箴言7−9章 「呼びかける声」

アウトライン

1A 見知らぬ女から 7
   1B 命令への親しみ 1−5
   2B わきまえのない男 6−23
      1C 近い通り 6−12
      2C 女のくどき 13−20
      3C 無知 21−23
   3B 多くの殺人 24−27
2A 知恵から 8
   1B 真っ直ぐな口 1−11
   2B 分別と力 12−21
   3B 創造 22−31
   4B 戸口のかたわら 32−36
3A 家への招き 9
   1B 知恵 1−12
      1C 整えられた食卓 1−6
      2C 教えを聞く者 7−12
   2B 競争する女 13−18

本文

 箴言7章を開いてください、今日は7章から9章までを学びます。ここでのメッセージのテーマは、「呼びかける声」です。

 前回も話しましたように、1章から9章はソロモンが息子に語りかける形で箴言が述べられています。そこでの中心的なテーマは、「見知らぬ女」です。前回の学び6章の部分では、人妻と通じたら大変なことになる、夫の怒りを買うことを読みました。そして今から読む7章は、若い男がどのように女の餌食になるのか、その様子を克明に描いています。

1A 見知らぬ女から 7
1B 命令への親しみ 1−5
7:1 わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。

 蓄えます。詩篇119篇で学んだように、御言葉を蓄えれば神に罪を犯すことはありません(11節)。

7:2 私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。

 物が自分の方に飛んできたら、私たちは条件反射的に目を閉じます。瞳を守るために私たちは全身をかがめることさえします。同じように、自分の最も大事なものとして私の命令を守りなさい、と言っています。

7:3 それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。

 指に結べば、自分がいつも、何か作業をしているときにすぐに目に入ります。そしてもちろん、目に留まるようにしておくだけでなく、心の板にも書き記します。しばしば暗誦聖句をしても、それを生活で生かしていないことがありますが、心の板に書き記さなければいけません。

7:4 知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ。」と言い、悟りを「身内の者。」と呼べ。

 3節の代名詞は実は、「それ」ではなく「彼女」でした。前回読んだ箇所にもありましたが、知恵が人格のあるもののように表現して、しかも女性として描いています。そしてここ4節は知恵を自分の姉妹と言いなさい、と、やはり女性のように、しかも身近な女性のように見なしなさいと命じています。その理由は次にあります。

7:5 それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。

 しっかりと命令を自分の指に結びつけ、心の板に書き記し、そして自分の姉妹のように可愛がらなければ、他人の妻、見知らぬ女に容易に引きずられます。

 聖書には、私たちの思いの中で激しい戦いが繰り広げられていることを教えています。霊と肉との間にある戦いです。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17

 私たちが罪の中に死んでいた時、罪を犯すことはあまりにも当たり前のことであり、気にも留めていませんでした。けれども御霊によって新たに生まれたら、私たちの霊は神のみこころを行なうことを望みます。ところが肉はまだ贖われていません。神のみこころを行なおうとする霊と、神に敵対する肉との間に対立が起こります。

 そこで箴言では、ガラテヤ書5章の言葉を使うなら、「御霊によって導かれなさい(18節参照)」という呼びかけを何度も何度も行なっているのです。

2B わきまえのない男 6−23
 次に、どのようにその誘惑に陥ってしまうのか、その道をソロモンが詳しく説明します。

1C 近い通り 6−12
7:6 私が私の家の窓の格子窓から見おろして、7:7 わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。

 興味深いですね、ソロモンは外を見たら、そこに歩いている人たちを皆「わきまえのない者」と呼んでいます。この箴言を書き記した目的、「わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。(1:4)」とある通りです。

 そして「思慮に欠けたひとりの若い者」に注目していますが、彼がどのように思慮に欠けているか次で分かります。

7:8 彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。

 「家のほうに歩いて行った」とあります。もしかしたら何かの用事でこの通りを歩いていたかもしれません。いや、自分が情欲に引き込まれる弱さを持っていることを知っていながら、その通りに近づいているかもしれません。

 前回の学びで、「悪者どもの道にはいるな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。(4:14-15」と学びました。自分が罪を犯しやすいところ、弱い部分について、あえてその誘惑になるような場所を通る必要はないし、通ってはいけないのです。通らなければ、誘惑に遭うこともないのです。けれども、この若者には思慮がありませんでした。

7:9 それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。

 時間帯においても、思慮がありません。日の沈むころは仕事も一段落して、ほっと一息つくような時です。この時が私たちは一番、脆くなっています。私たちが仕事をしている時は、神経は緊張し、集中しています。そして仕事が終わったとき、何かぱっとするようなことをしたいと願います。

 そして暗やみも危険です。人には見られない時間帯です。その時に私たちは悪いことをしたいという誘惑に遭います。

7:10 すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。

 「遊女の装い」です。私たち、特に女性は、この世の流行に気をつけなければいけません。なぜならば、この世の流行は遊女と変わらないスタイルの服装を追っているからです。意識しないで服装を選べば、自ずと男性がそのような動機で自分を見るように注目を集めます。自分を守るため、また自分の周囲にいる男性の為にも、慎みある服装を選ぶようにしましょう。

7:11 この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、7:12 あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。

 聖書に出てくる美しい女性は、「静かにして、よく従う心をもって教えを受ける」人であると書いてあります(1テモテ2:11)。この女はその逆です。騒がしく、落ち着きありません。

2C 女のくどき 13−20
7:13 この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。7:14 「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。

 和解のいけにえは、牛や羊など、すべての体を祭壇で燃やすのではなく、一部を主にささげ、残りを自分が食べることによって、神との交わりをしていることを意味します。つまり今ここで女は、自分の家にお肉にあり、食事もできますよ、と言っているのです。

 そして、彼女は自分と肉体関係を持つことを誘っているのに、「和解のいけにえ」などと宗教的な言葉を使っています。性的な罪を犯すとき、自分が何を行なっているのか分からなくなって、それでも主との関係を保っていると主張することがあります。例えば、不倫関係に入っているのに「今までの結婚関係は主が導かれていなかったのだ。今、初めて主が導いてくださった人に出会った。」などと口走ります。自分たちが何をしているか分からないほど、それだけ急速に罪の中に引き込まれているからです。

7:15 それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜して、やっとあなたを見つけました。

 あなた、あなた、と繰り返していますね。主にある自分の価値、愛されている確信が揺らいでいるとき、淋しくなっているとき、この言葉は強く私たちに迫ってきます。

7:16 私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、7:17 没薬、アロエ、肉桂で、私の床をにおわせました。

 心理的にも誘い、今度は視覚や嗅覚にも訴えています。

7:18 さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。7:19 夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。7:20 金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません。」と。

 人妻であれば、一番気になるのは夫ですが、その要素も心配しなくて良い、と言っています。

3C 無知 21−23
7:21 女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。7:22 彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、7:23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。

 若者は「すぐに」女に付き従いました。そして、「自分のいのちがかかっているのを知らない」と書いてあります。そのたとえがすごいです。ほふり場にひかれる牛のようである、とあります。牛は自分が殺されるまで、その直前まで殺されることに気づかないようです。同じように、自分が殺されることに最後の最後まで気づきません。

3B 多くの殺人 24−27
7:24 子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。7:25 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。その通り道に迷ってはならない。

 どうかこの思慮のない若者のようにならないでほしい、という悲痛な訴えです。

7:26 彼女は多くの者を切り倒した。彼女に殺された者は数えきれない。

 人数が数え切れない、と言っています。少人数ではありません。しかもここの「殺された者」は、殺された強い者、と書かれています。自分は大丈夫だと自負しているような者たちも、数多く女の手に陥りました。

7:27 彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。

 最後は死の道、地獄への道です。パウロの書簡の中にも、このことについて何度も彼が警告しています。例えばコロサイ書3章には、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。(5-6節)」とあります。

2A 知恵から 8
1B 真っ直ぐな口 1−11
8:1 知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。8:2 これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つ角に立ち、8:3 門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。

 7章では、道を歩いていると見知らぬ女が若い男を呼びました。しかしここでは、知恵という女性が呼びかけ、その声を上げています。見知らぬ女と知恵の対比です。

 見知らぬ女が声をかけるのとはっきり違うのは、その場所と方法です。人々が行き交っているところで、大声で呼ばわっています。(思い出すのですが、かつて新宿のアルタ前でアーサー・ホランドやその仲間の人が路傍伝道していましたが、まさにここの場面とそっくりです。)見知らぬ女は薄暗くなったところで、こそこそと一人ひとりに語りかけるのですが、知恵は、すべての人に明らかにされる形で堂々と宣言されます。

 ここの意味していることは何でしょうか?主も同じように、大声で叫ばれた場面があります。仮庵の祭りの最後に立って、こう叫ばれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38」ここの「だれでも」が鍵です。すべての人が受け取ることができるよう、提供されているものです。しかも、ただで受け取ることができるようにしています。

 これが福音の性質です。こっそりと、選ばれた人にだけ伝えられる密教ではありません。世界のあらゆる人に、どんな背景を持った人でも、だれにでも行き渡ることができるようにはっきりと伝えられていくものです。

8:4 「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける。8:5 わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。

 先ほどソロモンが自分の家から通りを見ていた時も、わきまえのない者が歩いていました。今、ここで「わきまえのない者たちよ」と、その人たちに知恵が声をかけています。

 私たちが突然ある人から、「わきまえのない者よ。愚か者よ。」と呼びかけられたら、どう思うでしょうか?頭に来ると思います。「人様を何だと思っているのか、私はバカと呼ばれるほど落ちていない。」と。

 けれども、福音が語られる時、キリストが語られる時、聞いている私たちは基本的に愚かな者です。女につき従った若者のように、自分が何をしているか分からず、滅びてしまう者です。けれども多くの人たちは、自分は愚か者ではないという自尊心がありますから、福音を受け入れたくないのです。しかし、パウロがこう言いました。「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(1コリント1:24」キリストが神の知恵です。

 そしてキリストに従い始めた後も、キリストにとどまっているということは、自分は愚か者であるという前提があります。自分に拠り頼むことはできないのです。自分の悟りに頼ることはできないのです。いつまでも、子供が親に頼っているように、主の知恵に頼る必要があります。

8:6 聞け。わたしは高貴なことについて語り、わたしのくちびるは正しいことを述べよう。8:7 わたしの口は真実を告げ、わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。8:8 わたしの言うことはみな正しい。そのうちには曲がったことやよこしまはない。

 見知らぬ女は日没時、暗がりのところで声をかけましたが、知恵はそのようなことをする必要がありません。白昼堂々と語ることができます。なぜなら、それは高貴なこと、正しいことだからです。正しいこと、真実なことはすべて表のことです。真理は光の中にあります。悪のみが、暗闇の中に隠れます。

 黙示録21章を見れば、そこは光り輝く天のエルサレムの姿があります。宝石で作られた都、透き通った黄金、ガラスなどがあって、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示21:23」とあります。知恵はこのような光り輝くところで、大きく叫んでいるような性質のものです。

8:9 これはみな、識別する者には、正直、知識を見いだす者には、正しい。

 神の知恵、真理は、それを識別する人にとっては、あまりにも明らかで、はっきりしています。「本当にそのとおりです。」と納得できるものばかりです。福音の言葉は平易で明白です。神の御言葉全体もそうです。子供にも理解できるものです。

 伝道者の書に興味深い言葉があります。新共同訳の訳ですが、「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。(7:2913節に出てきますが、知恵は悪を憎むことです。これだけ単純ですが、それができないので複雑な考え方を私たち人間はします。例えば、鬱の人が多いから教会で心理学、精神医学を取り入れなければいけないとか。社会問題が多いから、教会もそれに関わらなければいけないとか。悪を憎むという一歩を踏めないばかりに、物事を複雑にして誤魔化しているだけなのです。

8:10 銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。8:11 知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。

 知恵は「懲らしめ」であり、そしてそこから出てくる「喜び」です。福音の言葉、神の御言葉を聞くことは、私たちの心を刺すようなものであり、痛い経験です。心の中が懲らしめられるからです。けれども、それによってようやく自分は愚かさから抜け出ることができるという喜びがあります。罪から解放される喜び、自分の高慢、肉の誇りから解放される喜び、主のすばらしさにあずかる喜びがあります。

 そして、このような懲らしめと喜びは、銀を受けるよりも、えり抜きの黄金よりも、真珠よりもまさると言っています。毎週通う教会、そこで御言葉が語られていなければいけません。世の楽しみよりも、私は神の知恵を得ることが喜びなんだ、というような礼拝でなければいけません。

2B 分別と力 12−21
8:12 知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。

 知恵を持つと、私たちに分別が与えられます。霊的な識別力が与えられます。パウロはこう祈っています。「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。(コロサイ1:9

8:13 主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。

 そして知恵は私たちに心を与えます。主を恐れることを教え、悪を憎しむ心を与えます。私たちがどれだけ悪を憎んでいるでしょうか?かえって悪を楽しんだり、愛したりしています。私たちの肉は神に敵対していますから、肉は悪を愛しています。テレビや雑誌、インターネットにはびこっている悪を私たちは思いの中で喜んでいます。

 しかし私たちが主を恐れるとどうなるでしょうか?主を恐れるとは、主がそこにおられることを本当に信じることです。主の御言葉を実際、自分が悪を喜んでいる場面で思い出すことです。私たちは自分がしていることが恐ろしくなります。それらの悪から離れたくなります。心がもだえ苦しみます。その悪から離れた時の平安と安堵は実に深いものです。

 そして知恵は、悪の中でも「高ぶりと、おごり」そして悪の道、ねじれたことばを憎みます。前回も学びましたように、主が忌み嫌われるのは、殺人や姦淫など明らかな過ちではなく、それよりも私たちの微妙な心の動きから出てくる、高ぶりを忌み嫌われる第一のものとして挙げておられます。

 非常に残念なことですが、教会の指導者や奉仕者の中で、初めは純粋な動機で始めたのに途中からおかしくなってしまった人々を、しばしば見聞きします。人々からもてはやされたり、自分が高められたり、あるいは高められている人にあこがれてそれに追従したりして、自分が何をやっているのか分からなくなってしまった人々がたくさんいます。

 しかし、それを後押ししているのが、キリスト教会全体の雰囲気ではないでしょうか?一見、成功している人々や教会に目を留め、それを新聞の記事でもてはやし、人々は有名だからという理由だけでその教会に行く・・・。主の目は、へりくだった者、弱い者、貧しい者に向かっているのに、教会の目はこの世と何ら変わらないという状況が、すべてを高ぶりとおごりへと向かわしめているような気がします。

8:14 摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。

 今、非常に大切な御言葉です。なぜなら、人間の計画、人間の行動、人間の努力が教会の中でどんどん推し進められているからです。「摂理とすぐれた知性」と言えば、ヨブ記を思い出せばよいでしょう。神を恐れるヨブも、また友人も、だれも主が一体、何を行なわれているのか分かりませんでした。それでいろいろ議論しますが、最後は圧倒的な神の主権と知恵の中でヨブは悔い改め、友人との間にも和解が与えられました。

 主はご自分のみこころのままに、ご自分の事をことごとく行なわれます。私たちの理解ではわかりません。けれども、私たちはその神の主権に自分を明け渡し、今見ていることは分からないけれども、ただ主にあって喜ぶという選択をしなければいけないのです。ユダが飢饉になって家畜も絶たれるのを見ていたハバククが、主にあってジャンプして喜んだように、です(ハバクク3:17-18)。

 しかし、この世が終わりに向かってどんどん悪くなっているのに、ちょうどダチョウが危険が迫ると頭を砂の中につっこんで、尻丸出しで危険回避をするように(実際は、ダチョウは頭は隠さないそうですが 『知泉Wikiより』)、自分たちの内に、人間の可能性に、人間の経験に、まだ残っている善に見えるものを必死に求めています。例えば世界的には「目的主導(Purpose Driven)」と呼ぶ運動がそうです。また、Emerging Churchと呼ばれる、人間の感覚やイメージに訴える、東洋的な瞑想を推進させている運動もあります。

 
しかし私たちは、神の摂理とすぐれた知性を求めなければいけません。その全容を私たちが知り得ることはできませんが、そこから私たちは分別と思慮を身に付けることができます。

8:15
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。8:16 わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。

 ここから知恵の大きさについて語られ始めます。ソロモンが語っている知恵は、私たちの日ごろ出くわす事柄への対処法だけではありません。この知恵は、王を立て、王を倒すところの神の知恵、国々を動かしている支配者たちに働いている知恵です。

 このことを知るにはダニエル書を読むと良いでしょう。超大国の興亡が預言されていますが、主がご自分の御手の中で自由自在に操っておられる姿を見ることができます。ネブカデネザルは、自分の国を自分の功績であると言った瞬間に、彼は理性を失い、獣のようになってしまいました。彼がへりくだると理性が戻ってきました(4章参照)。

 今の国の指導者らも、神の御手の中にあります。このことも、聖書預言によって私たちはこのことを知ることができますが、やはりそれを嫌う雰囲気が教会の中に立ち込めているこの頃です。

8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

 知恵がどんどん人格化されていますが、この箇所を読むとまさに主イエス様が言われたことに合致します。「捜しなさい。そうすれば見つかります。(マタイ7:7」です。

 そして愛する者を愛す、とありますが、知恵また神の御言葉は、私たちの口をこじ開けて入っていくものではありません。自ら口を開けた人にのみ、入ります。神を受け入れてみたいと思ったその求道の心にのみ、主は入ってきてくださいます。

8:18 富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。8:19 わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。

 ソロモンの治世において、このことが実現しました。知恵に支えられた支配によって、富と誉れがありました。それでも知恵は、それらの富よりもまさっていると、やはり上位にあります。

 キリスト者には霊的祝福と富が約束されています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3

8:20 わたしは正義の道、公正の通り道の真中を歩み、8:21 わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。

 義とそれに伴う財産の相続は、私たちにも与えられています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:3-4

3B 創造 22−31
 知恵は国の指導者を動かす力だけではなく、天地創造の原動力でもありました。

8:22 主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。

 ここの箇所を読んだら、私たちがすぐ思い出す天地創造の箇所があります。創世記1章1−2節です。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(1:1-2

 そしてさらに、ヨハネの福音書1章1節も思い出すでしょう。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そしてこのことばはもちろん、イエス・キリストです。コロサイ書に「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(2:3」とあります。ここで描かれているのは、キリストが世の初めからおられて、そのキリストのうちにある知恵が描かれています。

8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。8:26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。8:27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

 私たちが目にする天体、また自然界が存在する以前に、すでに知恵はいました。この知恵がどれだけすぐれているか、このことだけでも分かります。私たちの被造物を造るさいに用いられた知恵が、同じ知恵が、私たちに悪から離れよ、と言っているのです。

8:28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、8:29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、8:30a わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。

 知恵は創造の前に存在していただけでなく、その創造の過程に深く関わっていました。キリストについてコロサイ書には、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(1:16」とあります。

8:30bわたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、8:31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

 知恵は被造物を見て、それを喜びました。創世記1章にて、神がご自分が造られたのをご覧になり、非常に良かった、とみなされたのと同じです。神はこのように感情を持っておられます。抽象的な存在ではありません。私たちの日々の営みに喜び、また悲しんでくださいます。

4B 戸口のかたわら 32−36
 そして次に、この知恵のそばにいなさい、という勧めです。

8:32 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。8:33 訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。8:35 なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。

 知恵の戸口のかたわら、戸口の柱のわきで見守ります。知恵の言葉が発せられたら、聞き逃すことはありません。すぐに自分の耳を傾けます。

 そして、そうすればいのちを見いだし、恵みをいただくとあります。いのちある生活、また恵みに満たされた生活です。

8:36 わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」

 知恵を見失い、憎む者は自分自身の身にふりかかります。

3A 家への招き 9
 9章は、言わば、最後の招きです。

1B 知恵 1−12
1C 整えられた食卓 1−6
9:1 知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、9:2 いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、9:3 小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。9:4 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい。」と。また、思慮に欠けた者に言う。9:5 「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、9:6 わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」と。

 先ほどは、知恵は街角で叫んでいましたが、今は、自分の家に、そしてそのごちそうに招いています。1節の「七つの柱」は、その部屋が面積のある広間であることを表わしています。そしてぶどう酒に混ぜ物をするのは、その味を引き立たせるものです。

 思慮が欠けた者が知恵を聞くことは、親しい交わりの中に入るようなものです。イエス様が同じことをラオデキヤの教会に言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:20

2C 教えを聞く者 7−12
9:7 あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。9:8 あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。9:9 知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

 知恵が自分の食事に招くとき、すべての者が応答するわけではありません。今読んだように、あざける者と受け入れる者に分かれます。

 もちろん、私たちが福音や御言葉を語るときに、すべての人が受け入れてくれたらな、と思います。けれども、主イエス様の宣教を見ても、パウロの宣教を見ても、聞く人々は二つに分かれています。イエス様は、「耳のある者は聞きなさい。(マタイ13:9」と言われました。聞くことができる人だけ聞きなさい、ということです。そして聖書最後の書物黙示録の、最後の招きにおいても、「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(黙示22:11」と二つのグループに分かれることを示唆しています。

 そして、箴言のこの箇所で言っている「知恵のある者」とは、戒めを受けることができる謙虚さです。また叱責を受け入れることができる謙虚さであり、教えを聞き入れることができる謙遜です。何か自分のものを持っていて、自分の都合に合わせて聞くことを取捨選択するのではなく、自分が御言葉によって変わっていくことです。

 内容は、「戒め」であり「責め」であり、そして「教え」です。戒めは正すこと、矯正することです。責めは、過ちを指摘することです。そして教えは、何が良くて悪いのか明らかにすることです。これらの働きによって、私たちは知恵との豊かな交わり、食事にあずかることができます。

9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

 1章7節で、「主を恐れることは知識の初めである」とありました。そこでは、「初め」の意味は重要性、優先順位において第一、という意味でした。ここ9章10節の「初め」は順番の一番です。私たちが知恵を得るときは、まず初めに主を恐れるところから始めるのだよ、ということです。

 そして「聖なる方を知ることは悟り」です。先に、神の主権、神のすぐれた知性を今日の教会がないがしろにしつつあることを話しましたが、また「聖なる方」を知ることもないがしろにされています。「目的主導」にあるような“人間改造”には、聖なる神について知る知識はありません。聖なる神の前に人間は罪人であり、死んで、永遠の罰を受けなければいけないというメッセージはありません。だから私たちは神のあわれみを呼び求め、キリストの十字架にすがりつくのです。

 またEmerging Churchにも、その感覚、イメージの世界の中では、人間の内的世界に閉じこもって、何ら外側の神との接触を絶ってしまいます。彼らは「神に出会う」と言いますが、その神は、この世界から隔絶された、分離された聖なる方とは程遠いものです。

9:11 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。9:12 もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。

 先ほどと同じように、受け入れればいのちが、拒めはその責任は自分にあります。

2B 競争する女 13−18
 そして興味深い比喩が次にあります。

9:13 愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。9:14 彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、9:15 まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。9:16a 「わきまえのない者はだれでもここに来なさい。」と。

 高貴な知恵の女が、通りで、高い所で、大声で叫んだように、同じことを愚かな女がやっています。本来なら隠れたところで、暗がりでやっていたのですが、公の場では知恵が叫んでいるので競争して、自分も前に出てきているのです。

 非常に滑稽ではありますが、実際に起こっていることです。これまでは隠れたところでしか見ることができなかったものが、表に出てきています。広告や雑誌、テレビなどで、子供もすべての人が楽しめるようなアット・ホームなエンターテイメントの空間に、遊女のような人々が大ぜい出てきています。ロトがソドムにいて、「不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた(2ペテロ2:8」ことと同じ経験をしています。

9:16bまた思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。9:17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。」と。

 盗んだ水、というのは、自分の妻のものではない女から得られる性的満足のことです。それが甘く、うまい、と言っています。

9:18 しかしその人は、そこに死者の霊がいることを、彼女の客がよみの深みにいることを、知らない。

 そのようなものに手を出したら、それで終わりません。次から次へと、程度の大きい描写に引きずり込まれ、最後は死を迎え、地獄に入るという穴が大きく開いているのです。

 こうして、「呼びかける声」という題名で話しましたが、私たちが商店街にいるとき、いろいろな客寄せがいます。呼びかける声を聞きます。同じように、見知らぬ女からの、自分の肉を刺激する呼びかけの声と、知恵の御霊の声のどちらも、私たちは普段の生活の中で聞いています。どちらに耳を傾けるか、その選択は私たち自身にあります。


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