箴言28−29章 「正しい支配」

アウトライン

1A 頼もしさ 28
2A 律法による幻 29

本文

 箴言28章を開いてください、今日は28章と29章を学びます。ここでのテーマは、「正しい支配」です。前回から、ヒゼキヤ王の下で働く書記官が、ソロモンの箴言を編纂した部分を学んでいます。ヒゼキヤは正しい王でした。その王が正義をもって人々を治めていくのに必要な箴言を集めています。

1A 頼もしさ 28
28:1 悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。

 私たちが若獅子のように大胆でいられることは、とても幸いなことです。その人は、神の前で良心をきよく保っているので、おじけることはありません。パウロがエルサレムに来て、ユダヤ人議会の前に出たとき、「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。(使徒23:1」と言いました。彼らが自分を殺すかもしれないようなときに、少しも動じることなく大胆でいられたのです。

 けれども悪者はどうでしょうか?私たちは何か悪いことをすると、ちょっとした物音でも、びくっとしておじけています。自分の悪がいつか暴かれるのではないかと怖がっているのです。罪悪感は、捕まえる者が実際にはいないのに、その人を逃亡者のようにします。

28:2 国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。

 「多くの首長たち」というのは、同時に、ということではなく、続けざまに、ということです。私たちの国の政治を見たら理解できるのではないでしょうか?次々と大臣が変わり、首相が変わり、いま誰が首相で大臣なのか分からなくなるほどです。

 イスラエルの国、北イスラエルの国がそうでした。この国が滅びるまで合計20人の王がベルトコンベアに載せられているかのごとく、どんどん連続的に変わっていきました。

28:3 寄るベのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。

 自分が貧しいからと言って、他の貧しい人に同情し、あわれみことができると言えば、それは違います。かえって暴虐をふるまうことが多いです。なぜか?貧しさの中で、心の中まで貧しくなっていたからです。6節に、「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。」とありますが、このことを貧しさの中で学ばなかったからです。

 人の上に立つ人は、心の豊かな人でなければいけません。必要なものはすべて主が与えてくださり、主にあってすべて満足している人でなければいけません。さもないと、自分が欠乏している部分を自分が支配している者たちで満たそうとするからです。与えるのではなく、奪い取っていくからです。

28:4 おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。

 私たちは、この言葉を厳粛に受け止めなければいけません。悪者が蔓延っている時、私たちはなぜその人は罰せられないのか、と悩ましくなります。けれどもそれは、悪者をほめる人々、悪者を良い人であるかのように認める人々がたくさんいるからです。悪を善とし、善を悪とする人々がいるから、悪者がそのまま生き残っているのです。

 そして、なぜその人たちは悪者を認めるのでしょうか?彼らは、自分たちでは気づいていないかもしれませんが、真理を拒んでいるから必然と悪を受け入れるのです。イエス様がバルバナとともに立っておられたとき、ユダヤ人たちはバルナバを釈放しろと叫びましたが、それは真理であるイエス様を拒んだからです。

 この世の終わりの時、不法の人が現れます。その人は世界から受け入れられます。それはなぜか?パウロがテサロニケ人にこう書いています。「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(2テサロニケ2:10-12

 これに対して、神のおしえを守る者は悪者と争います。エペソ書に、光の子が暗やみを明るみに出すことが書かれています(5:11)。私たちが自分に与えられている神からの良心をそのまま保つことをせず、他のいろいろな理由で覆ってしまうならば、私たち自身が神の教えを捨ててしまうことになります。自分が主に従う過程において、必然的に対立する人が出てくるし、迫害を受けなければいけない時もあるでしょう。けれども良心をきよく保っておきます。そうすることによって、相手が悔い改めて、光のほうへ来るかもしれないのです。

28:5 悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。

 前回の学びでも話しましたが、御霊を受けた人々は御霊に関する事柄を悟ることができます。生まれながらの人にとって、それは愚かなことであり、悟ることはできないのですが、私たちは知ることができます。「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(1コリント2:15

28:6 貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。28:7 おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。

 そうですね、主がお話になった放蕩息子の話で、弟息子は自分の父に罪を犯したと言って、父のもとに帰りました。

28:8 利息や高利によって財産をふやす者は、寄るベのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。

 これは、以前にも出てきた箴言と同じ内容で、正しい者が悪者の財産を受け継ぐ、ということです。今の世界は富の不公平で蔓延していますが、聖書は、最後にはこの世にある富が正しく用いられることを約束しています。

28:9 耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。

 私たちは、祈りであればすべての祈りが神に聞かれていると思いがちです。けれども、神の教えを聞かない人の祈りは、聞かれないどころか忌み嫌われてさえいます。まずその人がしなければいけないのは、話す前に聞くことです。

 サウルのことを思い出してください。サウルの一番大きな問題は、主が命じられたことに聞き従わなかったことでした。サムエルが到着する前に自分でいけにえをささげたり、またアマレク人を滅ぼさなかったり、サムエルは彼に「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえ、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。(1サムエル15:22」と言われました。

 実際にペリシテ人と戦ったとき彼は神に伺いを立てましたが、何の返答もありませんでした(1サムエル14:3728:6)。ずっと神の御声を聞くことができなかった彼は、最後に霊媒する女に頼ったのです。

28:10 正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。

 ペテロの手紙第二に、偽教師のことが書かれています。そこに偽教師が、自分だけでなく心の定まらない人を誘惑していることが書かれています(2:14)。イエス様もパリサイ人についてこう言われました。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。(マタイ23:15

28:11 富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。

 私たちは満たされていると慢心します。けれども乏しいと、自分に何が足りないのかを吟味するようになります。試練に遭うとき、また願っているものをまだ叶えられていないとき、それは幸せなことです。自分ではなく主のみに自分をより頼ませる良い機会です。

 またダビデはこう祈りました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24」いつも、主に自分を調べていただき、吟味することは非常に大切です。

28:12 正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。

 これから、正しい者による支配と悪者による支配の違いが何度も出てきます。悪者が出てくるときに人が身を隠す、というのは、その抑圧から身を避ける、ということです。共産国にしても、イスラム教にしても、独裁主義の国では人々の本音は表に出てきません。家の中でひそひそ話しをする程度です。

 同じことが、私たちの家庭、職場、学校でも起こります。横暴をふるまう父親の前では、他の家族はみな口を閉ざします。争い好きな母の前もそうでしょう。職場でも悪い上司の前ではみな黙ります。学校の先生もそうですね。私たちは人を黙らせてしまっているか、それとも喜びと光栄を与えているか、考えてみるべきです。

28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。28:14 幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

 非常に大切な聖句です。私たちがヨハネの手紙第一1章9節とともに覚えておくと良い御言葉でしょう。そこにもこう書かれています。8節から読みます。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:8-9

 ダビデ王はすぐれた人でした。彼は過ちを犯さなかったからすぐれていたのではなく、過ちを犯した後、すぐ罪を告白していた心の砕かれた人だったからです。その彼が罪を隠していたときがありました。バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、彼女の夫ウリヤを殺した罪を犯した後のことです。後にナタンの叱責によって彼はすぐに罪を言い表しましたが、その間、どれだけ心の内で苦しんでいたかが、詩篇に描かれています。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(32:3-4

 けれども彼は罪を言い表しました。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(32:5」それで彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人。(32:1」と言ったのです。

28:15 うなる雄獅子、襲いかかる熊、寄るベのない民を治める悪い支配者。28:16 英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、長生きをする。

 ここの「長生きをする」というのは、長く治めることができる、と言い換えても良いでしょう。不正な利得を憎む君主はその治世が長くなる、ということです。

28:17 流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。

 これも先に出てきた格言と同じ内容です。誰も彼を捕まえようとしていなくても、いつも逃亡しているような生活を歩みます。それは死ぬときまで墓に入るまで続く、と言うことです。

28:18 潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。

 私たちが正しいことをしているのであれば、どのような災いが自分の身に降りかかったとしても必ず救われる、という確信です。ダニエルの三人の友人がネブカデネザル王の前で、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。(ダニエル3:17」と告白したようにです。

28:19 自分の畑を耕す者は食料に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。28:20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。

 堅実さ、忠実さを、箴言また聖書全体が教えています。主から与えられた務めをしっかり果たしていれば、主がその結果に責任を取ってくださる、ということです。そして主から、「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:23」という評価を受けます。

28:21 人をかたより見るのは良くない。人は一切れのパンで、そむく。

 これは裁判官を意識した言葉です。賄賂は、たった一切れのパンであっても人の心を変えることができ、その結果、裁判において偏った判決を下す、と言うことです。

 ヤコブは手紙の中で、教会の中でそのような偏りがある、と叱責しています。金持ち風の人が会堂に入ってきます。案内人はその人に、「どうぞ、良い席にお座りください。」と言います。けれどもみすぼらしい格好をした人は、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわっていなさい。」と言います。おそらく会堂が混んでいる状況で話したのでしょう。このような差別は、「悪い考えで人をさばく者になったのではありませんか。(2:4」と言っています。

28:22 貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。

 先ほど出てきたのと同じ内容の格言です。一攫千金を狙うと、かえって欠乏が来ます。ギャンブルや宝くじはこの類のものです。

28:23 人を責める者は、へつらいを言う者より後に、恵みを得る。

 ここでのキーワードは「後に」です。即効的な反応は、へつらいの後にやって来ます。人をおだてれば、その人はその瞬間は良い反応をします。けれども、本当にその人のことを思って、否定的なことを言ったら、その時は良い顔をしませんが、後にあって「あの言葉は必要だったよ。ありがとう。」と言われます。

28:24 自分の父母の物を盗んで、「私は罪を犯していない。」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である。

 家の中にある両親のものを盗む・・・これはもちろん罪です。けれども、「罪を犯していない」としらばっくれるならその人は滅びに至る、ということですが、イエス様がこれを宗教的な人が犯している過ちであることを指摘されました。「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。(マルコ7:10-12

 神にささげる、と言って、父や母を助けるために使うべきお金を神殿に持ってきなさい、と宗教家たちが言っていました。もし私たちが教会で、家族のために仕えなさい、ということを教えずにお金や時間を、献身という名で強要するなら、同じ罪を犯しているのです。

28:25 欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主に拠り頼む人は豊かになる。

 聖書は、私たちが禁欲生活をしなさい、と教えていません。むしろ豊かになりなさい、と教えています。ここが仏教やその他の東洋思想との違いですね。けれども、その豊かさの意味が、単なる物質的なものではないことを聖書は教えています。霊的な事柄において豊かになりなさい、ということです。そして、それは主に拠り頼むことによって醸成される、ということです。

 霊的な栄養をきちんと摂取しなければ、栄養失調状態になります。何か他のもので自分を満たそうとする心、つまり欲望が出てきます。互いに分け与えるのが交わりの基本ですが、そうではなく相手から奪い取ろうとします。そうすると、争いが起こります。パウロは、そのような人を「肉に属する人」とコリント人への手紙第一3章で言いました。

28:26 自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。

 これが信じていない人が正しいこととして信じていることです。「自分を信じなさい。」とよく言いますね。そして宗教は、心の弱い人が信じるものだ、と教えます。しかし聖書はその逆を教えています。自分がいかに頼りにならない存在かを教えています。だから、神からの知恵を求めて、その知恵にしたがって生きることを呼びかけています。

 そして信仰が成長するとは、自分が強くなることではなく、いかに神に信頼できるのか、その信頼度の成熟度であると言うことができます。

28:27 貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。

 再び貧しい人への施しについての教えです。王が治める時に、貧しい人をどのように助けているのかが問われることが分かります。クリスチャンの倫理として、貧しい人に目を向けることがその一つに上げられることは明白です。

28:28 悪者が起こると、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人がふえる。

 先に出てきた格言と同じです。ジョエル・ローゼンバーグ氏は自分のブログの中で、フセイン元イラク大領領が絞首刑に処せられる直前に、「彼の救いのために祈りましょう。」と書いていました。これはすばらしいことです。ナチスのアイヒマンに対しても、彼の死刑の直前に伝道の努力が行なわれたことを聞いています。

 これは正しいことであり、どんな悪人でもキリストの恵みから漏れることはありません。けれども原則として悪者は滅びなければいけません。専制君主は死ななければいけません。今日、世界の悪い指導者に懐柔する他の国の指導者らが多すぎます。金正日に懐柔する指導者がいかに多いことでしょうか。パレスチナのテロリストに懐柔する指導者がいかに多いことでしょうか。イスラエルの指導者までが懐柔策を出しています。先ほどの、「おしえを捨てる者は悪者をほめる。」という間違いを犯しています。

2A 律法による幻 29
29:1 責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。

 これが厳粛な戒めです。神は忍耐深い方です。神はまず警告してくださいます。私たちがこんな悪を行なわないように、もし行なったらこのようなことが起こる、と警告してくださいます。それでも私たちが行なったら、神はもっと強く、注意喚起を行なわれます。あるときは病気になるかもしれないでしょう。あるときは地震・災害かもしれません。あるときは財産を一気に失うことかもしれません。それらは呪いではなく、むしろ私たちが目をさまして祈ることを促している徴の一つです。

 けれども、それらの数々の警告に耳を傾けなかったら、残っているのは滅びだけです。もう立ち返ることはできません。エジプトのパロがそうでしたね。モーセを通して主の御言葉を聞いていたのに、心を強情にしていたから、彼はついに紅海の中でおぼれ死にました。

29:2 正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。

 何度も何度も出てきています。国を治める指導者は正しい人でなければいけません。後に出てきますが、国の強さは経済力でもなく軍事力でもなく、正義です。

29:3 知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。

 遊女と交わればいろいろな弊害がありますが、財産を滅ぼすのがその一つです。風俗に通ったら、たちまちお金はなくなります。

29:4 王は正義によって国を建てる。しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。

 重税になってくれば国がおかしくなっていることの現われです。今の日本はどんどんおかしくなっています。

 イスラエルの国が分裂した理由が、重税でした。覚えていますか、ヤロブアムを代表者にしたイスラエルの人々は、ソロモンの子レハブアムに税負担を軽減してほしいと願い出ました。ところがレハブアムはさらに多く取り立てる、と言いました。それで完全に信頼を失い、イスラエル人はヤロブアムを王に立てて、北イスラエル国を作ったのです。

29:5 自分の友人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。

 ここでの「へつらう」は、相手を欺くために、なめらかな言葉を使うことです。そのようなことを行なえば自分自身がわなに陥ります。

29:6 悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。

 正しい人に約束されているのは、喜びと楽しみです。罪から離れていることによって、世の思い煩いからも解放されています。そこから出てくる喜びと楽しみです。

29:7 正しい人は寄るベのない者を正しくさばくことを知っている。しかし悪者はそのような知識をわきまえない。

 悪者は、理解することができません。なぜ弱い人、貧しい人を助けなければいけないのか、何の得にもならないではないか、という疑問を抱きます。けれども、正しい人は貧しい人を助けることによって自分は不足することはない、という霊的原則を知っています。貧しい人を助けることによって、神ご自身の心を代表していることを知っています。

29:8 あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。

 知恵はいつも、平和へと向かわせます。争いがあるところで、知恵のある言葉を語ることによってその対立を解消させます。人々の怒りに平和をもたらします。

 私たちは、もっともっと教会に知恵が必要です。対立が起こるとき、問題が生じるとき、私たちはどれだけ神に拠り頼んでいるでしょうか。私たちがどのような言葉をかければよいのか分かりません。いや、何も言わないときのほうがいいときもあります。知恵です。知恵が与えられれば、そこに平和ももたらされます。

29:9 知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。

 かつて、インターネットのキリスト教の掲示板で、教会の姉妹たちにナンパしている自称クリスチャンがいました。私は、その人に対してペテロ第二の手紙にある偽教師の描写を引用しました。そうしたら、その人は徹底的に私への糾弾を始めました。ここに書いているとおりです。怒り、あざ笑い、休むことがありません。

29:10 血に飢えた者たちは潔白な人を憎み、正直な人のいのちをねらう。

 ここも9節と同じです。自分の悪事が明らかにされるや、徹底的にその人を攻撃します。

29:11 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。

 怒りをぶちまけて、解消したほうがいい、という心理学の教えがありますが、怒りをぶちまけて何もいいことはありません。後に出てきますが、他の罪も連鎖的にどんどん犯していきます。怒ってもそのままにしないのが、聖書の教えです。自制する必要があります。

29:12 支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。

 これは支配者の重大な責任ですね。偽りの言葉を聞き入ったら、自分だけの被害には収まりません。自分の支配の下にいる人々がみな悪者になってしまいます。日本の会社の組織でよく起こることですね。教会でも起こり得ることです。

29:13 貧しい者としいたげる者とは互いに出会う。主は、この両者に日の光を見させる。

 神は、人を完全に平等にされます。一人ひとりが、神に対して、個人的に申し開きをしなければいけません。

29:14 誠実をもって寄るベのない者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。

 再び出てきました。王の素質として、その一番にあげられるものとして貧しい人への配慮があるのでしょう。

29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

 箴言にこれまでも躾についての教えがありましたが、それをしなかったらどうなるかについて、ここに書いてあります。わがままにされた子は、母に恥を見させます。わがままな子によって被害を受けるのは、父よりも母です。反抗的な子と、毎日、顔を合わせなければいけません。

29:16 悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。29:17 あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。

 親は、しつける時に神経を使います。できるなら、そのまま、ほおっておいてもいい、と自分の肉は考えます。けれども、それは一時しのぎのことなんだよ、と箴言は教えます。しつけは、その子のためだけでなく、自分に平安と喜びをもたらすものでもあるのだよ、と教えています。

29:18 幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。

 幻あるいはビジョン、これは非常に大切です。これから行く先はいったい何なのかを教える指導者は必ず必要です。女性の悩みの一つは、自分の夫がこれからどのようにして家庭を引っ張っていくのかがわからない、というものでしょう。会社でも教会でも、社長あるいは牧師がどのようにひっぱっていくのか分からなければ、「だったら、自分のやりたいようにやらせてもらいます。」という反応がでてきても、しかたがありません。

 ただし幻は、積極的思考によってもたらされるものではありません。「律法を守る者は幸いである」とありますね。御言葉の中から出てくるものです。幻だらけの書物である黙示録を読んでください。そこは、旧約聖書からの引用が何百とあります。また黙示録は、イエス・キリストを啓示したものである、という書き出しがあります。幻は、御言葉に精通しているなかで、キリストの姿をはっきり見ることができ、そして自分の思いに浮かんでくるものです。

29:19 しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。

 主人と僕の関係をよく表しています。強制的に何かをさせないと何もできないのが僕です。私たちと神との関係は、成熟した関係はそうではありません。イエス様が弟子たちにこう言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15」言葉だけで良い関係は友の関係です。イエス様の言葉を聞いただけで、イエス様を愛しているがゆえに、それに聞き従う関係です。

29:20 軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。

 私たちは、後で責任をもてないような言葉をつい話してしまいます。けれども、どれだけ大変なことか、後でわかります。

29:21 自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには彼は手におえない者になる。

 ここも、しっかりと訓練を施す必要性について説いています。日本やアジアの人たちの考えは、「幼いときに甘やかしておかないと。大きくなってからいろいろな制約があるのだから。」というものです。しかし、幼いときにこそ厳しくしなければいけない、というのが聖書の教えです。

29:22 怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。

 先に説明したとおり、怒るとそれだけに収まらず、他の罪も犯します。

29:23 人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。

 自分を高める人は低くされ、自分を低くする者は高められる、というのは聖書全体の原則です。

29:24 盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。

 ここは英訳ですと、「彼は真実を宣誓するが、何も明らかにしない。」となっています。つまり法廷でのことです。自分も盗人のかどで捕まりますが、何を言われても黙っているしかなくなります。自分の無実を晴らすような証言は当然出せません。

29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

 これは私がクリスチャンになって間もないときに、ある人から与えられた御言葉です。人がなんと思っているのかといつも気にしながらクリスチャン生活を送ることはできません。それを行なうと、わなにかかります。けれども主により頼みます。そうすれば守られます。

29:26 支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。

 これも25節の格言と同じです。私たちは人のことを意識していたら、クリスチャンとして非常に非健康です。同じように、クリスチャンの良心に照らして、この国の法律は行なってはいけないと思ったら、行なってはいけません。だれが自分を裁くのかを、ここで思い出さないといけません。

 イエス様が何を恐れなければいけないのかを教えられました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5」神を恐れれば、人の恐れがなくなります。逆に人を恐れると、神への恐れを忘れてしまいます。

29:27 不正な人は正しい人に忌みきらわれ、行ないの正しい人は悪者に忌みきらわれる。

 私たちは両方を満足させることはできません。正しい人か悪者かのどちらかなのです。クリスチャンの間でさえ、何か善悪の判断を迫られる問題について、その中庸を取ろうと努力する人たちがいます。けれども、ここに書かれているとおりどんなに努力しても無理なのです。善か悪かのどちらかなのです。

 こうして王の支配についての箴言を読みました。次回で終わりますが、興味深い二つの章があります。最後は有名な、知恵のある、しっかりとした妻です。


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