは言っていますが、新共同訳、また口語訳も、「その罪は身に及ぶことを知るがよい。」と訳しています。英訳は、"You sin will find you out."です。「あなたの罪があなたを探し出すよ。」ということです。つまり、自分が罪を隠せると思っても、かならず暴かれる時が来るのだ、ということです。

32:25 ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。32:26 私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。32:27 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」32:28 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の諸氏族のかしらたちに命令を下した。32:29 モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。32:30 もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」32:31 ガド族とルベン族は答えて言った。「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。32:32 私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

 モーセは祭司とイスラエル全体の前で、この二部族がヨルダン川の東に所有地を持つこと、けれどもその条件に最後までイスラエルと共に戦うことを宣言し、彼らも答えました。ヨシュア記を読むと、彼らは見事に戦い抜きました。自らの誓いを果たしました。大したものだと思います。けれども、午前礼拝で話したように、その後でヨルダン川のそばに大きな祭壇の記念碑を立て他の部族に大きな誤解を生じさせ、そして後に大国がイスラエルを攻めてきた時に、彼らが初めに攻め取られ、そして新約時代にはそこはデカポリスという異邦人の地になっていたという事実があります。

 私たちは、「世」と「主」のどちらにも仕えることはできません。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24」自分は、世のことを追い求めながら、それでも主に仕えることができると思ってしまいます。そしてある程度、一時期の間、自分がしっかりと主につながって霊に燃えて、行なうことができるかもしれません。けれども、自分の上に圧し掛かる負担が大きくなり、ついに主に仕えることを諦めざるをえない状況に陥ります。

 「川」というのは、物理的な距離だけでなく心理的な距離を置きます。例えば、私が仕えていた教会においては、別居している夫婦についてはカウンセリングにおいて一つの方針を牧師たちに与えていましたが、それは「互いに遠くにいればいるほど、離婚する率があがる。」というものです。以前、私たちの日本での奉仕にアメリカから来たいと行っていた女性の方が別居中であったため、その方針に基づいてそちらの教会が彼女を送り出すのを止めさせた、という例があります。私たちは物理的にどこに位置しているのか、物理的な富がどこに存在しているのかによって、当然ながら心もそこに動いていきます。ゆえに、物理的なものによって主に仕える、主に留まるという行為が必要になるわけです。

2B 領土の付与 33−41
32:33 そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。32:34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、32:35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、32:36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。32:37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、32:38 ネボ、バアル・メオン・・ある名は改められる。・・またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。32:39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。32:40 それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。32:41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。32:42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。

 ルベン族とガド族の他に、マナセの半部族もヨルダン川の東に土地を得ました。南からルベン族が、アルノン川より北の部分を得て、そしてガド族が死海の北からの部分を受け、そしてマナセが主にバシャンであった地を受け取りました。

2A 民の道程 33
1B 出エジプトから約束の地まで 1−49
33:1 モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。33:2 モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。33:3 彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。33:4 エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。

 ここ33章には、出エジプトに遡って、それから今の時点、ヨルダン川のエリコの向かいにいるところまでの旅程が書かれています。主がどこからどこまで導かれたのか、その具体的な地名と、その軌跡をモーセが主の命令によって書き記しています。読み進めますと、必ずしも現代に分かっている地名ではないので、推測の域を出ないものもありますが、当時はすべて分かっていたわけです。

 15節までは、エジプトからシナイ山までの旅程です。そしておそらく16節から18節辺りまでが、シナイ山からカデシュ・バルネアまでの旅程です。そして19節からは放浪していた時のもので、36節以降が第四十年目の旅程であると考えられます。ここ一つ一つの地点に、「旅立って、宿営した」という言い回しがずっと続いています。思い出せば、主の雲が彼らを導き、雲が留まればそこに天幕を張って宿営し、雲が立ち上れば天幕を片付けて移動の準備を始めます。したがって、この道程はすなわち、主の導きの軌跡であり、主ご自身がどのようにイスラエルを持っておられるのか、の道程であります。

 彼らはその時は、雲しか見えないかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができるのです。チャック・スミス牧師はこう話しました。「イエス・キリストの愛の御手に自分の永遠の運命を信仰によってお任せしたら、神が働かれているのを確かに見ることができるでしょう。そしてあなたの人生の出来事や状況を、麗しいモザイクに形造られておられるのを知ります。それは、あなたの周りにいる人々にご自分の御子を明らかにするためです。あなたが生まれた時以来、この方の御手があなたの上にあります。("If through faith you have placed your eternal destiny in the loving hands of Jesus Christ, you can be sure that God is at work, shaping the events and circumstances of your life into a beautiful mosaic that will reveal His Son to the men and women around you. His hand is on you, as it has been since before you were born.")

2B 住民の追放 50−56
 それでは50節に飛びます。

33:50 エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。33:51 「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、33:52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。33:53 あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。33:54 あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。33:55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。33:56 そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

 相続する地にはそれを所有する時に戦いがあります。そしてその戦いは、住民の完全な追放、偶像の粉砕を命じるものです。もしそれをしなければ、彼らが自分自身を悩ますようになります。

 なぜ、そこまでしなければならないのか?その地域を発掘した考古学探検隊が、カナン人によるバアルやアシュタロテを拝んだ高き所の廃墟を発掘しました。その堆積物の中には、バアルに捧げられた幼児の遺骸の入った壷を多数発見しました。そこは生後間もない子たちの墓地だったのです。その他に、「定礎犠牲」あるいは「人柱」と呼ばれる習慣もありました。家を建てる時に、家族に福が来るように、幼児を犠牲にしてその身体を壁の中に塗り込めました。そしてアシュタロテの象としるしも発掘しました。それは性感を触発させるかのような極めて誇張された性器がつけられています。

 つまり、カナン人にとっての宗教儀式は不道徳そのものであり、子供をいけにえとして捧げているところにおいて、神はカナン人の滅亡を意図されていたのです。神はソドムとゴモラで神が行われたことを、イスラエルを器として行われようとしていました。発掘した考古学者は、「神はなぜもっと早く彼らを滅ぼさなかったのだろう。」と驚いた、とのことです。主はアブラハムに対して、「そして四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。(創世15:16」と言われました。主はむしろ、滅ぼすことをせずに忍耐しておられた、というほうが正しいのです。

 そして、このような忌まわしい行いは完全に粉砕しなければ、自分たちが同じことを行ってしまう、という警告があります。自分が忌み嫌っている罪が、むしろ自分を支配してしまうのです。

 ヨシュア記で詳しく学びますが、ヨルダン川を渡った後の生活は、御霊に導かれる生活であると言えます。天においては安息があるのみであり、戦いは終わっています。けれども、私たちが信仰によって前に進む時には必ず戦いがあります。けれども、その戦いは信仰によるものであり、主が必ず勝たせてくださるものです。御霊によって導かれることにも戦いがあります。それは肉の行いを御霊によって殺すという戦いです。けれども、それは可能なのです。自分に死ぬことによって可能になります。

3A 相続地の境界線 34
1B 東西南北の境界線 1−14

full-size image34:1 主はモーセに告げて仰せられた。34:2 「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。

 主は、明確にイスラエルの所有となる地を明らかにされます。

34:3 あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。34:4 その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。34:5 その境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。

 初めに南の境界線です。死海の南の端のところから伸びています。ツィンの荒野の始まりとなる渓谷のところに境界線があり、カデシュ・バルネアのすぐ南を通って、そしてエジプトの川のところまで延びています。

34:6 あなたがたの西の境界線は、大海とその沿岸である。これをあなたがたの西の境界線としなければならない。34:7 あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、34:8 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引き、その境界線の終わりはツェダデである。34:9 ついでその境界線は、ジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。

 西は地中海の沿岸です。そして北の境界線は、驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及びます。

34:10 あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。34:11 その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、34:12 さらにその境界線は、ヨルダンに下り、その終わりは塩の海である。以上が周囲の境界線によるあなたがたの地である。」

 「キネレテ」というのはガリラヤ湖のヘブル語名です。ガリラヤ湖の東にはゴラン高原があります。その南にヤムルク川がヨルダン川に流れ込んでいます。そのヤムルク川のところに渓谷ができています。そこが境界線になります。それからヨルダン川そして死海が東の境界線です。したがって、ルベン、ガド、マナセ半部族はやはり神の約束の相続地ではなかったのです。

34:13 モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。34:14 ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。34:15 この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」

 ヨシュア記で、彼らの相続地の境界線も与えられます。

2B 相続地とする名 15−29
34:16 主はモーセに告げて仰せられた。34:17 「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。34:18 あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。

 ここでモーセに主が命じられたように、ヨシュア記において、祭司エルアザルとヨシュアが各部族に対して相続地を割り当てていきます。そして19節以降は、各部族のかしらの名前があります。

4A 逃れの町 35
1B レビ人の町々 1−8
35:1 エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。35:2 「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。35:3 町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。35:4 あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。35:5 町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。

 イスラエル十二部族には相続地が割り当てられますが、レビ人にはありません。けれども彼らが最低限の生活をするための町と放牧地が与えられます。一キュビトは約44センチなので、一千キュビトは444メートルぐらいです。町の放牧地は真中からそれぞれ二千キュビトですから、東西南北それぞれ四千キュビトの正方形です。1760メートルです。そして町は東西南北それぞれ二千キュビト、880メートルの正方形になります。

35:6 あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。35:7 あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。35:8 あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」

 イスラエル十二部族全体に満遍なく散らばるような形で町が置かれます。大きい部族にはそれだけ多くの町があります。合計で四十八の町です。ここからも、主がイスラエル全体が祭司の国、つまり神ご自身の国であることを示しておられます。そして興味深いのは、その中の六つが「逃れの町」と呼ばれていることです。

2B 故意なき殺人 9−29
35:9 主はモーセに告げて仰せられた。35:10 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、35:11 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。35:12 この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。35:13 あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。35:14 ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。35:15 これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。

 「逃れの町」というのは、誤って人を殺した事件が起こった時に対処するものです。殺意がなく、例えば一緒に木こりの仕事をしていて、斧の頭が取れて同僚の頭にぶつかり、死んでしまったとか、ありえます。

 けれども当時は、家族や親戚に血の復讐の慣わしがありました。家族を殺した者は、その家族が殺すことが義務とされていました。今でもたまに、イスラエルや中東の地域で、家族が親戚が自分の家族が殺されてその復讐を果たしたために、警察に捕まえられるという事件が起こります。そうした血の復讐から、事故によって誤って殺してしまった人たちを守るのが逃れの町です。そこには、血の復讐をする者は決して立ち入ることはできません。そのため、ヨルダン川の東と西にそれぞれ三つずつ、北から南まで満遍なく広がった形で町が置かれています。ヨシュア記にその町が書かれています。イスラエル全土で、どこに住んでいても、いずれかの逃れの町に逃げることができるようにするためです。

35:16 人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。35:17 もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。35:18 あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。35:19 血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。35:20 もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、35:21 あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。

 不慮の事故であったのか、それとも故意の殺人であったのかは、手段と動機で計られます。喧嘩になって道具を使って殴って、死んでしまったとしたら、「私は殺すつもりはなかった」と弁明します。けれども使った器具が鉄のものや、人を打ったら死ぬであろうと分かるものです。その時は殺人罪に定められます。逃れの町に入ってきても、そこから追い出して、血の復讐をするものに引き渡すことになります。

35:22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、35:23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、35:24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。35:25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。35:26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、35:27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。35:28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。35:29 これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。

 逃れの町に逃れてきた人は、「そこから出ない」という条件の中で守られます。そして大祭司が死んだ時には自分の町に帰ることができる、つまり大祭司によって、そのレビ人の逃れの町において、主の守りがあるということです。もしそこから出て行けば、殺されても仕方がありません。

 このように、「中にいることによって死から免れることができる」というのは、似たような掟がありましたね。過越の祭りです。ほふった子羊の血を家の門柱と鴨居につけますが、その家にいる限りにおいて初子は死を免れることができました。そしてその流した子羊の血は、新約においてキリストの血を指し示していることを私たちは習いました。つまり、キリストこそが私たちの避け所であられます。「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。(箴言18:10」私たちがキリストの内に留まるときに、大祭司なるキリストが私たちのために執り成し、罪と死からの救いを免れさせてくださるのです。

3B 贖い金の拒否 30−34
35:30 もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。35:31 あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。35:32 のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。35:33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。35:34 あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」

 血を流すことについての深刻さを教えている箇所です。初めに、証人の証言が殺人に対する死刑には必要だ、ということです。申命記に入ると、二人、三人の証人がいて、それでそれが事実と確認されることが書いてあります。

 そして次に、殺人事件については、贖い金は通用しない、ということです。人が殺されたということについては、お金による示談や和解はありえません。人は殺したか、殺していないかのどちらかでしかありません。かつて、O.J.シンプソン事件というのがありました。元有名なフットボール選手が、元妻とその友人を殺した罪で捕まったのですが、刑事裁判では無罪となりました。ところが、同じ事件で民事裁判では有罪となりました。人を殺したか、殺さなかったかということであるにも関わらず、そして殺したのであれば無期懲役むしくは死刑、殺していないのであれば賠償金はいっさい支払わなくて良いのです。

 このような常識は私たちには分かりますが、けれども罪について、救いについて、永遠のいのちについて考えるときにはなぜか、贖い金で解決できると思ってしまうのです。自分は悪いことを行なったことがあるけれども、他にも良いことをしていたから相殺されて、天国に神様は連れて行ってくださるだろうと思うのです。罪に対する報酬は死です。死刑なのです。まったく罪を犯さずに天に入るか、あるいは罪を犯して死刑になるかのどちらかなのです。

 そして土地を流血で汚してはならない、という主の戒めがあります。かつてカインに対して主が、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。(創世4:10」と言われました。殺人を犯すのは、その人の罪の問題のみならず、土地に対して罪を増し加えることに他なりません。

5A 氏族間の婚姻 36
36:1 ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、36:2 言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。36:3 もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。36:4 イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」

 私たちは前回の学びで、じっくり学びましたね。娘たち五人が、すでに死んだ父の相続地をモーセに求めました。モーセが祈ると主はもっともであると答えられました。ところが、さらに解決しなければいけない問題がありました。相続地は娘のものになりましたが、彼女が嫁いだならば結局、夫の相続地に吸収されることになります。そうすれば、与えられた相続地が差し引かれていくことになります。

36:5 そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。36:6 主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。36:7 イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。36:8 イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。36:9 こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」

 いかがですか、この願いについても主は聞き入れてくださいました。はっきりと主がご自身の意思を示しておられます。7節後半に、「イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。」とあります。これを前回学びました、主は相続を与えられたのであれば、それを必ずその本人に与えられるという強い意思があるということです。

 そこから私たちは、キリストにある相続も同じように不変であり不動であるということです。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:4

36:10 ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。36:11 ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。36:12 彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。36:13 これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。

 五人の娘たちは従兄弟に嫁ぎました。これで氏族の名は残り、土地も残ります。

 民数記はいかがでしたか?これで約束の地に入るかな?と思いきや、モーセが遣り残している大きな仕事があります。それは、説教です。主の言葉を伝えることです。その説教が次の書物、申命記になります。

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