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箴言22章を開いてください、今日は22章17節から24章まで学びます。今日のメッセージの題は「知恵のある者」です。
前回の学びで少し言及しましたように、22章17節から格言の形式が変わります。これまでは一節ずつが独立した格言になっていましたが、ここから24章の終わりまでは、二節程度のかたまりで一つの格言になっています。そしてこの部分は、「知恵のある者のことば」と呼ばれています。22章17節に、「知恵のある者のことばを聞け」とありますね。そして24章23節に「これらもまた、知恵ある者による。」とあります。
初めに知恵ある者から私たち読者への呼びかけがあります。17節から21節まで読んでみます。
1A 呼びかけ 22後半
22:17 耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。22:18 これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。22:19 あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。22:20 私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。22:21 これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。
これから話す言葉に耳を傾けよ、という呼びかけは、ちょうどいろいろな企業から代表が派遣されて、特別なセミナーを聞いているような舞台設定になっています。21節後半を見てください、「あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである」とありますね。
職場から、知恵ある者からの言葉を聞きに行って来い、と派遣された人が、その言葉を持ち帰って職場の人たちに教えます。職場だけでなく、家庭から遣わされた人もいるでしょう。学校から遣わされた人もいるでしょう。真理の言葉を聞く人は、それを自分だけのものとするのではなく、人々に教えるため、伝えるために聞く、ということです。
そして20節に「三十句」とあります。ここのヘブル語は「すぐれた言葉」と訳すこともできるところですが、文字通りには三十句です。けれども実際に、22章22節から24章22節までにちょうど30個の格言があります。
そしてここに書いてある呼びかけは、私たちが御言葉を聞くときの姿勢、キリストの弟子として変えられた生活を送ることができるようになる方法が書かれています。初めに17節、「耳を傾けて聞く」ことです。受動的に聞くのではなく、能動的に注意して聞くことです。そして、「心を向け」ます。頭だけで知的に聞くのではなく、心の部分、感情の深い部分を差し出すようにして聞きます。
そして18節、「あなたのうちに保つ」です。聞いた後に忘れてしまっては意味がありません。あなたのうちに御言葉をとどまらせておけば、楽しいものとなります。それから「くちびるにも備えておく」ことです。御言葉が口から出てくるようにします。祈りの時に、伝道の時に、兄弟姉妹を励ますときに出てくるようにします。
そしてこれらのことをする目的は、19節「主に拠り頼む」ことです。ますます自分ではなく、主が自分のうちに満ちてくださることを願います。では、一つの目の格言を見てみましょう。
22:22 貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押えつけるな。22:23 主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。
貧しい人、力のない人は、利用されやすいです。老人を狙った詐欺などがそれです。そして「門のところで押さえつける」とありますが、当時の門は売買の交渉や法的手続きを取るところでした。つまり裁判所で弱い者を取り押さえる、ということです。裁判はお金がある人が勝つという現実があります。
このように社会の不正義があります。貧しい人や力のない人は、あえいで叫んでいます。この叫びとあえぎを聞いているのは、全知全能の主、神です。イスラエルがエジプトで奴隷状態であった時、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト3:7)」と言われました。そして神がエジプトに対して行なったのは、激しい裁きでした。主は、弱い者たちを守る方であられ、弱い者を貶める者には激しい怒りで臨まれます。
22:24 おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。22:25 あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。
二つ目の格言です。「交わるな」「いっしょに行くな」というのは、真似をするな、と言い換えればいいでしょう。職場で怒鳴り散らしている上司や同僚がいるからといって、自分の部下に対しても同じことをしてはいけない、ということです。自分自身がわなにかかる、つまりその怒りと憤りの感情の中から抜け出せなくなります。
22:26 あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。22:27 あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。
三つ目の格言。連帯保証人にならないようにという戒めです。以前も出てきましたね。負債者の負債をすべて自分が負わなければいけなくなります。
22:28 あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。
四つ目です。当時の土地の境界線は、その端に石が積み上げられていただけでした。それを夜にこっそり動かして、自分の土地を広げ、隣人の土地を狭めることもできました。これをしてはならない、と教えています。
先祖が立てた地境は、すなわち主によって割り当てられた土地です。主の約束がその通りであることを示す地境であり、それを動かすことは、他人のものを騙し取ることであると同時に主のものに手を触れることにもなります。
22:29 じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。
五つ目。「じょうずな仕事」とありますが、「勤勉に仕事をする」と言い換えたほうが分かるでしょう。勤勉な人が王の前に立つ、つまり身分が引き上げられる、ということです。
2A 貪り食う者 23
23章に入ります。この章では「貪り」についての格言が多いです。
23:1 あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。23:2 あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。23:3 そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。
六つ目は大食に対する戒めです。支配者や身分の高い人の会食に自分が招かれます。そこには自分が目にしたことのない豪華な料理が並んでいます。それを貪って食べるなという意味です。
今さっき読んだ箇所は、勤勉に仕事をした人が王の前に立つ、とありました。自分が招かれているのは、自分の勤勉さの結果なのです。そして、王の気前の良さや寛大によってその食卓に招かれています。その食事を前にしても、これまで保ってきた節制や慎み深さを崩すことのないようにしなさい、という戒めです。
私たちは、人から受けた恵み深さ、神様からの恵みを貪ることがあります。私たちは以前、英語と聖書を教えていた子供たちにプレゼントを用意したとき、あるお母さんは生徒の妹も連れてきて、もう一つプレゼントを持っていきました。こちらの善意を貪りによって返したわけです。
恵みの目的は、受けた人が感謝の心を養い育てるためです。恵みを受けた人がさらに、その恵みの源である神に畏敬を持つようになるためです。自分をさらに低くするためです。恵みを、貪りを起こす機会にしてはいけません。
23:4 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。
七つ目です。勤勉に働くことによって富を持つことを箴言は教えています。けれども、「ならば、金持ちになるために一生懸命働こう。」と考えたら間違いです。箴言の他のところでは、貧しい者でしっかりした仕事についたほうが良い、という言葉があります(12:9)。次に富そのものに目を留めると、どういう結果がおとずれるかが書いてあります。
23:5 あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。
ユーモアある表現ですね、お金に翼がついて飛んでいく場面が目に浮かんできそうですが、富を追い求めれば富が去っていきます。けれども勤勉であれば富は与えられます。
23:6 貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。
八つ目です。ここの「貪欲な人」の直訳は、「目つきが悪い人」です。ここでは貪欲というよりも、けちな人と言ったほうがいいでしょう。先ほどは支配者の前での食卓における戒めですが、ここではけちな人の前でのごちそうです。
23:7 彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、「食え、飲め。」と言っても、その心はあなたとともにない。23:8 あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする。
けちな人は、惜しみなく与えることをしません。いつも計算しています。口では「たくさん食べてくださいね。」と言っていますが、その言葉を鵜呑みにしてたくさん食べたら、喜ぶのではなくかえって嫌悪します。そのことを自分も知って、食べたものを吐き出したいと思うほどに気分が悪くなります。
惜しみなく与えるのではなくけちなことをすると、どんなに人々に嫌な思いをさせるかを知らなければいけません。もし惜しみなく与えることができなければ、初めから与えない、あるいは惜しみなく与えることができる分のみを与えるべきです。私たちの互いの関係は惜しみなく与える関係、恵みの関係でなければいけません。
23:9 愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ。
九つ目です。一般の諺にもなっている主の御言葉がありますね。「豚の前に、真珠を投げてはなりません。(マタイ7:6)」と同じことがここに書かれています。主は、十字架につけられる前にヘロデのところに連れられていかれましたが、その時、一言も話されませんでした(ルカ23:9)。
23:10 昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑にはいり込んではならない。23:11 彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ。
十番目の格言です。「地境を移してはならない」はさっきも出てきましたが、ここでは、みなしごの畑に特化しています。早く父を失った子が持っている畑を、その弱さに付け込んで地境を移すようなことをしたら、主が激しい怒りをもってあなたに臨まれる、ということです。
11節に神が「贖い主」と呼ばれています。貧しい者のために兄弟がその土地を買い戻す、贖わなければいけないという律法があります(レビ25:25)。たとえ他の兄弟がいなくても、そのみなしごの土地を主ご自身が贖っておられる、という意味です。
私たちは弱い立場にいる人々を見るとき、そこには力強い主がともにおられることを忘れてはいけません。
23:12 あなたは訓戒に意を用い、知識のことばに耳を傾けよ。
11番目の格言に入る前に、再び、ちゃんと聞きなさいという呼びかけを行なっています。
23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。
子供に対する躾についての教えです。以前も出てきましたね。ここで注目していただきたいのは、私たちは「鞭で打ったら、死んでしまう」と思ってしまうことです。「むちで打っても、彼は死ぬことはない」と言っているのは、逆に言うと、死んでしまうと私たちは思ってしまうことです。けれどもかえって、その命を陰府から救うことができる働きを持っています。
懲らしめの特徴を私たちは知らなければいけません。懲らしめの目的は、救いです。多くの人が単なる罰であると考えています。けれども全く違います。罰と懲らしめの違いを明確に区別できるようにしておかなければいけません。懲らしめはむしろ、永遠の刑罰から私たちを救うために与えられます。
罰がもたらされるのは、もちろん罪です。その罪から離れなければ罰から免れることはできません。けれども何度説得しても、罪を犯している本人がその罪をなかなか手放しません。ならば、その手を切ってでも、その人を救い出さなければいけません。いわば、その手を切る行為が懲らしめなのです。
コリント第一11章31節に次のように書いてあります。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(31-32節)」私たちは日ごろ、自分自身を吟味して、罪から離れていれば何の問題もありません。けれども、それを行なわなければ主が懲らしめられます。そしてそれは、罪に定められることないためです。
23:15 わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、23:16 あなたのくちびるが正しいことを語るなら、私の心はおどる。
12番目です。知恵のある子を持つ親の気持ちです。親だけでなく、霊的に訓練を施した人が良い働きをしているのを見たら、それ以上の喜びはありません。
23:17 あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。23:18 確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。
13番目です。これは詩篇73篇にある、アサフの告白と同じです。私たちは罪人が栄えているのを見て、うらやむときがあります。「あんな罪を犯しているのに、楽しそうになっているな。何の問題も起こってなさそうだな。」と思います。けれども、そのような自分の気持ち、自分の理解を捨てて、主を恐れてください。
彼らには必ず終わりがあります。ことごとく滅ぼされるように定まっています。一方、自分がいただいている望みは決して裏切られることはありません。忍耐が必要です。
23:19 わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。23:20 大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。23:21 大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ。
14番目です。20章からお酒の話題が出てきました。ここでは酒と肉を貪り食うことが一緒に述べられています。私たちはいつも、この光景を目にしますね。居酒屋で焼肉を食べながらお酒をたくさん飲んで、酔っ払って出てくる人々の姿をたくさん見ます。
そして次の日の朝、けろっとして仕事に戻る姿を見るわけですが、けれども戻れない人もたくさんいるのだ、という現実には目をつむります。二日酔いの話をしているのではありません、アル中です。どのような悲惨なところを通っているかには、目を閉ざしています。そしてアルコールや肉の摂取のしすぎで健康を害する人がたくさんいます。
23:22 あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。
15番目は、父と母を敬うことについてですが、「年老いた母」とここには書かれています。つまり自分が独立してしばらくしても、自分を生んだ両親のことを忘れてはいけないということです。テモテ第一の手紙で、教会は本当のやもめを助けなさいとパウロが言っているとき、彼は家族がまず養う義務があることを教えています。「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。(1テモテ5:8)」
23:23 真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。23:24 正しい者の父は大いに楽しみ、知恵のある子を生んだ者はその子を喜ぶ。23:25 あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
16番目は12番目と同じですが、知恵のある子を持つ親は本当に幸せです。何をもって親孝行すればよいでしょうか?自分が知恵を持つことです。
23:26 わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。23:27 遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。23:28 彼女は強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする。
17番目です。売春婦や人妻に対する戒めです。女のせいで人生を破壊した男たちは、数知れません。
次、18番目はかなり長いです。再び酒がもたらす弊害が書いてあります。
23:29 わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。23:30 ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。23:31 ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。23:32 あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。23:33 あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、23:34 海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。23:35 「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」
どのような害があるかまとめてみましょう。一つ目は、感情に害を及ぼします。「わざわいのある者、嘆く者」とありますが、「もうだめだ」という思い、また悲しみが訪れます。そして二つ目に、社会的な関係、人間関係を悪くします。「不平を言う者」です。人に自分の不満をぶちまけます。ある人は暴力を振るうこともありますね。以前、電車の中で妻が、酔っ払った男にぶたれたことがあります。そして三つ目に肉体的な障害が起こります。「ゆえなく傷を受ける」「血走った目」がそれです。自分が傷を受けているのを知りません。自分の目が血走っているのを知りません。
そして次に、ぶどう酒を見続けることへの警告がありますね。「杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない」と言っています。見た目は良いのですが、中に入ると「蛇のようにかみつき、まむしのように刺」します。
そして続けて弊害を述べていますが、幻覚、幻聴のような症状が起こって、無感覚になり、どこにでも寝てしまいます。
新約聖書では、先ほど出てきた不品行とともに酒に酔うことが神の国に入れない原因になることを述べています。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10)」
3A 悪者への妬み 24
24:1 悪い者たちをねたんではならない。彼らとともにいることを望んではならない。24:2 彼らの心は暴虐を図り、彼らのくちびるは害毒を語るからだ。
19番目は、再び悪者へのねたみを止めよ、という戒めです。先の23章17節では、「心のうちでねたんではならない」とありました。ここでは、「彼らとともにいることを望んではならない」です。私たちは、自分がクリスチャンでいることがちょっと野暮ったいと感じることがあります。もっとこの世の人みたいにスリムで行かなきゃ、と感じます。この世に調子を合わせるんですね。
確かに、表向き彼らは格好良く見えるでしょう。けれども中身は、暴虐であり害毒なんだということをここでは警告しています。
私たち教会がしばしば、「みすぼらしい」「新しい人が来ても、敷居を感じてしまうのではないか」と感じて、この世に合わせようとします。けれども、この世はいつもそのようなセンス、格好良さを追求しているプロの集団です。教会がどんなに努力しても、いつまでも時代遅れのままなのです。
そしてそのような努力を続けていく中で、この世にある暴虐や害毒が入ってきます。商業主義が入ってきます。献金を強要します。どれだけ牧師に忠実であるかによって地位も定められます。百害あって一理なし、なのです。塩気をなくした塩は、ただ捨てられるだけです。愚直にキリストの福音を信じ、そして、福音の中に生きましょう。
24:3 家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。24:4 部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。
20番目です。これは文字通りの家でもあるし、また霊の家でもあります。家の人がクリスチャンになると、霊だけではなく住んでいる家までが明るくなります。命を持ちます。
そして霊の家については教会のことです。いま話したように、教会はこの世に合わせることではなく、真理の土台と真理の柱によって建て上げられていくところです。しっかりと真理が語られているところに、真の輝きがあります。
若い牧者テモテに対して、パウロは何度も助言しました。テモテは、論争を引き起こしている者たちがいるエペソにある教会で牧会しなければいけませんでした。パウロはそのような論争は避けなさいと言い、続けて、「この言葉はまことであり、そのまま受け入れるのに値するのです。(1テモテ1:15参照)」とか、「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。(1テモテ3:16)」とか、救いの真理を短く、はっきり宣言しました。
そしてこう言いました。「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3:15)」
24:5 知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。24:6 あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。
21番目。以前も、戦争に際して、相談して計画を整えよ、という勧めがありました(20:18)。そしてここでは、その力の源泉は知恵と知識だ、とあります。人間の知恵ではなく、まことの神の知恵と知識には力があります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)」
24:7 愚か者には知恵はさんごのようだ。彼は門のところで、口を開くことができない。
22番目。「門」は先に説明したように、法的な手続きが行なわれるところでした。そこで愚か者は口を開くことができないということですが、何も言えなくなります。まったく理解することができないからです。
伝道をしているときに、少しでも反発でもする人はまだ希望があります。少しでも理解があるから反発できるのです。けれども、多くの場合は完全に口を閉ざします。心がかたくななので、全く何を言われているのか分からないからです。
聖書にも出てきます。王子の祝宴に通りにいる人々が数多く招かれている中で、一人だけ婚礼の礼服を着ていない人がいました。どうして着てこなかったのか、と尋ねても、「彼は黙っていた。(マタイ22:12)」とあります。そして彼は地獄に放り込まれます。
24:8 悪事を働こうとたくらむ者は、陰謀家と言われている。24:9 愚かなはかりごとは罪だ。あざける者は人に忌みきらわれる。
23番目です。私たちは悪いことを衝動的に行なってしまうことがあります。けれどももっと悪いのは、計画することです。意図的に、恣意的に、計画的に悪を行なう時に、ここに書かれているとおり罪を犯し、人に忌み嫌われるようになります。
24:10 もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。
24番目は、心の持ちようについての格言です。これまでもたくさん出てきましたが、心をしっかり持っていれば苦難でさえも耐え忍ぶことができます。しかし気落ちしたら何もできなくなる、とありました(18:14参照)。
悪魔の最大の武器は、しばしば落胆であると言われています。どんなことが起こっても、主にあって心を強くしていれば助かります。たとえ罪を犯しても、神は、悪人が滅ぶのを喜んでおられないのだから、悔い改めて立ち返れば神は豊かなあわれみを施してくださいます(エゼキエル18:23)。
しかし落胆したらどうなるでしょうか?「もう僕は駄目だ。クリスチャンとして失格だ。」と思ったら、神に立ち上がることさえやめてしまいます。私たちが主にあって希望を持つことは、私たちの支えです。「心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:14)」です。
24:11 捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。24:12 もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。
24番目の格言は、自分が苦難に遭っているときのことでしたが、ここ25番目は他人が苦難に遭っているときに自分が助けることについて述べてあります。神の命令は、「救い出せ」です。ヤコブ書に「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(4:17)」とあります。私たちは、嘘をついていない、姦淫をしていない、盗んでいない、という、「〜をしていない」ことで自分の霊的状態を推し量りがちです。けれども、「〜をしなさい」という積極面の命令に従わないことも同様に罪なのです。
そして12節に、自分たちは知らなかった、と言っても、神はあなたがたの心を見抜いておられる、とあります。日本人は敗戦という負の歴史を持っていますが、私たち以上にドイツ人は持っています。ナチスが行なっていること、特にユダヤ人に対して行なったことをなぜ気づかなかったのか?という苦悶をしています。うすうすは聞いていたのです。けれども行動にまで出なかったことについて大きな議論になっています。
けれども霊的に私たちはどうでしょうか?自分の生活で忙殺されて、実際に自分の周囲で死んでいる人たち、罪を犯して悔い改めずに死に、地獄に行ってしまうような人たちに目を留めているでしょうか?日本人だけに限りません。周囲にいる在日外国人の人たち、世界にいる人たち。「すべての被造物に福音を宣べ伝えなさい。」という命令に関する、非常に多くの情報はあるのです。けれども、そのことについて私たちはどう応答しているでしょうか?「私たちは知らなかった」では済まされないのです。
24:13 わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。24:14 知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。それを見つけると、良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない。
26番目。蜂蜜と知恵の比較です。蜂蜜は口に甘いが、知恵は魂にとっておいしく甘い存在です。魂はいつも、先のことを思っています。永遠のことを考えています。知恵はその永遠について、良い終わりを保証しています。
24:15 悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。彼のいこいの場所を荒らすな。24:16 正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。
27番目です。正しい人は何度倒れても起き上がる。けれども悪い人は一度倒れたら、起き上がれないどころか滅びます。パウロがこう言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(1コリント4:8-10)」
また、私たちは信仰によって正しいとみなされている者たちです。つまずいて倒れる、つまり罪や失敗を犯してしまっても、悔い改めて神に立ち上がることができます。悪者は、キリストを心に受け入れなかった者たちです。たった一度の罪でも、神はそれを永遠の罰を持って報いられます。
24:17 あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。24:18 主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。
28番目です。今、悪者は倒れて滅びる話をしましたが、それを喜ぶのは悪です。神は人が滅びることを望んでおられません。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)」
興味深いのは、神様のユーモアとでも言いましょうか、人の倒れるのを喜ぶ悪に対して、神はあわれみをもって私たちを裁かれます。どういうことか?主が、私たちが喜んでいるのを見て、その倒れている敵をかわいそうに思われます。そしてその怒りの手を引いてしまう、というものです。もう私たちが、敵が倒れているのを見て、楽しむことができないようにされます。
ヨナ書のことを思い出してください。アッシリヤ人はユダヤ人に酷いことをしました。残虐な国民として知られています。けれどもヨナはよく知っていました。神は憐れみ深い方であることを。それで「ニネベに行きなさい。」と神に命じられたとき、アッシリヤ人への神の怒りは止んでしまうことを知っていました。それで故意にニネベに行かなかったのです。けれども、神の憐れみがヨナの敵を憎む思いに打ち勝たれました。「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(ヤコブ2:13)」
24:19 悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。
29番目です。ここでも「悪者に対してどういう態度で臨むか」についての格言があります。義憤を抱きますね、私たちは。少なくとも私はニュースを見たり、本を読んだり、人づてに聞いたりして怒り狂うことがあります。なぜ、このような悪が野ざらしにされているのか、と。
けれどもここでの戒めは、「このことに心を留まらせてはいけない。」というものです。腹を立てる、ということは、言い換えると妬んでいる、とも言えます。どうでしょうか、何か自分に悪いことをしている人がいて、その人のことを赦せていないといつしか妬みになります。「なぜあの人は何の災いも受けずに、安穏としていられるのか。」と妬ましくなるのです。
神に任せましょう。悪い者には良い終わりがなく、そのともし火は消えるという約束があります。
24:21 わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。24:22 たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。
30番目。ローマ13章にある教えと同じです。不法なことを行なえば、それに対する制裁があります。平気で不正を行なっている仲間が近くにいても、それに交わらないでください。必ず制裁があります。
24:23a これらもまた、知恵ある者による。
知恵ある者の三十句は終わりました。けれども、さらにいくつか付け加えたいようです。こういう箇所を読むと聖書は生きているなあと思わされます。もちろん神の霊感の書物なのですが、人間の心理をも用いて、聖霊は著者らを導いておられます。
パウロの書簡でも、もう終わりにします、という挨拶を書きながら、最後になるにつれてどんどん付け足します。ヨハネの福音書も20章で終わっても良さそうなものを、ペテロが岸辺にいるイエス様に向かって、ガリラヤ湖に飛び込んで泳いでいったというエピソードを付け加えました。私たちもそうですね、友人や親しい人と話しているとき、一度別れの挨拶をしているのに、その後もずっと話し続けることを。箴言も、この人間らしさが生きている文体になっています。
24:23b さばくときに、人をかたより見るのはよくない。24:24 悪者に向かって、「あなたは正しい。」と言う者を、人々はののしり、民はのろう。24:25 しかし、悪者を責める者は喜ばれ、彼らにはしあわせな祝福が与えられる。
裁判官に対する格言ですね。正しい裁判を民衆は望んでいます。けれども、明らかにこの人が罪を犯したと誰もが知っているのに、裁判では無罪になったりします。そのような裁判官は人々の罵りと呪いを受けなければいけません。
24:26 正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる。
自分が発言するのはいろいろ準備できますが、人から言われたことに正しく答えるときは瞬時の判断が必要です。知恵のある返答をすれば、そのくちびるは人々に愛されます。
24:27 外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。
家を建てるなど、お金のかかることは、自分の仕事をしっかりとこなし、また資産もしっかりと整えた上で行ないなさい、という戒めです。
24:28 あなたは、理由もないのに、あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。あなたのくちびるで惑わしてはならない。
「何の根拠があって、そんなことを言うのだろう。」という噂話を私たちは耳にしますね。そのような過ちを私たち自身が犯さないようにしなければいけません。本当にその話は根拠があるのだろうか?その裏づけを取らないうちに人々に話すべきではありません。
24:29 「彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう。」と言ってはならない。
仕返しをするな、という戒めです。私たちは悪に対して善で報え、と教えられています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:21)」「悪をもって、悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。(1ペテロ3:9)」
最後の知恵ある者の言葉は、なまけ者についてです。
24:30 私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。24:31 すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。24:32 私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。24:33 しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。24:34 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。
何度も何度も、怠惰への警告を箴言は与えています。箴言は、勤勉であること、自分の手を動かすこと、堅実であることを教えています。霊的にも同じです。私たちが主体的に、能動的に霊的知恵と知識を得ようとしなければ、自分の心にいばらといらくさが生え、気づいたら完全な霊的困窮状態に陥っていることに気づくでしょう。霊的生活には積極性が問われています。
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