そしりについて 2007/06/28
陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。 (詩篇101:5)
ダビデの詩篇を読むと、ダビデがいかにそしりを嫌がっていたかを知ることができる。(詩篇だけで、「そしり」は23回、「そしる」は8回も出てくる。)けれども、詩篇はダビデの個人的な感情を言い表しているだけでなく、彼が預言者として、御霊によって神の御思いを言い表していることが多い。そしりを神はひどく嫌っておられる。
新約聖書では、「そしり」は神の国に入ることができない不義の行ないの一つとして数えられている。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10 下線は筆者)
私たちの実際の生活の中で、どうしても我慢できないことや不満がある。あまりにも不条理なこと、酷いことを見聞きしたとき、その相手を批判したりすることがある。しかし、その不満や批判を言い表す程度において、越えてはいけない境界線がある。それは、神がそれぞれの人々に与えた栄誉、権威の範囲があるからだ。そこに人が立ち入る時、それは神の領域の中に侵入していることになる。
旧約聖書の中で代表的なそしりの事例は、コラの背きだ。コラはレビ人であり、しかも幕屋の移動時、契約の箱などの祭具を担ぐ栄誉ある奉仕に携わっているケハテ族である。しかし、彼は聖所の中で奉仕をする祭司アロンに、たて突いた。
彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」(民数16:3)
彼の言葉を読むと、民主主義・平等主義の価値観が根付いている現代人には、いかにももっともらしい発言だ。彼は、「あなたがたは分を越えている」と言った。しかし実際はその逆で、彼が自分に与えられた分をわきまえずに、アロンとその子らに与えられている神の領域に立ち入ろうとしていたのだ。
モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」(民数16:8-11)
そして神の怒りが下った。モーセが語り終えぬうちに、コラと彼にくみする者たちの下の地面が割れて、彼らは生きたまま陰府(地獄)に投げ入れられた。
そして冒頭の詩篇の箇所には、そしっている者は、「高ぶる目と誇る心」を持っていると書いてある。教会の中で混乱が起こっているところに牧者として遣わされたテモテに対し、パウロは次のような指導を与えている。
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。(1テモテ6:3-5 下線筆者)
そして終わりの時には、このようなそしりが顕著になることが、ペテロ第二の手紙とユダの手紙の中に述べられている。まず第二ペテロを見てみよう。
汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。(2:10-12)
そしる者は第一に栄誉ある人をそしる、とある。そして第二に、力ある御使いさえ栄誉ある人たちをそしらない、と書いてある。第三に、彼らは理性のない動物のように、本能的、感覚的にそしる、とある。第四に、知りもしないことでそしる。同じ四つのことがユダの手紙にも書いてある。
それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。(ユダ8-10節)
興味深いことに、栄誉ある人、栄えある者の一人として、ユダは悪魔を挙げている。悪魔にでさえ、ミカエルは相手をののしり、さばくようなことをしなかった。悪魔にさえ、神が許容しておられる力と権威があるからだ。さらにミカエルは、御使いのかしら、天使長である。彼ほどの勢いと力をもった天使はいないが、その彼でさえも、神が悪魔に与えられた権威に侵犯することはなかったのだ。
終わりの時に現われ出る反キリストは、そしることが特徴だ。彼は「大きなことを語る口」があり、
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7:25)
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。(黙示13:5-6)
現代の風潮
今日、顕著に現われているのが、まさに人のそしりだ。
韓国へ旅行に行った時、ある大学のキャンパスを歩く機会があった。学生会館のところに行くと、朝鮮半島の南北統一を表す旗を大きく掲げて、何かを訴えているサークルがあった。掲げてある看板の一つに、ブッシュ大統領とライス国務長官の写真があったが、彼らの顔に落書きがあったのに驚いた。アメリカの北朝鮮に対する強い姿勢に反対するのは自由だと思うが、小学生でもあるまいし、顔に落書きをしてその憎しみを表現するなんてあまりにも幼稚だと思った。
しかし、この感覚的、幼稚な反応は、世界でいま起こっているあらゆる争点に浸透している。例えば中東で自爆テロや爆破テロが後を絶たないが、その背後にはイスラム諸国全体に流れている一種の雰囲気がある。中東地域が、イスラム教が唱えているようにさらに発展するのではなく、欧米やイスラエルなどのユダヤ・キリスト教の影響力が圧倒している世界に押されて、息が詰まるような閉塞状態があるそうだ。巷で売られている書籍には、以前はマニア的な人しか買わなかったであろう、陰謀論や過激な終末思想の本が本屋に並んでいるそうだ。 (参照:「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」 池内恵著 講談社現代新書)
日本にもそのような書籍はあるが、全般的に浸透しているわけではない。普通は、「まあ、そんな考えはあるだろう」ぐらいにしか、考えていない。しかしイスラム諸国では違う。普通の人がたいてい本気でそう考えている。したがって、現実の世界で実行しようとしている人々も出てきて、そのためセル的なイスラム過激グループがあちこちに生まれる土壌となっている。そして最近はイランでは、そのような思想を持っている人が大統領に就任され、現在の核危機をもたらしている。
つまり、心の中で思い描いていただけであろう夢想、妄想の世界を、現実の世界にまで落とすような現象が、世界のあちこちで起こっている。むろん国際関係だけでなく、猟奇的な殺人など社会問題としても起こっている。
もう一つは、自分が批判している対象を記号化していることだ。「記号化」というのは、実際に悪いことをした生身の人間、社会、国に対して憎しみを抱いているのではなく、自分たちの頭の中の固定観念の中でできあがった対象に怒っている、という意味だ。(先に引用した第二ペテロ、ユダの手紙によれば、「知りもしないことをそしる」に当たる。)
数年前、中国に反日デモが起こった。デモをしているほとんどが若者だった。そして内容は過去の日本軍が犯した罪。もちろん彼らはその時、生きていなかった。実際に日本の軍人を見た老年の人々は、実際の軍人を見ている。受けた仕打ちについて憎んでいることがあっても、こんな憎しみなんかなければ楽になれるのにという、否応なしの感情を抱いている。けれども現在の若者は、怒りの為の怒りを抱いている。彼らの論調を読むと、そこには実際の日本人の姿が見えない。良い人たちだけでなく悪い事をした軍人たちの姿も見えてこない。「日本鬼子」と連呼しているだけで、自分の内に溜まったフラストレーションを発散させる時の標語のように使っている、という。(参照:「『反日』解剖」 文芸春秋社 水谷尚子著)
もちろん日本人も、同じようにアメリカ、中国、韓国、そして北朝鮮に対して行なっているのだが。
このようなそしりの風潮はもちろん、インターネットを介して増幅されている。日本では、「・・ちゃんねる」に代表される誹謗・中傷はよく知られているが、韓国ではネット上で徹底的な非難の嵐に巻き込まれ、実際に財産や家族を失わされる人も出てくるほどらしい。韓国人の牧師の説教の中にも、嘆かわしい韓国の状況の例として「批判・非難」がよく出てくる。
教会の中で
先ほど引用したテモテ第一の手紙、第二ペテロ、ユダの手紙の箇所は、教会の中にそのような人々が入り込んでいる中で書かれたものだ。
インターネットの中では、教会生活をきちんと送っているのかどうかは知らないが、妙にキリスト教会事情に詳しい人たちがおり、教会内で起こっていることをつまびらかに書いている。
そして最近の傾向として、既存の教会文化に対抗するようなことを言う人が表に出ている。「私はキリストは好きだが、キリスト教は大嫌いだ」という言い回しをよく耳にする。しかし、大嫌いと言っているその「キリスト教」の教会に集っている人々もまた、キリストが大好きで教会に集まっているのだ。
もちろん既存の教会において、多くの問題がある。実際、教会のカルト化が騒がれるようになって久しい。すでに一般のマスコミも少しずつ取り上げている。「神のさばきは、神の家から始まる」という言葉がすでに始まっている。
しかし、もしそれを単に批判や対抗だけで対応するのであれば、ミイラ取りがミイラになるのだ。カルト的なグループは、決まって既存の教会に対して過剰な批判をしていることからもそれがわかる。過度に批判している人を見るとき、周りの人は、その批判が本人に当てはまっていることに気づく。主が、「兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気づかないのですか。(マタイ7:3)」と言われた通りである。
そうならない為には、神がそれぞれの人に与えられた栄誉、力、権威に触れてはならない、という恐れが必要だ。その人の良し悪しは問題ではない。そして悪いことを指摘しないという事でもない。指摘の仕方・方法において神の領域に入り込まない、ということだ。ユダの手紙と第二ペテロの手紙にあったように、御使いは悪魔さえそしることを控えた。「神が戒めてくださるように。」と言った。そうだ、神の裁きに任せるのだ。
非難を受け、傷ついた人々に
そして、教会の中では、牧師であっても、信徒であっても、他人から非難を受け、傷ついている人たちが多いです。そのような方々に対してお話ししたいことがあります。最初に引用した、ダビデの言葉を思い出してください。「陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。」自分の思いの中で、これらの批判を滅ぼしてください。そしてダビデは続けて、こう発言しています。
私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。(詩篇101:6)
真実な人々がご自分の周りにおられるはずです。主が置いてくださっている兄弟たち。主が与えてくださっている恵みと真実。これらを見続けてください。そしてこれらの恵みに基づいて行動してください。主は、皆さんを続けて導き、皆さんを通して続けて良い働きを行なってくださいます。
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