詩篇105-107篇 「主の恵みはとこしえまで」


アウトライン

1A ご自分の契約 105
   1B 賛美への呼びかけ 1−7
   2B 奇しい御業 8−45
      1C 寄留者への守り 8−15
      2C 飢饉に備えての摂理 16−24
      3C 敵への災い 25−36
      4C 約束の国への旅路 37−45
2A 先祖の罪 106
   1B 選ばれた者の祝福 1−5
   2B 御業を忘れる者 6−43
      1C 紅海の分かれ 6−12
      2C 荒野での激しい欲望 13−15
      3C アロンとモーセへの妬み 16−18
      4C 子牛の彫像 19−23
      5C 約束の地への蔑み 24−27
      6C モアブ神の礼拝 28−31
      7C メリバの水 32−33
      8C 異邦の民との交わり 34−43
   3B 叫びに応答される主 44−48
3A 苦しみの中の叫び 107
   1B 再び集められる民 1−3

   2B 人の子らへの奇しい業 4−43
      1C 荒野での飢え渇き 4−9
      2C 鉄のかせ 10−16
      3C 死の病 17−22
      4C 船の遭難 23−32
      5C 荒野から肥沃な地へ 33−38
      6C 虐げからの解放 39−43

本文

 詩篇105篇を開いてください。今日は105篇から107篇までを学びます。メッセージの題は、「主の恵みはとこしえまで」です。

1A ご自分の契約 10
1B 賛美への呼びかけ 1−7
105:1 主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。105:2 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。105:3 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。105:4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。

 感謝と賛美の呼びかけで始まっています。これら一つ一つの勧めが、私たち信仰者とって非常に大切ですね。まず一節。「主に感謝して、御名を呼び求めよ。」私たちが感謝を忘れて、批判的になり、不満を述べてばかりいたら、信仰者らしくありません。いつも感謝して、主に呼びかけます。そして、「そのみわざを国々の民の中に知らせよ。」周りの人々に、主がなされた御業を伝えます。

 それから、「主に歌え。主にほめ歌を歌え。」クリスチャンの特徴は、歌っていることです。主への歌が口から出てくることです。そして、「主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。」主のことを誇り、私たちが主について語り合っている時、心に喜びが出てきます。他の人のこと、ニュースのこと、周囲で起こっていることを話せば、不満が出たり落ち込んだりしますが、主のことを語れば本当にすばらしいです。

 そして、「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」どんな時にも、自分や他の人や他の物ではなく、主を尋ね求めます。

105:5 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。105:6 主のしもべアブラハムのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。

 次の節からこの詩篇の著者は、主がイスラエルの為にしてくださった、奇しい御業について語ります。それでアブラハムのすえ、ヤコブの子らよ、とイスラエル人に呼びかけています。

 奇しい御業を思い起こす・・・非常に大切ですね。前回学んだ詩篇の中にも、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(103:2」とありました。私たちはすぐに忘れてしまいます。次の詩篇106篇は、奇しい業を忘れてしまったイスラエル人の姿が描かれています。だから、思い出さなければいけません。

105:7 この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる。

 イスラエルの為に良くしてくださった主は、その裁きを全地に行き巡らせておられます。イスラエルの神は全地の主なのだ、という主張は、詩篇の中にも何度も何度も出てきましたね。イスラエル人が内向きになって、自分たちだけの宗教にしてしまわないようにお願いしているかのようです。事実、イエス様が地上におられた時代までにはそのようになってしまいました。

 私たちクリスチャンも同じ過ちを犯してしまいます。クリスチャンの交わりはとても大切なものですが、「交わり」という名の下で、外界との接触をなるべくもたないようにしようという考えが出てきます。しかし、主の裁きは「全地」に渡ります。外部の人たちにご自分の手を差し伸べたいと切に願っておられます。

2B 奇しい御業 8−45
1C 寄留者への守り 8−15
105:8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。105:9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。105:10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。105:11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」

 私たちが聖書の学びを始めたのが、1997年です。その時、旧約聖書は創世記から学びました。その時の興奮をもう一度、呼び戻してください。創世記の中心は1213節にある、アブラハムへの神の呼びかけでした。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」この約束が、アブラハムの生涯だけでなく遥か後にまで続き、実に私たちが生きている現在、そして未来にまで至る、壮大な神のご計画であったことを学びました。この壮大な御計画を、たった一人の男アブラハムに主は告げられ、そして、その息子イサクに語られ、孫ヤコブにてその約束を確立されました。

 そしてこの約束は私たちに直接関係する言葉です。「あなたによって、すべての地上の民族は、祝福される」という言葉です。アブラハムの子孫、イエス・キリストによって、イスラエルに与えられた神の祝福が、キリストを信じる異邦人にまで及びました。私たちがイエス様を信じているということは、実に、遥か四千年前に主が語られた、アブラハムへの約束の実行なのです。これだけ、神はご自分の約束に忠実であられます。これだけ真実であられます。

105:12 そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。105:13 彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。105:14 しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。105:15 「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」

 主は実に壮大な御計画を、アブラハム、イサク、ヤコブにお見せになられましたが、それに比べると、彼らの実際の生活は非常に卑しいものでした。彼らは、ウルの地から来た移民であり、その集団はヤコブの時にもたった70人しかいない、一世帯にしか過ぎなかったのです。しかし、彼らは神の約束を信じた。これがすごいことです。目に見えることではなく、目に見えないものに目を留めて生きる、これが信仰です。

 けれども、神は、これら信仰者たちに良くしてくださいました。彼らはカナン人の地の中で転々と引っ越していきましたが、そこには様々な危険や困難が待ち受けていました。それぞれの地域で、首長、王たちがいました。アブラハムの妻、サラは美しい人だったので、その王の側女になるよう言われて、アブラハムが彼女を引き渡した記録が、創世記の中で二度出てきます。しかし、その都度、神はその王の家に災害を送ったり、夢の中で「おまえは死ぬ」と王を脅されたりしました。イサクも、父と同じように自分の妻をペリシテ人の王に手渡そうとしましたが、その時も神は守ってくださいました。

2C 飢饉に備えての摂理 16−24
105:16 こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。105:17 主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。105:18 彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。105:19 彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。105:20 王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。105:21 王はヨセフを自分の家のかしらとし、自分の全財産の支配者とした。105:22 これはヨセフが意のままに王の高官を縛り、王の長老たちに知恵を与えるためだった。105:23 イスラエルもエジプトに行き、ヤコブはハムの地に寄留した。105:24 主はその民を大いにふやし、彼らの敵よりも強くされた。

 ヤコブの生涯に続いて、創世記はヨセフの話に移ります。彼が夢を見て、それが自分に兄たちや父や母までが、自分におじぎをするという夢を語るというところから始まる話です。創世記には、ヨセフが兄から憎まれ、エジプトで牢に入れられ、けれどもパロの夢を解き明かしたため王の側近になり、それからヤコブの兄たちがエジプトに食糧を求めに来たという話になっています。

 けれどもここの詩篇では、最初から、これらの一連の出来事の目的を述べています。「主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。」です。主は、ヤコブの家を飢饉から救うために、ヨセフがエジプトで支配者となるようにさせ、そのために彼がパロに近づく方法を考えられヨセフを、パロのところで働く献酌官を牢の中で合わせ、牢の中に入れるために、ポティファルの妻が嘘の告発をするようにさせました。もちろんポティファルの家に行かなければヨセフは、パロの会うチャンスはなかったのですが、ポティファルがヨセフを雇ったのは、エジプトの奴隷市場で売られていたヨセフを彼が見たからです。

 神はご自分の目的を果たすために、すべてのものを意のままに動かしておられる、その主権の御手によって、あらゆる状況を用いられます。うっかり忘れること、悪意による偽りの告発、兄弟の憎しみなど、これら悪いこと、否定的なことも用いられて、主はご自分のなさりたいことを行なわれます。ローマ11章で、あまりにも深い神の知識と知恵のゆえに、圧倒されているパウロの言葉が書かれていますが、私たちの知識や知恵や理解をはるかに超えています。

 今私たちが通っているところは、理解することができないことがあるかもしれませんが、ただ主が自分と共におられることを信じてください。自分が理解できないところで、主が確実にご自分の計画を実行するために準備しておられることを信じてください。

3C 敵への災い 25−36
105:25 主は人々の心を変えて、御民を憎ませ、彼らに主のしもべたちを、ずるくあしらわせた。105:26 主は、そのしもべモーセと、主が選んだアロンを遣わされた。105:27 彼らは人々の間で、主の数々のしるしを行ない、ハムの地で、もろもろの奇蹟を行なった。105:28 主はやみを送って、暗くされた。彼らは主のことばに逆らわなかった。105:29 主は人々の水を血に変わらせ、彼らの魚を死なせた。105:30 彼らの地に、かえるが群がった。王族たちの奥の間にまで。105:31 主が命じられると、あぶの群れが来た。ぶよが彼らの国中にはいった。105:32 主は雨にかえて雹を彼らに降らせ、燃える火を彼らの地に下された。105:33 主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木を打ち、彼らの国の木を砕かれた。105:34 主が命じられると、いなごが来た。若いいなごで、数知れず、105:35 それが彼らの国の青物を食い尽くし、彼らの地の果実を食い尽くした。105:36 主は彼らの国の初子をことごとく打たれた。彼らのすべての力の初めを。

 創世記の次は出エジプト記の記述です。エジプトでイスラエルの民が苦しむようになったのも、25節にあるように神の主権に因ります。

 出エジプトにおける神の目的は何なのでしょうか?それは「贖い」です。神は、初めに選ばれた者を救われ、贖われます。この世から取り出して、ご自分の所有とされます。しかし世は神に反対します。神を憎みます。神が世に介入されるのを嫌がります。それで、神に選ばれた者たちに反対するようになるのです。

 しかし神は、世を裁かれます。イエス様は、御霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせる、と言われました。そして、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16:10」と言われました。キリストが十字架につかれた時、悪魔が裁かれました。血による代価を主が支払われたので、悪魔はもはや自分の下に人間を置くことができなくなりました。したがって、イスラエルの民を虐げるエジプトは、まさに世を表していました。エジプトが十の災いに遭ったのは、世が裁かれる予表でした。

4C 約束の国への旅路 37−45
105:37 主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。その部族の中でよろける者はひとりもなかった。105:38 エジプトは彼らが出たときに喜んだ。エジプトに彼らへの恐れが生じたからだ。105:39 主は、雲を広げて仕切りの幕とし、夜には火を与えて照らされた。105:40 民が願い求めると、主はうずらをもたらし、また、天からのパンで彼らを満ち足らわせた。105:41 主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。105:42 これは主が、そのしもべアブラハムへの聖なることばを、覚えておられたからである。105:43 主は御民を喜びのうちに連れ出された。その選ばれた民を喜びの叫びのうちに。105:44 主は、彼らに国々の地を与えられた。彼らが国々の民の労苦の実を自分の所有とするために。

 イスラエルがエジプトを出てから約束の地に入るまで、主が守ってくださったことの記述ですね。11節をもう一度ご覧ください。「そのとき主は仰せられた。『わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。』」とあります。確かに主は、ご自分の言葉を守ってくださいました。今読んだ箇所にも、「アブラハムへの聖なることばを、覚えておられたからである」とあります。

105:45 これは、彼らが主のおきてを守り、そのみおしえを守るためである。ハレルヤ。

 神がここまでイスラエルの民に良くしてくださった目的が、ここに書いてあります。「主のおきてを守り、教えを守るため」です。これが目的です。これは決してイスラエル民族に対してだけ語られている言葉ではありません。主が弟子たちに言われました。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(ヨハネ15:10

 これは律法による救いでも、また律法の行ないによって生きることでもありません。主が私たちによくしてくださり、愛してくださった、この感動によって、自ら主にお従いする愛の関係です。ある人がこう言いました。「恵みの教えは、人々を放縦にさせるからいけないという人がいるが、その逆で、神への恐れ、罪に対する挑戦をもたらす。」自分の罪からの救いのために、これだけのことをしてくださったことを知るとき、自分が平気で罪を犯してよいものか、と自覚するようになります。

2A 先祖の罪 106
 
106篇は、105篇と対照的な内容です。同じイスラエルの初期の歴史を詩篇の著者は歌っていますが、神がしてくださった数々の良いことの背後で、人間が神に反抗し続けた経緯があったことを告げています。

1B 選ばれた者の祝福 1−5
106:1 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。106:2 だれが主の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。106:3 幸いなことよ。さばきを守り、正義を常に行なう人々は。

 正義を行なう人が幸いであると書いてあります。これから述べる先祖たちの不義のことを考えて、こう言っています。

106:4 主よ。あなたが御民を愛されるとき、私を心に留め、あなたの御救いのとき、私を顧みてください。106:5 そうすれば、私はあなたに選ばれた者たちのしあわせを見、あなたの国民の喜びを喜びとし、あなたのものである民とともに、誇ることができるでしょう。

 105篇で読んだ通り、神はご自分が選ばれた者に特別の祝福を約束しておられます。自分がその中に入っていることができますように、というのが詩篇の著者の願いです。エペソ書1章にも、神がキリストにあって選んでくださり、その選ばれた者が天にある霊的祝福のすべてを受けていることが書かれています。

2B 御業を忘れる者 6−43
1C 紅海の分かれ 6−12
106:6 私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。

 ユダヤ人は、自分たちの先祖に誇りを持っています。新約聖書を読めばよく分かります。主が、真理はあなたがたを自由にするといわれた時、彼らは「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。(ヨハネ8:33」と答えています。実際は、イスラエルの歴史は奴隷から始まり、一時期を除いてどこかの国や民族に虐げられてきましたが、「決してだれの奴隷になったこともありません」と言って憚りません。

 そこで、ステパノが先祖たちの不義を述べたとき、ユダヤ人は耐え切れなくなって彼を石打ちにして殺したのです。ステパノが説教をしたとき、神によって選ばれたヨセフ、モーセ、そしてその後の預言者たちはみな、他のユダヤ人から拒まれたことを話しました。そしてこう言っています。「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。(使徒7:52」この詩篇も同じように、先祖の罪を告白しています。

106:7 私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。106:8 しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。106:9 主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。106:10 主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。106:11 水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。106:12 そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

 主がイスラエルの民をエジプトから脱出させてあげた時、その時から彼らの不満は始まりました。彼らがエジプトから出て、紅海のほとりまで来た時、後ろからエジプト軍が押し寄せてきました。その時、彼らはモーセに言いました。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。(出エジプト14:11-12」彼らは、エジプトでの苦役をすっかり忘れてしまっています。そしてついさっきまで見た、数々のエジプトに下る災いを忘れてしまっています。今の状況だけ見て主に怒り、そしてモーセに楯突きました。

 主が為してくださった業を忘れてしまう過ちは、私たちがしばしば犯します。イエス様のところに来た十人のらい病人がその典型です。主によって癒されたのに、そのことを主に感謝して、主にひれ伏したのはたった一人でした。

 けれども、彼らの逆らいに関わらず、主は彼らをエジプトから救い出してくださいました。彼らが反抗する民であったのと同時に、主がいかに慈しみ深いかが分かります。

2C 荒野での激しい欲望 13−15
106:13 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。106:14 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。106:15 そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

 荒野での旅で、こう叫びました。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。(民数11:45」激しい欲望、衝動は人間の内に存分にあります。それを彼らは噴出させました。

 主の裁きの方法が興味深いです。「彼らの願うところを与え」られた、とあります。彼らが食べたいと言った肉を、うずらの肉によって鼻から出てくるほどたくさん与えられました。そこにばい菌が入っていたのでしょう、食あたりや下痢などで、やせ衰えました。私たちは、自分がしていることをその当然の結果を自分の身に受けることによって、初めて有害であることを知ることがあります。

3C アロンとモーセへの妬み 16−18
106:16 彼らが宿営でモーセをねたみ、主の聖徒、アロンをねたんだとき、106:17 地は開き、ダタンをのみこみ、アビラムの仲間を包んでしまった。106:18 その仲間の間で火が燃え上がり、炎が悪者どもを焼き尽くした。

 コラの背きです。妬みも、人間の肉に存分にある欲望です。私たちの間で争い、敵意がこんなにも多いのはなぜでしょうか?妬みがその原因ですね。

4C 子牛の彫像 19−23
106:19 彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。106:20 こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。106:21 彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。エジプトで大いなることをなさった方を。106:22 ハムの地では奇しいわざを、葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、行なわれた方を。

 ここでの問題は偶像礼拝でした。神の栄光を、目に見える像に変えたのですが、私たちが神が近くにおられることを感じられなくなった時、目に見えるものにすがってしまいます。

106:23 それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。

 金の子牛の事件の後、モーセは主のところに行って、イスラエルの罪の告白をしました。その時、「彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(民数32:32」と言っています。これが、御前の破れに立ったということです。

5C 約束の地への蔑み 24−27
106:24 しかも彼らは麗しい地をさげすみ、神のみことばを信ぜず、106:25 自分たちの天幕でつぶやき、主の御声を聞かなかった。106:26 それゆえ、主は彼らにこう誓われた。彼らを荒野で打ち倒し、106:27 その子孫を国々の中に投げ散らし、彼らをもろもろの地にまき散らそうと。

 12人のスパイを約束の地に送った時の出来事です。彼らの問題は、御言葉を信じなかったことでした。私たちがみことばやその約束を信じないで、「そんなことは起こらない。」という思いを持ったら、このイスラエル人と同じ過ちを犯していることになります。

6C モアブ神の礼拝 28−31
106:28 彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。106:29 こうして、その行ないによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。106:30 そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。106:31 このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。

 バラムの助言によって、モアブの王がモアブの娘たちをイスラエルの宿営に送った時の出来事です。モアブの王バラクに雇われたバラムは、神の制止によって、イスラエルを呪うことができず、かえって祝福しました。

 けれどもイスラエルが呪われる方法がありました。自ら神の怒りを招くようなことをしたら、神の怒りによって滅びることをバラムは知っていました。そこで、彼らがつまずくために、女たちを送り、そして女たちとの不品行によって、モアブの神を拝ませるようなように仕向けたのです。

 ここでの問題は、内部崩壊です。私たち教会は、外からの力が加わっても、練り清められるだけでさらに強くなります。しかし内側で弱められたら、弱くなるだけです。ここのピネハスのように、罪を内部から取り除くことをしなければいけません。

7C メリバの水 32−33
106:32 彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。106:33 彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。

 ここでは、モーセもまた過ちを犯しました。「いつまで、逆らうお前たちのために水を出さなければいけないのか。」と言って、岩を二度打ちました。怒りが爆発しました。これを主がよしとされませんでした。私たちも、軽率なことを言う口を持っていますね。

8C 異邦の民との交わり 34−43
106:34 彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、106:35 かえって、異邦の民と交わり、そのならわしにならい、106:36 その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。

 約束の地に入ってからの出来事です。ヨシュアが死に、彼らは続けて異邦の民を滅ぼしていきましたが、完全ではありませんでした。ついに共存し始めたのです。

106:37 彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、106:38 罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。106:39 このように彼らは、その行ないによっておのれを汚し、その行ないによって姦淫を犯した。

 しばしばヨシュア記における、先住民を滅す神の命令をひどいことだと考える傾向があります。しかし、そういう人は人間の悪がどれだけ深いかについての知識がないために、そのようなことを言えます。自分の息子、娘、もっとはっきり言うと生まれてきたばかりの赤ちゃんを、偶像のいけにえとしてささげる儀式をカナン人たちは日常的に行なっていたのです。その時代の遺跡から、幼児の骨が大量に出てきました。それを発掘した博士は、「なぜ神はもっと早くカナン人を滅ぼさなかったのだろうか。」と言ったほどでした。

 今も人間の悪が蔓延している時代になっています。多くの人は、人間が他の人間に対してこんなに酷いことはしないという前提で、物事を見ています。だから、貧困の差によってテロが増発しているのだ、と言います。宗教への寛容の名の下に、悪を指摘し、また悪を取り除こうとする力が大幅に失われています。いつか世界は、私たちがぼうっとして気づかぬうちに、何の自由もない恐怖政治になっていることでしょう。

106:40 それゆえ、主の怒りは御民に向かって燃え上がり、ご自分のものである民を忌みきらわれた。106:41 それで彼らを国々の手に渡し、彼らを憎む者たちが彼らを支配した。106:42 敵どもは彼らをしいたげ、その力のもとに彼らは征服された。106:43 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。

 主が数々の士師をイスラエルの中に起こしてくださったときの出来事です。彼らの状態はヨーヨーのようでした。苦しめば主に叫び、それで主が救ってくださるが、平穏を取り戻すとまた罪に陥り、それで主が敵がなすままにされて、それで彼らがまた苦しみ、主に叫ぶ、という上に行って、また下に落ちる状態です。

3B 叫びに応答される主 44−48
106:44 それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。106:45 主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。

 44節の「それでも」がとても重要な箇所です。この詩篇の著者は、主がいかに憐れみに深い方かについて上手にまとめ上げました。旧約聖書を読んで、神がいかに厳しく酷いと考える人がいますが、それは読み間違いです。この詩篇を読めば、人間がいかに反抗的で、不義に満ちているかがわかるし、その彼らにいつまでも手を差し伸べている主の姿を見ることができます。

106:46 また、彼らを、捕え移したすべての者たちから、彼らがあわれまれるようにされた。106:47 私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを勝ち誇るために。

 この詩篇は、バビロン捕囚によってバビロンにいるが、これからエルサレムに戻ることを確信している人が書いていると思われます。イスラエルの初めから士師記あたりまでの歴史を眺めて、先祖たちが犯した罪はもっと後の人たちも犯してきたから、今、バビロンにいることを認識していました。

106:48 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン。」と言え。ハレルヤ。

 これで詩篇の第四巻が終わりました。各巻の最後は、このように頌栄で終わっています。

3A 苦しみの中の叫び 107
 そして第五巻です。これで最後の巻です。150篇まであります。そして107篇は、同じテーマ、主がいつまでも私たちをあわれんでくださることについてのものです。

1B 再び集められる民 1−3
107 第五巻 107:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」107:2 主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、107:3 彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。

 106篇は、捕え移されたところからの叫びでしたが、107篇は再びエルサレムに帰還できたことを歌っているものでしょう。国々から、東から、西から、北から、集められたとあります。そしてここの「南」は直訳では「海」です。地中海のことですが、海の向こうからも集められたということです。これは、バビロンからの帰還であると同時に、離散したユダヤ人が集まってくる全般を描いた預言とも言えます。近代から起こったシオニズム運動があり、そして終わりの時、イエス様が再臨されるときの最終帰還の預言でしょう。

2B 人の子らへの奇しい業 4−43
 そしてこれから、様々な具体的な場面において、苦境に立たされた人々がいかに主に呼び求め、そして主がその叫びに答えてくださるかを読むことができます。

1C 荒野での飢え渇き 4−9
107:4 彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。107:5 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。107:6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。107:8 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。107:9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

 荒野での飢え渇きです。主が答えてくださいましたが、私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。ヤコブも手紙の中で、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。(5:13」と言いました。

2C 鉄のかせ 10−16
107:10 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、107:11 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。107:12 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

 監獄にいて、死を待つばかりの人についての話です。監獄にいるその理由として、「神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮った」とあります。実際に悪を行ない、牢に入っている人は大勢いますが、霊的にも、監獄の中にいる人々がたくさんいるということができます。罪と死を待つばかりの監獄です。

107:13 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。107:14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。107:15 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。107:16 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

 主は、私たちがどんなに悪い事をしたとしても、主に向かって叫ぶ時には答えてくださるところの神様です。「こんなにもひどいことをしてしまった。だめだ。」と私たちが思っても、主はそうだとは考えておられません。

3C 死の病 17−22
107:17 愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。107:18 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。

 私たちの愚かさは、時に肉体にまで及びます。ある罪を犯した為に不治の病に犯されている人の話です。食物が口を通りません。たった一回の出来事で、残りの生涯ずっと引きずらなければならない病や不自由です。

107:19 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。107:22 彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。

 主のみことばによって、いやされます。私が、自分が昔、抑うつだった話をすると、どうやったら癒されますかという悩みの相談を何度か受けたことがあります。私は分かりません。ただはっきり言えるのは、主がそこにおられて、そして御言葉で語りかけてくださったということです。みことばは癒しをもたらします。

4C 船の遭難 23−32
107:23 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、107:24 彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。

 地中海のことでしょう。そこで漁をしていた人の話です。

107:25 主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。107:26 彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。107:27 彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。107:28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

 私は船が遭難しそうになったところに行ったことがないので分からないのですが、急に腹が痛み出したりして、「もう死にそう!」と思うような経験はあります。そのような苦しみの中からの叫びです。

107:29 主があらしを静めると、波はないだ。107:30 波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。107:31 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。107:32 また、主を民の集会であがめ、長老たちの座で、主を賛美せよ。

 船が遭難しそうになる話というと、旧約聖書ではヨナ書、そして新約聖書では使徒行伝がありますね。ヨナがタルシシュ往きの船に乗っている時、神が波を荒くしました。そして船員が自分たちの神々に呼び求めましたが、なんら音沙汰なし。ヨナに聞いたら、天と地を造られた神を彼は拝んでいるというではありませんか!彼は自分を海に投げ込んだら、嵐は静まると言って、船員がそのとおりにすると嵐はやみました。そこから異邦人の船員たちがまことの神を知りました。

 使徒行伝では、パウロが囚人の一人として乗っていた、ローマへ向かう船が遭難したことです。だれもが希望を失っていた時に、主が彼の横に立って、誰一人死ぬことはないという言葉を聞きました。主がすべての航行を守ってくださいました。

5C 荒野から肥沃な地へ 33−38
107:33 主は川を荒野に、水のわき上がる所を潤いのない地に、107:34 肥沃な地を不毛の地に変えられる。その住民の悪のために。107:35 主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え、107:36 そこに飢えた者を住まわせる。彼らは住むべき町を堅く建て、107:37 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。107:38 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、主はその家畜を減らされない。

 主は、荒野から肥沃な地に変えてくださいますが、その反対もあります。肥沃な地を荒野に変えることもなさいます。「その住民の悪のために」とあります。神は人々がご自分に立ち返るために、彼らの注意を引き寄せる為に、このようなことも行なわれるのです。

 私たちは、他の被造物とともにうめかなければいけません。神から他の生き物を治めるように命じられた人間ですが、それでも神の力強い御手の中で生きていることを知る必要があります。神の主権に服する必要があるのです。

 今は文明が発達し、いろいろなものが便利になり、何でもできると錯覚してしまうような時です。けれども、自分ではどうしようもない出来事にぶちあたった時、自分もまた神に服従しなければいけない存在であることを知ります。

6C 虐げからの解放 39−43
107:39 彼らが、しいたげとわざわいと悲しみによって、数が減り、またうなだれるとき、107:40 主は君主たちをさげすみ、道なき荒れ地に彼らをさまよわせる。107:41 しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、その一族を羊の群れのようにされる。107:42 直ぐな人はそれを見て喜び、不正な者はすべてその口を閉じる。

 虐げについての神の働きです。神は虐げられている者を解放してくださる約束をしてくださっています。私たちが見るテレビのドラマでも映画でも、何か不条理があり、悪者がいて、その悪者に対して戦う人々がいる、という話の展開がほとんどですね。それは私たちが、心の中に、神に植えつけられた呻きがあるからです。正義によってすべて支配されている国を求めているからです。神がそれを行なってくださいます。

107:43 知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。

 知恵とは、私たちのIQの数値があがることではありません。今見てきたとおり、自分を含めすべてのものが主の御手の中にあることを知る、その知恵です。


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