民数記5−6章 「内なる力」
アウトライン
教会がいのちを持つための二つの要素
1A 罪からの清め 5
1B 内なる汚れ 1−4
2B 他者への負債 5−10
3B 霊的姦淫 11−31
1C 隠された罪 11−15
2C 罪がもたらす苦み 16−22
3C 真実をもたらす試み 23−31
2A 全き献身 6
1B 特別な誓願(コミットメント) 1−21
1C ひたむきな心 1−7
2C やり直し 8−12
3C 神の平和 13−21
2B 御名による祝福 22−27
本文
民数記5章を開いてください。今日は、5章と6章を学びたいと思いますが、ここでのテーマは、「内なる力」です。
イスラエルの民は、今、シナイ山のふもとにいます。神がモーセに幕屋を建てるように命じられて、幕屋が立てられたのは、エジプトから出て来て第二年目の第1月でした。そして神は、モーセに、幕屋において、ご自分をどのように礼拝していくべきかよいか、その教えを、一ヶ月に渡って与えられました。そして、主はこれから、イスラエルの民をこのシナイ山から、約束の地へと導かれようとします。しかし、荒野の旅を始めるに当たって、イスラエルの民はしなければならないことがありました。それは、イスラエル人の人口を数えて、それを登録することです。軍役につく成年男子を登録し、また幕屋の部品を運ぶためのレビ人を登録するように命じられました。そして、宿営における部族ごとの配置も定められました。幕屋を中心として東西南北の方角ごとに位置します。レビ族は、幕屋に隣接するところに、氏族ごとに住むところを割り当てられました。こうして、主は、イスラエルの民に、ご自分が住まれる幕屋を中心にした、秩序ある宿営生活を持ってほしいと願われたのです。
イスラエル人たちは、これから旅に出かけるにあたって準備を整えることができました。自分が神に登録されたので、イスラエル共同体の一員であることを自覚することができました。そして、割り当てられた方角に宿営することによって、自分に課せられた任務をわきまえ知ることができたのです。神とともに歩む者たちにとって、これは大きな祝福です。神に属している者であることを知り、そして神に何が任されているかを知っているからです。このことが民数記1章から4章までに書かれていましたが、5章からは、主のご注目は、宿営の中に移っています。イスラエルの民を、旅をするものにふさわしく聖別しなければなりません。宿営の中に汚れがあれば、それをきよめなければいけません。また、宿営の中で主にすべてをささげる者たちがいれば、彼らを受け入れなければいけません。この聖別によって、これからのイスラエル共同体の旅は、主によって祝福されたものとなります。
1A 罪からの清め 5
1B 内なる汚れ 1−4
それでは、1節をごらんください。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、らい病人、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。主がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行なった。
らい病人、漏出物を出している者、そして死体によって身を汚している者たちは、宿営の中から追い出さなければいけないと、主は命じておられます。旅を始めるときに、民全体が共同体として生き残っていくためには、衛生面において細心の注意を払わなければならないでしょう。いくら、外敵から守られるために軍務につく者たちを配置させても、ばい菌が宿営内に蔓延すれば、民は滅んでしまいます。外からの攻撃から自分たちを守るだけではなく、内にある汚れを自分たちで取り除くことが、民が民として存続していくために不可欠なことであります。
しかし、衛生面よりもさらに大切な霊的な理由があります。それは、主ご自身が宿営の中に住まわれる、ということです。聖なる主が宿営の中に住まわれているので、汚れた者が宿営の中にいることはできません。聖なるものと汚れたものは相容れないものです。そこで、イスラエル人たちは、自分たちの間にある汚れを取り除きます。この自己浄化が、彼らが共同体として霊的に生きていくためには不可欠なことでした。この原則を強く打ち出したのは、使徒パウロです。パウロは、コリントにいる信者たちに対して、「その悪い人を、あなたがたの中から追い出しなさい。(Tコリント5:13)」と言いました。教会の中に、近親相姦の罪を行なっている者がいました。彼らはその罪をそのままにしていただけではなく、罪を犯している者を受け入れていることを誇りさえしていました。しかし、それは大きな間違いです。私たちは、自分の心のうちにある汚らわしい思い、不品行や苦みや憤り、ねたみなどを、そのままにしていてよいものでしょうか。いいえ、違います。そのような悪い思いが自分の心のうちにあるなら、私たちの主にある喜びはなくなってしまい、心は暗くなり、霊的に無気力になってくるでしょう。たしかにイエスを信じる信仰によって救われているのですが、汚れが心のうちにあれば、主との交わりは途切れてしまうのです。
このことは、個人だけではなく共同体の中にも言えます。私たちクリスチャンの間に、聖さが保たれていなければなりません。だれかが罪を犯し、指摘しても悔い改めないのであれば、自分たちで取り除いていかなければいけません。それは、共同体においては、一人の罪が全体の罪として数えられるからです。ヨシュア記に、アカンが罪を犯したときのことを思い出してください。アカンという人物だけが、主のものを盗むという罪を犯しましたが、神は、「イスラエルが罪を犯した。(ヨシュア7:11)」と言われています。そこでヨシュアが率いるイスラエルは、アカンを石打ちによって殺し、悪を自分たちの中から取り除いたのです。コリントの教会においても同じでした。パウロは、「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくまらせることを知らないのですか。(Tコリント5:6)」と言っています。教会の中にいのちがあるためには、聖めが必要です。教会が力をもって前進するためには、私たちの間にある汚れをきよめなければいけません。パウロは、「私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(Tコリント11:31)」と言いました。
2B 他者への負債 5−10
それでは5節を進みます。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げよ。男にせよ、女にせよ、主に対して不信の罪を犯し、他人に何か一つでも罪を犯し、自分でその罪を認めたときは、自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。
主は、イスラエル人が他の仲間に危害を加えた場合、その罪を言い表すだけではなく、弁償をしなければならない、と命じておられます。イスラエルが宿営生活を営んでいるときに、もしこのような償いをしなければ、お互いの関係が敵対的になり、分裂し、孤立していくようになるでしょう。不和があることは、共同生活にとって致命的であります。したがって、主は、危害を加えた者が、罪を告白して、弁償することを命じられています。
しかし、ここで、「主に対して不信の罪を犯し」とあります。害を及ぼしたのは他のイスラエル人であるのにも関わらず、主は、「それはわたしに対する罪である。」とおっしゃっておられます。このことから私たちは、主が私たちといっしょになっていてくださることを知ります。私たちが傷つけが主ご自身も痛み、私たちが迫害を受ければ、主ご自身も迫害を受けておられるのです。主は、私たち一人一人を、高価で尊いとみなしておられます。したがって、他の兄弟に害を与えることは、キリストご自身に対して害を与えているのと同じことなのです。ですから、人への危害は、主への罪なのです。
このときに、弁償額が、実際にもたらした被害額にさらに20%を加えていることに注目してください。自分が及ぼした害の分だけを償えばよいではないか、と思うかもしれません。しかし、それは、被害を受けた者の心的外傷を理解していません。人に害を与えるといういことは、物理的なもの以上のことです。その人の人格の深い部分で、歪みが生じてしまいます。それゆえ、償いはさらに五分の一を加えたものになるのです。このように関係の修復は、イスラエルだけではなく、教会にとっても必要不可欠なことであります。
8節です。もしその人に、罪過のための弁償を受け取る権利のある親類がいなければ、その弁償された罪過のためのものは主のものであり祭司のものとなる。そのほか、その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊もそうなる。
弁償を支払う相手がいなくとも、支払わなければいけません。主に対する罪なのですから、この罪が取り除かれなければいけないからです。そのときは、祭司のところに弁償を持ってきます。こうしてイスラエル人が祭司のところに持って来るすべての聖なる奉納物はみな、祭司のものとなる。すべて人の聖なるささげ物は祭司のものとなり、すべて人が祭司に与えるものは祭司のものとなる。主のものになる、というのは祭司のものになる、ということと同意語でした。これは信仰によって、そうなります。実際的理由として、祭司はイスラエル人のささげ物によって、その生活がささえられるからなのですが、しかし、主は、わたしにささげるものは祭司のものである、とお定めになったのです。
3B 霊的姦淫 11−31
こうして宿営の中で対処しなければいけない問題について見てきました。次も宿営の中での問題です。
1C 隠された罪 11−15
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。もし人の妻が道をはずして夫に対して不信の罪を犯し、男が彼女と寝て交わったが、そのことが彼女の夫の目に隠れており、彼女は身を汚したが、発見されず、それに対する証人もなく、またその場で彼女が捕えられもしなかった場合、妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こって妻をねたむか、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こって妻をねたむかする場合、夫は妻を祭司のところに連れて行き、彼女のために大麦の粉十分の一エパをささげ物として携えて行きなさい。この上に油をそそいでも乳香を加えてもいけない。これはねたみのささげ物、咎を思い出す覚えの穀物のささげ物だからである。
妻が、姦淫の罪を犯している疑いが夫の中に生じたときのおしえです。夫は、もしかしたら他の男がいるかもしれない、と勘ぐっていますが、その証人はどこにもいません。現場で捕らえられることもありません。ただ夫が、そうではないかと疑っているのです。そのときに、真実を明らかにするための方法を、主は定められました。夫は妻を祭司のところに連れていきます。そして、大麦のささげものを携えて来ます。そこには油も注いでも乳香を加えてもいけません。油は聖霊の型です。穀物のささげ物に油がまざっているということは、私たち信者に住んでおられる、いのちの御霊を表しています。愛、喜び、平安の実をもたらすところの聖霊の働きです。しかし、ここでは罪をあらわにするための働き、隠されたものを裸にする働きです。ですから、油を入れません。
イスラエル共同体において、部族、氏族という単位がありましたが、もっとも小さな単位はもちろん家族であり、その中でも夫婦が最小単位です。この夫婦の関係が土台であり、夫婦が一心同体になっていることがイスラエル共同体の大前提であります。ちょうど原子が分裂したら、物質はそのままで存在することはできないように、夫婦に亀裂が走ったら、共同体全体が存続できなくなります。だから、主は、妻の不信の罪について、その疑いがあるだけでも、それを明らかにするように命じておられるのです。
ただ、私は、なぜ妻だけに咎を負い、夫は負わなくてよいのかが、最初よく理解できませんでした。夫だって、姦淫の罪を犯すのではないか、と思いました。事実、イエスさまは、モーセは離婚状を書いて妻を離別することを許しました、と言ったパリサイ人に対して、そのような者は姦淫の罪を犯している、とおっしゃっています。けれども、ここでは、夫には罪が帰せられていません。ここで大事なのは「ねたみ」という言葉です。聖書の他の個所で、主はご自分のことを、「ねたむ神である」とおっしゃっています。ほかの神をおがんではならない、主のみを拝し、主のみに仕えなさい、と命じておられます。そして、ご自分を夫になぞらえて、イスラエルを妻にして、ご自分とイスラエルとの関係を表しておられる個所がたくさん出てきます。したがって、ここでの行為は、ご自分がねたむ神であることを暗に示すために定められたもの、と言えるでしょう。
霊的に姦淫の罪を犯す、ということは、単に罪を犯すことよりも深刻であります。妻が夫に対してどのような罪を犯していても、夫が妻を愛しているなら、それを赦すことができます。けれども、他の男に行ってしまったら、どうなるでしょうか。それは関係そのものの一切の否定です。同じように、私たちが神に対していろいろな罪を犯しても、神は赦してくださいます。けれども、他の神に乗り移ってしまえば、もうそこで関係は切れてしまうのです。パウロは、再びコリントの教会に対してですが、こう言いました。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(Uコリント11:3)」コリントの教会は、偽使徒たちによって、異なるイエス、異なる福音、異なる霊を受けていました。そこでパウロは、エバが蛇によって欺かれたように、キリストの花嫁であるあなたの思いも汚されているのではないか、と心配しています。
2C 罪がもたらす苦み 16−22
祭司は、その女を近寄らせ、主の前に立たせる。祭司はきよい水を土の器に取り、幕屋の床にあるちりを取ってその水に入れる。祭司は、主の前に女を立たせて、その女の髪の毛をとかせ、その手にねたみのささげ物である覚えの穀物のささげ物を与える。祭司の手にはのろいをもたらす苦い水がなければならない。
女はのろいをもたらす苦い水を飲みます。これは、きよい水の中に幕屋のちりが入れられたものです。ちりというと思い出すのが、創世記3章14節であります。神は蛇に対して、「おまえは、…ちりを食べなければならない。」と言われましたが、このちりはのろいを表しています。きよい水の中にあるのろいは、クリスチャンにとっては、神のみことばの中にあるさばき、と言えるかもしれません。ヘブル書においてこう書いてあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とありますが、実は次の言葉に続きます。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:12-13)」神のみことばによって、また、聖霊の働きによって、隠れたこともみな裸にされて、さらけ出されるのです。
祭司は女に誓わせ、これに言う。『もしも、他の男があなたと寝たことがなく、またあなたが夫のもとにありながら道ならぬことをして汚れたことがなければ、あなたはこののろいをもたらす苦い水の害を受けないように。しかしあなたが、もし夫のもとにありながら道ならぬことを行なって身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば、』・・そこで祭司はその女にのろいの誓いを誓わせ、これに言う。・・『主があなたのももをやせ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあって主があなたをのろいとし誓いとされるように。またこののろいをもたらす水があなたのからだにはいって腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン。』と言う。
女に、のろいがもたらされることに同意させます。祭司が誓わせたことは、女のことばになります。自分が神のみことばどおりになることを、ここで認めているのです。
3C 真実をもたらす試み 23−31
23節です。祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦い水の中に洗い落とす。こののろいをもたらす苦い水をその女に飲ませると、のろいをもたらす水が彼女の中にはいって苦くなるであろう。
なんと、今誓ったことの文字のインクを、この苦い水の中で洗い落とされます。つまり、自分のことばが自分の腹の中に入って、自分のうちに実現するということです。
祭司は女の手からねたみのささげ物を取り、この穀物のささげ物を主に向かって揺り動かし、それを祭壇にささげる。祭司は、その穀物のささげ物から記念の部分をひとつかみ取って、それを祭壇で焼いて煙とする。その後に、女にその水を飲ませなければならない。その水を飲ませたときに、もし、その女が夫に対して不信の罪を犯して身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中にはいって苦くなり、その腹はふくれ、そのももはやせ衰える。その女は、その民の間でのろいとなる。しかし、もし女が身を汚しておらず、きよければ、害を受けず、子を宿すようになる。
ここで、真実が明らかにされます。姦淫の罪を犯していれば、女は子を宿すことができないようなからだになり、犯していなければ間の害も受けずにすみます。これは、本当に罪を犯していない人にとっては、この上もなくうれしいことです。夫から疑いをかけられていたけれども、今、潔白であることが証明されたからです。自分が罪を犯したとも、犯していないともわからないような状況でしたが、神は、この方法によって、純潔な女の真価をためされたのです。
私たち一人一人も、真価をためされるときが来ます。主イエスが来られるときに真価がためされます。「その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(Tコリント3:13)」とパウロが言いました。
これがねたみの場合のおしえである。女が夫のもとにありながら道ならぬことをして身を汚したり、または人にねたみの心が起こって、自分の妻をねたむ場合には、その妻を主の前に立たせる。そして祭司は女にこのおしえをすべて適用する。夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。
2A 全き献身 6
こうして、宿営の中の汚れをきよめなさい、という主の命令を見てきました。これは聖別についての消極面ですが、積極面もあります。つまり、自分自身を主におささげする、という聖別です。
1B 特別な誓願(コミットメント) 1−21
1C ひたむきな心 1−7
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。
ナジル人についての教えです。「ナジル人」は、「献身した者」とか「傾倒している者」という意味です。この人は、自ら進んで特別な誓いを立てます。私は主に自分のすべてをささげます、という表明をします。そして、具体的に、「私は、これこれのことをします。」という確約をします。英語では、このことを「コミットメント」と言います。例えば、だれか私たちのところに宣教師としてやって来て、「一年間のコミットメントをします。」とその人が言ったら、その人は病気や事故などで自分のからだを動かせなくならないかぎり、必ずこの場所で奉仕を、責任を持って行なう、という意味になります。
イスラエル人の中に、「私は主におささげしたい。私のものは、すべて主のものです。主よ、私をお用いください。」と強く願う人が現われるとします。その人の献身を、どのように受け入れればよいのかを、神は今、モーセに教えておられます。ナジル人としてしなければならない一つ目のことは、ぶどう酒を断つことです。ここで「ぶどう酒」と「強い酒」が区別されていることに注目してください。ぶどう酒というと、今私たちが飲むことができるワインを連想してしまいますが、実際はグレープ・ジュースのようなものであったと思われます。強い酒というのが、発酵してワインのようになったアルコールの入っているものでしょう。
そして、ぶどう酒と強い酒の他に、酢も飲んではいけない、とあります。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。ぶどうの汁だけではなく、ぶどうの実も種も皮も一切食べてはいけません。ところで、このことからユダヤ人のラビたちは、エバが蛇に欺かれて食べた木の実は、ぶどうであったと教えているそうです。西洋の絵画には、禁断の実としてりんごの絵が書かれていますが、それがりんごであったという証拠は聖書の中に見出すことはできません。けれども、このナジル人の聖別の個所から、あの木の実はぶどうではなかったのか、という推測はできます。
彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。
ナジル人がしなければいけない二つ目のことは、頭髪をそってはならない、ということです。覚えていますか、サムソンについて、主の使いは、「その子は、母の胎内にいるときから神へのナジル人だからだ。」と言われました。そして、「頭にかみそりを当ててはならない。」と言われました。そのためサムソンは、長髪でした。そのサムソンには御霊によって怪力が与えられ、何千人ものペリシテ人を殺すことができました。サムソンだけではなく、サムエルもナジル人であったと言われています。ハンナが、神に対して、「私のその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。(Tサムエル1:11)」と祈りました。このサムソンは、偉大な士師、預言者となり、霊的暗黒時代の中にいたイスラエルを復興させるための、神に用いられた器になりました。したがって、ナジル人の長髪は、神に用いられるところの力を象徴していたのかもしれません。、主に自分のすべてをささげている人は、神の力を受けているのです。
ですから、イスラエルには、このようなナジル人の存在が必要でした。すべてを主に明け渡し、時分の思いを主に定め、右にも左にもそれない人が必要でした。神は、このようにコミットメントをしている人たちを通して、ご自分のわざを行なわれるのです。ああ、教会にも献身した者たちがどれだけ必要でしょうか。日本の教会では、牧師や伝道師のことを「献身者」と呼んでいますが、それは間違っています。なぜなら、すべてのクリスチャンが神に献身するように召されているからです。牧師は牧会の働きにおいて献身していますが、他の人たちは、神から与えられたそれぞれの賜物に応じて、奉仕に、助けることに献身しているのです。そして、どれだけ主におささげして、また教会にささげているかによって、その教会のいのちと力が変わってきます。本当に主におささげしている人が一人、二人と教会の中に現われることによって、その力は増し加わります。なぜなら、主は、ナジル人を通してご自分の力を現わされるからです。
主のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである。ナジル人がしなければいけない三つ目の事は、死体に近づかないことです。先ほども、死体に触れた者が宿営から追い出される命令がありましたが、死体は、まさしく死を表しています。死は罪によって入り込みました。神のうちにはいのちがあるだけで、死は一切ありません。したがって、これらを避けることが主の御旨なのです。
ところで、先ほどから、「聖別の間は」という言葉が出て来ています。主に誓願を立てるのは一生涯ではなく、自分が決めたところの期間においてだけです。もちろん、サムソンやサムエルのように、神の特別な計らいによって生まれながらにして、一生涯ナジル人であった人もいますが、一般的には、一年とか、あるいは一ヶ月とか、一定の期間において誓願を立てました。
2C やり直し 8−12
それでは8節です。彼は、ナジル人としての聖別の期間は、主に聖なるものである。もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。
だれかが突然死んでしまい、たまたま聖別されたなじる人に触れてしまった場合、何をしなければならないかについて主が教えておられます。ぶどう酒を飲まなかったり、頭にかみそりを当てないことは、自分の意志でできますが、死体が触れてしまうことは、避けられない場合があります。そのときの教えです。まずしなければならないのは、頭をそることです。死体にさわったときから数えて七日目にそります。そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別する。このナジル人は、自分の意志によってではないのに、罪の贖いをしなければならないようになっています。二羽の山鳩あるいは家鳩のひなを持ってきて、一羽を罪のためのいけにえ、他の一羽を全焼のいけにえとします。罪のいけにえは、罪を犯したときに、罪の赦しのための犠牲の供え物です。そして全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪を言い表して、主から赦しときよめをいただくことと、罪を捨てて、主に再度自分自身をささげることです。この二つがセットになって、初めてやり直しがききます。
けれども、自分の行為によって犯した過ちではないのに、なぜ、罪を犯した者として数えられてしまうのか、厳しすぎるのではないか、と思われるかもしれません。けれども、そのとおりなのです。主に献身すること、主にコミットメントをすることは、このような厳しさがともなうのです。個人としては罪を犯していないかもしれないでしょう。しかし、自分はすでに一つの共同体の中で、他の人たちに対して責任ある立場に置かれているのです。自分は嘘をついていません。不品行を行なったり、怒ったりしていません。けれども、教会に来ていた、一人の寂しそうにしている老人に挨拶の声をかけたであろうか、…という問いがあるのです。その老人がたまたま、だれも気にかけてくれないので、悲しみの中で押しつぶされてしまったとします。教会の中で忙しかったから、という理由はいくらでも言うことはできるでしょう。けれども、そのような人が出て来た事実は変えられないのです。このように、主に献身することはシビアな世界、厳しい世界であります。自分がさわっていないのに、死体のほうがふりかかってきても、この人は罪のいえにえと全焼のいけにえをささげなければいけません。
そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。
ここでも、とても厳しい側面が描かれています。これまでの献身はすべて無効とされます。そして、罪のいけにえ、全焼のいけにえだけではなく、罪過のいけにえもささげなければいけません。罪過のいけにえは、自分が他の人に危害を加えた場合にささげるものであります。このいけにえをささげたあと、聖別はふりもどしになり、またゼロから出発します。私たちも、ふと思いがけないことで、すべてのことがだめになってしまうことがあります。このショックは非常に大きいでしょう。けれども、神は、何度でもチャンスを与えてくださいます。これまで築き上げてきたものはゼロになっても、再びスタートすることができるのです。
3C 神の平和 13−21
けれどもついに、聖別の期間が完了します。これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入口に連れて来なければならない。彼は主へのささげ物として、一歳の雄の子羊の傷のないもの一頭を全焼のいけにえとして、また一歳の雌の子羊の傷のないもの一頭を罪のためのいけにえとして、また傷のない雄羊一頭を和解のいけにえとして、また種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパン、油を塗った種を入れないせんべい、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を、ささげなければならない。
聖別の期間が満ちたときは、幕屋のところに来て、いけにえをささげます。初めに全焼のいけにえで、次に罪のためのいけにえです。先ほどと順番が違いますね。そして、ここで特徴的なのは、和解のいけにえがあることです。和解のいけにえは、平和のいけにえと訳すこともできるし、交わりのいけにえと訳すこともできます。主との交わり、主の平安を楽しむところのいけにえです。そして、穀物のささげものがありますが、種なしのパンをささげます。パン種はつねに、悪いもの、罪の型になっていますので、種がパンの中にあってはいけません。そしてこのパンやせんべいが、油が混ぜ合わされ、また油が塗られています。主の御霊が私たちのうちに宿り、また主の油注ぎが私たちのうちにあります。このように、聖別によって、主との交わり、御霊にある喜びを持つことができるのです。
祭司はこれらのものを主の前にささげ、罪のためのいけにえと全焼のいけにえとをささげる。雄羊を和解のいけにえとして、一かごの種を入れないパンに添えて主にささげ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物をささげる。ナジル人は会見の天幕の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪の毛を取って、和解のいけにえの下にある火にくべる。
髪の毛をここでそり、それを祭壇のところで焼きます。自分に与えられた力はすべて神から来たものであり、神の力が自分に働いたことを表しています。祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れないせんべい一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛をそって後に、これらをその手の上に載せる。祭司はこれらを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなる。和解のいけにえは、このように、祭司によって、神の前で高くかかげられます。主に感謝して、主を賛美している姿です。その後に、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。ここで祭司とともにナジル人はぶどう酒を飲んでいます。
これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の及ぶ以上に主へのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。
もっともっと主におささげしたい、という人は、自分が「これこれをします。」と言ったとおりに行ないなさい、と言われています。その誓った誓いのことばどおりに行ないます。
2B 御名による祝福 22−27
そして次に、イスラエル会衆に対するアロンの祝福があります。神はこれを、ナジル人についての教えをおしえられた後に、この祝福について命じられていることに注目してください。主は、ご自分のおささげする者がいることを、とても喜ばれます。また汚れをきよめる者たちを喜ばれます。らい病人などを追い出し、害を加えた者が弁償を行ない、女が苦い水によってためされ、そしてナジル人の聖別がありました。このように、内なる人が強められるところに、主はご自分の祝福を注がれるのです。
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。
『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」
アロンが、天幕の聖所の中に入り、そこから出てきたときに、イスラエル会衆を祝福することばです。これは、最後の節にあるように、これは、主の御名による祝福です。英語の聖書ですと、「わたしは、わたしの名をイスラエルの民の上に置く」と訳されています。
主の名前というのは、私たちが自分たちの名前を持っている以上のものです。主の本質といいますか、主ご自身そのものと言ってもいいです。主は目で見えるようなかたちのある方ではありません。けれども、その名前によって、私たちは主ご自身を人格的に知ることができるのです。そして主の名は、「エホバ」とか「ヤハウェ」であると言われています。この名前の意味は、「何々になる」という意味です。私たちの必要があれば、その必要がなんであれ、その必要になってくださる、ということであります。
まず人類にとって、第一に必要なことは罪からの救いです。罪から救われて、地獄から救われることが、私たちのもっとも大きな必要です。そこで主は救いとなられました。救いはシュアと言いますので、ヤハウェ・シュアとなられたのです。これを短縮するとヤホシュアになり、さらに短縮するとヨシュアになります。このギリシヤ語名が、イエスース、すなわちイエスなのです。主は救いとなられました。イエスさまです。そして、もし私たちに備えが必要であればどうでしょうか。アブラハムは、モリヤの山でいけにえの雄羊が必要でした。そこで主は、ヤハウェ・イルエつまり、「主は備え」となってくださいました。同じように、私たちに戦いがあって、勝利しなければならないときに、主は勝利の旗となってくださいます。「ヤハウェ・ニシ」です。不義がはびこり、自分も不当な扱いを受けたエレミヤに対し、「主は私たちの正義」となってくださいました。このように、主は私たちの必要になってくださるのです。
そして、この祝福のことばそのものを見てみましょう。主が何々をしてくださるように、と三回繰り返されています。多くの人はここに三位一体の神を見ると言います。主があなたがたを祝福し、あなたを守られますように、というのが御父。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますようにというのが御子。そして、主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように、というのが聖霊です。
そして、24節ですが、ここの「祝福」は、「仕える」というような意味を持ちます。つまり、主が私たちの必要を満たして、私たちに仕えてくださるのです。これは実にへりくだされるような経験です。主は事実、ご自分が父のみもとに行かれる前に、弟子たちの足を洗ってくださいました。そして、「あなたを守られますように」というのは、罪から、あやまった道から守られますように、ということです。ユダは、神を、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることができる方(24)」であると紹介しています。
次に25節ですが、「主が御顔をあなたに照らして」とあります。私たちの心に光が入ってきます。キリストの栄光が私たちを照らします。パウロは言いました。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(Uコリント4:6)」そして、「あなたを恵まれますように」と祈っています。神の恵みによって、信仰によって、私たちは救われました。私たちの行ないではなく、神の賜物として救いが与えられました。そして26節です。「主が御顔をあなたに向け」とあります。他の聖書の個所に、「わたしは顔をそむける」という言葉があります。忌み嫌うことを行なう者に対する措置です。けれども、主は私たちに御顔を向けてくださいます。そしてその実として、平安が与えられます。神の平安を持つことは、私たちにとってとっても大切なことです。私たちは、キリストによって神との平和は持っているのですが、思い煩ったり、また罪の責めによって悩んだりして、神の平安を持つことがなかなかできません。パウロが「恵みと平安が」とあいさつしているように、私たちはまず神の恵みを知る必要があります。
こうしてアロンの祝福がありました。これは、神が、イスラエルの民が美しく整ったのをごらんになるからです。イスラエル人を登録され、宿営の配置を行なわれ、レビ人を選出し、宿営をきよめ、またナジル人を受け入れました。外に対しても、また内においても、健全な均整のとれた姿を主は喜ばれております。
この同じ主が、私たちとともにおられます。主は私たちを祝福し、私たちをご自分の力を現わすための器として用いたいと願われています。それには、私たちの間にある汚れをきよめなければいけません。また、私たち自身が、完全に主におゆだねする具体的なコミットメントがなければなりません。妻が夫に対してすべてを尽くすように、私たちも心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主なる神を愛するときに、主が私たちを祝福し、恵みを与え、平安を与えてくださるのです。