詩篇108−112篇 「勝利の主」


アウトライン

1A 負けてもくじけない信仰 108
   1B 神を自慢する歌 1−5
   2B 愛する者への分け前 6−9
   3B 神の手による勝利 10−13
2A 愛を拒む者への報い 109
   1B 憎しみの言葉 1−5
   2B 罪ある者 6−20
      1C わずかな日 6−10
      2C 消し去られる名 11−16
      3C 返ってくる呪い 17−20
   3B 主の救い 21−31
      1C 自分へのあわれみ 21−25
      2C 自分への祝福 26−31
3A 敵を足台とされる主 110
   1B 右の座に着く主 1−3
   2B とこしえの祭司 4−7
4A 神のみわざ 111
   1B 主への感謝 1−9
   2B 主への恐れ 10
5A 神を恐れる者 112
   1B 祝福ある人生 1−4
   2B 人への義 5−10

本文

 詩篇108篇を開いてください、今日は108篇から112篇までを学びます。今日のメッセージの題は「勝利の主」です。

1A 負けてもくじけない信仰 108
108 歌。ダビデの賛歌

 ここの詩篇は、詩篇の他の箇所の二つの部分とほとんど同じです。詩篇57篇の後半と61篇の後半が合わさったものになっています。しかし、この二つを組み合わせることによって、ダビデの親しい神との交わりを読むことができます。ダビデが戦いに出ている時、彼は神を自分の父親のようにして甘え、依存しています。まるで神に駄々をこねているかのようです。戦いという激しい緊張状態の中にいるのにも関わらず、彼は飾らない、柔らかい心を神に対して持っています。

1B 神を自慢する歌 1−5
108:1 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。

 どんなことがあっても、私は神への信頼を揺るがせることはありません、と告白しています。そして、その深い神への信頼から、神への歌があふれ出ています。パウロがシラスとともにピリピで牢に入れられた時のことを思い出してください。彼らは着物をはがされ、むち打たれて、足かせをかけられました。けれども、彼らは神に祈りつつ賛美の歌をうたっていました(使徒16:25参照)。心をゆるがせず、その結果、神に歌っている状態です。

108:2 十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。108:3 主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。

 彼の賛美の思いは、異邦人の中で、またイスラエルの民の中での感謝と賛美に変わっています。彼は自分の内側だけで賛美を抑えることはできませんでした。他の周りの人々に知ってもらいたいと願いました。これが伝道の心であり、宣教の思いです。このすばらしい神様を他の人にも知ってもらいたいという心です。

108:4 あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

 彼の神への信仰の中核には恵みがありました。神が自分に好意を抱いてくださっているという恵みが、天の上にまであると歌っています。私たちはどうでしょうか?信仰の奥深いところに、何が横たわっていますか?神の恵みですか?そしてまことが、真実が雲にまで及ぶと歌っています。

108:5 神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。

 天においても、地上においても、すべてのものが神をほめたたえるようにという祈願です。

2B 愛する者への分け前 6−9
108:6 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。

 ダビデは自分のことを「あなたの愛する者が」と言っています。ヨハネも同じように、自分のことを福音書の中で、「イエスの愛されたあの弟子(ヨハネ21:7」と言っています。私たちは、そこまでの確信と自身があるでしょうか?

108:7 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。108:8 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。108:9 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテの上で、わたしは大声で叫ぼう。」

 ダビデは苦戦を強いられていました。その時に神に祈ったら、神は「聖所から告げられた」とあります。戦いの中で、イスラエルが攻められています。シェケム、ギルアデ、マナセ、エフライム、そしてユダはみな、イスラエルの地名です。そこに敵が攻めに来ています。そこはすべてわたしのものである、と主がおっしゃってくださいました。さらに敵に対しても圧倒的に勝利を収めることを約束してくださいました。モアブ、エドム、そしてペリシテをことごとく踏みつけることができます。

 地上では苦戦を強いられていますが、神は天に、聖所におられる方です。私たちはこのことを忘れてはいけません。この地上で起こっていることで、私たちの心は動揺し、失望します。けれども、地上でどんなことが起こっても、神は天におられる方でありびくともしません。そこから地上をご自分の思いのままに動かしておられるのです。だから主が私たちに祈れと命じられた祈りの中に、「天におられる我らの父よ」という呼びかけがあるのです。

3B 神の手による勝利 10−13
108:10 だれが私を要塞の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。108:11 神よ。あなたは私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。108:12 どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。108:13 神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。

 ダビデは今の劣勢から立ち直るために、人の手による救いではなく、神が助けるようにとお願いしています。このように、人の助けや人の救いを拒んで、ただ神により頼んだ人たちが聖書の中に出てきます。例えば、学者エズラです。彼はエルサレムに帰還するときに、その危険な旅路をペルシヤ王に頼んで、護衛を付けてもらおうことも出来たのですが、それを拒みました。それは、ペリシヤの王に、神の御手があるからといつも証ししていたからだ、と彼は言っています(エズラ8:22)。

2A 愛を拒む者への報い 109
109 指揮者のために。ダビデの賛歌

 詩篇の中には、「敵に仕返しをしてください」と願う祈りがたくさん出てきます。けれども、この109篇の詩篇に勝るものはないでしょう。敵がことごとく呪われるように願っている歌です。

 「敵をも愛しなさい」という主の命令に慣れ親しんでいる私たちには、このような仕返しを読むととまどってしまいます。けれども、この詩篇を注意深く読むと、単にダビデが復讐心で歌っているものではないことに気づきます。ダビデの詩篇にしばしば出てくる預言的な表現が出てきます。まず、8節をご覧ください。「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り」とありますね。これは、ペテロが、主を裏切って自殺したイスカリオテのユダのことを指して言っているものとして引用している箇所です(使徒1:20)。つまり、ここはキリストを拒んだ者たちに対する歌です。

 最後の最後まで愛しつづけた主を拒んだらどうなるのか、主の恵みを踏みにじったら何が残っているのか、そういう最後の救い、究極の救いを拒んだら、残されているのは恐ろしい神の怒りだけであるとヘブル書には書いてあります。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(ヘブル10:26-27

1B 憎しみの言葉 1−5
109:1 私の賛美する神よ。黙っていないでください。109:2 彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったからです。109:3 彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私と戦いました。109:4 彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。109:5 彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。

 キリストに対して、そこにいる人々は何をしてでしょうか?そうですね、憎しみの言葉をキリストに投げかけました。「当ててみろ、キリスト。あなたを打ったのはだれか。(マタイ26:68」「十字架につけろ。(マタイ27:23」「ユダヤ人の王さま。ばんざい。(マタイ26:29」「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。(マタイ27:40」キリストの愛を、このような言葉をもって踏みにじりました。

2B 罪ある者 6−20
1C わずかな日 6−10
109:6 どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。109:7 彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。109:8 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、109:9 その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。109:10 彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。

 彼が罪に定められ、殺されるようにという祈りです。そして残された家族はさまよいます。

2C 消し去られる名 11−16
109:11 債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。109:12 彼には恵みを注ぐ者もなく、そのみなしごをあわれむ者もいませんように。109:13 その子孫は断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去られますように。109:14 彼の父たちの咎が、主に覚えられ、その母の罪が消し去られませんように。109:15 それらがいつも主の御前にあり、主が彼らの記憶を地から消されますように。

 のろいが徹底的です。けれども、これは旧約だけでなく新約においても同じです。黙示録から読みます。「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。(14:10-11

109:16 それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。

 これが、彼が呪いと裁きを受ける原因です。貧しい人、悩む者、心ひしがれた者は幸いであるというのが福音です。主が山上の垂訓でそう語られましたね。その福音を踏みにじるようなことをする行為、また福音を信じようとする人々を阻もうとするような行為は、このような裁きに値します。

3C 返ってくる呪い 17−20
109:17 彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。109:18 彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。109:19 それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。109:20 このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。

 自分が蒔いた種は、自分で刈り取ることになるという霊的原則があります(ガラテヤ6:7)。人をのろうこと、特にキリストを意図的に拒むことは、自らにのろいをもたらします。

3B 主の救い 21−31
1C 自分へのあわれみ 21−25
109:21 しかし、私の主、神よ。どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから、私を救い出してください。109:22 私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています。109:23 私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、いなごのように振り払われます。109:24 私のひざは、断食のためによろけ、私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。109:25 私はまた、彼らのそしりとなり、彼らは私を見て、その頭を振ります。

 自分がののしられることによって、どのように心が痛んでいるのかをダビデは言い表しています。そして25節の「私を見て、その頭を振ります」というのはダビデの状況だけでなく、キリストの十字架のとき、主が受けられた処遇です。

2C 自分への祝福 26−31
109:26 わが神、主よ。私を助けてください。あなたの恵みによって、私を救ってください。109:27 こうして、これがあなたの手であること、主よ、あなたがそれをなされたことを彼らが知りますように。109:28 彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。109:29 私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。

 自分を執拗に攻撃してくる者がもっとも打撃を受けるのは、自分自身が救われることです。自分自身が、主に与えられた仕事を完成させることです。ネヘミヤがエルサレムの城壁の再建を五十二日で完成させたとき、周囲の敵が大いに面目を失ったとあります(ネヘミヤ6:16)。私たちの主にある働きを止めることは、サタンを喜ばせることです。踏ん張りとおして、前進してください。

109:30 私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。109:31 主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

 すばらしい約束です。私たちが自分に罪があると認めるとき、主が私たちの右に立ってくださいます。そして、私たちを死罪に定めようと躍起になっている悪魔の働きから、私たちを救ってくださいます。

3A 敵を足台とされる主 110
110 ダビデの賛歌

 109篇がキリストの十字架についての預言であるなら、110篇はその後の預言です。主は、十字架につけられ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。そして五十日間、弟子たちの間に現われて天に昇られました。この昇天されるときの主のお姿がここに描かれています。

1B 右の座に着く主 1−3
110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」

 主イエス・キリストが、神の右の座に着かれた時の預言です。

 この言葉をイエス様が引用された時のことを覚えていますか?イエス様が十字架につけられる直前、エルサレムの宮の中で律法学者やパリサイ人と論争になりました。その時、だれも主を陥れることができるものがおらず、今度はかえって主が彼らに質問をされました。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45

 ユダヤ人は、メシヤがダビデの世継ぎの子であることを知っていました。けれども、ダビデのずっと後に出てくるその子を、ダビデが「主」と呼んで、その時点ですでに存在していることを認めています。そして、ダビデの子であるにも関わらず、子に向かってダビデは「主」と言っています。子が父を「主」と呼ぶことはあっても、父が子を「主」と呼ぶことは、族長文化を持っているイスラエル人には考えられないことです。

 肉に拠ればダビデの子であり、聖なる御霊によれば、復活によって神の御子であることが公にされた、とパウロがローマ1章で言っていますが、キリストは人であり神であられる方なのです。

110:2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」110:3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。

 イエス・キリストが神の右の座から腰を上げて、地上に戻って来られる時の預言です。敵をことごとく滅ぼし、ご自分には、神の民となった者たちが仕えてきます。

2B とこしえの祭司 4−7
110:4 主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」

 この詩篇の箇所について、新約聖書で長い注解があります。ヘブル人への手紙です。5章と7章にこの箇所についての解釈があります。

 ユダヤ人には、二つの位があります。一つは王位です。ダビデの子が王となるのがキリストです。しかし、聖書にはキリストは王であると同時に祭司でもあることが啓示されています。ゼカリヤ書を読むと、こう書いてあります。「万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(6:12-13」王であり、祭司でもあられる方です。

 しかし、ここで問題が生じます。律法に拠れば、祭司職はレビ族のアロンの子孫でなければならない規定があります。王としてはユダ族から出なければいけません。ならば祭司であり王であるというのは不可能ということになります。

 しかし、この詩篇の箇所によって、アロンの系譜ではない、メルキゼデクの位による祭司職があることがはっきりしました。(新改訳は「例にならい」とありますが、口語訳の「位にしたがって」のほうがより正しいでしょう。)

 メルキゼデクは、創世記14章に登場する祭司です。アブラハムが、捕え移されたロトの家族を奪還した後に、アブラハムを祝福しにやってきました。「また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。(18-20節)」系図もなく、ただシャレム、つまりエルサレムの王であり、かついと高き方の祭司であるとの説明しかありましせん。けれども族長であるアブラハムが、彼に十分の一をささげています。

 この祭司が単なる人間ではなく神性を持っている、つまりキリストご自身がアブラハムのところにやって来たのではないかという意見がありますが、おそらくその通りでしょう。この位によって、キリストが昇天された後、大祭司として今、私たちのために執り成しをしてくださっています。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34」キリストは、弱い私たちの弱さを知っておられ、私たちのために父なる神に申し出てくださっています。なんとすばらしい慰めでしょうか!

 そして再び、主が右の座から立ち上がられて、地上に戻って来られる預言があります。

110:5 あなたの右にいます主は御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。110:6 主は国々の間をさばき、それらをしかばねで満たし、広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。110:7 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。それゆえ、その頭を高く上げられる。

 力強い世界の王として君臨されます。

4A 神のみわざ 111
1B 主への感謝 1−9
111:1 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。111:2 主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

 この詩篇は、純粋に主のみわざをほめたたえる歌です。ここの「尋ね求められる」という日本語訳は、英訳では”studied”になっています。主のみわざが、みわざを喜ぶ人々に勉強されている、研究されている、と訳されています。

 主のみわざをじっくりと学び、じっくりと見ていくことはすばらしいことです。特に今日、神ではなく人についての勉強、人間についての研究が好まれる時代で、神を知り、神について学ぶ必要性は大いに増しています。

 アメリカで無視論者がたくさんいます。自分は無神論者であると言っている人々の職業を調べると、心理学者、精神医学の専門家、ソーシャル・ワーカー、社会学者が主だそうです。これらの職業はみな、人間の心や行動を研究対象にしています。それは、堕落した人間を調べているから、自ずと神を否定するようになるのです。

 そこには心のむなしさしか残りません。しかし神のわざを尋ね求めたら、感謝と賛美、喜びが湧き起こります。

111:3 そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。111:4a 主は、その奇しいわざを記念とされた。

 イスラエルがエジプトから救い出された主のみわざを、主は過越の祭りとして記念としなさいと命じられました。新約時代には、イエス・キリストが行なわれた十字架の御業を、パンとぶどう酒によって記念とします。

111:4b主は情け深く、あわれみ深く、111:5 主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。111:6 異邦の民のゆずりの地を、ご自分の民に与え、彼らに、そのみわざの力を告げ知らせられた。

 荒野の旅を主が守ってくださり、カナン人の地を与えてくださいました。

111:7 御手のわざは真実、公正、そのすべての戒めは確かである。111:8 それらは世々限りなく保たれ、まことと正しさをもって行なわれる。111:9 主は、御民に贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり、おそれおおい。

 このように主についてのあらゆるご性質を並べていきました。その結果、・・・

2B 主への恐れ 10
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。

 ・・・とあります。主を畏れることです。私たちが、自分たちの心についてじっくり調べるのではなく、主のすばらしさをじっくりと調べるのであれば、神のお働きやご性質に細心の注意を払っていくならば、それが主への恐れへとつながります。

5A 神を恐れる者 112
 そこで次の詩篇は、主を畏れる人に与えられる祝福が書かれています。111篇と112篇は、いわばセットです。

1B 祝福ある人生 1−4
112:1 ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。112:2 その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。112:3 繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。

 祝福と富、義の約束です。

112:4 主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。

 主は、「わたしが世の光です」と言われました。直ぐな人たちのために、主ご自身を下さいました。

2B 人への義 5−10
112:5 しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。

 主を畏れる人は、主がその人に対して良くしてくださるだけでなく、自分自身が他の人によくしてあげます。主が良くしてくださっているように、隣人に良くします。

112:6 彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。112:7 その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。112:8 その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。

 すばらしいですね、私たちは自分たちを脅す人に対して心を動揺させてしまいます。けれども、正しい人はゆるぎません。今でも鮮明に覚えていることがありますが、私が尊敬する聖書教師でデービッド・ホーキングという人がいます。彼が教会でレビ記を講解説教しているとき、同性愛についてはっきりと罪であることを説いていました。会衆から野次が飛んできました。私は「やばい雰囲気になったな」と思いましたが、今度はその人が最前列に座りました。そして壇上に上がってきて、説教壇のマイクをつかみ始めたのです。デービッドは、まったく動じませんでした。「後で話すから、引き下がりなさい。」と述べただけで、どんどん説教を続けたのです。まさにこの詩篇の箇所の通りでした。

112:9 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。

 聖書の中に、特に詩篇の中には貧しい人、悩んでいる人、傷ついている人に対するあわれみについて多く語られています。これは単に物質的に貧しいだけの意味ではなく、霊的な貧しさを意味しています。なぜなら王であり金持ちであるはずのダビデが、しばしば自分のことを貧しい者と言うからです。

 私たちは、心の貧しい人たちにどんどん働きかけなければいけません。心を太らせている高慢な人たちではなく、福音を語れば神を求める人々にどんどん語らなければいけません。日本では、「今の生活で満足しています」という人がたくさんいます。神の救いのことを話しても、その必要性を感じない人たちがたくさんいます。豊かな国だからです。そういう豊かさに合わせて、キリスト教会までがエンターテイメント的な礼拝や伝道を展開させたらどうなるでしょうか?証しになりません。

 けれども、豊かな国の中にも苦しんでいる人たちがたくさんいるのです。福音の言葉を聞くことを待っている人たちがいます。そのような人たちに、手を差し伸ばさなければいけません。それは目立たない働きでしょう。骨の折れる働きでしょう。けれども、「彼は貧しい人に惜しみなく与えた。彼の義は永遠に堅く立つ」という約束があなたのものになります!

112:10 悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。

 先ほど話したように、義を行なう者が義を行なうことによって、悪者は悔しがり、滅びます。私たちが悪者と戦うのではありません。

 こうして5つの詩篇を読みました。主の勝利にある生活です。ダビデのような、人の救いではなく神の救いを求める信仰。キリストの十字架と昇天の働き。そして神のみわざを尋ね求め、主を畏れる生活です。お祈りしましょう。


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