人の弱さ  2001/02/16

明日、土曜日は、民数記7−10章までを学びます。
民数記1−10章までを読んで思わされることは、主はご自分の民が旅立ちをするのに、それにふさわしい備えを十分に整えてくださった、ということです。

1−4章において、主は、戦いに出る者と、幕屋の奉仕を行なう者を登録されました。荒野で遭遇するであろう敵から救い出されるために、彼らは戦わなければいけません。また、荒野の中でも絶えず主を真ん中にして、礼拝をささげなければいけません。同じように、主は私たちクリスチャンを登録され、ご自分の子どもとして数えられています。そして、この世における戦いと、また、教会における奉仕に携わることができるようにされています。

5章と6章において、主は宿営の中における聖めを行なわれました。汚れた者を宿営から追い出したりすることを命じ、また、ナジル人と呼ばれる献身者を受け入れられました。教会が主にあって前進するときも、私たちは、その中にある悪を取り除くこと、また献身的に働く者が必要となります。

そして、7章と8章において、主は幕屋の奉仕の奉献物を受け取られます。
7章では、12部族が、自ら進んで、祭壇にささげる供え物をたずさえています。その中身はみな同じでしたが、部族ごとにささげるものがすべて列挙されています。ここから分かる事は、主は私達のささげ物を、決して軽く見ることはなく、一つ一つを覚えられ、ご自分の胸の中にしまわれている、ということです。わたしの弟子だからということで与える一杯の水によって、主の報いがあります。また、隠れたところでささげられた祈りも、主がそれを聞いておられます。

8章では、レビ人が奉献物として主の前にささげられます。つまり任職式です。しかし、その前に、8章は燭台のともしびを整える命令がなされています。その光は主ご自身、油は御霊を表していますが、人が奉仕に任命されるときは、ご聖霊の満たしと、それに伴う主ご自身の証しが、その人のうちになければいけません。

そして9章と10章には、過越の祭りの命令、旅立つときの雲の柱と、会合と旅立ちのためのラッパについて書いてあります。

過越の祭りにあずかることができなかった者は、次の月にあずかることができ、またあずからなければいけません。同じように、私たちクリスチャンも、罪を犯したりして失敗したとしても、二回目のチャンスが与えられています。

雲の柱、火の柱は、ご臨在による主の導きが書かれています。私たちの一日も、「主のみこころなら、私は生きていて、これこれのことをしよう。」という祈りから始めなければいけません。

それからラッパですが、これが預言的意味を持っています。神の民が集まるためのラッパは、イエスさまが私たちクリスチャンのために戻って来られるときに吹き鳴らされることを表し、また、イエスさまが地上に戻って来られるとき、イスラエルの民が世界中から集められることを表しています。戦いのときのラッパは、黙示録にあるように、キリストがハルマゲドンにて、反抗する諸国の民と戦われることを表します。

そして、雲が上がり、ラッパが吹き鳴らされて、各部族ごとに秩序正しく順番に出発し、荒野の旅が始まりました。ところが、です!モーセは、ミデアン人ホバブに、道の案内人になってほしいと願い出ているのです!主がこんなにいろいろ整えておられるのに、モーセは人の導きを求めてしまいました。私たちも同じですね。信仰の旅において、主ではなく、人に拠り頼もうとしてしまう過ちを犯してしまいます。

しかし、主はあわれみ深い方です。10章33節を見ると、主の箱が先頭に立って、三日の道のりを導かれたことが記されています。私は、おそらくホバブはモーセの申し出を断わったのではないかと思います。主は、モーセに、ご自分の導きと守りを求めるようにされたのでしょう。そして10章は、モーセの祈りで終わっています。

私たちは、整えられても、そこからはみだしてしまう弱い人間です。けれども主は、それを正し、直して、私たちをご自分の道に導いてくださいます。


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