この「愚か者は、神はいない、と言っている」という言葉で、面白い思い出があります。アメリカは車社会で、人々はよく車のバンパーにステッカーを貼って、自分の主張や思いを他の人に表明したりします。クリスチャンはよく、魚のマークのステッカーを貼ります。魚の中にJESUSの名前があるものです。そこで、クリスチャンではない人は、その魚に足を付けて、DARWIN(ダーウィン)と書いてあるものです。そして、そのステッカーに対抗するクリスチャンのステッカーを見つけました。その足付きのダーウィンの魚が逆さに倒れていて、そしてここの箇所、「愚か者は、『神はいない』と言っている。」という御言葉が書かれているのです。
その通りですね、ローマ人への手紙1章において、被造物において神の永遠のご性質が明らかにされているのに、神を神として認めず、思いをむなしくして心は暗くなった、と書かれています。その結果、偶像を作り、あらゆる忌まわしいことを行なっている、とあります。
この社会に貢献しているもの、例えば病院であるとか学校において、無神論者が無神論を標榜して建てた病院や学校があるでしょうか?ないですね。無神論を信奉する国がありますが、その状態は荒廃しています。
14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。
ここは、パウロが全ての人が罪を犯したことを論じているところで、引用されている箇所です。善を行なう者は一人もいない、のところです。
主は、自分のことを知っている人だけでなく、尋ね求めている人はいるかどうか探しておられますが、だれもいませんでした。求めることさえ、行なっていないということです。多くの人が、私は神のことは分からない、聖書のことは分からない、といって信じないことの理由にしていますが、まず求めることさえもしていないのが問題なのです。「神さま、あなたがおられるのでしたら、私に現われてください。」という一言の祈りさえささげていないのであれば、どうして神のことを知ることができるでしょうか?
2B 救いの叫び 4−7
14:4 不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。
神を求めない者たちは、道徳的に腐敗するだけでなく、神の民を迫害するようになります。けれども、迫害をしながら彼らは信仰者を恐れるようになります。次をご覧ください。
14:5 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。14:6 おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。
主を自分の避け所としている、その聖徒の姿を見て、迫害しているほうが恐れるようになります。ひどい目にあっているのに、その人からにじみ出てくる輝きがあります。威厳があります。ハマンがモルデカイを迫害していたとき、毅然としていたモルデカイに彼は恐れを抱いたことでしょう。
14:7 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
神を信じない愚か者がいるとき、道徳な腐敗が蔓延しているとき、そして迫害があるとき、私たちはダビデと同じように、救いがシオンから来るように、と祈ります。主が、「御国が来ますように」と祈りなさいと言われたものと同じです。イスラエルが回復します。そしてその他のものも回復します。
5A 主とともに住む人 15
15 ダビデの賛歌
1B 口における義 1−3
15:1 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
質問をしています。そして2節以降に回答があります。
この「あなたの幕屋」とは何でしょうか?神殿が建てられる前に、契約の箱を安置するためにダビデが作った幕屋です。そして「聖なる山」とはシオンの山のことです。また、終末においては幕屋とは、主が住まわれる神殿であり、聖なる山とは主がおられるところのエルサレムです。霊的には、私たちクリスチャンが、神の御霊が宿られる神殿です(1コリント3:16)。
どのような形であれ、主とともにいて、主との交わりをする人はだれか、という質問をダビデはしています。
15:2 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
ダビデは、正しい人についての特徴を列挙しています。私たちは、恵みによって救われたのであり、もし完璧さを求められたら神と交わることはできません。けれども、不完全な中にいても、へりくだって、誠実に主に仕えている中で、神との交わりを楽しむことができます。ヨハネの手紙第一にこう書いてあります。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:5-7)」御子の血によって罪をきよめられつつ、光の中を歩みます。
そして具体的に、義を行なう方法として、心の中の真実を語る人とダビデは言っていますが、続けて口における正しさについて話されています。
15:3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。
「そしり」をしない、ということです。友人に対してもそうだし、知り合いでなくても周囲の人、隣人について悪いことを言わない、ということです。
2B 金銭における義 4−5
15:4a 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。
神が悪とみなされているものを悪とみなし、尊ばれているものを尊ぶ姿勢です。私たちの付き合いがどのようになっているでしょうか?自分の得になるからといって、自分自身は悪を行なわなかったとしても、悪いことをしている人と手を組むことはないでしょうか?霊的な事柄を優先させた付き合いになっているでしょうか?
15:4b損になっても、立てた誓いは変えない。
約束、契約を守るということです。人との約束の中で、初めに約束したことより、後で出てきたことが良くなって、初めに約束した約束を取り消してもらうように連絡したことはないでしょうか?やむを得ず変えなければいけないことはあるでしょうか、自分の損得で変えるようなことがあってはいけません。
15:5a 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
銀行などの利息そのものについての話ではなく、友人関係、特に教会におけるお金の貸し借りにおいて利息は付けてはいけません。ネヘミヤ記にて、ユダヤ人の間で同じユダヤ人を奴隷にしていたことが発覚し、それをネヘミヤはきつく叱りましたが、利息を付けることによって従属関係が生まれます。また利息をつけるのは商売をしているのと同じです。
そして、もちろん賄賂は取ってはいけません。スポルジョンの詩篇についての注解を読んでいたら、「東洋にある習慣である」と書かれていましたが、その通りですね。東洋の人たちは、人間関係の潤滑油のために、お金であるとか接待であるとか、その他、賄賂に準ずるようなことをするのが当たり前になっています。しかし、賄賂はいけないことです。
15:5bこのように行なう人は、決してゆるがされない。
以上のことを行っている人は、主の幕屋に住めるだけでなく、揺るがされることはないとの約束があります。第一ヨハネにこう書いてあります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(2:17)」
6A 主がすべて 16
16 ダビデのミクタム
ミクタムの意味は明らかではありません。詩篇の数箇所に出てきます。
1B 自分の幸い 1−2
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。16:2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
これまで、敵からの守りについて祈りをダビデは行ってきました。主ご自身を避け所とすることについて話しました。そしてこの詩歌では、避け所としている主ご自身の中に、何があるかについて話しています。ダビデは、「私の幸い」があると言っています。すべての良きものが主の中にあります。「あなたこそ」「あなた」というふうに、主ご自身が幸いである、主が源であることを強調しています。
ある私の知り合いのクリスチャンのところに、モルモン教の人が来ました。その人がクリスチャンであることを知って、モルモン教の人は「イエス様はあなたにとってどんな人ですか?」と聞いたそうです。彼は、「キリストはどんな人、というか自分にとっての全てだよ。」と答えました。私も、モルモン教の宣教師とハワイで会ったことがありますが、彼は、「日本にはもっと善良な人たちが必要だ。」と言いました。私は、「善良な人たちが必要なのではなく、イエス様が必要です。」と答えました。主ご自身に、すべての良きものがあるからです。
2B ゆずりの地所 3−7
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
主をあがめている人々の中にいることは、喜びです。聖徒たちには威厳があるとダビデは言っていますが、パウロもテサロニケの信者に対してこう言いました。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。(1テサロニケ2:19-20)」
16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
信仰から離れてしまった人々が持つ痛みについて話しています。金銭を愛することも一種の偶像ですが、パウロはこう言っています。「ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1テモテ6:10)」激しい痛みをもとないます。
そして、「血の酒を注がず」とダビデは言っていますが、レビ記にてイスラエル人は血を食べてはならないと、厳に戒められています。理由は、異教の神々に仕えるとき、儀式の中で血を飲むことがしばしばあったからです。そのような異教の神々に仕えるように見えることもしない、とダビデは言っています。
16:5a 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
主ご自身がゆずりの土地です。ダビデは、主によって財産が与えられることよりも、主ご自身を財産だと考えていました。私たちは、主ご自身よりも、主についての祝福を喜ぶ傾向があります。しかしすべての祝福の源に目を留めるべきです。
16:5bあなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
神様の私たちに対する相続は、堅く保たれています。ペテロがこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(1ペテロ1:4-5)」
16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
ダビデは、主との秘めた交わりを、本当に喜び楽しんでいることが伝わってきます。夜に、静まったとき、主のことを考えて思いを巡らしていながら、主から語られ、助言が与えられます。それを彼は非常に喜んでいるのです。
3B すぐそばにおられる方 8−11
そしてダビデは、主がともにおられることを今からとこしえまで楽しむという告白をしています。
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
自分の前に主を置く・・・すばらしいですね。私はしばしば、自分の前に何も置かないで、人と話したりしてしまいます。そうすると、言わなくてよいことを言ってみたり、自分が言ったことで後悔してみたり、良いことはないです。けれども、自分の前にいつも主を置いていれば、そんな失敗はないです。
主を前に置くことによって、主が右にいてくださいます。主がいろいろ助言してくださるし、主が助けてくださいます。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
主が右にいてくださることによって、三つの結果が出ます。一つは「喜び」です。いつも喜んでいることができます。次に「楽しみ」です。うれしい、と言い換えてもよいでしょう。そして三つ目は、平安です。「安らかに住まおう」と言っています。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
復活の約束です。よみに捨てておかず、墓の穴も見せることはない、というのは生き返る、ということです。
実はこの御言葉は、ダビデ自身のことを超えて、キリストの復活の預言であることをペテロは話しています。ペンテコステのとき、聖霊が祈っている弟子たちに臨まれました。彼らが外国の言葉で話し、世界中からペンテコステを祝うユダヤ人たちが驚いてその光景を見ていました。そこでペテロは立ち上がって、これはヨエルの預言の成就であることを話しました。
そこは、ちょうどダビデの墓があるところです。彼はダビデが語ったこの詩篇について、ダビデ本人のことではないと言いました。使徒の働き2章を開いて、そこの箇所を読みましょう。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』」今、私たちが読んだ詩篇の箇所です。
「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」ダビデの墓の上の部屋で彼は話していますから、説得力がありました。「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(2:24-32)」それでは、最後の11節を読みましょう。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
死んだ後にも生きることができ、主のご臨在を楽しむことができるという約束です。「いのちの道」とは永遠のいのちへの道のことですね。主を知ればいのちの道がわかるのは、主ご自身がいのちの道だからです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」と主は言われました。
そして、「あなたの御前には喜びが満ち」とありますが、私たちが主にお会いするとき、顔を顔を合わせてお会いするとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)」と言われます。この喜びは、私たちの喜びだけでなく、主ご自身の喜びでもあります。
そして「あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」とあります。主が地上に再臨された後、国々の民を選り分けます。右にいる者らにこう言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。(マタイ25:34)」主の楽しみです。主が備えておられる相続です。
私たちが、この世における歩みで、嫌になることがたくさんあります。周りのことで嫌になることもあれば、自分自身が嫌になることもあります。けれども、あなたの右には楽しみがとこしえにあるという御言葉を思い巡らしたいです。ダビデは、主を避け所とすることによって、そのようなあらゆるストレス、悩みから守られました。
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