民数記6章23−27節 「祭司の祝祷」
アウトライン
1A 祝祷とは?
2A 御顔の照らし
1B 「あなたを守られる」
2B 「恵まれますように」
3B 「平安を与えられますように」
3A 御名を置く祝福
本文
民数記6章を開いてください。私たちは、6章から9章までを第二礼拝で学んでみたいと思いますが、今晩は6章23−27節に注目してみたいと思います。
「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」
1A 祝祷とは?
ここは、祭司アロンに民に対して、神が彼らを祝福する意図を宣言することを命じておられるところです。英語で、誰かが演説や講演をすると必ず最後に"God bless you."という言葉を使いますね。日本語に訳される時に、非常にぎこちない翻訳になっていますが、「神のご加護がありますように」となっています。文字通り訳せば、「神があなたを祝福してくださるように」という意味です。
主はアロンに対して、基本的にこの祈りを彼らに対して捧げなさいと命じておられます。そして具体的には、主に対していけにえを捧げた後、つまり礼拝を終えるにあたって告げる言葉になっています。レビ記9章22-24節をご覧ください。「それから、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげてから降りて来た。ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。」
ここでアロンが祝福した時に、おそらくは主がここで命じられたものと似たような言葉を発したのだと思います。主に礼拝をささげ、それを終える言葉として主は祝福を人々に残したいと願われているのです。それは新約聖書でも同じです。パウロの手紙、ペテロの手紙、ヨハネが書き記した黙示録など、そのしめくくりの多くが祝福する祈り、つまり「祝祷」で終わっています。例えば、ガラテヤ書の最後はこうなっています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。(ガラテヤ6:18)」
もともと「祝福」という言葉が、私たちにはなじみがありませんね。お祝いの言葉と同じようなものかな、と思いますが、聖書の中でははっきりとした定義があります。それは、「神がかがんで、私たちに仕える」という意味です。「祝福(בָּרַךְ)」という言葉に、「ひざをかがめる」という言葉があるのです。ここで神の名前である「主」あるいは「ヤハウェ」という名前には、「私たちの必要になる方」という意味合いがあります。私たちが必要を持っているときに、その必要になってくださるというご性質を神が持っておられるのです。
神がひざをかがめて仕えてくださったのを、具体的に見ることのできた出来事があったのを覚えているでしょうか?十字架につけられる前の夜、イエス様は膝をかがめて弟子たちの足を洗われました。足を洗うことは、当時は家のしもべが行うものでした。つまり、イエス様は弟子たちの必要に応えて仕えられたのです。こんなことをしてくださるのが神であられ、そして最後の言葉として、「わたしがあなたを祝福するよ」と仰ってくださるのです。
2A 御顔の照らし
それでは具体的に神がどのように私たちを祝福してくださるのかを、見てみましょう。
1B 「あなたを守られる」
24 主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
これが初めの言葉です。主が私たちを守ってくださること、これが祝福の一つです。私たちは自分の力で自分のことを守ることがなかなかできません。いや、自分の力では決して自分自身を守ることができません。ペテロは、イエス様に「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)」と言いましたが、もちろんその数時間後、三度、イエス様を知らないと言いました。イエス様はゲッセマネの園で、眠ってしまっていた弟子たちに、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。(同41節)」と言われました。自分の献身の誓いさえも、数時間も守る力を持っていませんでした。
けれども、主が私たちをご自分の力で守ってくださいます。今のペテロのことについて言うならば、イエス様はサタンに試されていたペテロのために、すでに執り成しの祈りをささげておられました。イエス様は弟子たちのことを父なる神に祈られて、「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。(ヨハネ17:12)」
私たちは神の力によって守られ、保たれています。ペテロがこう言いました。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(1ペテロ1:5)」そしてユダも手紙の中でこう言いました。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、(24節)」いかがですか、私たちは終わりの日まで、神の御前に出て行く時まで守ってくださり、救いを完成してくださり、神の御前に出るときには、傷のない者にしてくださり、大きな喜びをもってその栄光の前に立つことができるのです。
これが一つの祝福です。神はあなたを守ってくださいます。
2B 「恵まれますように」
25主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
そして次の祝福は「御顔を照らしてくださる」ということです。輝きを与えてくださることです。これはちょうど、私たちが長いこと曇りや雨続きで気持ちも暗くなっている時に、雲ひとつない快晴が与えられて、体が癒されるような明るさが与えられるのと似ています。マラキ書では、「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。(4:2)」とあります。神が私たちに好意をもって、愛と理解をもって私たちを気にかけてくださいます。
聖書には、キリストによって私たちの心を神が照らしてくださることを教えています。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(2コリント4:6)」そしてそこにある輝きとは、豊かな恵みです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)」ここに、御顔を主が照らされると「あなたを恵まれますように」とあるように、その輝きは恵みの輝きだったのです。
私たちは、人の世界で苦しんでいます。人から裏切られ、傷つき、そして自分自身も人を裏切り、傷つけています。自分自身の行いがすべきことを満たしていないことを知っても、落胆してしまいます。その暗闇の中に生きている中で、自分の行いには拠らず、もっぱらキリストにある神の行いによって私たちを取り扱ってくださるのが恵みです。私たちはもはやどん底に落ちたと感じても、主はそこから溢れるばかりの祝福を注いでくださいます。これは、私たちの悟り得ないこと、私たちの心に思い浮かぶこともできないほどの大きな恵みをもって接してくださるのです。
一度、詩篇103篇を読んでみましょう。8節から14節までです。
主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
これだけ私たちはか弱い存在ですから、塵のようにすぐにでもなくなってしまうような無力な者ですから、私たちに恵みをもって接してくださるのです。けれども、私たちは「まさか私は塵ではないでしょう」と思います。それで一生懸命、いろいろ頑張ってしまうのです。神はそのようにするのを一時期、お許しになられます。そして私たちがもう何もできないことを知る時に、恵みをもって私たちに迫ってきてくださるのです。
そしてパウロが自分の手紙で使っている祝祷は11回出てくるそうです。そのいずれの祝祷にも必ず「恵み」という言葉が出てきます。先ほど引用したガラテヤ書の言葉にも恵みがありました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。(6:18)」エペソ書にはこうあります。「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(6:24)」
パウロの手紙だけではありません。ペテロは第二の手紙の最後にこう書いています。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。(2ペテロ3:18)」聖書の一番最後の言葉は何だか知っていますか?ヨハネがこう書き記しました。「主イエスの恵みがすべての者とともにありますように。アーメン。(黙示22:21)」したがって、別れを告げる言葉として神は「恵み」をその人にとどまらせたいと願っておられるのです。
3B 「平安を与えられますように」
26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
ここの英語の訳は、「主が御顔を持ち上げて、あなたがたの上に臨むように」というようにも訳すことのできる表現になっています。御顔を向けるというのは、ちょうど下向きになっている顔を上に持ち上げる時の表現です。下を向いている時、顔を上に上げるとその表情はどうなりますか?にこやかになりますね。悲しんだままの顔はしていません。これがここで示されている「御顔」であり、主は私たちににこやかな顔を向けていてくださっている、ということです。
いかがでしょうか?私たちが想像する神についての印象は、いささか不機嫌なものではないでしょうか?自分が何かきちんと行わなかったら、すぐにかんしゃくを持ったり、「ほら、またあなたは間違いを犯した」と責め立てるような顔ではないでしょうか?そんなことは決してありません!それは神の顔ではなく、サタンの顔です!悪魔は、あらゆる形で私たちを痛めつけようとしています。
神は私たちに対して、にこやかな顔を向けておられるのです。私たちを見て、喜んでおられるのです。もちろん私たちが罪を犯した時、自分の肉にしたがって動いた時に、神は悲しまれます。けれども、あなたの存在そのものはとても喜んでおられるのです。ちょうど、愛する息子が悪いことをしてしまって、悲しみますがけれども息子がいるということ自体を喜んでいるのと同じです。
神の御顔を知る時に、私たちには「平安」が与えられます。神を知らない時には私たちには平安がありません。イザヤ書57章20−21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる。」私たちも神を自分の生活に認めることがなければ、このように困惑の中に生きることになります。
私たちの主イエス様は、私たちに「平安があなたがたにありますように。(ヨハネ20:21)」と言われました。こうも言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(同14:1)」「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(同16:33)」
どんな騒ぎの中でも、イエス様は全き平安を持っておられました。覚えておられますか、イエス様は舟に乗られる時に、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われました(ルカ8:22‐25)。イエス様はそのまま舟の中でぐっすり眠ってしまわれました。けれども突風が湖に吹き降ろしてきて、舟に水がかぶってきました。弟子たちが、「私たちはおぼれて死にそうです!」と言ったら、イエス様は、風を荒波をしかりつけられ、それで風も波もおさまりました。イエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と問われました。そうですね、初めにイエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。イエス様が言われたのであれば、その通りになるのです。それにも関わらず、私たちは人生や生活の途中で嵐が起こると、イエス様が言われている言葉をうっかり忘れてしまいます。
平安には二つの種類があります。日本語には二種類があることをきちんと教えていますが、「平和」と「平安」です。平和は、私たちが罪によって神に敵対しているのを、神がキリストにあってその敵意を置いてくださいました。十字架という敵意によって、神は私たちに和解を与えておられます。ですから、神との平和があります。それだけではなく、私たちには神の平和があります。それは、神の恵みを知ることによって、私たちの行いやあり方によって神の私たちに対する好意が変わることなく、一定していることを知ります。ここアロンの祝祷も、「あなたを恵まれますように」の次に「あなたに平安を与えられますように」とあります。パウロや他の使徒の手紙の挨拶は、「恵みと平安がありますように」と、「恵み」の次に「平安」を挙げています。
また思い煩いを神にゆだねることによって、与えられます。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 (ピリピ4:6)」それは自分自身の生活に関わる思い煩いであるかもしれないし、他の人についての心配かもしれません。けれども、主がその人を世話してくださる、何とかしてくださると信じれば、心に神の平安が訪れるのです。
旧約聖書における祝祷の代表が、このアロンの祝祷ですが、新約聖書ではコリント人への手紙第二の最後が代表的です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)」ここに、三位一体の神の御姿が麗しく述べられています。イエス・キリスト、神、そして聖霊です。そして、ここのアロンの祝祷と比べてください。ここも三回の宣言になっています。私はここにも、三位一体の神の御姿が隠れていると思います。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。」これは父なる神です。父なる神が私たちの人生、また永遠の定めについて責任を持っておられて、計画をもっておられ、私たちを守ってくださいます。そこにパウロの話す「神の愛」があります。
「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。」ここにはイエス・キリストのお姿があります。キリストによってまことと恵みが入ってきました。パウロの祝祷にも、「主イエス・キリストの恵み」とあります。
「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」ここには聖霊なる神があります。神の平安を心に実質的に与えられるのは私たちの心に住まわれる聖霊です。聖霊の実は、平安によって現れます。パウロの祝祷には「聖霊の交わり」とあります。
3A 御名を置く祝福
そしてアロンの祝祷の最後はこう書いてあります。「彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」主の名で祈るというのは、「ヤハウェ」という名前で祈るのであれば、ということです。つまり、私たちの必要になってくださり、私たちに仕えてくださる方、私たちの必要になってくださる方、この印象をもって私たちがその後、生活をすることができるように祈りなさい、と命じておられるのです。
新共同訳では、「わたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき」とあります。主という神の名をイスラエル人の上に置くのです。それが祝福であると神は言われます。みなさんがここから離れる時にいつも、主の御名が置かれるようお祈りします。神の祝福が、そして神の守りがあるように。神の御顔の輝きによって、恵みを知って帰るように。神の御顔が向けられて、平安が残るように。