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箴言25章を開いてください、今日は25章から27章までを学びます。ここでのメッセージ題は、「王の役割」です。まず25章1節をご覧ください。
1A 隣人の仲裁 25
1B 王の威厳 1−7
25:1 次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。
25章から29章までの部分は、ここに書かれているとおり後世の人たちが、ソロモンの箴言を編集したものです。ソロモンがこれらの箴言を書いた約250年後に、ヒゼキヤの配下にいた書記官らがまとめました。
ヒゼキヤは、主の前に正しい人でした。主を求めて国の改革を断行した人でした。アッシリヤの大軍がエルサレムを包囲しても、主の宮の前で衣を裂き、主に救いを願い求めた人でした。そのヒゼキヤが知恵を得るためにソロモンの箴言をまとめさせました。王の職務について、また王として知っておかなければいけないことなどが中心に描かれています。
25:2 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。25:3 天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。
コロサイ2章3節に、「このキリストのうちに、知恵と知識のすべての宝が隠されているのです。」とありますが、すべての知恵と知識を持っておられるのが神です。神は、ご自分が良しとされる時にはその一部を人にも啓示されますが、多くの部分は私たちから隠しておられます。新約聖書に「奥義」とか「秘密」という言葉が出てきますね。使徒たちには御霊によって明らかにしてくださった真理のことを言っていますが、以前は聖徒や預言者にも隠しておられたことです。
申命記29章29節に興味深い御言葉があります。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」神は隠しているのに、その一部を明らかにされるのは、その言葉をイスラエルが行なうためである、というのです。私たちは全てのことを知ることはできません。そして、知る必要もありません。御言葉を守る、つまり神に従い、神との交わりを持つために、私たちに知らされています。それ以上のことを望むのは、エバが惑わされ、アダムが罪を犯した、あの善悪の知識の木の実を食べることにつながります。
それでも救いについての知識は、新約時代に入って神ははっきり示されました。ここの箴言の箇所に「事を探るのは王の誉れ」とありますが、新約時代に生きている私たちは、御霊に属する事柄を探し求めることによってそれを悟る力が与えられています。使徒パウロがこう言いました。「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。・・・神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(1コリント2:7,10)」
そして「王の心が測り知れない」とありますが、同じように御霊を受けた人たちは、「すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(1コリント2:15)」ともパウロは言いました。私たちは求めていた真理について、キリストにあって完全な知識と満足を得られます。他の人にはそれが理解できません。他の人は、なぜその人に完全な平安が与えられているのか分かりません。私たちは王と同じように、霊的な事柄を探る特権とその知識に満足する特権が与えられています。
25:4 銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。25:5 王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。
主イエス・キリストが、王の王としてこの地上に戻ってきてくださる時、この選り分けを行なってくださいます。世界の国々の民をご自分の前に集め、羊飼いが羊と山羊を分けるように、正しい者と悪者を分けられます。正しい者は神の御国へ招かれ、悪者は永遠の刑罰に入ります。(マタイ26:31−46)それはちょうど、銀を精錬するときにかなかすを除去するようなものです。
25:6 王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。25:7a 高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい。」と言われるほうがよいからだ。
イエス様が同じ事をパリサイ人らに言われましたね。そして主は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカ14:11)」と言われました。
2B 隣人との和睦 8−22
25:7b あなたがその目で見たことを、25:8軽々しく訴えて出るな。そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。
ここから隣人との争いについての格言に入ります。王は、民事訴訟に対して裁判官の役割を果たさなければいけません。ソロモンが、二人の女の争いを知恵を持って仲裁した時のことを思い出してください(1列王3:16‐28)。そのような隣人同士の争いについての知恵です。
一つ目は、「軽々しく訴え出るな」ということです。逆を言うと、軽々しく訴える場合が多すぎる、ということです。後になって実は勘違いだった、ということが多いのです。私たちは、早まって判断する過ちを犯しやすいです。そして自分の知っている人を批判し、非難する。けれども、実はそれは事実に基づかなかったら、恥を受けるのは私たちです。
25:9 あなたは隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。25:10 そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、あなたの評判は取り返しのつかないほど悪くなる。
公判において、私たちはすべての真実を証言しなければいけなくなります。だから、他人の秘密を漏らす危険が非常に大きくなります。だからなるべく争いは避けたいものです。私たちは誰かと口論になったときも同じですね。自分の主張に根拠を与えるために、言ってはいけないことを言ってしまいます。そうすると私たちはその人を侮辱することになってしまいます。
25:11 時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。25:12 知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。
争いのときに口から出てくる言葉とは対照的に、時宜にかなって語られることはとても貴重です。知恵というのは、まさに時宜にかなって語られる言葉であると言うことができるでしょう。コリント第一12章に、御霊の賜物が列挙されています。そこに「知恵の言葉」があります。私たちの間に対立があるとき、双方に和解と一致をもたらすような言葉は、私たちが用意して言えるようなものではありません。御霊がその時に与えてくださる、恵みなのです。
例えば、使徒行伝15章にて、エルサレムで長老や使徒たちが集まり、モーセの律法と異邦人との関係で激しい意見の対立がありました。律法を重んじるユダヤ人が主を信じていく中で、どうやって律法を知らないで信仰を持つ異邦人と交わりを保っていくのか、非常に悩むところでした。けれどもヤコブが立ち上がって、こう言いました。「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。(19-21節)」
ローマ14章でも語られていますが、異邦人であっても常識的に理解できる事項がありました。異邦人の中では行なわれているけれども、ユダヤ人には見るにも耐え難い事柄があります。それら最低限のことを避けるべきであること。そしてそれは、クリスチャンの倫理に照らし合わせても適うものです。
このように知恵は、双方に和解を与えます。激しい対立のため、癒しがたい分裂が起こることを回避させます。時宜にかなった言葉です。
そして12節には、「知恵のある叱責」とあります。後で、兄弟を愛をもって責めることが出てきますのでそこで考えることにしましょう。
25:13 忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。
26章6節には、この反対のことが書かれています。「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。」私たちクリスチャンは皆、キリストからことづけをされているようなものです。キリストの福音を他の人々に伝えるために、遣わされている者です。主が再び戻って来られる時に、「あなたが命じられたことを行なってきました。」と報告することはできるでしょうか?報告できたら、それは主人すなわちイエス様の心を生き返らせることになります。
25:14 贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ。
「これこれをしてあげるよ。」と約束したのに、一向にそのことを行なわない人がいます。このようなことをすると、期待している相手の心に非常に大きな落胆を与えます。ここの比喩のように、雨を降らせない雲や風のようです。
25:15 忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。
柔和さは、人々に何かを訴えたいとき、伝えたいときに非常に必要です。パウロがテモテに対して、反対する人には柔和な心で訓戒しなさい、と指導しています。「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。 (2テモテ2:25)」
25:16 蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。25:17 隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないようにせよ。
すべてにバランスが必要です。たとえ良いものであってもやりすぎるとかえって有害です。例えば、具体的には、隣人の家に立ち寄ることはとても良いことでしょう。箴言でも聖書全体でも、隣人と平和を保つことを強調しています。けれども、これをやりすぎると相手に負担になります。すべてにバランスが必要です。節制が必要です。
25:18 隣人に対し、偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。25:19 苦難の日に、裏切り者に拠り頼むことは、悪い歯や、なえた足を頼みとするようなものだ。
私たちは言葉が持っている力を軽視しがちです。頭では、自分を根拠もなく非難している人たちはごく少数であり、多くはそんな噂は信じていないと分かってはいても、自分が受けているダメージは大きいことは体が知っています。ちょうど、こん棒、剣、鋭い矢のようなのです。
人を責める、中傷するだけでなく、本当に助けが必要な時に助けの手を引っ込める行為も、相手に大きなダメージを与えます。食べようと思ったら歯がぐにゃっと折れたような状態です。
25:20 心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。
先ほどから、自分は良い隣人であると吹聴しながら実はそうではない行為について書かれていますが、ここでも同じです。相手は、「今はそういう状況ではない。」と強く訴えているのに、事情や状況をわきまえずに一般論や理想論を振りかざす人。完全に状況把握を間違えて、まさにしてもらいたくないことを無邪気に行なっていく人。それも親切心という名目で行なう人がいます。
25:21 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。25:22 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。
ここの箇所は、ローマ12章の最後に、「自分の手で復讐してはならない」という勧めの中で引用されている箇所です。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)」
「天国の人」の著書で有名な、中国の家の教会の指導者ブラザー・ユン氏の友人Xu氏が、こんなことをおっしゃっていたのを聞きました。「私は、自分を拷問にかける看守たちのことが、かわいそうでなりませんでした。」自分に悪を行なっている人が、哀れで可愛そうだと思ったのです。その理由は、おそらく、燃える炭火が頭に積まれているから、ということなのでしょう。
キリストの命令に従っている人に悪を行なうのは、神からの裁きを招きます。迫害を受けている本人は、自分を迫害する人に善を行なうのですが、それでも迫害を加え続けることは非常に辛いことです。本人が、自分の良心に逆らって迫害を加えていかなければいけません。
3B 自制 23−28
25:23 北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。
北風が吹くと大雨が来ることは、その地域にいる人は誰もが知っていることでした。そのような強い因果関係が、陰口と怒りの間にもあります。やめるべきです。
25:24 争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。
これまでも何回も出てきましたが、女には気をつけろというソロモンの警告は、女に弱い男には不可欠な言葉です。王や高い地位につく人であればあるほど、この誘惑が大きくなります。
25:25 遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。
これは本当にその通りですね。自分が宣教の現場で疲れているときに、久しぶりに聞く友人や知人の声、相手がどうなっているかの消息を聞くことは、まさに疲れているときの冷たい水です。
25:26 正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。
悪には妥協してはいけない、ということです。せっかくここまで耐え忍んできたのに、最後に屈してしまったら、ここにあるように汚くされた泉、荒らされた井戸のように、非常に残念なことです。
25:27 あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。
ここの翻訳は、新共同訳のほうが正確でしょう。「蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。」となっています。名誉を求めることは大事です。富よりも名誉のほうが大事であることを箴言は話しています。
けれども、名誉のための名誉を追い求めれば、名誉が自己目的化したら、その時点で名誉は失われます。この人は名誉が一番なのだと思われて、一気に名誉が、評判が失われます。先ほどと同じ、「良いものであっても、バランスを崩すと悪くなる」のもう一つの例です。
25:28 自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。
先の節に書かれていることは、皆、節制に関わることです。節制を持つことによって、心にバランスが与えられます。行き過ぎから守られます。心を守れ、という命令もありました。これがなくなると、城壁のない打ち壊された町のようです。当時の町はみな城壁がありましたが、それが壊れるとあらゆる敵からの攻撃にさらされます。すべてのものが略奪されます。
2A 愚か者への懲らしめ 26
それでは26章に入ります。26章では、「愚か者」が中心に語られています。そして25章でもそうでしたが、「〜のようだ」という比喩が使われています。具体的な例えで、いったいどういう状態なのかをはっきり知ることができます。
1B 不釣合いな誉れ 1−12
26:1 誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。
誉れと愚か者がどれだけ不釣合いなのかを、夏の雪、刈り入れ時の雨に例えています。これだけ聞けば、説明は要りません。これだけ比喩には説明の力があります。
26:2 逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。
私たちはしばしば、自分が近づくとすぐに飛び去っていく雀を見ますが、同じようにいわれのない呪いというのは、やってきません。バラクに雇われてイスラエルを呪おうとしたバラムは、どんなことをしても呪うことはできませんでした。「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。(民数記23:8)」と言いました。
同じように、神が味方をしておられるなら、誰が敵対できようか。神が義と認められたのなら、誰が私たちを罪に定めることができますか、とパウロはローマ8章で言っています。
26:3 馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。
前回も話しましたが、「話せば分かる」という考えは本当に人間のことを知らないから言えます。知恵と知識は求めることをしない人には与えられないのです。そして知恵と知識がなければ、どんなに言葉で戒めても、その心は変えられないのです。したがって鞭が与えられます。私たちが変えられるのは、知恵のある叱責の言葉か、あるいは鞭かのどちらかなのです。
26:4 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。26:5 愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。
この二つの矛盾したような格言は、意図的にご聖霊が並べられたのだと思います。愚かな者に対応する時に、答えるべき時もあるし、答えるべきでない時もあります。ケース・バイ・ケースなのです。
4節の「愚かさにしたがって答えるな」という戒めは、相手が怒って話しているときに、自分も同じように怒りで対応するとか、話している内容よりもその話し方にある愚かさのことを言っています。
そして5節は、相手が自分は愚かだと気づかせるような形で答える、ということです。いかに自分は愚かなことを言っているのだろうと悟ることができるように、応答することです。ヨブの妻に対してヨブが言った言葉を思い出してください。妻が、「神をのろって死になさい。」と言ったら、ヨブはこう答えました。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。(ヨブ1:10)」と答えました。神を呪うことがいかに愚かなことであるかをわかるような形で返答します。
26:6 愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。
先ほど説明したとおりです。忠実な使者は主人の心を生き返らせますが、愚かな者に任せたら自分の身に害を受けます。
26:7 愚かな者が口にする箴言は、足なえの垂れ下がった足のようだ。26:8 愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ。
あっても何の役に立たない、ということです。
26:9 愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ。26:10 愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ。
何も役に立たないだけでなく、周りの人に危害を加えます。
26:11 犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。
悔い改めることをしないのは、愚かなことです。この箇所をペテロは手紙の中で引用しています。「義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる。』とかいう、ことわざどおりです。(2ペテロ2:21-22)」
26:12 自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
ここが愚か者についての、ファイナル・パンチですね。ここまで読んできて、「全然、自分の身に覚えのないことばかりだ。」と思って読んでいたら、まだ愚か者のほうが望みがある、ということです。聖書は福音を語っています。自分は罪人だ、愚かだ、と悟ったときに、義と認められ、知恵が与えられるのです。
2B なまけ者 13−16
次から、「なまけ者」についての格言が続きます。
26:13 なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる。」と言う。
前にも出てきましたね、とにかくいろいろな理由を言って、何もしない人のことを言っています。
26:14 戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。
すごい良い表現ですね。ごろごろ転がっている人と、戸がちょうつがいで回転するのと良く似ています。
26:15 なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう。
これも前に出てきましたが、すごい表現です。食欲よりも怠け心が買ってしまいます。
26:16 なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。
愚か者と同じです。自分は知っていると思っています。
3B 陰口 17−28
次は口の災いについての格言です。
26:17 自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。
争いは当事者通しで解決すべきものです。そこに関わろうとする愚かさについて語っています。コリント第一3章において、肉に属する人は「ねたみや争いがある」と書いてあります。私たちの肉は争いを好みます。他の人の事柄に自分も関わって干渉しようとします。そして周りを引っ掻き回します。
26:18 気違いは、燃え木を死の矢として投げるが、26:19 隣人を欺きながら、「ただ、戯れただけではないか。」と言う者も、それと同じだ。
そうですね、他人を傷つけている人に傷つけているという自覚がありません。「ただ、冗談を言っただけでないか。」と返答します。
26:20 たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。26:21 おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。
煽るのが好きです。
26:22 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。
なぜ煽る言葉を語るのか、なぜ陰口をたたくのか?それはおいしいからです。腹の奥に下っていくようなおいしさを感じるからです。
26:23 燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。26:24 憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。26:25 声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。26:26 憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。
自分の心の状態は、いくら隠しても表に出てくることの格言です。23節の「燃えるくちびる」は、熱心に語っている姿を表しています。しかしその中に、悪い心も見え隠れすることがあります。人に対する憎しみや怒りであったり、ねたみであったり、単なる情熱ではないんですね。
そして声を和らげることもあります。一見穏やかに語っているようで、実は人の心をずたずたにする人がいますが、心の中に悪意があるからです。(七つの忌み嫌われるものについては、以前学びましたね。6章17節にある言葉です。高ぶり、偽り、流血などです。)
そしてそのようなごまかしは、集会の中で語ると人々は感じることができます。隠れているものは、露になるのです。
26:27 穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。26:28 偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。
結局、陰口やごまかしは自分の身にその災いがふりかかります。
3A 羊飼い 27
1B 真の兄弟愛 1−22
27:1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。27:2 自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。
どちらも自慢について、誇ることについての戒めです。1節はヤコブの手紙4章にも同じことが書いてあります。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(13-14節)」
そして2節は、ガラテヤ書に同じことが書いてあります。「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。(6:4)」
27:3 石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。27:4 憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。
怒りや憤りもひどいものですが、妬みはもっとひどいと述べています。パリサイ人がイエス様を妬んで何を行なったかはご存知ですね。死にまで追い込みました。しつこく、相手を完全につぶすまで止むことはありません。
27:5 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。27:6 憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。
真実な愛が何かが、はっきり分かる箇所です。私たちは、人間関係が切れるのを恐れて、言わなければいけないと思っていることも言えないことがあります。けれども友人への愛は、それを乗り越えます。自分の損得を顧みずに、その相手のことを考えますから、はっきりと言えるのです。
また、くちづけ、あるいは優しい言葉やそぶりは、心で憎んでいてもできるのです。そのことを知らないと、私たちはいつも自分に同意してくれる人とばかりいたがります。
27:7 飽き足りている者は蜂の巣の蜜も踏みつける。しかし飢えている者には苦い物もみな甘い。
これは不思議な人間の有様を描いています。私たちは全てのものが豊かに与えられている時、感謝する心を忘れてしまいます。満ち足りることができなくなります。けれども、事欠いている時、わずかなものでも感謝することができます。
けれどもキリスト者は、こうであってはいけません。豊かに与えられている時でも感謝する術を得なければいけません。その術はピリピ書4章12節に書いてあります。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」
神は恵みの神です。恵みとは、「受けるに値しない祝福を受ける」ことを意味します。すべて良いものは主から受けていることを信じます。そして、自分がどのようなもので、どこから出てきたのかを忘れません。これを忘れてしまうとき、私たちは蜂の巣の蜜も踏みつけるような飽き足りている人になってしまいます。
27:8 自分の家を離れてさまよう人は、自分の巣を離れてさまよう鳥のようだ。
家出に対する格言です。
27:9 香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。
おもしろい例えですね。友の慰めは香油と香料と似たような働きをするということです。香料は心を和ませますが、慰めは私たちの魂に平安と生きる力を与えます。
27:10 あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。
これは大地震が襲ってきた時のことを考えればすぐ分かります。阪神・淡路大震災の時、瓦礫の中から救い出された人の九割は近所の人たちによるものだそうです。近隣の人たちと平和を保つ、仲良くしていることの大切さがここにあります。
27:11 わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。
教会の監督者の資格について、パウロは、非難されることのない人という条件を付けています。また、「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。(1テモテ3:4)」ともあります。子どもが親に従っているとき、人々はその親をそしることはできません。
27:12 利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。
前にも出てきた格言です。人間には悪に対する奇妙な好奇心があります。それに触れたら大変なことになることをはっきり分かっているのに、それでも触れてみようと考えるのです。しかし知恵はこれを避けさせてくれます。
27:13 他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。
これも既出の箴言です。連帯保証人になってしまったら、何とかして自分を救い出す方法を探りなさい、ということです。
27:14 朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。
時宜をはずすと良いことも悪いことになります。先ほども、「心配している人の前で歌を歌う」ことについて書いてありましたが、朝早くから大声で友人を祝福することも同じです。まだ起きたばかりで頭もフル回転していないし、これから仕事に出かけなければいけない。このような時に祝福の言葉をかけられても・・・。相手のことをよく考えなさい、という感じです。
27:15 長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。27:16 その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる。
水道のパッキンが弱くなって、水滴が滴り続ける時、なんともいらだたしく、悩ましくなります。それがここで言っている長雨の時の雨漏りです。また、風を制して、手で油をつかむことは、やろうとしても全然できないもどかしさを表しています。
27:17 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。
いわゆる切磋琢磨、ですね。私たちは共に自分を成長させる友が必要です。特に私たちは霊的なことに関する友が必要です。しばしば日本の牧師には友がいないために、いろいろな問題に直面すると言われます。自分の悩みや苦労を分かち合える、同じ立場にいる友がいないのです。つねに孤独感を感じて、そのために信徒がいなくなることを恐れたり、支配しようとしてしまいます。
27:18 いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。
誰かを支え、支援することの大切さがここに書いてあります。牧師のそばにいて助ける副牧師は、牧師の下にいる僕ではなく牧師を支えるパートナーです。牧師を守ることがその役目です。長老や役人会もその役目を担っています。
27:19 顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。
そうですね、私たちの心がどうなっているかは私たち自身を見ればすぐに分かります。
27:20 よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。
「人の目」とありますが、「人の欲望」と言い換えてもいいでしょう。陰府と滅びの淵は、ブラックホールのような存在です。底なしであり、飽くことなく人を吸い込みます。人の欲望もこれと同じです。どんどん自分に引き寄せて、それでも飽くことを知りません。
27:21 るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。
私たちは、人から称賛を受けるときに危険な状態に入ります。その称賛を自分の手柄のように受け止めれば、私たちは危険地域に入っています。ペテロがそうでした、足なえの人を直してあげたら人々が集まってきて、彼をあがめるような目つきで彼を見つめていました。ペテロは、「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(使徒3:12)」と言いました。そしてイエス様に彼らの焦点を向けさせました。自分にではなく、神に栄光をお返しする必要があります。
27:22 愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。
これだけ愚かさはしつこいです。このことを知っておかなければ、私たちはいつまでも人を安易に信頼してしまいます。聖書的な人間観を身に付けましょう。その上で私たちは骨を砕いて、人々に教え、訓戒するのです。
2B 羊の群れ 23−27
最後は、王本人に対する格言です。
27:23 あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。27:24 富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。27:25 草が刈り取られ、若草が現われ、山々の青草も集められると、27:26 小羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。27:27 やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使いの女たちを養う。
何が確実なもので、何が大切なものかをいつも忘れてはいけません。王であればそれは富であり、王位であります。これはいつか過ぎ去ります。けれどもそれらがなくなっても、自分が所有している羊は違います。
私たちであれば何でしょうか。何が自分の羊なのか、考えてみましょう。目の前にいる家族はその一つでしょう。教会の牧師であれば、羊である信徒がそうでしょう。いろいろ一時的に輝かしく見えるものがあってもそれに心を奪われず、地味だけれどもいつまでも離れないもの、けれども確実に養い育てていくことができるものに目を留めましょう。
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