1A わきまえのない者 1
1B 知恵と訓戒 1−6
2B 主への畏れ 7−19
3B ちまたの大声 20−33
2A 正しく歩む者 2
1B 捜す知恵 1−6
2B 守られる道 7−15
3B 他人の妻 16−22
3A いのちと平和 3
1B 教えを忘れない人 1−12
2B 知恵を見出す人 13−20
3B よく見張る人 21−26
4B 正しい人 27−35
本文
箴言1章を開いてください、今日から箴言を学びます。今日のメッセージの題は「知識の初め」です。
私たちが前回まで学んできた詩篇はその多くがダビデによって書かれましたが、今日から学ぶ箴言、またその後の伝道者の書と雅歌は、ダビデの子ソロモンによって書かれたものです。ダビデが、主を思い慕う礼拝者であるとすれば、ソロモンは主の助けを仰ぐ知恵者と呼んでよいでしょう。
ソロモンは若い時に王となりました。また、彼が即位するにあたって、彼に歯向かう抵抗勢力がありました。何とか排除することはできたものの、これからの統治をどのようにすればよいか不安だったことでしょう。そこで夢の中で現れてくださった主が、「あなたに何をあげようか。」と問われた時、彼はこう答えました。「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。(1列王3:9)」主はその願いを聞かれ、彼に知恵の心と判断する心とを与えられました。
その知恵は非常に豊かで、海辺の砂浜のように広い心のようであったと第一列王記4章29節に書いてあります。そして、「彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五首もあった。(1列王4:32)」とあります。これから読む箴言も、三千の箴言の中の一つです。
ソロモンの治世の特徴は、平和と繁栄でした。人々との間に平和が、また神によって与えられる平安がありました。そして、豊かな人生においても特長的です。これを支えていたのは神から与えられていた知恵であり、生活の具体的な場面において、神の知恵を働かせていたからに他なりません。
私たちが詩篇において学ぶことができたのは、主への深い敬愛であり、自分自身を主の懐の中に沈ませることでした。箴言において学ぶことができるのは、この主との交わりをいかに実際の生活の中でも保っていることができるか、その方法と知恵についてです。
1A わきまえのない者 1
箴言の初めに、この書物の目的が述べられています。
1B 知恵と訓戒 1−6
1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。1:2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、1:3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、1:4 わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。
二つの目的があります。一つは「知恵と訓戒を学ぶ」こと、つまり正しい生き方をすることができるように、訓練されることを意味します。もう一つは「悟りのことばを理解する」こと、つまり物事を判断する識別力を身に付けることを意味します。
そして箴言、特に前半部分の1章から9章までは、「若い者」に対する知識や思慮を意識しています。若い者に特徴的なのは、未熟さです。いろいろなことをする力はありますが、知恵が欠けているために愚かなことをしてしまいがちです。もちろん年を取ってから愚かなことをする事も多いわけですから、年齢が若いということではなく、私たちすべてが持っている未熟さに対する神からの戒めを聞くことができます。
1:5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。
ここの「指導」は、英語ですとcounselつまり「カウンセリング」と訳すことができるところです。しばしば「カウンセリング」は、心理学や精神医学のようなものを連想し、そのようなものとして教会の中でも採用されていますが、これから箴言を読んでいけばまったく質の異なるものであることを発見するでしょう。
1:6 これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。
箴言つまり格言と、比喩つまり「たとえ」です。「なぞ」とありますが、隠喩的に書かれているものですね。
2B 主への畏れ 7−19
そして次に、箴言を理解するに当たって非常に重要な一節があります。
1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
私たちが知識または知恵について話すとき、何を連想するでしょうか?学問の知識でしょうか?世の中を渡り歩く知恵でしょうか?聖書は、「主を恐れること」であると言っています。コロサイ書には、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が隠されているのです。(2:3)」と書かれています。キリストを知ること、キリストを敬うこと、キリストにあって物事を見ていくこと、これが知恵であり知識であると聖書では定義しているのです。
箴言3章7節には、「主を恐れて、悪から離れよ。」とあります。いわゆる世の中で、知者であると言われる人たちがどれだけ悪の中に入っているか知れません。ノーベル経済学賞を受賞した人が同性愛者であったり、精神分析家の大学教授が公然と女子学生らとわいせつ行為をしたり、彼らの持っている天才的な知識がなんら、主を恐れること、悪から離れることと結びついていないことが分かります。
そして、ここの「知識の初め」の「初め」は、「第一」「最優先事項」と訳すことができる単語が使われています。同じく9章10節に「主を恐れることは知恵の初め」とありますが、ここの「初め」は順番の初め、「一番目」という意味を表すヘブル語が使われています。ですからここ1章7節では、いろいろな知識があるが、主を恐れることに関する知識が第一であり、最優先事項である、という意味です。そしてもちろん、知恵を得るにおいて、まず最初に主を恐れなさいというのが9章10節での意味になります。
1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。1:9 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。
この箴言、特に1章から9章までの箇所には、このように「わが子よ」という呼びかけが数多く出てきます。おそらく父ソロモンが子レハブアムなどに語りかけた言葉であろうと考えられます。そしてここは、モーセの律法、「あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:12)」を意識した言葉でしょう。神が両親を神の代理人として立ててくださっています。父と母が主を愛して、主の訓戒と教育によって子を育てることが、神が家族に与えられた命令です。
「父の訓戒」と「母の教え」がある家庭は何と幸せなことでしょう。日頃の生活のことは、お母さんの言いつけに聞き従います。けれども、子供のしつけ、生活の全体的な方針、善悪の価値観などは父が定めてあげます。
ソロモンは自分の家を見て、このことを、痛みを持って知っていました。父ダビデは自分に対しては、しっかりと主にあって訓練してくれましたが、他の息子、兄たちに対しては、彼らが悪いことをしても叱ることはありませんでした。そのため、アブシャロムは反抗し、父をエルサレムから追い出して、王位を奪い取ろうとしたり、アドニヤもまた、王位の継承をソロモンから奪い取ろうとしました。
1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。1:11 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、1:12 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。1:13 あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。1:14 おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」
若い者たちに付き物なのは、仲間からの誘いです。自分がいつも一緒にいる仲間が、自分をどう見ているかをいつも気にしています。だから、悪いことをいっしょにしようと誘われたら、それを断るのには勇気が要ります。しかし、主を恐れることが知識の初めです。そして父の訓戒、母の教えを思い出すことが、知恵のあることです。
1:15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。1:16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
第二コリントにこう書いてあります。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(6:14)」そして、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。(6:17)」
1:17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
先の、自分の息子を誘っている罪人らの言葉は、「人の血を流すために待ち伏せしよう」でした。彼らは、自分たちが仕掛けている罠が人の目からは隠されていると思っていました。けれども、そうではないとソロモンは言います。網を張っているのを鳥がみな見ていて、網に引っかからないように、彼らの悪事に引っかかる者はいない、と言っているのです。
1:18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
ダビデの詩篇の中にも、この真理がたくさん書かれていました。自分が血を流そうとしたら、自分の血を流すことになる、自分が行なおうとした悪は、自分自身の上に降りかかる、ということです。
3B ちまたの大声 20−33
そして次に非常に興味深い表現があります。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、1:21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。1:22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。1:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。
知恵が生きた人間のように叫んでいます。もちろんこれは比喩です。ここで言いたいことは、「生活のどんなところでも、知恵を求めるならすぐに与えられる。」ということです。
知恵というのは、非常に実際的です。私たちが図書館にこもって、そこで得られるものではありません。また、祈祷室で祈り込んで得られるものでもありません。知恵の宝庫として貯めておくことができないものです。騒がしい町角、ですから例えば、私たちが朝のラッシュアワーでもみくちゃにされている時に、その必要な瞬間に、主が恵みによって与えてくださるものです。
大事なのは23節、「わたしの叱責に心を留めるなら」です。いつどんな時にも、主を呼び求め、主の御言葉を求めるならば、主が豊かに知恵の御霊を注いでくださいます。だから、私たちは絶えず、主に拠り頼まなければなりません。どこかのセミナーである法則を学んだから、だからもう大丈夫、ではないのです。法則化させることはできず、その時、その場で主にいちいち聞くことによって初めて生きた知恵をいただくことができます。
1:24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。1:25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
私たちが耳を澄ましていれば、知恵の声は聞こえます。自分の目の前にいる人が語っている言葉が、実は主が語らせておられるかもしれません。散歩に連れられているペットの犬に、主は何か私たちに語りかけておられようとしているかもしれません。妻を通して主が語られることは多いですが、私はよくそれを聞き逃します。
1:26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。1:27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、1:28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。1:29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、1:30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。1:31 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。
私たちが愚かなことをした時、私たちが悔い改めて罪を言い表せば、主はすぐに赦してくださいます。あわれんでくださいます。そして回復の道を与えてくださいます。しかしながら、自分が行なったことについての影響から免れることはできません。
サムソンのことを思い出してください。彼は女に近づき、それゆえ自分の髪が切り取られ、力を失い、目をえぐり取られ、ひき臼を引くはめに遭ってしまいました。しかし、彼の髪は再び生え始めました。そしてペリシテ人が余興のために彼を舞台のところに引き出した時、サムソンは柱を持って、その宮全体をつぶすことができました。彼は、これまで殺したペリシテ人の数よりも、もっと多くのペリシテ人を殺すことができました。これは神の憐れみであり、恵みです。
しかし彼が蒔いた種はしっかり刈り取ったのです。これがここで言っている、「自分の行ないの実を食らう」ということに他なりません。私たちが主が与えてくださる知恵を無視すると、それ相応の結果がともなうことを知らなければいけません。
1:32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」
知恵にともなう結果は、安全と安心です。たとえ災いが襲ってきたとしても、主によって必ず守られるという確信が与えられます。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ3:17-18)」
2A 正しく歩む者 2
1B 捜す知恵 1−6
2:1 わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、2:2 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、2:3 もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、2:4 銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、2:5 そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。2:6 主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。
知恵によく耳を傾け、耳を傾けるだけでなく、自ら捜し求める必要性がここに書かれています。ヤコブの手紙に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(1:5)」とあります。自分で願うのです。
ですから多くの問題は、願わないことにあります。その結果を知っているからでしょう。もし願えば、5節に書かれているように、「主を恐れることを悟る」からです。自分が抱えている問題があります。それを、主を畏れるのではなく、主ご自身以外の方法によって解決を求めようとするからです。自分、もしくは周囲の環境、またキリスト以外のもの、例えば悪魔や悪霊などのせいにすることを願っているからです。
その中でも「自分」が一番大きいでしょう。「私はできない。だめだな。」と反省するのですが、主を見上げることはしません。自分の過去を探って、何か傷を受けていないか見つけようとはしますが、「だれでもキリストのうちにいれば、新しく造られた者です」という御言葉の約束を無視しています。自分を探るのではなく、主を探るのです!4節からの約束の通りです。「銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、2:5 そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。2:6 主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」
2B 守られる道 7−15
2:7 彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、2:8 公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。
知恵の中にいることによって、自分自身が守られます。その道は小道であり小さいのですが、そこを通ることによって害を受けることはありません。
2:9 そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。
新改訳に出てくる「公義」という言葉は、あまり聞きなれないかと思います。新共同訳や口語訳のほうが分かると思います。「裁き」あるいは「公正」と訳したほうがいいでしょう。ここは、「正義と公正と公平」と訳したほうがいいです。
2:10 知恵があなたの心にはいり、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。
これが、御言葉の学びをしている時の喜びです。主を恐れることを学ぶことができ、知恵と知識が心に入るので、私たちの魂は喜びます。
今でもはっきり覚えていますが、私が牧師を目指してアメリカのカルバリーチャペルで勉強しようと思った時のことです。カルバリーチャペルの礼拝堂で毎週行なわれている、伝道集会に出席しました。説教者は、「あなたは罪人である」とか、「悔い改めなければいけない」とか、自分を否まなければいけないことを言及していましたが、私の心は重くなってきました。けれども右左、隣にいた人たちは、同じメッセージを聞いて非常に喜んでいます。
聞く目的が違っていたのです。自分は愛されているよ、自分は可能性があるよ、など、自分が中心の信仰を持っていたのに後で気づきました。自分の間違いを明らかにされて、主の道が明らかにされて、そこを歩んでいくことができることを喜びとするとき、私たちの魂は本当の意味で喜びます。私は牧師になるどころか、新たにクリスチャン生活のいろはを学び直しました。
2:11 思慮があなたを守り、英知があなたを保って、2:12 悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。2:13 彼らはまっすぐな道を捨て、やみの道に歩み、2:14 悪を行なうことを喜び、悪いねじれごとを楽しむ。2:15 彼らの道は曲がり、その道筋は曲がりくねっている。
私たちの周りには悪の道が広がっています。私たちが意識していなければ、すぐにその中に入っていくことでしょう。けれども知恵は、私たちをそこから救い出してくれます。
この力を私たちは体験する必要があります。最近、キリスト教書店に立ち寄る機会があったのですが、やはり書棚に並んでいる本は、男女関係のこと、結婚、心の病などの類のものでした。これらの本や証しから励ましを受けることもあるでしょう。しかし、実際の力は神から来ます。私たちが御言葉を通して、御霊によって、信仰によって受け取ったものにこそ、力があります。
3B 他人の妻 16−22
2:16 あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。
ソロモンの箴言、1章から9章までには、この人妻を避けるようにという戒めがたくさん書かれています。若い者を意識しての戒めでしょう。パウロも若い牧者であるテモテに対して、「若い時の情欲を避け」なさいと言いました(2テモテ2:22)。
後にも出てきますので詳しくは話しませんが、男が弱いのは「滑らかな言葉」です。へつらいの言葉です。それに対して、自分の妻は正直です。自分のことをあからさまに言います。
2:17 彼女は若いころの連れ合いを捨て、その神との契約を忘れている。
神の前に誓約を交わしたこと、結婚をしたことを忘れています。
2:18 彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。2:19 彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。
後でも読みますが、引き寄せられる男たちはその時の言葉や容姿だけを見て、その直ぐ後にやってくる死と闇には気づきません。悪魔は、私たちに瞬時の充足感を約束しますが、その後に襲ってくるものを巧妙に隠します。
2:20 だから、あなたは良い人々の道に歩み、正しい人々の道を守るがよい。2:21 正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。2:22 しかし、悪者どもは地から絶やされ、裏切り者は地から根こぎにされる。
潔白な人、正直な人の道です。今日の社会では尊ばれません。けれども、奥さんとだけ一生共に生きていくことがいかにすぐれたことか、特に若い者が知らないといけません。
3A いのちと平和 3
1B 教えを忘れない人 1−12
3:1 わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。3:2 そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
出エジプト記20章にある、父と母を敬えという戒めの中にも、その約束が「あなたの齢が長くなるためである。(12節)」とあります。この約束が実現するには、父と母側と、子の側のどちらにも果たす役割があります。
父と母は、教え、命じなければいけません。主にあって訓戒し、主にあって教育をしなければいけません。でなければ、子はどうやって両親に従うことができるでしょうか?そして子はもちろん、主から来た両親の助言に耳を傾ける必要があります。
そうすれば、自分の命を削るようなことから身を避けることができます。私が生まれて初めて葬式に出席したのは、高校生の時でした。中学校の時の同級生が、バイクを乗り回して交通事故で死んだのです。父母の言うことを聞かないと、入る必要もない人生の荒波の中に入ってしまい、自分の心身をすり減らすようなことをやっていくことになります。
3:3 恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。3:4 神と人との前に好意と聡明を得よ。
4節は、3節の約束になっています。恵みとまことを捨てないでしっかりと握り締めていれば、神と人との前に好意と聡明を得られる、という約束です。主ご自身が、男の子として成長された時、そのようでした。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)」神とにおいても、人とにおいても良い関係を持つことです。
3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
非常に有名な聖句です。そして非常に大切な聖句です。まず、「心を尽くして」とあります。主に拠り頼む、というと、受動的になること、何もしないことのように聞こえます。しかし、聖書が言っている神への拠り頼みは違います。一歩一歩自分には拠り頼むことはできず、主のみに頼っていくという能動的、積極的なものです。
主から言われたことを私たちが行なっていく時、私たちは自分たちに頼れないことをすぐ知ります。なぜなら、神は私たちが自分でできることを命じられるのではなく、私たちが神を信じて、神が私たちを通して行なわれることを命じておられるからです。だから、心を尽くして拠り頼まないと、何もすることができないという切迫感と緊張感があります。
そして、「自分の悟りに頼るな」とあります。もし私たちが意識しないで主に拠り頼んでいなかったら、私たちは自分の悟りに頼っています。自分が経験したこと、自分が考えたことに基づいて、無意識の内に行動に移しています。主が何と言われているかを聞くことなく、自分の判断で動いているのです。
ヨシュアのことを思い出してください。エリコの町を攻略する時は、彼らは非常に緊張していました。自分たちの力では戦うことができないことを知っていたので、主に命じられたことをそのまま行ないました。エリコの町を七周巡回することが、どのように勝利に導くのかは人間の頭では到底理解できませんが、彼らは主に拠り頼んだのです。
けれどもエリコの町を攻略した後、アイの町を偵察に行かせたら、「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。(ヨシュア7:3)」との報告がありました。それで戦いに行ったらさんざんでした。
そしてまた、ギブオンの住民たちは、自分たちが遠い国から来たのを装って、イスラエル人たちと和平を結びました。その時、「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。(9:14)」とあります。それで本当は滅ぼさなければいけなかった民を滅ぼすことができませんでした。
そして、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」とあります。これは、神がいたるところにおられて、支配されていることを認めること、神の主権を認めることを意味します。
私たちが焦って、自分たちで何とかしなければいけないと思っている時、主がそこにおられることを忘れています。教会の中には主がおられることを、信仰をもって受け入れていますが、ここでは「あなたの行く所どこにおいても」とあるのです。自分が一番、主がいてほしくないと願うようなところにも主を認めます。こうして信仰を働かせるとき、私たちの心に平安が訪れます。
このように主を認めると、「主はあなたの道をまっすぐにされる。」という約束があります。私たちがどこに行けばよいか分からない道があっても、主がまっすぐにしてくださいます。多くの人から、どの会社に就職すればよいのか、あの人と結婚するのは御心なのかどうかなど、主の導きについての質問を受けます。私は、「主を自分のやっていることのあらゆるところで認めてください。」と言います。その後のことは、主がまっすぐにしてくださるのです。
3:7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
ああ、ここもとても大切な箇所ですね。自分は大丈夫だ、このくらいの悪には近づいても良いだろう、と思います。自分がそのような悪を行なうことはないという自信を持っているからです。けれどもパウロは、「悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(1コリント14:20)」と言っています。
ロトのことを思い出すと、彼はおじアブラハムと離れた時、ソドムの近くに天幕を張りました(創世13:12)。当時のソドムはエジプトのように潤っていたのですが、人々が非常に大きな罪を犯していました。その潤いに魅了されたロトは、近くに天幕を張ったのです。自分は大丈夫だと思ったのでしょう、けれども次に見るのは、ロトがソドムの町に住んでいます(創世14:12)。それから最後に、彼はソドムの門のところ、つまりソドムの町の役人になっていました(創世19:1)。
3:8 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。
私たちは、霊・魂・体の三つの部分で成り立っています。私たちが霊的な事柄、つまり主に関することで平安を持つことができれば、それは魂にもそして体にも良い影響を与えます。それぞれはばらばらではなく、密接に結びついているのです。
3:9 あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。3:10 そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。
この箇所も、自分の悟りや知恵に頼らず、主に拠り頼むことに関係するところです。私たちが、自分の財産や収穫(つまり給料)が入って、それをすぐにまず主のためにささげるならば、人間的に考えれば、税金のように自分の収入や財産へ減ります。これが私たちの考えであり、計算です。
しかし、神は別の法則を持っておられます。ちょうど重力の法則があり物は下に落ちますが、空気力学の法則が同時に存在し、あの重い巨体である飛行機は上に飛ぶのです。同じように、私たちが自分の財産と収入の初めを主にささげれば、主がそれを豊かに祝福され、自分は豊かにされるのです。
主にささげることのすばらしさは、ここにあります。人間の世界では、見返りを求めます。自分がこれだけささげたのだから、あなたもそれ相応のことをやってください、というギブ・アンド・テークになってしまいます。そこには命がありません。豊かさがありません。けれども聖書では、惜しみなくささげなさい、何の見返りもなくささげなさいと命じられています。だから、相手から何かを受けたとしても、私たちはそれを神からの恵みとしてただ、主に感謝すればよいのです。
そして自分がささげるとき、相手を祝福するだけでなく、自分自身も祝福されます。献金にしろ、時間や労力にしろ、相手から何か与えられると期待しなくても、相手から何ら見返りがなくても、私たちの心には喜びが満ちるのです。
3:11 わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。3:12 父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。
続けざまにどんどん大切な御言葉が出てきます。ここも、「自分の悟りに頼らず、主に頼れ」に関係する言葉です。私たちが懲らしめを受ける時、自分は愛されていないと思います。けれどもここにはっきり示されているように、「かわいがる子をしかる」のです。子供たちが何か悪さをしているとき、父親が叱るのはまず自分の子です。見知らぬ子に対しては、その子の親が叱ります。ですから、叱られるというのは、自分が親の子であることを証ししているのです。
主はご自分の愛する者を叱られます。私たちは罪を犯すとき、非常に惨めな思いをします。もし主を知らなかったら平気で行なえることでも、自分は非常に罪の咎めを受けます。それはご聖霊が私たちに行なってくださっていることなのです。罪を犯すのは金輪際ごめんだ、という罪への嫌悪感、憎しみを与えるために行なわれていることです。
ですから、私たちが惨めな思いになるとき、それは神が贖いの担保であられる御霊を私たちにおられるしるしです。自分は神の子供であることの証拠なのです。
2B 知恵を見出す人 13−20
3:13 幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。3:14 それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。3:15 知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。
自分が主にささげれば豊かになる、自分が主から懲らしめられるのは幸いなことだ、これらの知恵を知っていることは本当に貴いことですね。ここで、銀の儲け、黄金にまさり、真珠よりも尊い、とあります。
3:16 その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。
ソロモンの生涯がそうでした。彼の手には富と誉れがありました。当時の世界の中で、ソロモンの王国が世界最強になっていました。
3:17 その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。
楽しさと平安です。これが神の知恵の特長です。
3:18 知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。
エデンの園にあったいのちの木、また天のエルサレムに生えているいのちの木は、今私たちが知恵を堅く握っていることによって与えられています。
3:19 主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。3:20 深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。
知恵について、箴言ではいろいろな定義がなされていますが、先に、それは悪を離れることであることを学びました。ここでは、天地創造における神の知性を知恵と呼んでいます。ヨブ記のことを思い出してください。友人との議論の末に、主ご自身がヨブに現れました。そして、天地創造についてのこと細かい質問をヨブにされました。それは、まるで天文学者、地政学者らに問うような質問です。いやそれ以上です。学者らは、その研究の結果、精巧なデザインや動向に驚きこそすれ、どのように造られたかまでの説明を施すことはできません。神が知恵をもってこれらのものを造られました。
3B よく見張る人 21−26
3:21 わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。3:22 それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。3:23 こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。3:24 あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。
再びソロモンは自分の子を、同じ勧めで勧めています。すぐれた知性と思慮をよく見張りなさい。それらは命であり、麗しさである。また安らぎを与え、休みを与える。つまずくことがない、と勧めています。
3:25 にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。3:26 主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。
詩篇でも私たちは学びましたが、神の守りと救いは条件付きです。主の名を呼び求める者、主を恐れる人、主を愛する人が守られる、という約束です(例:詩篇145:18−20)。主のことを無視し、顧みない人に主は災いから守る約束をしておられません。だからユダの手紙には、「神の愛のうちに自分自身を保ち」なさい、と教えています(21節)。
そして、しっかりと自分自身を主の愛の中に、主の知恵の中に保っているならば、なんら恐れることはありません。主が守ってくださる信仰と確信を持っていいし、持たなければならないのです。
非常に卑近で些細なことですが、私がしばらく家を離れる時、果たして鍵を閉めたかな、と心配になりました。けれども、主の御用のために外に出ており、主にお仕えするのに外出しているのに、主が守ってくださらないわけがない、という信仰が与えられて、それ以降、心は平穏でした。
4B 正しい人 27−35
3:27 あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。3:28 あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう。」と言うな。
これは聖書全体にある教えであり、非常に重要です。基本的に豊かな日本で、また、生活保護など社会保障制度もしっかりしている国では、このことの重要性があまりわからないかもしれません。けれども、教会は貧しい人たちに施すという姿勢を崩してはいけません。
このときに問題がありますが、財産の分配の問題です。パウロは、テサロニケ人のクリスチャンたちに、「働きたくない者は食べるなと命じました。(2テサロニケ3:10)」と言っています。何の仕事もせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人々がいたから、そう言いました。そして、自分の手で働くことを勧めています。と同時に彼は、「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。(13節)」と付け加えました。だまされたり、間違った仕方で頼られると、私たちはもう善を行ないたくない、施しはしたくないと思ってしまいますが、たゆみなく行ないなさいと命じられています。
その他、パウロは異邦人の教会から醵金をして、エルサレムにいる教会の貧しい兄弟たちにそのお金を持っていきました。私たちの教会は世界にあります。日本が豊かでも、世界にいる兄弟姉妹が窮乏しています。善を行なう方法はいろいろあるのです。
3:29 あなたの隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に、悪をたくらんではならない。3:30 あなたに悪いしうちをしていないのなら、理由もなく、人と争うな。
私たちが霊的に十分に養われていないとき、人をねたみ、争うことを好みます。パウロは、「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(1コリント3:3)」と言いました。自分が何か楽しめるネタ、自分の心の寂しさを満たしてくれそうなネタを探しています。それで、自分に特に害を与えているわけでもない人々を批判し、非難して回るのです。
3:31 暴虐の者をうらやむな。そのすべての道を選ぶな。3:32 主は、よこしまな者を忌みきらい、直ぐな者と親しくされるからだ。
暴虐な者と言えば、今日ではテロリストがいるでしょう。そして今言ったように、匿名性を利用したインターネットによる中傷があります。また裁判で闘っている人の中には憎しみから離れられず、怒りによって行なっている人たちもいます。
そのような怒りと憎しみを見て、時に少しうらやましくなる時があるかもしれません。自分もたまっている鬱憤を晴らしたい、と願うのです。しかし、その道を選んではいけません。主は、どんな理由があるにせよ、そのような暴虐を働く者を忌み嫌われます。
次から、悪者と正しい者との対比があります。悪者はこうであるが、正しい人はこうである、という対比です。
3:33 悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。3:34 あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。
この箇所は、ヤコブ書にもペテロの手紙にも引用されている言葉です。私たちは主の恵みを、へりくだらなければ受けることはできません。元々恵みというのは、受けるに値しない者に与えられる神の祝福です。ですから、もし受けるに値しない者であるという自己認識がなければ、神の恵みも分からないのです。
へりくだるとは、神に出会うことです。神の前に出る時、私たちは本当の自分の姿を見ます。そこで、「ああ自分はもうだめだ。」と預言者イザヤや、使徒ペテロのように叫べば、そこには主の恵みがあります。イザヤは主に遣わされました。ペテロも、人間をとる漁師となりました。
3:35 知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。
誉れと恥です。このように正しい人、悪者の対比がこれからも続いていきます。
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