1A 愚かさを認める知恵 30
1B 神への信仰 1−9
2B この世の観察 10−33
2A しっかりとした妻 31
1B 酒と女 1−9
2B 知恵の賞賛 10−31
本文
箴言30章を開いてください、ついに箴言の学びの最後になりました。今日は30章と31章を学びます。ここでのテーマは、「すぐれた知恵」です。
30章と31章は、ソロモンではなく違う人によって書かれています。この二つの章が、これまでの箴言のまとめになっていると言えるでしょう、30章では自分に知恵が欠けていることの告白から始まります。31章では、かつて知恵が女にたとえられたとおり、知恵のあるすぐれた女が登場します。
1A 愚かさを認める知恵 30
1B 神への信仰 1−9
30:1 マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。
このアグルについては、ここに出てくる以外に聖書でどこにも見つけることができません。けれども次の言葉から、彼がソロモンの箴言を読んで影響を受けている人であると考えられます。
30:2 確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。30:3 私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。
彼は、「人間の中で最も愚かだ」と言っています。似たようなことを言った人がいますね?そうです、使徒パウロです。「私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)」と彼は言いました。私たちが、本当に神に触れるとき、本当に知恵に触れるとき、自分にいかに知恵がなかったことかに気づきます。自分がいかに罪人であるかに気づきます。その罪の深さ、また愚かさの深さを悟るとき、アグルのように、「私は人間の中で最も愚かだ」という告白をするのです。
そして彼は、「聖なる方の知識も知らない」と言っています。知恵は聖なる方の知識から出ていることを知っています。そこでこう話しています。
30:4 だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。
これは、ヨブ記にも出てくる表現ですし、また箴言8章にも出てくる表現です。知恵は、天地を創造した、という話です。私たちがどのようにして自然界が造られ、またそれが今も保たれているのか、少し考えるだけで圧倒されます。そんな賢いことを、どうしてできるのかと思い、驚きます。
そしてここで興味深いことに、「その子の名は何か。」とアガルは言っています。天地創造の神に子がいることを言及しています。聖書全体に、神に独り子がいることが証しされています。詩篇二篇7節に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と神が、詩篇の著者の主に言っています。イザヤ書9章には、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(6節)」とあります。神であり、かつ神の子である方がいらっしゃることを証ししています。
私たちは、ナザレ人イエスがその方であることを知っていますね。アグルが証ししたように、天地を神が創造された時から、この方も創造の御業に加わっておられたことを、パウロもコロサイ書で述べています。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。(1:16-17)」
30:5 神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。30:6 神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。
神の知識と知恵に圧倒され、自分が愚かであることを悟ったアグルは、自分の拠り所を決めていました。それは、神の御言葉です。これが純粋であり、盾になります。
私たちの頭の中では、いつも闘いがあります。それは自分の悟り、自分の理解と神の知識との闘いです。自分では理解できないこと、理屈にかなわないことが起こっていても、その悟りに頼ってはいけないことを知っています。力を尽くして主に拠り頼み、主の命令に聞き、主の約束に期待することを知っています。そうは言ってもやはり、私たちの頭は「なぜ?」という疑問符が飛び交います。
そこで私たちの人間理解が必要なのです。アグルのように、自分が人間の中で一番愚かであることを悟っているかどうかが問われるのです。自分が知恵ある者であると少しでも思えば、どうしても神に頼ることができないプライドが生じます。しかし、私たちがこれまで学んできた箴言を通して、これにすがれば平安があることを知っている人は、必死で知恵にすがります。自分は頼りにならない存在であることを知っています。
そして御言葉について、「付け足しをしてはならない」とアグルは言っています。非常に大切ですね、私たちは、御言葉は聞いても、御言葉だけでなく自分の理解も混ぜ合わせて考える傾向があります。御言葉だけでなく、人間の学問も大切なんだよ。人間の心を知るためには、御言葉だけでなく心理学も必要なんだよ。教会を運営するには、聖書だけでなく、経営コンサルタントも必要なんだよ。これは付け足しです。
黙示録には、付け足してもいけないし、取り除いてもいけない、という戒めが最後に書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(22:18-19)」神の御言葉は完全です。
30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
非常に謙虚な願いを、アグルは主に申し上げています。富について、財産について、自分の弱さを知っている彼は、「富も貧しさも与えないで下さい」と願っています。私たち人間は二つの極端に陥りがちですね。信仰を持てば裕福になれる、という誤った考えがあります。その反面、貧しいことが美徳であるかのような教えもキリスト教会にはあります。けれども、どちらも自分の弱さをわきまえていない、高慢の裏返しなのです。彼は貧しくなったら盗みをして、神の御名を怪我してしまうかもしれない、富んだら神を忘れてしまうかもしれない、と神さまを思う思いのゆえに、どちらにもしないでください、と頼んでいるのです。
私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があります。それで満足すべきであると、パウロはテモテへの手紙で教えています。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(1テモテ6:6)」
2B この世の観察 10−33
そしてアグルは、この世で起こっていることを観察して、その愚かさ、また賢さについて述べています。
30:10 しもべのことを、その主人に中傷してはならない。そうでないと、彼はあなたをのろい、あなたは罰せられる。
「他の人のことは、主に任せなさい。」ということです。本人と神との間の関係のことであるのに、おせっかいして、その問題に関わろうとするのは知恵のないことです。パウロが兄弟を裁いてはいけないことについて、次のように戒めました。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(ローマ14:4)」
インターネット上には、既存の教会を批評することによってしか自分の存在を明かすことのできない人たちがいます。教会を立てるのも倒すのも神にしかできないことであり、私たちが干渉する問題ではないのです。
30:11 自分の父をのろい、自分の母を祝福しない世代。30:12 自分をきよいと見、汚れを洗わない世代。30:13 なんとも、その目が高く、まぶたが上がっている世代。30:14 歯が剣のようで、きばが刀のような世代。彼らは地の苦しむ者を、人のうちの貧しい者を食い尽くす。
アグルが当時の世代を見て、出てきた言葉です。これまでの箴言と同じ内容ですが、また終わりの時にパウロがこうなると言っている時代に似ています。テモテ第二3章1節から5節に書かれていますが、そこに「両親に従わない者」が出てきます。また、「見えるところは経験であっても、その実を否定する者になる」とあります。12節の「自分をきよいと見、汚れを洗わない」と同じですね。また「不遜な者」や「慢心する者」も出てきます。13節の内容と同じです。そして、「そしる者」が出てきますが14節の内容と同じです。
そして次から、興味深い格言が続きます。自然界や世の中を観察して、「こういうものが三つある」と言い、「いや四つある」と言い換えて、四つ目に要点を突く表現を使っています。ちょっと見てみましょう。
30:15 蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。
蛭です、吸血の虫です。あの蛭のように、飽くことを知らず要求するものがあります。
30:16 よみと、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。
陰府、つまり死者が行くところは飽くことを知りません。必ずいつでも人々が死にます。そして不妊の胎は、子を産みたいという叫びを上げています。それから、水に飽くことを知らない大地、とありますがイスラエルの地域は乾燥しています。水を渇望しています。そして火です。最近起こったカリフォルニアでの山火事を見れば、分かるでしょう。
30:17 自分の父をあざけり、母への従順をさげすむ目は、谷の烏にえぐりとられ、わしの子に食われる。
これがパンチ・ライン、つまり突きたいツボです。両親を敬わないその心は、今のたとえに表れている欲望があります。自分のやり放題のことをしたいという子の思いです。
そしてそれに対する罰は、猛禽に食われることですが、聖書にはこれが神の裁きの現われの一つとして描かれています。神とキリストに反抗する世界の軍隊がキリストによって滅ぼされてその死体を猛禽が食います。それを「神の大宴会(黙示20:17)」であると呼んでいます。
30:18 私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。30:19 天にあるわしの道、岩の上にある蛇の道、海の真中にある舟の道、おとめへの男の道。
おとめへの男の道を言い表したいために、たとえを三つ話しているんですね。この三つの例えに共通することは何でしょうか?「すぐに消えて、わからなくなる道筋」ですね。売春婦に通う男の道も、すぐに消えて分からなくなる、ということです。箴言のほかの箇所で、「彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(7:27)」とありました。このことです。
30:20 姦通する女の道もそのとおり。彼女は食べて口をぬぐい、「私は不法を行なわなかった。」と言う。
何の罪悪感もありません。ポルノの世界はさることながら、普通のテレビ番組に出てくる多くの女性が、何のためらいもなく自分の体を商品にしています。不法を行なっているという意識はありません。
30:21 この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。30:22 奴隷が王となり、しれ者がパンに飽き、30:23 きらわれた女が夫を得、女奴隷が女主人の代わりとなることによって。
人や物を治め、管理する用意ができていない人がそのような立場に立ったら、恐ろしい事が起こるということです。
箴言では常に、勤勉である者が王の前に立つ、つまり引き上げられるとありました。また、勤勉である者がパンに飽き足りることも書かれていました。自分が仕えることによって、自分が何かに服従することによって、初めて人を従えさせる力を、自分で得るのではなく上から与えられます。主は弟子たちに、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マルコ11:43)」と言われました。仕えるのです。そうしたら主が引き上げてくださいます。
30:24 この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。
自然界を見て、本当に不思議になることがあります。アグルは、身近に見ることができる昆虫や小動物に目を留めて、その賢さに驚いています。
30:25 蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。
一つ目は蟻です。箴言で以前も出てきましたが、彼らは夏のうちに冬支度をします。彼らの脳みそを考えてみてください、ものすごく小さいです。けれども神は蟻に知恵を与えてくださいました。
ここから得られる知恵は、前もって計画し、前もって備えることです。イエス様が、不正の管理人の話をされました。主人の財産の乱費で、首にされます。けれども、帳簿で負債のある人たちのところに行き、負債額を書き直してあげました。自分が解雇された後に恩を売っておくためです。
主人はこの管理人をほめました。彼の不正をほめたのではなく、知恵をほめたのです。イエス様は、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない(ルカ16:8)」と言われています。私たちが天の御国のために、どれだけ前もって今の時間を使っているでしょうか?その抜け目なさについては、世の人たちのほうがはるかにまさっています。
30:26 岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。
岩だぬきは、シリアハイラックスと呼ばれており、ウサギ程度の大きさしかありません。けれども、岩間にその巣を設けているので外敵から身を避けることができます。詩篇に、その他の箇所に、何度も何度も神が私たちの救いの岩であることが書かれていますが、岩だぬきにその知恵が隠されています。
30:27 いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。
いなごの群れによって、一帯が猛打撃を受けます。彼らに指揮系統はありません。彼らが行なっているのは、ただ一緒に動くことです。ここの知恵は、キリスト者が一つになることです。それがどれだけ大きな力になるのかを知らずに、私たちはそれぞれの違いで分裂しています。
30:28 やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。
王の宮殿にいれば、王よりも強い者でなければやもりを捕まえることができません。けれども、もちろんそんな人はいません。ここの知恵はもうお分かりですね、私たちが王なるキリストのうちにいればどんな強者によっても捕まえられることはありません。
ここに出てくる小動物はみな、小さい存在として共通しています。たった一人、また自分だけでは、すぐに踏みつけられるような存在です。私たちがこの小さな存在なんだよ、とアグルは言っています。私たちがどれだけ弱いのか、ちっぽけなのか理解している人こそ、神とキリストのうちに自分の身を避けるのです。
30:29 歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。30:30 獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、30:31 いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。
小動物とは対照的な、力のある勇壮な動物、また人間を挙げています。
30:32 もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、たくらんだりしたら、手を口に当てよ。
愚かなこととは、自分が小さいことを認めないこと、そして自分独りでやっていけると思うことです。自分が大丈夫だと思っても、堂々としている者たちが外で歩き回っているのです。立ち向かえることは到底できません。けれども、その愚かな行為を私たちはしてしまうのです。
30:33 乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。
先に、主人のしもべを中傷する者は傷を受ける、とありましたが、私たちは平和を造る者であって怒りを煽る者ではありません。誰かが他の誰かを良く思っていないことをよいことに、さらにその怒りを掻き立てるようなことを言うと、必ず争いが起こります。
2A しっかりとした妻 31
それでは最後の章、31章に入りましょう。箴言は、父が子に語りかけるところから始まりましたが、しめくくりは母が子に語りかけます。
1B 酒と女 1−9
31:1 マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。
アグルと同様、このレムエルという人物もここにしか出てきません。だから誰であるかわかりませんが、王であることは確かです。ある人は、レムエルというのはソロモンの母バテ・シェバが、自分の子ソロモンを呼んだ時のニックネームではないか、と言っています。いずれにしてもこれから読む格言は、母親らしい知恵を持っています。
31:2 私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。
この母親は、子供が生まれる前に神に誓願を立てています。覚えていますか、サムエルの母ハンナは、不妊の女でした。彼女が宮で祈っているとき誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。(1サムエル1:11)」同じようなことを、この母親も行ないました。すばらしいことですね。主にあって育てることを決意した母によって育てられた子は幸せです。
31:3 あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。
王が陥る過ちの一つが、女です。ソロモンが晩年この過ちに陥りましたが、男の解消ということで女に自分のエネルギーを注ぐことは常です。けれども箴言をこれまで学んできたように、これによってその男の人生は破壊されます。後で、すぐれた女について母が話します。女性を見る目を変えなければいけません。
31:4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。31:5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。
箴言には、酒の弊害についてたくさん書かれていましたが、特に王のような役職についている者は酒を飲んではいけない、という戒めです。理由は、王は勅令を出す立場におり、また人々の仲裁をしなければいけない、明晰な分析力と判断力が要求される立場にいるからです。
教会においても、指導者はお酒を飲まない人という資格があります。監督者は「酒飲みではなく(1テモテ3:3)」と書いてあります。執事も「大酒飲みではなく(同8節)」とあります。明晰な判断力が求められる立場にいるから、お酒でその判断力を曇らせてはいけないのです。
31:6 強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。31:7 彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。
これは反語的な言い回しです。お酒というのは、人を滅ぼし、心に痛みを増し加え、貧困をもたらす、ということです。このことについては、もう学びました。
31:8 あなたはおしのために、また、すべての不幸な人の訴えのために、口を開け。31:9 口を開いて、正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。
これも、何度も何度も出てきました。王は、自分の力では訴えることができない人たちを代弁しなければいけない、ということです。
2B 知恵の賞賛 10−31
最後に、母が教える魅力的な女性の紹介です。妻としてふさわしい女性は、男が求める単なる美しさではないことを教えています。
そしてここは、箴言のクライマックスと言っても良いでしょう。これまで語られてきた知恵をかなえ備えた女性ということができます。
31:10 しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
「しっかりとした」は、英語だとnobleつまり「高貴な」という訳になっています。真珠よりも貴い女性です。
31:11 夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。31:12 彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。
この女性は非常に働き者で、家計を支えています。その具体例が次から書かれています。
31:13 彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。
彼女は自分の手で衣類などを仕立てます。また後で詳しい描写があります。
31:14 彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。
家族のための食糧の調達です。昔は今のように、スーパーマーケットで済ませることはできません。市場に行って、それぞれのお店で値段交渉をしながら歩き回ります。そして、いっぱい食糧を抱えて帰ってきます。それはさながら、商人の舟のようです。
31:15 彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。
朝早くから食事の支度をします。私はいつも、自分や他の人たちの母親が朝早くから起きてしたくする姿に驚きます。なんと献身的なんだろうと。けれども、これが神が女性に与えられた知恵なのです。
31:16 彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、31:17 腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。31:18 彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。
彼女は副業をしています。専業主婦が理想の姿だと私たちは思っていますが、聖書的にはそうではなさそうです。
日本や韓国など、儒教の影響がある国では、女性に能力があることを男は脅威に感じます。自分よりも妻のほうが収入が多いと、夫の甲斐性がないと感じます。けれども、そんなことないのです。妻がいろいろなことをやりくりする能力があることは、称賛に値することなのです。
31:19 彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。31:20 彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。
ああ、何とすばらしい女性でしょうか!自分の家庭だけにうずもれることなく、他の人々にも目が行き届く余裕があります。チャック(牧師)の奥さんのケイは、海辺にいるヒッピーたちを見て、彼らのために祈らなければいけないとチャックに言いました。チャックが嫌がっているのを彼女が引っ張りました。けれども、その祈りがジーザス・ムーブメントの始まりでした。
私も自分の妻が、私が関心をそれほど寄せていない人々のことを言及して、何かしてあげようと言い出してくれるのがとても嬉しいです。
31:21 彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。31:22 彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。
財政面だけではなく、家族の福利もよく考えています。皆が寒い思いをしてはいけないと思って作った服は、上等でふかふかのものです。
31:23 夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。
「町囲み」というのは門のことです。行政的な手続きが行なわれる所です。つまり夫は、行政的な手続きをしている仕事をやっています。大事な決定は男がします。これを女が支えます。しばしば、奥さんへのほめ言葉で「この奥さんあっての旦那さん」と言われますね。夫は大事な仕事をしているのですが、その周りですべての切り盛りを妻が行なっています。
31:24 彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。
彼女の作った衣類は、家庭だけでなく販売して家計の足しにしています。
31:25 彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
勤勉に働いているので安定した未来を期待できる、ということです。これまで学んできた、勤勉な者に対する確実な報酬のことです。
31:26 彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
彼女は黙々と働いているだけでなく、口を開けば、その生活を物語っている恵みの言葉が出てきます。テトスへの手紙の中で、「同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。(2:3)」とあります。仕えるだけでなく、教えることもできます。
31:27 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
主婦業は怠けようと思ったらいくらでも手を抜ける、とも言われますね。反対に、いくらやっても奥が深い仕事でもある、と言われますね。
31:28 その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。31:29 「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。
子供からほめられるだけでなく、夫もほめています。
31:30 麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。31:31 彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。
ここが最後の箴言の言葉です。箴言の最初も、主を恐れることが知恵の始めということが書かれていました。
そして最後に女性が描かれているのも興味深いです。箴言8章では、知恵が女に例えられていました。知恵の中で生きることが何と魅力的なのかが、この章でよく分かります。
次回から「伝道者の書」を学びます。私たちはこれまで「知恵」について学びましたが、これは一つ間違えると、知的な労苦に成り果ててしまいます。霊的な知恵とそうではない知恵の違いについて学ぶことができます。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME