民数記7−10章 「神の民の旅立ち」
アウトライン
1A 主への奉献 7−8
1B ささげ物 7
1C 車と牛 1−9
2C 祭壇奉献 10−89
2B 献身 8
1C 燭台の灯火 1−4
2C レビ人の清め 5−26
2A 主の同行 9−10
1B 導きにおいて 9
1C 小羊の血 1−14
2C 雲と火の柱 15−23
2B 呼びかけにおいて 10
1C 銀のラッパ 1−10
2C 出発 11−36
本文
民数記7章を開いてください。今日は、民数記7章から10章までを学びます。ここでのテーマは、「神の民の旅立ち」です。イスラエルがついに、シナイ山のふもとから離れて、荒野の旅を始めます。
1A 主への奉献 7−8
それでは早速1節をごらんください。
1B ささげ物 7
1C 車と牛 1−9
モーセは幕屋を建て終わった日に、これに油をそそいで、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具もそうした。彼がそれらに、油をそそいで聖別したとき、イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたち・・彼らは部族の長たちで、登録を担当した者・・がささげ物をした。
時は、モーセが幕屋を建て終わった日に戻ります。つまり、イスラエルがエジプトから出たときから二年目の、第一月の一日のことです。しかし、民数記の初めには、イスラエルがエジプトを出てから第二年目の第ニ月の時に、神がイスラエル人を登録しなさい、という命令を出されました。つまり、7章から、話しが一ヶ月さかのぼっています。聖書では、出エジプト記の最後の章に戻っていきます。
出エジプト記において、主が、モーセに、幕屋を造るように命じられた個所が記されています。主は、その幕屋の構造や寸法を正確に教えられて、その型のとおりに造るように命じられました。それから、祭司を任命するように命じ、また知恵の霊に満たされた大工を任命されました。それに従って、すべての用具が造りました。そして、主は、それらの用具に聖なる油を注ぐように命じられています。そして、この第一月一日に、モーセは、自分一人ですべての部品を組み立てて、それを完成させました。その後の出来事です。幕屋について、すべて必要なものは揃ったのですが、イスラエル人たちは、まだ足りないものを発見しました。それは、イスラエルが旅をするときに必要な運搬用具です。旅をするときには、幕屋は分解して、その部品を運んで、また組み立てるのですが、そのときに、いわばトラックが必要になります。そこで、彼らは、必要な車とその車を引っ張る牛を、主におささげします。
次をごらんください。彼らはささげ物を主の前に持って来た。それはおおいのある車六両と雄牛十二頭で、族長ふたりにつき車一両、ひとりにつき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に連れて来た。
イスラエル12部族のそれぞれの族長が、主の前にやって来ました。一人一人が牛1頭を連れてきましたが、車は6両です。これは車一頭を、2頭の牛が運ぶためです。
すると主はモーセに告げて仰せられた。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。
主は、幕屋を運搬ためにレビ人を取り、任命されました。そのため、イスラエル人が持ってきたささげ物をレビ人に渡すように命じられています。
車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。
ゲルション族は、幕を運ぶ奉仕に任命されていました。私たちはすでに、民数記4章にて、それぞれの氏族がどのような奉仕に割り当てられているのかを学びました。そして、メラリ族は、幕でおおうところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されています。ですから、メラリ族のほうが、より重い、大きな部品を運ばなければならず、そのために車と牛の数が、ゲルション族よりも多くなっているのです。
しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。
ケハテ族は、聖所の中における用具を運ぶことになっていました。契約の箱、机、燭台、そして香壇です。燭台以外はみな、かつぎ棒があります。ケハテ族は、それを肩にかついで運びます。燭台も、かつぎ台に載せて運びます。そのため、車を必要としなかったのです。
2C 祭壇奉献 10−89
族長たちのささげ物は、運搬手段だけではありません。彼らは、祭壇のおける奉仕のために必要なものをささげました。
祭壇に油がそそがれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物をささげた。族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前にささげたとき、主はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」
族長たちがささげ物を持ってやって来ましたが、主はそれを一日ずつ、各部族ごとにささげなさい、と命じておられます。そこで
12節から、それぞれの部族が一日ごとに順番にささげ物を持ってくるところが記されていますが、前もってこの章を読まれた方は、この個所を読んで非常に驚くのです。なぜなら、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、いちいち繰り返しささげ物の中身が記されているからです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節あります。一番長いのは、もちろん詩篇119篇ですが。詩篇119篇は、実にさまざまな事について書かれており、私たちの魂を潤わせますが、この章は、全くささげ物が12回繰り返されているだけです。それでは、この章は意味がないところ、さほど重要ではないところなのでしょうか。そうではありませんね。主がこの記事を書くように、モーセを導いておられたのですから、私たちに有益な霊的真理を見出すことができるのです。
主は、私たちが考えるように、考えるお方ではありません。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されています。私たちがそれを読むときに、一回一回のささげ物を、主がしっかりと受けとめて下さっているのだ、ということを知ることができます。「はい、急いでわたしのところに持って来なさい。」と主は仰せになりませんでした。丁寧に、一日という間隔を空けて、噛み締めるようにささげ物を受け取られたのです。私たちは、効率主義で動いている世に生きています。そこで、一つの成果が上がるためには、私たち一人一人の仕事を機械のねじのように取り扱います。しかし、神の方法は、この世のものとは異なります。主は、ご自分の民が、自ら進んでささげるささげ物を喜んで受け取られます。そして、その行為は、主の御前で永遠に記録されているのです。主は、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10:42)」と言われました。私たちが行なっている主のわざは、一滴のしずくのように感じても、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになります。
そして、もう一つのすばらしさは、各部族は人数が異なるのに、ささげる物は同一であることです。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでもまったく同じ、銀の皿と鉢と金の皿といけにえの動物をささげました。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集めて、他の部族がそれほど注目が寄せられない、ということではないのです。主の前では、すべてのものに調和が与えられ、平等となり、他のだれかではなく主ご自身に栄光が帰せられるようになっています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。(Uコリント8:14)」とパウロは言いました。
それでは、最後の節に飛んでください。モーセは、主と語るために会見の天幕にはいると、あかしの箱の上にある「贖いのふた」の二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。
イスラエルの民が祭壇への奉献を終えると、モーセは、聖所の中に入っていきました。そして、至聖所にある契約の箱の前に立ちました。そこは、主ご自身がおられるところです。契約の箱は、純金でできた贖いのふたが載せられていますが、そのふたには二人のケルビムがいます。その間から主がモーセに語られます。
2B 献身 8
8章に入ります。
1C 燭台の灯火 1−4
主はモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」アロンはそのようにした。
ともしび皿についての主の命令です。燭台の光をともしなさい、と命じておられます。
主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取りつけた。燭台の作り方は次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。
燭台は純金によって出来ていました。それを金槌で打ち、台座から花弁に至るまで作り上げます。
2C レビ人 5−26
そして次に、主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように、命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りなくてすべての務めを執り行なうことができません。そこで、主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられています。
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたも別の若い雄牛を罪のためのいけにえとして取らなければならない。
レビ人は、まず水によるきよめを受けなければいけません。罪のきよめの水をモーセがレビ人に振りかけます。そして、レビ人は全身の毛をそって、衣服を洗います。レビ人の奉献式は水のあらいから始まります。
私たちクリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげていくものです。この世において、自分自身が主のわざに関わっていきます。そのときに必要なのが、きよめです。イエス・キリストの血の注ぎを受けてきよめられ、また、神のみことばによって自分をきよめます。しかし、ここの所において、多くの人が誤った考えを持っています。自分をきよめるということを、自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考えていることです。そこで、自分には主のわざを行なっていく資格はない。奉仕するような資格はない、と思ってしまいます。けれども、これは誤ったきよめの考えです。
このレビ人のきよめの儀式の前に、燭台のともしびを整える命令があったことを今、読みました。燭台は、イエス・キリストご自身のことを表しています。黙示録には、燭台の間を歩いておられるキリストの御姿があります。そして、ともしび皿の油は、ゼカリヤ書によると、主の御霊であることが分かります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たちの心を明るくされます。この燭台の光があるからこその、水の洗いのなのです。順番がとても大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分自身の理解で、自分自身の内側を見つめることではなく、キリストを見つめることです。キリストを見つめていくうちに、御霊によって、自分の足りなさを示していただきます。これがまことのきよめであり、燭台であられるキリストと、油であられるご聖霊の働きが必要なのです。
あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエル人の全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエル人はその手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。
イスラエル人が、レビ人の上に手を置いています。これは、手を置くことは、いっしょにすることを意味しています。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前におささげすることを行なっています。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげなければならない。罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげます。
あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主にささげる。あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。こうして後、レビ人は会見の天幕の奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物としてささげなければならない。
レビ人はわたしのものとなる、と主は言われています。次に、どのようにしてレビ人をご自分のものにされたかを語っておられます。
彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。わたしはイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取った。
レビ人は、イスラエル人の初子の代わりであるから、わたしのものである、とおっしゃっています。エジプトでイスラエルを救い出されるとき、すべての初子はわたしのものである、と主は言われました。そしてイスラエル人が自分たちの初子を差し出す代わりに、レビ人を取りました、と言われています。
わたしはイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕でイスラエル人の奉仕をし、イスラエル人のために贖いをするようにした。それは、イスラエル人が聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないためである。
こうして、レビ人は幕屋の中で奉仕できるようになりました。奉仕をするときに、必要なことは、「私は主のものである。」という確信です。主が私をここにおいてくださり、主が私のことを握っておられるという確信です。私たちが奉仕をしていると、主が自分のことを気にしておられるのか、遠くから見ておられるだけではないのか、という気持ちになります。しかし、主はともにいてくださいます。そして、私は主のものとされています。
モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行なった。イスラエル人はそのとおりに彼らに行なった。レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前にささげた。またアロンは彼らの贖いをし、彼らをきよめた。こうして後、レビ人は会見の天幕にはいって、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行なった。
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。」
幕屋の用具を運ぶときの奉仕は、30歳からであると定められていますが、幕屋の中での奉仕は25歳からと定められています。
しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたは、レビ人に、彼らの任務に関して、このようにしなければならない。
50歳以上の人は、監督をするほうに回り、実際の奉仕をすることはありません。
2A 主の同行 9−10
こうして幕屋における奉仕について見てきました。祭壇へのささげ物と、レビ人の奉献です。次の章からは、実際にイスラエル人が旅に出かける兆しを見ていくことができます。
1B 導きにおいて 9
1C 小羊の血 1−14
エジプトの国を出て第二年目の第一月に、主はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。
再び、時は、第二年目の第一月にさかのぼっています。
「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、それをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。
」
シナイ山のふもとで、過越のいけにえをささげなさいという命令を出されました。
そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべて主がモーセに命じられたとおりに行なった。
過越のいけにえをささげなさいと主が命じられた時は、まさにエジプトを出るときの、第一年第一月の14日のことでした。「わたしはエジプトの初子を打つ。けれども、子羊をそれぞれの家族で用意して、それをほふりなさい。その血は家の門柱と鴨居につけなさい。子羊は焼いて食べ、急いで食べなさい。あなたがたの家にある血を見て、あなたがたのところを通り過ぎよう。」と言われました。そして、その1年後、荒野の旅を始めるに当たって、同じように過越の祭りを守りなさい、と命じられています。
つまり、イスラエルの民は、エジプトから救い出されたときだけではなく、荒野の旅をするときにも過越の子羊が必要だったのです。その旅は、エジプトでの救いと切り離されたものではなく、むしろ、贖いによって彼らは荒野の過酷な生活を耐え忍び、前に向かって進み出すことができます。荒野にひそむ危険やわなも、過越にある主の贖いによって避けることができるのです。
そして、私たちは、過越の子羊がイエス・キリストの十字架のみわざを表していることを知っています。十字架の贖罪は、私たちが福音を初めに信じたときのみに必要なものではありません。信仰の旅の道中に、絶えず必要になってくるものです。私たちの歩みは、信仰をもってからどのような局面にいようとも、絶えず過去にキリストが成し遂げてくださった、十字架のみわざを仰ぎ見ていくものでなければいけません。ですから、イエスさまは、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、わたしのからだと血を思い出しなさいと言われました。初めの愛に戻って、キリストの十字架に戻る必要があります。
しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。その人々は彼に言った。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時に、イスラエル人の中で、主へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」するとモーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」
今までに考えられなかった場合について、イスラエルの民がモーセに質問しました。第1月の14日に、遠く旅に出かけている者、死体をさわったことによって汚れている者が、過越のささげ物をすることはできないのか、という質問です。このことについてモーセは示されたことがないので、主に伺いを立てます。
主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は主に過越のいけにえをささげなければならない。第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。
答えは、一ヶ月遅れの、第二の月に過越の祭りを守るというものでした。
種を入れないパンと苦菜といっしょにそれを食べなければならない。そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、主へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、過越のいけにえのおきてと、その定めとに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。
主は、第二月の14日に持たれる過越の祭りも、第一月に持たれるものと同じように、この祭りを守らなければならないと言われています。種を入れないパンと苦菜をそえて食べること、朝まで食べ残さないこと、骨を折ってはいけないこと、また、在留異国人も過越の祭りにあずからなければいけない、ということです。第一月の過越の祭りにあずかることができなかったからと言って、第二月のものが劣ったものになる、ということではありません。私たち人間の性質として、初めに大々的に行なったものは、次は小規模で行なったり、簡略化させてみたりしようとしますが、主は何一つ差し引くことはありませんでした。
ここから私たちは何を教訓として学ぶことができるでしょうか。それは、やり直しをすることができる、ということです。イスラエルの民が死体にさわって自分の身を汚したように、私たちも自分の身を汚すことがあります。それゆえ、主の集会の中にある恵みにあずかることができないことがあります。自分は失敗した。もうだめだ。教会に行っても、おとなしくしておこう。または、そんなにイエスさまに対して熱心になる必要はない。私はだめだ、と意気消沈します。けれども、神は完全なやり直しを与えてくださっているのです。私たちは神に立ち返って、新たにキリストの基準に従った生活をやり直すことができるのです。いや、やり直さないといけないのです。自分で勝手に、その基準を落として、キリストから少し距離を離しながら生きるのではなく、主が与えられた二回目のチャンスを精いっぱい生きることが必要です。
2C 雲と火の柱 15−23
こうしてどのイスラエル人も、過越の祭からもれることのないように主はされました。次に、イスラエルの民が旅立つときに、導き手となる雲の柱、火の柱について書いてあります。
幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。
幕屋を建てた日から雲が幕屋をおおいました。夜になると雲は見えなくなってしまう、と思うかもしれませんが、その時は火の柱となって、光り輝いて見ることができました。
いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。
雲が離れると旅立ち、とどまる場所で宿営しました。
主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
主の命令によって、という言葉が何回も繰り返されています。彼らは、勝手に荒野の道をさまよったのではなく、主が行きなさい、という合図を送られるときに行き、止まりなさいという命令が与えられたとに止まったのです。
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
とつぜん雲が上がったとき、私たちの性質としては、まだ出発したくないというものです。けれども、イスラエルの民はそうしませんでした。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。長い期間、宿営していたら退屈になってしまうかもしれませんが、それでも彼らは雲がとどまっている限り、宿営をつづけました。
彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。
こうして雲が、彼らを荒野の旅で導いたことが強調されています。彼らは、灼熱の砂漠を歩かなければならず、道しるべとなるべきものは何も持っていませんでした。完全に、主の導きに従って生きていたのです。このことは、私たちに大きな教訓を与えてくれます。私たちも同じように、主の導きにしたがわなければいけない、ということです。私たちは彼らの生活より便利になりました。ですから、自分たちで計画を立てて、自分たちが行きたいところに行き、泊りたいところに泊ることができると思ってしまいます。自分が立てた計画も、一見うまく行っているようで、何の問題もないように見えるがあります。
けれども、ヤコブがこう言いました。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:13-15)」主のみこころなら、です。私たちのいのちは完全に、主によりかかっています。ですから、主の御心のみを求めて、主のみこころが成し遂げられることを願い求めて、生きていかなければいけません。人生の行程に、突然の変化があるかもしれません。しかし、柔軟になるべきです。主がなされることを眺めていき、そしてその導きにしたがうべきです。
イスラエルに与えられていたのは雲の柱でした。それは神がそこにいてくださることを表していました。同じように、私たちも主が臨在しておられる、という道しるべをもって歩むことができます。自分の歩みに、主がともにおられることがお分かりになるでしょうか?
2B 呼びかけにおいて 10
それでは10章に入りたいと思います。彼らが導かれたのは、雲と火の柱だけではありませんでした。雲が立ち上がったときに、ラッパを吹き鳴らす音を聞いて出発しました。
1C 銀のラッパ 1−10
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。
ラッパの音によって会衆が召集されました。ここでは二回、長く吹き鳴らすようになっています。
もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。
分団のかしらのみを招集するときは、一回長く吹き鳴らします。
また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。
旅を始める時は短く一回吹き鳴らします。まず、東側の部族が出発します。それからもう一度、短く吹き鳴らすと、南側の部族が出発します。北側と西側の部族について、ラッパが吹き鳴らされたかは分かりません。
集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。
このように召集するときにラッパを吹き鳴らしますが、それだけではありません。
また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。
イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていました。(今でもそうですね。)その時には、ラッパは長く吹き鳴らさず、短く吹き鳴らします。聖書には、戦いに臨むときにらっぱが吹き鳴らされている記事を多く読むことができますね。例えば、ヨシュアの率いるイスラエル軍が、角笛の音によってエリコを陥落させましたし、ギデオンの率いる軍も角笛の音でミデヤン人を倒しました。
そして、ラッパを吹き鳴らすのは、祭りを行なうときです。また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。
過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどに、ラッパを吹き鳴らします。そして、ラッパを吹き鳴らすとき、「神の覚えられる」とあります。戦いのときも、「主に覚えられ、あなたがたの敵から救われる」という約束がともなっています。ラッパの音は、まさに神の音だったのです。
私たちが、この地上にいて聞くラッパの音があります。それは、主イエス・キリストが私たちのために再び戻ってきてくださるときです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 (Tコリント15:52)」イスラエルの民の族長たちが、ラッパの音を聞いてモーセのところに集まってきたように、私たち教会も、終わりのラッパとともに一挙に引き上げられます。
それだけではありません。イエスさまがこの地上に戻られるとき、今度はイスラエルの民自身が、イスラエルの土地に集まってきます。イエスさまが言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 (マタイ24:31)」ラッパは私たちを集め、一つにしてくださる神のみわざであるようです。また、イスラエルが戦いに出たときに、ラッパが吹き鳴らされたように、神が地上にご自分の怒りをお下りになられるときも、その御使いはラッパを吹き鳴らしていることが、黙示録を読むと出てきます。したがって、イスラエルの民がラッパによって旅立つことは、私たち自身が神のラッパを待ち望まなければいけないことを表しているのでしょう。
2C 出発 11−36
そして実際の出発が始まります。第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。神がイスラエル人を登録しなさいという命令を出されてから20日後に、雲が幕屋の上から離れていきました。
それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。
イスラエルの民は、シナイ山のふもとから北のほうにあるパランの荒野へと向かい、そこでとどまりました。
そして、どのように出発したかが次に描かれています。彼らは、モーセを通して示された主の命令によって初めて旅立ち、まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。
主が命じられたように、東の宿営の軍団が初めに出発しました。ユダ族とイッサカル、そしてゼブルンです。
幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。
東が出発したら、今度はレビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発します。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みます。
ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。
これは、南側に宿営していた部族です。
聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。
面白いですね、聖なる用具を運んでいるケハテ族は、ゲルション族やメラリ族よりも後に出発します。そして、彼らが宿営するところに到着するときには、ゲルション族とメラリ族は、幕屋を組み立てておくようにしています。実に整然としていますね。
また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。彼らは西側にいる部族でした。ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。
最後に北側の軍団が出発します。以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。彼らが旅立つ光景を上空から見たら、さぞかしすばらしかったでしょう。東から人が動いていき、それあから幕屋のところが動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発します。実に整然としており、主の共同体には秩序と順序があることを思わされます。私たちが集まるところにも、秩序があります。主は平和と秩序の神であり、混乱したりすることは主のみこころではありません。私たちは、どのように主が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切です。
次に、不思議な場面が出てきます。さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」
モーセはなんと、道案内人になってくれと頼んでいます。このホバブは、モーセの姑レウエル、別名イテロの息子です。彼の子孫は、イスラエルの部族と約束の地に入り、イスラエル人の中に住みました(士師1:16,4:11)。
1章から10章までを学んできた私たちにとっては、こんなに整えられて、備えが出来ているのに、なぜ?と言いたくなります。イスラエルの民はあちらこちら行くことなく、決まったところを歩き、また宿営し、宿営の中はきよめられ、ささげ物は行なわれ、過越の祭りは行なわれ、そして雲の柱と火の柱があります。これほど確かな備えと導きが与えられているのですが、モーセはこの地域に熟知している人に、道案内を頼んでしまいました。モーセも弱き人間であることが、ここで示されています。しかし主のあわれみがあります。
次をごらんください。こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。彼らが宿営を出て進むとき、昼間は主の雲が彼らの上にあった。
旅の中で後ろのほうにあるはずの契約の箱が、今ここで先頭に立って進んでいます。本当の道案内人は、ホバブではなく主ご自身になったのです。主は、どうしても不安であるモーセとイスラエルの民をかえりみて、先頭に立って前に進んでおられます。
そして最後に、モーセの祈りが記されています。私たちは、前回6章の最後のところで、アロンが民を祝福するところを学びましたが、同じように今度はモーセが主に祈っているところで終わります。これまで整えられたモーセであっても、何も先が示されていない旅は不安でした。しかし、この祈りをもって前に向かって進んでいったのです。
契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」
出発するときには、敵が逃げ去って行きますようにと、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈っています。この二つの単純な祈りですが、これを私たちの祈りをすることができます。私たちが、この世において主とともに歩むとき、霊の戦いがあります。いつも、「敵が散らされますように。敵の手から、私たちを救い出してくださいますように。」と祈る事が出来ます。また、この世において歩んでいるところからたちどまって、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが出来ます。私たちにとってのもっとも大きな保証は、主ご自身です。この方がいてくださるかどうか、ということがすべてになります。どうか、私たちが信仰の旅立ちをしているとき、敵からの救いと、主の臨在を求め続ける者となりますように。