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箴言12章を開いてください、今日は12章から14章まで学びたいと思います。ここでのテーマは、「正しい者への約束」です。
前回に引き続き、ソロモンの格言を読んでいきます。一節ずつ完結した格言になっており、前後の流れがありません。けれども、いくつかの話題、トピックが何度も出てきます。そこから私たちは、ある具体的な事項について、さらに深く考えていくことができます。
1A 立ち続ける 12
1B 訓戒と叱責 1
12:1 訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ。
何度も出てきていますが、訓戒や叱責を愛する者は知識があり、それを捨てる者は間抜け者、あるいは愚か者です。
御言葉を聞いていくということは、自分自身を否むこと、自分を否定することです。自分を肯定するために聞くならば、それは終わりの時の姿です。パウロがテモテにこう語りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4)」
2B 恵みと罰 2−8
12:2 善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。
主は、「求めなさい、そうすれば与えられる。」と言われましたが、神は御自分のことを行われるのに、人の心を無理やりこじ開けることはなさいません。心をご自分に開いた人にのみ、恵んでくださいます。ここの「善人」は、神を求める人、主に心を開く人のことです。この人は、主から恵みを受けます。
12:3 人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。
前回の学びにおいても出てきましたが、悪人と義人の違いは、その生活・人生の安定です。悪人は身を堅く立てることはできませんが、正しい人は揺るぎません。
主が、御言葉を聞いてそれを行なう人とそうでない人を、岩の上に家を建てる人と砂の上に建てる人のたとえでお語りになりました。同じように家を建てることはできるが、いざ洪水が来ると砂上の家は壊れてしまいます。キリストを土台に生きている人とそうでない人は、日常の生活ではさほどその違いを見出せないかもしれませんが、死が近づいたとか、財産を失ったとか、試練に遭ったときに大きな違いが出てきます。
12:4 しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。
後にも出てきますが、妻または母親如何で、夫やその家の状態が決まってくるほど、妻の影響は大きいです。興味深いのは、箴言がその最後をしっかりした妻の姿を描いくことで終わっていることです。それだけ箴言、知恵の書は妻の役割を重視しています。
12:5 正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。12:6 悪者のことばは血に飢えている。しかし正しい者の口は彼らを救い出す。
血に飢えている、貪って人のものを食いちぎる、奪い取ります。正しい者は、救い出す、つまり命を与えます。私たちの生活また言葉が、人に命や恵みを与えているのか、それとも人から命を吸い取っているのか吟味する必要があります。
12:7 悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。12:8 人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。
3B 畑を耕す者 9−12
12:9 身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。
しっかりと自分の生活基盤を持っていることの重要性です。たとえ給料が少なくて、質素な生活をしているけれども、職を持っていてしっかりと働き収入を得ている人がいます。その一方で、自分が良い車を持っているか、ブランド物の服を着ているとか、暮らし向きの自慢をしているけれども、実はクレジットカードの借金で苦しんでいる人がいます。どちらが勝っているか?前者であるというのが、この格言です。
12:10 正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である。
先ほども、悪人は流血を好み正しい人は人を救い出すとありましたが、そのような憐れみは、動物に対しても向けられます。モーセの律法の中に、母親の乳で子やぎを煮てはならない(出エジプト23:19)という戒めがありますが、神は、ほふられて食料となる山羊にさえ、憐れみをかけておられました。一種の残忍さを拒まれました。
12:11 自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。
突然与えられる財産、または自分の労働の対価として与えられたのではない財産は、むなしいもの、実質のないものである、とソロモンは言います。これは神が人間に組み込まれた遺伝子なのでしょう、自分の労働の対価としてその報酬を喜ぶことは、真の満足を与えます。けれども、そうでないものは自分に空虚さをもたらします。
12:12 悪者は、悪の網を張るのを好み、正しい者の根は、芽を出す。
悪者は労苦することなく、すぐに自分が欲するものを得ようとするのが特徴です。そのために、自分が労苦するものではなく、人が労苦して得たものをそのまま奪い取ろうとします。
けれども正しい者は、芽を出すようなものです。すぐに結果は表れません。けれども確実に表れます。根があるのですから、必ず芽生えて、成長します。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)」この確実であること、100パーセントの確率で結果を出すことができること、これは神からのすばらしい約束です。
4B 口の実 13−23
12:13 悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、わなにかかる。しかし正しい者は苦しみを免れる。
嘘をつくと、その嘘を覆い隠すためにさらに嘘をつかなければなりません。話が矛盾しないように、どんどん自分で話を作っていくのです。これをしていくうちに、その作り話が自分にとってクモの巣のようになって、自分を捕えます。
このような災難に遭わないようにするのは単純です。一言、真実を話すことです。正しい者は苦しみを免れます。
12:14 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。12:15 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
あまりにも多くの人が、いとも簡単に「私は自分を信じる。」と言いますね。「私は神も仏も信じない。自分を信じる。」と言います。この立場がいかに危うく、そして愚かであるか知りません。私たちの知識や判断が、どこまで正確なのか分からないのに自分自身に頼ろうとします。
そして真面目な人ほど、自分の道を正しいと信じています。だから自分が間違っていても、それを正すのが難しくなります。聖書の中に自分を正しいとみなした人たちは、パリサイ人です。しかし主は、彼らの義よりも、もっと正しくならなければいけないと弟子たちに教えられました。
知恵は、謙虚さから来ます。自分に忠告する人がいて、それを聞き入れるほどの謙虚さが必要です。自分が一生懸命しているところに、「ちょっと、あなたのこの部分は良くなかった。」と忠告を受けると、気分は良くありません。でも、このような嫌だなって思うことも、実は本当に感謝なことが多いです。もし誰も指摘してくれなかったら、自分はどこに行っていただろうか、と考えると、忠告は非常にありがたいものです。
12:16 愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。
何か酷いことを言われた時、理不尽なことを言われた時、私はその場で怒りを表したい衝動に駆られます。しかしそれは知恵のないことであることを知っています。怒りを表す、感情を表現することは良いことのように、特に心理学の分野)ではみなされるかもしれませんが、神の御言葉では愚かなこととみなされます。
12:17 真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。
裁判の時の証言です。
12:18 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。
何気ない言葉、簡単に話している言葉を聞いて、その瞬間は気づかないのですが、後で自分の心をずぶずぶ刺してくる、という経験はしたことがおありでしょうか?それがここで言っている、「軽率に話して人を剣で刺す」ということです。
その反面、知恵ある人の言葉は、たとえ、その表面的な言葉が唐突であったり、時にあらかさまに責められるようなものであっても、後になってその言葉が魂に癒しをもたらす効果をもたらします。その違いは「軽率」と「知恵」または「熟慮」の違いがあるからです。
12:19 真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。
今の節に関連しますが、言葉の表面的なものは、その時だけのものです。けれども、真実から出てくる言葉は、いつまでも残ります。
12:20 悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。12:21 正しい者は何の災害にも会わない。悪者はわざわいで満たされる。
平和を求める人とそうでない人の違いです。主は、「平和を造る者は幸いです。(マタイ5:9)」と言われました。そしてパウロは、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)」と言いました。
12:22 偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。12:23 利口な者は知識を隠し、愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。
利口な人は、自分が持っている知識を並べ立て、披露することはしません。言おうと思えば言えるのですが、あえて言いません。その一方で、とにかく何でもしゃべってしまうのは愚かです。
5B いのちの道 24−28
12:24 勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する。
いったい誰が物事を動かしているのか、それは勤勉な人です。実際に動いている人が、実際に物事を動かしています。例えば先ほど妻の話がありましたが、妻が家の中で大きな影響を与えるのは、一番、その手をせっせと動かしているからです。
神は初め人間に、地を支配する命令を与えられました。その支配の力は自分の手を動かし、働くことによって行使されます。神は私たちに大きな自由を、自分で決定していく力を与えられました。その自由と力を保つための方法は、自らが動くことです。
その反面、他の人に言われなければ行動することができない、つまり無精者はその自由を失います。強制されなければ動くことができないので、苦役に服します。
12:25 心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。
現代はやっているうつ病への解決がここに書かれています。まず原因は、「心の不安」です。不安がその人を鬱にさせます。
そして解決は「親切な言葉」です。教会の人たちが気が沈んでいるとき、何がそれを解決してくれるでしょうか?多くの人は牧師に電話をかけ、相談します。しかし聖書では、交わりがそれを解決することを教えます。使徒の書簡の中に、何度も「互いに」することを命じています。互いに親切にしなさい、互いに仕えなさい、互いに従いなさい、互いに歌いなさい、互いに愛し合いなさい、互いに励まし勧めなさい、互いに訓戒しなさい、互いに罪を告白しなさい、などなど。私たちが主にあって交われば、私たちの心に喜びが訪れます。
12:26 正しい者はその友を探り出し、悪者の道は彼らを迷わせる。
だれを友にするか、これは私たちの霊的生活にとても大切な質問です。自分が悪の道から離れたかったら、自分自身の歩みに気をつけるだけでなく、だれを友達にしているかにも気をつけなければいけません。パウロが若い牧者テモテに情欲を避けなさいと勧めたとき、こう言いました。「きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモテ2:22)」一人で義、信仰、愛、平和を追い求めるのではなく、きよい心で主を呼び求める人たちとともに追い求めます。
12:27 無精者は獲物を捕えない。しかし勤勉な人は多くの尊い人を捕える。
ここは英語の欽定訳ですと「獲物を捕えても、ローストしない。」と書いてあります。面白いです。せっかく獲物を捕えたのに、それを焼いて料理するのが億劫なのです。無精は最後まで貫徹しないのが特徴です。
けれども勤勉な人は多くの尊い人を捕える、とあります。主がペテロやアンデレに、「人間をとる猟師になる」と言われました。多くの尊い人を福音のゆえに捕えることができます。
12:28 正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない。
主が約束してくださった、永遠のいのちです。わたしはいのちです、と主は言われました。そして、死んでも生きるとも言われました。
2A 良い実を結ぶ 13
1B 父の訓戒 1
13:1 知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。
知恵の一つとして、父の言うことを聞くことがあります。特に神を愛する人を父親に持つときは、その命令を聞くことが知恵です。
2B 潔白な生き方 2−6
13:2 人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐を食べる。13:3 自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。
続けて自分の語る口についての格言です。先ほどと同じです、何でもかんでも言いたいことを言うことに対して、自分の口を見張ることは知恵あることです。
13:4 なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。
「これをしたい」「あれをしたい」という欲はあるけれども、手を動かすことを億劫がるのであれば、何も起こりません。そして心には何も残ることなく、空虚です。「今、何をすればよいか分からない」と退屈に思っている人は、一度、自分が果たして勤勉に動いたことがあるかどうか、考えてみる必要があるでしょう。
13:5 正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。
偽りに対する、健全な憎しみを持たなければいけません。「嘘も方便」という諺が日本にはありますが、神はこれを憎む、と言われています。
13:6 正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす。
罪人は自分が悪を行なっている、自分が悪を支配していると思っていますが、事実はその逆です。悪がその人を捕え、自分ではどうすることもできなくなります。
3B 富 7−11
13:7 富んでいるように見せかけ、何も持たない者がいる。貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる。
富についての見せかけについての教えですが、どちらも悪い例です。一つ目の、「富んでいるように見せかける」ことについては、いろいろな動機があるでしょう。自分を誇りたい、その暮らし向きを自慢したいという思いがあるでしょう。あるいは、自分には浪費癖があり、お金もないのに人に気前良く振る舞うことがあります。いずれにしても、自分に与えられているお金をきちんと管理していません。
そして貧しいように見せかけるのは、お金持ちにありがちな行為です。いわゆる、金持ちほどけち、ということです。これも、神から与えられた富を貧しい人々に分け与えるという原則に反しており、間違った態度です。
13:8 富はその人のいのちの身の代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない。
誘拐されたときの身代金にしろ、自分が逮捕されて保釈金を払うにしろ、現実の生活の中で富が自分のいのちの代金になっている場合があります。ソロモンはこれを良いとも悪いとも判断していません。
けれども貧しい者は叱責を聞かない、と言っています。先に怠け者についてソロモンは語りましたが、その行き着くところは貧困です。貧しくならぬよう、人々が忠告を与えてもそれを聞こうとしない鈍い心があります。
13:9 正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。13:10 高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。
争いがあるとき、そこには人の高ぶりがあります。口論にしても、また実際の紛争にしても、たった一人、あるいは数人の高ぶりのせいで起こっています。けれども知恵ある人はへりくだります。勧告を聞くことができます。
13:11 急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。
私たちは、自分の手で働かずに得るお金を夢見ます。例えば宝くじなどです。けれども、そのような形で得た財産は減ります。確実に増えていくのは、自分の労働によって得る対価です。
4B いのちの道 12−17
13:12 期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。
これは本当ですね。私たちは人に軽々しく口約束をするものではありません。「ああ、こうしてあげるよ。」と約束したのに、それを実行しなければ、期待していた人々の心が病んでいきます。
そして望みがかなうことは、いのちの木です。神は真実な方です。私たちが失望することのないように、ご聖霊によって、いろいろな憐れみの業を見させてくださいます。私たちの心が病むことがないように、私たちが主にあって望んでいることをかなえさせてくださいます。完全な形ではなくても、その前味を与え下さったり、その徴になるような出来事を見させてくださったりします。
13:13 みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。13:14 知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。
みことばによって救われるか、それともみことばを拒んで滅びるかのどちらかです。
13:15 良い思慮は好意を生む。裏切り者の行ないは荒い。
ここの「裏切り者」は英訳では、「真実ではない者」と訳されています。そして「荒い」は「固い」と訳されています。私たちが、主に対して忠実であることを放棄すると、私たちの心は固くなります。もう主にしがみつくのはよそう、世の楽しみを少し味わってもよいだろう、とそのしがみつきを放棄してしまうと、私たちの心は固くなって、御霊の導きも分からなくなります。さまよってしまうようになり、主の懲らしめにより悔い改めるまで自分は惨めな状態に陥ってしまうのです。
ヘブル書の著者はこう言いました。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。(3:12-13)」決して不真実であってはいけません。主に対してあきらめてはいけません。
13:16 すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。13:17 悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす。
使者、つまり国などの大きな機関から、その権威を帯びて他のところにやってきた人々です。忠実な使者は、その任務を遂行するので、神の国からの使者であれば人々を癒します。けれども、その使命を全うしない人には、災いがやってきます。
パウロが、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16)」と言いました。実際に災いにあった人がいます。ヨナです。ニネベに遣わされたのに、その反対のタルシシュに行こうとしたために、大魚の腹の中で三日三晩過ごすという、とんでもない経験をしました。
5B 貧困 18−25
13:18 貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。
先ほど話したとおりです。訓戒を無視するところに、貧困があります。
13:19 望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。
悪から離れ、主の御名を呼べば、主はすぐに来られて、私たちを憐れんでくださいます。ところが、愚か者はその悪を離れるという行為をしたくないのです。すぐに憐れんでくださるという主の御手をあえてつかもうとしないのです。
13:20 知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。
先の話ですが、自分がどのような者といっしょにいるかがとても重要になります。信者と不信者、正義と不義とにどんな関わり合いがあるのか、とパウロは言っています。
13:21 わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。13:22 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。
霊的な財産は、人々に引き継がれます。ある人が別の人を教え、その人がまた別の人を教えていく、この連鎖が起こります。
そして興味深いことに、罪人がためた財宝は正しい人たちが使うことのために使われます。カルバリーチャペルの会議センターは、かつてニューエイジの人たちが使っていたところであり、またバーもありました。不正の富を使って友を作りなさい、と主は言われましたが、神の国のためにその富が用いられます。
13:23 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。
貧しい者が自分で開拓しました。そこに多くの収穫がありました。しかし公義がなければ、その財産を維持することはできません。会社でも数多く、貧しい家庭に生まれ育った人が企業を起こし、成功させる話があります。しかしその後で数々の不正を行なって最後は倒産、という話が多いですね。正義の中にとどまっていなければ、たちまちその財産は滅んでしまいます。
13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。
子育てについて、躾についての教えです。箴言にも、いくつかの箇所で同じことを教えています。
「むち」と言っても、杖といったほうがいいでしょう。いわゆる「お尻ぺんぺん」です。これを、子供が間違ったことをしたときに行います。子供にとって痛く、悲しい時間ですが、親にとっても辛い時間です。愛する子をだれが懲らしめてうれしいでしょうか?
もし躾をしないのであれば、それはその子をいたわっているのではなく、憎んでいることです。その子は悪や愚かさを捨てることを学ぶ機会を失いました。
13:25 正しい者は食べてその食欲を満たし、悪者は腹をすかせる。
これまで見てきたように、悪者はしっかりと自分の手で働くことをせず、人が持っているものを奪い取ろうとします。けれども、それらは成功しません。最後は腹をすかせる状態になります。しかし、正しい者は勤勉です。自分の手で働きます。だから食欲が満たされます。
3A 栄える 14
1B あざける者 1−9
14:1 知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。
先ほど話しましたように、女性の家における役割は非常に大きいです。彼女あっての夫であり、彼女あっての息子、娘たちです。ですから女性がしっかりと知恵をもって動くことは栄誉あることだし、また責任が重大なのだということを認識しなければいけません。
14:2 まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。
主を恐れるものは知識の初め、とあるように、まっすぐに歩む者は主を恐れます。
14:3 愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る。
この「若枝」という訳は、他の訳では「杖」または「むち」です。つまり、愚か者は誇ります、高ぶります。その後に来るのはむち、懲らしめです。
14:4 牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。
これは非常に重要なことですね。特にきれい好きな人は、聞く耳を持たなければいけません。私が言っている「きれい好き」というのは、物理的なことではなく、霊的なことです。
私たちが何か仕事をして作業にとりかかったら、必ずその部屋は汚くなります。私は、本当に整理するのが下手ですが、私が話した聖書の学びの原稿や音声テープなどを、他の人がきちんと整理してくださっているので、逆に私がその人たちに問い合わせるほどです。けれども何かをすると必ず雑然とするのであり、もちろん整理は大切ですが、もし整理整頓することを優先させれば、物事は何もはかどりません。
これと同じように、私たちが何か主にあってお仕事をしようとしたら、必ず不都合なことや、不便や、試練がやって来ます。霊的な優等生、模範生のごとく、きちんとした信仰生活、教会生活を歩もうと形式だけを重視して、信仰的に一歩前に進み出たときに出てくる、いろいろな摩擦やストレス、面倒なことをただ避けている状態になります。
14:5 真実な証人はまやかしを言わない。偽りの証人はまやかしを吹聴する。14:6 あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。
ただ主イエス・キリストを仰げばすぐに解答が得られるのに、それをしないばかりにいつまでたっても答えが得られない。これが主イエスを否定する人たちの姿ではないでしょうか?
個人レベルでもそうでしょうし、社会レベル、国レベルでもそうでしょう。人の罪のゆえに起こっている出来事を教育によって解決しようとしても駄目です。夫婦関係の悪化を、心理学的なコミュニケーションのとり方を勉強しても駄目です。人の欲望によって起こっている戦争を、外交、政治、軍事ですべて解決しようとしても駄目です。テロが起こるのは経済格差、貧困のせいだと言っている人もいますが、それを是正できたところでまた別の問題が発生します。
テロリストが罪を悔い改めて、キリストを受け入れたらどうでしょうか?そういうアラブ人、パレスチナ人が実際にいます。悟りのある者はたやすく知識を得るのです。
14:7 愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。
何か知識が得られると思って、この世の論者の意見をずっと聞いてしまったりしますが、ここで主は「離れ去れ」と命じておられます。私たちは、まことの知識を受け入れない、あざける人の知識を聞くことによって、無駄な時間を過ごしてはいけない、ということです。
14:8 利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。
自分を欺きます。人に嘘をつくことはあっても、自分に嘘をつくことはできないと考える人もいるでしょうが、できるのです。大丈夫ではないのに自分は大丈夫だ、と嘘をつきます。
14:9 罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。
ここの訳は、ある英訳では「愚か者は罪をあざけり楽しんでいる(Fools make fun of guilt NLT)」となっています。愚か者の間には、このようなあざけり楽しむ霊を見ますが、正しい者たちの間には恩恵、好意があります。
2B 心の満足 10−14
14:10 心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。
非常に大切な格言です。箴言また聖書が私たちのカウンセリングの本です。心理学や精神医学の一つに、自分の気持ちをすべて表に出させるものがあります。抑圧された怒りがあれば、それを枕にでも何でもぶつければ、解消されると教えます。
けれども、それは間違いです。この格言のとおり、苦しみも喜びも心の中にあることは、他の人には完全に分かりえないのです。表に出したところで、その苦しみを知るのは自分の霊だけなのです。コリント第一2章11節に、「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」とあります。
ですから、苦しみや喜びなど、もちろん分かち合うことはよいことですが、その深いところは自分の霊にうちにとどめておくのです。大事なのは自分の気持ちではありません。自分については主がすべてをご存知ですから、自分の気持ちについて深刻に考えなくてよいのです。
14:11 悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える。
興味深い対比ですが、悪者は「家」を持っており、対して正しい者は「天幕」しか持っていません。正しい者は移動式の家屋であり、家よりは不便で、豪華さはありません。正しい者の家は、天にあります。だから地上では天幕生活です。しかしその天幕でさえ、主はその慎み深い生活の中で繁栄を与えてくださいます。
14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
先ほども、自分の道が正しい者は愚かだとありました。まっすぐに見えても、その終わりは死であることが多いのです。これに対して、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。そうすれば、主をあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5)」という言葉を以前学びました。
14:13 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。
自分の目に正しいと思うことを行なっていくと、笑いは心痛に変えられ、喜びもいつか悲しみへと変えられていきます。
テレビのエンターテイメント番組にある笑いが、作った笑いであることは私たち皆が知っています。心が癒されるような真の喜びではないのです。本当の笑いと喜びは、私たちが主を賛美し、礼拝しているときに沸き起こります。
14:14 心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。
「彼から離れる」というところは、別訳に「上から満足する」とあります。つまり堕落したものは自分の道に満足するが、善良な人は上から、神から賦与された道に満足する、ということです。
3B わきまえ 15−18
14:15 わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。
何でも鵜呑みにするのは良くないです。霊的に成熟すると、わきまえることを覚えています。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」
14:16 知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。14:17 短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。
怒りやすいこと、短気なこと、これは愚かであると箴言は、聖書は言っています。怒りそのものが悪ではありません。主ご自身が神殿をきよめられた時、怒られました。けれども、怒りは自分で制御しなければいけません。
怒りやすいということは、自分が正しいと思っていること、自分に誇り、自慢があることに起因します。だからここに、「自信が強い」とあります。
そして、「愚かなことをする」とありますね。怒ると、たとえそれが初めはもっともな理由であったとしても、どんどん誤った方向へ自分を向かわせます。そして自分自身が、自分がかつて怒ったその悪を行なうことになります。だから「知恵ある者は、用心深くて悪を避ける」とあります。
14:18 わきまえのない者は愚かさを受け継ぎ、利口な者は知識の冠をかぶる。
私たちがわきまえを持つか持たないかで、その後の人生が大きく変わります。愚かさを受け継ぐか、それとも知識の冠をかぶるかのどちらかです。
4B 信頼 19−27
14:19 悪人はよい人の前で、悪者は正しい人の門のところで身をかがめる。
支配するのは正しい人であり、悪者はそこでひざまずきます。今の世ではその逆を見るかもしれませんが、後に来る世ではこのとおりになります。義の賜物を与えられたキリスト者が、神の国をキリストとともに治めることになります。
14:20 貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、富む者を愛する人は多い。
ソロモンは金持ちだったので、この現実を知っていたのでしょう。自分は多くの友を持っているのに、貧しい者は隣人にさえ嫌われています。けれども知恵ある者として、その現実に甘んじてはいけないことを次に言っています。
14:21 自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
隣人はいっしょに住んでいる人です。たとえ不都合な人、いらだたせる人がいたとしても、ともに住んでいるんだという意識をなくしてはいけません。そして貧しい人には憐れみをかける、助けるという原則は聖書全体で見ることができます。
14:22 悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。14:23 すべての勤労には利益がある。おしゃべりは欠損を招くだけだ。
手を動かすか、それとも口を動かすかの違いです。主に言われたことをそのまま実践していくか、それともただ口で議論しているだけで何の行動にも移さないか、の違いです。
14:24 知恵のある者の冠はその知恵。愚かな者のかぶり物はその愚かさ。14:25 誠実な証人は人のいのちを救い出す。欺く者はまやかしを吹聴する。
真実を話すことは、人のいのちを救うことであることを知る必要があります。聖書に出てくる偽りの証人は、人を殺しました。アハブ王はナボテのぶどう園を欲しがりましたが、イゼベルが偽りの証人を立てて、ナボテを石打ちにしました。また主は、ユダヤ人の偽りの証言によって、死刑に定められました。
14:26 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。14:27 主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。
主を恐れること、そして主に信頼すること。これが命を救います。ダニエルの三人の友人がそうでした。ネブカデネザルが作った金の像を、主を恐れるがゆえ拝みませんでした。そして、燃える火の炉に投げ込まれることを知っても、主に信頼して、その命令に屈しませんでした。
5B 国民 28−35
14:28 民の多いことは王の栄え。民がなくなれば君主は滅びる。
自分の気に食わない民がいれば、それを殺すという独裁者、専制君主がいます。しかし民の人口が減れば国力が衰え、いつかは滅びるのです。
14:29 怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。14:30 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。
再び怒りに対する戒めです。怒ると、道をふみはずすだけでなく、身体にも悪影響を与えます。精神面だけでなく、ここで「骨をむしばむ」とあるように生理的にも良くないです。
14:31 寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。
貧しい人を虐げる人は、その貧しい人を造られた神ご自身を虐げます。終わりの時に国々が再臨の主の前に集められたとき、貧しい人、困った人たちに良くしてあげた人々が神の国へ、そうでない人は地獄に送り込まれます。主は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりのしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)」と言われました。
14:32 悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。
死の病に伏している人で、正しくされた人々、すなわちクリスチャンは希望を持っています。自分の故郷、天に入ることができるという希望を持っています。この希望こそが逃れ場です。
14:33 知恵は悟りのある者の心にいこう。愚かな者の間でもそれは知られている。
愚か者でも、知恵は悟りのある者の心に憩っていることをうすうす分かっています。あのフセイン大統領の側近の中にはクリスチャンがいたそうですが、彼はクリスチャンであれば嘘を言わないし、また自分を殺すようなことはしない、と分かっていたからだそうです。愚か者も分かっているのです。
14:34 正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。
これは真実です。これまで文明的に栄えていた国はユダヤ・キリスト教的価値観を持っているところでした。日本も近年繁栄しましたが、それはいち早く近代国家の考え方を取り入れたからです。そして近代国家の基盤はみな、ユダヤ・キリスト教の価値観から来ています。
こんな話があります。日本がアメリカと戦争している時に、日本では鬼畜米英と叫んで竹やりを持っていたその時に、アメリカでは日本人の魂のために祈るクリスチャンたちがいた、ということです。そして彼らは、戦争終結後に日本に宣教師を送ることを祈っていました。これでは、どちらに勝敗が下るか、一目瞭然です。
14:35 思慮深いしもべは王の好意を受け、恥知らずの者は王の激しい怒りに会う。
王であるソロモンが、自分の部下がどのような待遇を受け、どのような罰を受けているか、よく知っていました。私たちは、ローマ13章にて、存在している権威はすべて、神によって立てられている、彼は無意味に剣を帯びてはいない、と教えられています。
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