内側をさばく  2001/01/20

本日は、民数記5−6章を学びました。

民数記のテーマは、キリスト者の歩み、であります。イスラエルの民が、荒野の旅を行なうように、キリスト者は、キリストとの歩みをこの世の中で行ないます。1−4章においては、その歩みにおいて必要な、登録について書いてありました。また、登録されたイスラエル人が、幕屋を中心として、東西南北の方角に、部族ごとに宿営しました。こうして、イスラエルの民は、自分が神に属する者であることを知り、また、自分が割り当てられた任務を知ることができました。キリスト者にとっても、この世において生きていくときに、自分がキリストのものになっていることを知り、また、自分に与えられている神からの任務を知っていることは、この上もない祝福です。

こうして、神は、イスラエルの宿営が、ご自分を中心とした秩序を持っていることを願われました。そして、主の目は、宿営の内側に向いています。宿営の中に聖別が必要でした。これが、5章と6章のテーマになっています。

5章には、らい病人などが宿営から追い出されていること、危害を加えた者が弁償すること、そして不貞の罪を犯していると疑われている妻が、苦い水を飲むことが記されています。この三つはすべて、イスラエルが宿営をなして旅をするときに、その歩みの妨げとなるものです。ですから、取り除かなければいけません。教会、すなわち私たちクリスチャンの間にも、悪があればそのように行なわなければいけません。「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(1コリント5:13)」とパウロは言いました。

そして6章には、主に誓願を立てる「ナジル人」についての教えがあります。この人は、「私は、この一定の期間、〜のことをします。」と言って、自分の身を主にささげます。その人の特徴は、髪の毛をそらないことです。このひたむきな献身や専心によって、宿営全体に大きな力をもたらします。サムエルやサムソンはナジル人でしたが、彼らを通して、主の力あるわざが行なわれました。教会も、どれだけの人が献身しているかによって、その力が変わってきます。

5章にある汚れからのきよめと、6章の神への献身によって、主はモーセに、アロンがイスラエルを祝福することばを言うように命令されます。主が守り、主が恵みを与え、そして平安を与えられるように。私たちの間で内実が強められるとき、主の祝福も一段と多いのです。


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