箴言4−6章 「わが子よ」

アウトライン

1A 父からの訓戒 4
   1B 祖父からの継承 1−9
   2B いのちの年 10−19
   3B 正しい道筋 20−27
2A 他国の女 5
   1B 滑らかな口 1−6
   2B 最悪の状態 7−14
   3B 若い時の妻 15−22
3A 避けるべきもの 6
   1B 保証人 1−5
   2B なまけ者 6−15
   3B 主の憎むべきもの 16−19
   4B 人妻 20−35

本文

 箴言4章を開いてください。今日は4章から6章までを学びます。ここでのテーマは、「わが子よ」です。前回の学びでもそうでしたが、1章から9章は、ソロモンが自分の子を呼び教え諭す箇所になっています。

1A 父からの訓戒 4
1B 祖父からの継承 1−9
4:1 子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。

 この箇所の呼びかけは「子どもらよ」となっています。レハブアムだけでなく、ソロモンの他の子もそこにいるのでしょう。

4:2 私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。4:3 私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、4:4a 父は私を教えて言った。

 ソロモンが与えている教訓は、彼の父から譲り受けたものでした。ソロモンの父はもちろんダビデです。そして母はベテ・シェバです。

 ソロモンは、自分のことを「おとなしいひとり子」と呼んでいます。父ダビデは勇士であり、男らしさ、勇ましさを持っていたのに対し、ソロモンはちょっとひ弱だったのでしょう。ダビデがこの世を去る前、ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(1列王2:2」と言いました。

 ダビデは、自分の息子たちに歯向かわれた人生を送りました。アブシャロムによって一時期エルサレムを追われ、アドニヤによって、ソロモンへの王位継承を危ぶまれました。アドニヤが野心を抱き王になろうとした理由が、列王記第一1章6節に書いてあります。「彼の父は存命中、『あなたはどうしてこんなことをしたのか。』と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。そのうえ、彼は非常な美男子で、アブシャロムの次に生まれた子であった。

 このように子供を主にあって訓戒し、訓練しなかったことで、ダビデは大きな教訓を学びました。それで彼はソロモンにはしっかりと教えたようです。

4:4b 「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。4:5 知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。4:6 知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。

 知恵によって、あなたは守られ、保たれるという約束です。

 ところで、英訳の聖書ではここの箇所の代名詞が「彼女」になっています。6節は「彼女を捨てるな。彼女があなたを守る。彼女を愛せ。彼女があなたを保つ。」となっています。知恵が単なる抽象的な概念でははなく、神との関係の中にあって心に抱くもの、人格的なものであることを表わしています。特に、1章から9章では、見知らぬ女や人妻のほうに向かうな、という戒めがたくさんあります。本当に愛し慕うのは、それらの女ではなく、知恵という彼女なんだよ、と訴えかけているのです。

4:7 知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。

 知恵を第一にし、優先事項にしなさいという意味です。「すべての財産をかけて、悟りを得よ。」と言っていますが、一般社会では「すべての財産をかけて、知識を得よ。」もっと卑近に言うと「すべての財産をかけて、大学入試のための知識を得よ。」でしょう。子供への教育に、自分たちの家計のほとんどを注ぎ込む勢いですが、同じぐらいの情熱をもって、神の知恵、神の理解を得なければならないということです。

 知識があるということと、知恵を持っていることは別です。何か愚かなことをしている人を見て、「そんなに頭が悪いはずはないだろうに。」という言葉を私たちはよく使います。まるで、教育を受けていない人が悪いことをし、教育があれば分別を持っていると言わんばかりです。けれども、知恵の初めは主を恐れることであることを、私たちは前回学びました。主への恐れを教えない教育は、何ら私たちに賢明に生きる助けにはならないのです。

4:8 それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。4:9 それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。」

 知識について三つの約束が与えられています。「あなたを高めてくれる」「誉れを与える」そして「栄光の冠を授けよう」です。

 このようにソロモンは、父ダビデから教えられた事を基にして、自分の子供たちに教え諭しています。聖書には、子供へ主の教えを継承しなさいという命令があります。モーセがイスラエル人たちに、「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。(申命6:6-7」と言いました。

 霊的にも同じことが言えます。パウロは、霊的に自分の子であったテモテに対して、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(2テモテ2:2」まずテモテ自身がパウロから主の教えを聞き、そして他の人に教えます。そしてテモテから聞いた人々が今度はまた他の人々に教えることができるようにしなさい、という意味です。家庭の中で実際の息子、娘たちに主の教育を施すことも重要ですし、教会の中で聖徒たちを整えて、良い働きができるように教えることも重要です。

2B いのちの年 10−19
4:10 わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。

 「わが子よ。」と言っていますから、今はレハブアムだけに語りかけているようです。

 「あなたのいのちの年は多くなる。」とあります。前回話ましたように、十戒の「父と母を敬え」の戒めの次にも、自分の齢が長くなるという約束がありました。今さっき読んだ箇所、4節にも、「生きよ」との約束があります。知恵と命は深く関わります。

4:11 私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。4:12 あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。

 私たちの歩みの中で、不便を強いられたり、つまずきがでてしまうのは、正しい道筋からはみ出てしまうからであることを、体験から良く知っています。「損をした」「愚かだった」と自分を責めるときは、決まって主から命じられているところの知恵から離れてしまっている時です。

4:13 訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。

 再び「いのち」という言葉が出てきました。

4:14 悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。

 箴言1章にあった、「仲間に入るな」という命令に通じています。悪者が自分の周りを行き来しているが、その仲間に入るな、という意味です。

4:15 それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。

 自分が悪を行なわない道は、それを無視することです。それを避けることです。私たちが下手に悪に近づいてはいけません。好奇心によって近づいたり、正義感から悪がどういうものか知らなければいけないと思ったり、自分は影響されないと思っています。けれども、引きずり込まれます。

4:16 彼らは悪を行なわなければ、眠ることができず、人をつまずかせなければ、眠りが得られない。4:17 彼らは不義のパンを食べ、暴虐の酒を飲むからだ。

 悪には際限がない、ということです。一度、悪の味を知ると、それだけで終わりません。もっと悪を行ないたいと願います。悪から次の悪を行ないたいと欲します。

4:18 義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

 キリストは、マラキ書4章2節で「義の太陽」と呼ばれています。そして義人も、ダニエル書12章3節には、「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」という約束があります。

4:19 悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。

 「知らない」とあります。悪は、自分自身を欺きます。自分が何をやっているのか分からなくさせます。

3B 正しい道筋 20−27
4:20 わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。4:21 それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。

 ソロモンは「」に焦点を向けています。

4:22 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。

 再び「いのち」の約束、体の健康の約束が与えられています。霊的な健康状態は、精神的、肉体的にも良い影響を与えます。

4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

 心について、ある人がこう説明しました。「心には、自分の霊の王座がある。肉体の神殿の至聖所である。ここは貯水地であり、ここからいのちの泉が湧く。」ですから、私たちの最大の関心事は、自分の心を新鮮に、そしてきれいに保っていくことでなければなりません。

 私たちが悪いことをするとき、それは心から出ます。イエス様がこう言われました。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23」際限なく出てくる、心から汚水があります。私たちの内からは、良いものは出ず悪しか出ません。

 ではどうすれば、この心からいのちの泉が湧き出るようにできるのでしょうか?第一に、主イエス・キリストの御名を信じます。「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:11」私たちが主イエス・キリストの御名を呼び求めたとき、御霊によって私たちは洗われました。また、ヨハネ第一1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。キリストの御名、そしてキリストの血が、私たちの心を御霊によってきれいにしてくれます。

 第二に、御言葉を聞き、それを心に蓄えることです。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:3」「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119:11

 第三に、御霊に導かれることです。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ5:16」御霊に導かれることによって、私たちの内から出る悪い思いに打ち勝つことができます。

 そして第四に、主の再臨を待ち望みます。「しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3:2-3

 ここ箴言の箇所では、今話したうちで、三番目に直接関わっています。御霊はローマ8章2節で「いのちの御霊」と呼ばれています。そしてこの方は知恵の御霊でもあられます。イザヤ書11章2節です。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

 ですから、私たちが御霊に満たされることによって、心にチェック機能が働きます。何か良くないものが入りそうになると、警報装置が作動して警告ランプが点滅します。私たちが、心さえしっかり見張っておけば、後は主が潤いのある、命ある生活を約束してくださっています。

4:24 偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。

 私たちが悪い事をしていると、自ずとそれを隠したくなります。そこで偽りが生まれます。

4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。

 寄り道をするな、ということです。

4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

 心の中も注意して見張っているのですが、自分が今どういうところを歩いているかにも気を留めないといけません。今、自分が何を実際に行なっているかを見ることです。

2A 他国の女 5
1B 滑らかな口 1−6
5:1 わが子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。5:2 これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。

 聖書は、私たちが語る言葉について、私たちの舌や唇について多くを語っています。「くちびるが知識を保つ」とは、私たちが不必要なこと、無駄なことを言わなくてもよいようになり、必要に応じて、恵みを与え、徳を高める言葉を話せるようになります。

 そして次から、他国の女についての戒めです。

5:3 他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。

 「他国」の女、つまりイスラエル人ではない女であり、神の知識を持っていない女です。前回も話しましたが、女は初めに口で誘います。男はこの甘い、滑らかな言葉に脆いです。

5:4 しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。5:5 その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。

 悪魔が私たちに見せるものは、今すぐ、目の前のことです。エバを惑わした時も、善悪の知識の木の実を、見るからに好ましいものに見せました。すぐに満たされるものを提供します。けれども、その直ぐ後に何が起こるかについては何も話しません。ここに知恵が必要です。このようなことを行なったら次に何を起こるのか、自分が誘惑にあう時に知り、思いとどまることができるようにしてくれます。蜂の蜜をしたたらせる唇は、苦よもぎのように苦く、油よりも滑らかな口は、もろ刃の剣よりも鋭いのです。

5:6 その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。

 その女自身、自分が歩んでいるところが定かではないことを知りません。

2B 最悪の状態 7−14
 次にその女に通じてしまった後の男の状態のことを話しています。

5:7 子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。5:8 あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近づくな。5:9 そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、あなたの年を残忍な者に渡すだろう。5:10 そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。

 自分の尊厳、財産、評判など、これまで長年かけて積み上げてきたものがみな奪い取られてしまう、ということです。他の人との関係、信頼関係は、長い期間をかけて培われていくものです。夫婦関係を初め、親子関係、職場での人間関係、そして教会での兄弟姉妹間の関係です。これらをみな失ってしまいます。

5:11 そして、あなたの終わりに、あなたの肉とからだが滅びるとき、あなたは嘆くだろう。

 性病のことを言っています。性病が発生するのは、主が定めておられる関係、つまり夫婦関係以外のところで関係を持つからです。パウロも、ホモセクシャル、レズビアンの関係について言った後で「こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ1:27」と言っています。もっとも効果的な性病予防は、婚前交渉、婚外交渉をしないことに尽きます。

5:12 そのとき、あなたは言おう。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。5:13 私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。5:14 私は、集会、会衆のただ中で、ほとんど最悪の状態であった。」と。

 最後の結果は、霊的な状態です。主を信じている者たちの集会、会衆の只中で最悪の状態だ、と言っています。私たちが持っている、愛する兄弟姉妹の関係をもはや楽しめなくなる状態に陥ります。パウロも、また主ご自身も、罪を故意に犯して、悔い改めないようとしない者は追い出さなければいけないと命じています(1コリント5:11,13、マタイ18:17)。

3B 若い時の妻 15−22
 それでは、私たちがしなければいけないことは禁欲なのでしょうか?性欲というのは悪いものなのでしょうか?いいえ、違います。クリスチャン倫理について私たちが知らなければいけないことは、それは命を与えるものであること、命を豊かにさせるものであることです。「〜をしてはならない」という否定的な面だけでなく、必ず「〜をしなさい」という積極面もあります。本当の意味で、性的欲求の満たしを受けられるのは、自分の妻を楽しむことであるとソロモンは教えます。

5:15 あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。

 「あなたの水ため」とは、一心同体になった自分の妻のことです。そこから自分の満たしを得なさい、ということです。そしてそれは、「豊かな水」です。

5:16 あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。5:17 それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。

 「あなたの泉」とは、自分の性の欲求のことです。これを「自分だけのものにせよ」と言っています。自分の性欲と自分の尊厳とは密接につながっています。人間を単なる物質と考えれば、ただ体液が自分から流れ出るだけであると考えますが、体と魂と霊は相互につながっています。だから、それを十分に管理していくことによって、自分の尊厳も保つことができます。

5:18 あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。

 「若い時の妻」つまりいつまでも同じ妻、同じ女と喜び楽しめ、ということです。世は、複数名の人との関係を持てば満たされると教えますが、いのちの泉は同じ人との関係の中で、尽きることなく溢れてきます。

5:19 愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。

 ここを読めば、聖書が教えることが禁欲ではないことがはっきり分かるでしょう。性の営みを、思う存分楽しみなさい、と勧めています。そしてそれは祝福されたものです。

5:20 わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。

 「見知らぬ」という言葉が出てきます。再び、私たちの体と、魂また霊は密接につながっていることを覚えなければいけません。人格的な深い結びつきから離れて、肉体関係を結んでも、そこに何ら祝福はないのです。

5:21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

 主はすべてを見ておられます。自分たちが行ないたい隠れた暗闇のわざも、主の前ではすべて明らかにされています。

5:22 悪者は自分の咎に捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。

 自分は自由に自分の欲望を満たしていると思っていますが、実はその欲望の奴隷になっています。自分が止めたいと思っても、もうその時点では止めることができません。中毒状態です。

3A 避けるべきもの 6
1B 保証人 1−5
6:1 わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、

 口語訳も新共同訳も、ここを原語に沿って「手を打って誓い」と訳しています。今でもアラブ人の商人の間で、例えば羊の売り買いをする場で、この風景を見ることができます。

6:2 あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕えられたなら、6:3a わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。

 連帯保証人になることについてですが、2節の「あなたの口のことばによって」というのが、5章始めに出てきた、「あなたのくちぶるが知識を保つ」からつながっています。私たちは良く考えずにいってしまったことが、後で自分を束縛する強い力になることがあるので、気をつけなければいけないということです。

 連帯保証人の問題は、日本人であれば身に沁みて知っているでしょう。先進国の中では、連帯保証人制度は日本にしか存在しない、とインターネットで読みました。普通は、親族、いや家族関係の人しか保証人になりません。

 けれどもここの場合は、「隣人(あるいは友人と言い換えてもいいでしょう)」や「他国人」のために連帯保証になることです。私たちはもちろん、善に対してうとくあってはいけないし、困っている人に助けの手を控えてはならない、と教えられています。しかし、連帯保証または広範囲に、お金の貸し借りの領域においては、その友人関係や信頼関係をみな壊してしまうような危険を孕んでいる、ということです。

 借りた人が返済をすることができない場合、その関係は主人と奴隷の従属関係になります。債務者と債権者の関係になってしまいます。もはやそこには相互関係であるはずの友人関係ではなくなってしまいます。

 クリスチャンが持ったらいいお金の貸し借りの原則があります。お金を貸すときは、お金を与えることだと思って貸すことです。自分が与えることができる額を考えて、それから貸すことです。返ってくることを期待しません。そして借りた人が返す行為は、自分のためではなく、その人のためになります。自分の約束をきちんと守るという、クリスチャンとしての義務が試されているものとして、相手のためのものであると理解します。

6:3bあなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。6:4 あなたの目を眠らせず、あなたのまぶたをまどろませず。6:5 かもしかが狩人の手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ。

 私たちが保証人になってしまった場合、自分の言葉で相手と縛られた関係に入ってしまった場合、そこからの脱出法をソロモンは教えています。抜け道があればそこから一目散に逃げなさい、とのことです。もちろん自分が結んでしまったのですから、自分が悪いのです。だから、隣人にしつこくせがむ、つまり憐れみを請います。そして何とかしてその契約を解消してもらうのです。

2B なまけ者 6−15
 次に箴言の中に多く出てくる、「怠惰」についての話題です。

6:6 なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。

 なまけ者に対しては、蟻から知恵を学べと命じています。こんなに小さい昆虫から、脳みそが1ミリもないであろう昆虫から、学ばなければいけないというのは、非常に謙遜を要求されます。

6:7 蟻には首領もつかさも支配者もいないが、6:8 夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。

 蟻を観察していると、本当に神が知恵を蟻に与えられたのだなあということを思わされます。蟻には親分がいません。どの生態系においても、また人間においても親分の存在がなければ、まとまった行動は不可能ですが、蟻には、それができています。そして夏の間に冬のための食料を確保します。将来どうなるかを見据えて今から行動を取っています。

 この二つの特徴から私たちは、怠惰について学ぶことができます。一つ目は、怠惰な人はいつも、自分が動き出すときに他人に頼っている、ということが挙げられます。蟻は、他から何も言われなくても、しなければいけないことを自分で決め、行動します。けれども怠け者は、「何をやっているんだ。早くこれを行ないなさい。」と半強制的に言われないと行動に移しません。

 これが霊的にも同じことが言えます。自分がクリスチャンとしてしなければいけないことを、自分で能動的に行なっていくのではなく、牧師など他の人から「やりなさい」と強く言われない限り行動に移さなければ、それは霊的怠惰と呼ぶことができます。蟻から知恵を学ぶことができるのです。自分の食料については自分で動かないといけないように、霊的な命も自分自身で保っていかなければいけないのです。

 もう一つは、前もって用意することです。心の用意については、主がご自分について行っている人たちに、「費用の計算をしなさい」と言われました。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。(ルカ14:28-30」準備ができないで何かをしようとすると、後でその働きが無駄になってしまいます。

 そして、せっせせっせと働くことです。タラントのたとえを思い出してください。今、主が自分に与えてくださっているもの、財産でも、自分の能力でも時間でもそうですが、それらを主におささげして忙しくなる必要があります。それを行なわないことは霊的怠惰であり、自分には何もできないと決め込んでいた一タラントを受け取ったしもべは、その一タラントさえも取り上げられてしまいました。私たちは天に宝を積みます。今この地上で置かれている立場の中で、天に貯金をするのです。

6:9 なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。6:10 しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。6:11 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。

 すべての貧しい人が、怠惰のせいではありませんが、多くの場合、働き口を探すことなくただ一日をぶらぶらしています。霊的にも同じことが言えて、御霊のために種を蒔かなければ、霊的な枯渇状態、貧困状態が襲います(ガラテヤ6:8)。

6:12 よこしまな者や不法の者は、曲がったことを言って歩き回り、6:13 目くばせをし、足で合図し、指でさし、6:14 そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。

 怠けることと、不法を行なうことは関連しています。テサロニケ人への手紙第二を読むと、教会が出してくれるお金に頼って仕事をしない者たちのことが書かれています。「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(3:11-12」またテモテに対しても、彼が牧会している教会で、若いやもめの問題がありました。「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。(1テモテ5:13」きちんと働くことまた家事を行なうことは、収入の糧を得るということだけでなく、悪い事を行なわない予防にもなります。

6:15 それゆえ、災害は突然やって来て、彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。

 災害がやって来た時に、用意ができている人は助かります。けれども怠けて用意していなければ、滅ぼされます。

3B 主の憎むべきもの 16−19
6:16 主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。

 六つではなく、いや七つ、というのは、これから話す事を強調する言い回しです。

 私たちにも、嫌悪感を抱くものがあると思います。こういうことを見たら虫酸が走るとか、こういう人には我慢できないとかあるかと思いますが、主にもおありです。主が何を忌み嫌って、憎んでおられるのかを見ていきたいと思います。

6:17a 高ぶる目、

 七つのうち一番に来ているのが、高ぶりです。私たちは、殺人や盗みなど、はっきり目に見えるものを忌み嫌いますが、主が最も忌み嫌うのは、私たちの心の中の微妙な動きとも言える「高ぶり」なのです。私たちが気をつけていないと実に簡単に陥る罪であるし、また一見、謙遜に見えて実は高ぶりである場合もあります。だから先に学んだ、「心を見張る」という行為が必要なのでしょう。

 神がなぜ、高ぶりを最も忌み嫌っておられるかは、この世を今のようにめちゃくちゃにした原因と初めが高ぶりだったからです。サタンが高ぶって、堕落しました。そしてエバが、神のように賢くなるという誘いを受けて、高ぶり、その実を取って食べました。高ぶりによって、人間が神に拠り頼むことがなくなり、神から離れて生きています。だから、もっとも忌み嫌われているのです。

6:17b偽りの舌、罪のない者の血を流す手、

 一番目の高ぶりが、他のいろいろな罪の原因であると言えますが、高ぶっている時は、ありのままの自分よりも高く自分を見せています。そこには自己欺瞞、偽りがあります。そして、人を引き下げることによって、ことさらに批判して、おとしめることによって自己顕示しようとします。ですから、「罪のない者の血を流す手」です。

6:18 邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、

 邪悪な計画は、故意に罪を犯すところから始まります。はっきりと主の御心を知っているのに、公然と反抗し、そして自分のうちで悪を行なう計画を立てることです。そして「悪へ走るに速い足」は、悪い知らせがあるとすぐに飛びつく心を表わしています。実際の足は動かさなくても、心の中では自分を走らせていることに気づきます。

6:19 まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いをひき起こす者。

 まやかしの吹聴、つまり噂話、そしりですね。詩篇でも、この言葉による罪が数多く上げられていました。どれだけ人々の心を傷つけるか知れませんが、その前に主の心を引き裂いていることを知るべきです。

 そして噂話をした後で、兄弟の間に争いを引き起こします。和解ではなく仲たがい、愛ではなく憎しみや怒りを煽るような行為です。

4B 人妻 20−35
 今日読む箇所の最後の部分は、「人妻」です。先ほどは「見知らぬ女」ということで、おそらく遊女、売春婦のことも含んでのことでしょうが、次からは他人の妻についてです。

6:20 わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。6:21 それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。6:22 これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。6:23 命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

 訓戒のための叱責は、私たちに一時的な悲しみをもたらしますが、後には平和の実を結ばせるとヘブル書1211節に書いてあります。

6:24 これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る。6:25 彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕えられるな。6:26 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。

 当時は、ひとかたまりのパンで女を買うことができたようです。日本でも少し昔、また現在では世界のいろいろなところで、貧しさゆえに人身売買が行なわれています。

 けれども人妻の場合は、自分の尊いいのちをあさられます。どういうことか、続けて読んでみましょう。

6:27 人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。6:28 また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。6:29 隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。

 人妻の場合、夫がいます。その夫の逆鱗に触れる、ということです。これはちょうど、火をふところにかき込むことであり、熱い火を踏むことであります。世の中では「火遊びをする」という表現がありますが、聖書は、もっともっと厳しい現実を教えています。

6:30 盗人が飢え、自分の飢えを満たすために盗んだとしたら、人々はその者をさげすまないであろうか。6:31 もし、つかまえられたなら、彼は七倍を償い、自分の家の財産をことごとく与えなければならない。

 自分が悪を行なったその代償はある、ということです。

6:32 女と姦通する者は思慮にかけている。これを行なう者は自分自身を滅ぼす。6:33 彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。6:34 嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。6:35 彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。

 箴言ではこのように、人生や生活の中での現実について教えています。人妻と姦淫の罪を犯したら、夫が激しく怒るのは当たり前です。しかし、私たちはそれを知りながら欲にひかれて、愚かなことを行なってしまいます。だから、所謂「知識」ではないのです。主を恐れること、これが知識の初めであるとソロモンが冒頭で言ったように、主を恐れることです。

 そして、ソロモンが「わが子」よ、と呼びかけているように、私たちは神の子どもとして、その言いつけを守る子どもであります。ある程度のプライドを持っている私たち大人は、素直に言いつけのとおりを行なっていくことに苦痛を覚えます。痛いのです。けれども、子どもの特長は「従順」なのです。私たちが頭ではなく、実際の経験として、神の知恵による守りを経験したいものです。

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