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詩篇113篇を開いてください、今日は第118篇までを学びますが内容が盛りだくさんです。というのも、この六篇は「ハレル詩篇」と呼ばれユダヤ人の三大祭りの時に歌われる詩篇だからです。例えば、過越の祭りには、その食事の前に113篇と114篇が歌われ、食後に115篇から118篇までが歌われます。
特に118篇は印象的です。主が十字架につけられる直前にこの詩篇が何回も引用されているからです。そして主ご自身がこの詩篇をお歌いになりました。マタイ26章30節を読むと、最後の晩餐が終わってから、「そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」とあります。主ご自身がお歌いになり、そしてそこに書かれている出来事の多くを体験されました。
1A 神のへりくだり 113
それでは第113篇から読んでみましょう。
1B 世界を覆う方 1−4
113:1 ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。113:2 今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。113:3 日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。113:4 主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。
この詩篇の箇所を歌った、有名なプレイズがありますね。私はクリスチャンになってしばらくたったときから、このプレイズが大好きでした。
第一に、「とこしえまで」ほめられよ、と言っていることです。一時間、一日、一ヶ月、一年間ではないのです、とこしえまでほめたたえられよ、と歌っています。そして第二に、「日の上るところから、その沈むところまで」と空間的な広がりも歌っています。世界至るところです。
2B 弱い者に届く方 5−9
これだけ主は大きな方です。そして国々のあらゆるものを超えて、高い所におられる方です。けれどもすばらしいことは、この高き所におられる方が私たちの低い所にまで降りてきてくださったことです。
113:5 だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、113:6 身を低くして天と地をご覧になる。
主はどこまでご自分を低くされたのでしょうか?ピリピ書2章に書いてあります。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(6-8節)」人間のむごたらしい十字架刑のところまで、降りてきてくださいました。
それからヘブル書には、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。(2:17)」とあります。私たちは、主のゆえに働き始めると不思議なことに気づきます。自分がこれまでに経験したことがないような試練や驚きに出会います。そして戸惑い、がっかりすることもありますが、福音書を読むと見事に主ご自身が似たような経験をすでにされていることを知ります。主は私たちの苦しみの先駆者となっておられます。
113:7 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、113:8 彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。113:9 主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。
先ほど読んだピリピ書2章の続きは、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(9節)」とあります。同じようにキリストにつく者も、主にあって高く引き上げられます。信じる者には神の子どもとなる特権が与えられ、神の相続者となり、キリストとの共同統治者になることが約束されています。
2A 贖いの力 114
次の第114篇は、贖いの力の詩篇です。
1B 出エジプト 1−2
114:1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、114:2 ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。
イスラエルの出エジプトの出来事を歌っています。イスラエルが贖い出された時のことを歌っています。
2B 自然の慄き 3−8
114:3 海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。114:4 山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。
海が逃げ去るとは、紅海が分かれた時の出来事です。ヨルダン川がさかさに流れたのは、ヨシュア率いるイスラエルが約束の地に入ったときの出来事です。山々や丘がはねたのは、シナイ山に主が降りておられて、山が揺れたときのことを指しています。
114:5 海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。114:6 山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。114:7 地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。114:8 神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。
主がイスラエルを贖われるときに、自然さえもおののく力をもって贖われました。イエス様が地上におられた時に、同じように嵐をしかりつけ静かにされました。そして、主が死なれ、よみがえられた時に、その全能の力は目に見えない霊的勢力に対して発揮されました。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2:15)」
私たちは、もう罪や悪霊どもを恐れる必要はありません。それらがどんなに自分を強くひっぱっても、キリストを復活させた神の力が信じる者のうちに働いています。私たちのうちに残っているのは、残骸です。残像と言っても良いでしょうか?「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」
3A 神 対 偶像 115
次の詩篇は、「神 バーサス 偶像」あるいは「神 対 偶像」と呼んだらよいでしょう。神と偶像を比べている詩篇です。
1B 偶像礼拝者からの挑戦 1−8
1C 御名のみへの栄光 1
115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
なんと大事な祈りでしょうか。私たちが、主にあって働いている時、主がすばらしいことを行なってくださいます。そのような時、人々は神ではなく器として用いられた人をあがめる傾向があります。あるいは、自分たちが一生懸命何かを行なっているからこれだけの祝福があるのだ、という肉の誇りも出てきます。いつの間にか、神ではなく自分たちに栄光が帰してしまう・・・。このような傾向に対して、詩篇の著者は、「私たちにではなく、ただあなたの御名のみに栄光を帰してください。」と祈っています。
本当に神を知った人々は、神の恵みとまことがいかにすばらしいかを知っています。どうしようもない自分なんかに栄光が与えられるのではなく、神があがめられるように切に願うのです。
2C 見えない神 2−8
115:2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
「国々」とありますが、まことの神を知らない偶像を拝んでいる人々のことです。どうでしょうか、私たちは「あなたがたの神はどこにいるのか。」という挑戦を、絶えず受けていないでしょうか?目に見えるなら、すぐにこちらの神のほうが本当だ、と周りの人々に証明できるはずです。それが国々の神です。目で見ることができ、容易に接触することができます。
しかし、目に見えて、自分が十分に把握することができ、自分の思うとおりになるような神は、まことの神ではないのです。そのような神がいかにむなしく、愚かであるかを論じていきます。
115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。
「彼らの神はどこにいるのか」に対する答えです。「天におられる」です。目に見える偶像が地上にあるのに対して、私たちの神は天におられます。この天は単なる物理的な空ではなく、むしろこの天地が滅びても、なおかつ残っている空間です。そこに神の御座があります。
そして、ご自分の望むところをことごとく行なわれます。偶像の神は個人の望むところにしたがって動くと信じており、自分が中心です。しかし私たちの神は、神が望まれることをことごとく行なわれ、神中心です。どちらを私たちは信じるのでしょうか?私は自分の思い通りになる神ではなく、自分の知性をはるかに超えたところに御心を持っておられ、知恵を持っておられる神を信じたいです。
115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。115:6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。115:7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
偶像についての見事な描写です。偶像を拝むことがいかに非合理で、むなしいかを教えています。彼らの神は目に見ることができます。私たちの神は見ることができません。けれども神は、私たちを見ることはできます。私たちが立っても座っても、そこにいることを神は知っておられます。けれども偶像は目を持っていても、その目で私たちを見ることはできません。
同じように口を持っていても、語ることはできません。私たちの神はどうでしょうか?私たちの神の口を見ることはできませんが、神は私たちにたくさん語ってくださいますね。神のみことばが、聖霊によって私たちに語られます。
そして偶像の神は、耳はありますが、彼らの祈りをその木や石で作られた耳で聞くことができるでしょうか?いいえ、けれども私たちの神の耳は見ることはできなくても、私たちの祈りを確実に聞いてくださいます。同じように偶像の神は手があっても触ることはできませんが、神の御手が私たちに置かれると、私たちは癒され、回復し、励ましを受けます。
このように、私たちの神と私たちは「霊」によって交わりをします。人間と人間の交わりも、その物理的な肉体ではなく、その背後にある霊または人格の交流です。肉体はあくまでも霊を表現する器にしかすぎません。神は霊であられます。だから私たちは目に見えずとも、目に見えるもの以上に、はるかに親密な交わりを持つことができるのです。
115:8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。
偶像礼拝者は、自分よりも劣った偶像と同じようになります。偶像と同じように無知になり、無感覚になっていきます。「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。(エペソ4:18-19)」
しかし私たちが偶像ではなくて、主を礼拝していったらどうなるのでしょうか?偶像礼拝者が偶像のようになっていくのと同じように、神の礼拝者は神に似たものに変えられていきます。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)」
2B 主からの祝福 9−18
1C 信頼への勧め 9−11
115:9 イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。115:10 アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。115:11 主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
「偶像礼拝者が『神はどこにいるのか』と挑戦しているが、今見たように、彼らの神はむなしいものだ。主に信頼せよ」と勧めています。三つの種類の人々に勧めていますね。まずイスラエル人です。それから主に対して奉仕をするアロンの家に対してです。それから「主を恐れる者たち」ですが、彼らは民族的には異邦人でも、イスラエルの神をあがめている改宗者たちのことでしょう。
旧約時代においても、神は異邦人のことを心に留めておられました。異邦人が神の祝福の中に入ることがはっきり示されるのは、新約時代になってからです。キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つのからだになることができる、教会の奥義が使徒たちに啓示されました。けれども、神は初めから異邦人にも心を留めておられ、このように神を恐れる者にも祝福を与えようとされているのです。
2C 頌栄 12−18
115:12 主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、115:13 主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。
もれなく祝福にあずかります。「小さな者も、大いなる者も」とありますが、これは黙示録20章に記録されている、最後の審判において復活する人たちにも使われている言葉です。自分がこの地上で重要人物だからといって、それをもって神に良い印象を与えることはできない、ということです。逆に、自分は取るに足りない人物だと思っても、神は決して祝福から外すことはありません。
神は、私たちが今いるところで大いに祝福してくださっています。誰の目にも留められないところでも、神は御心に留めてくださっています。
そしてもう一つ興味深いのは、呼びかけているのはアロンの家より先にイスラエルの家に対してであることです。アロンの家は、イスラエルの霊的生活を豊かにするために仕えている、しもべです。後ろで働く人々です。だからイスラエルの後に出てきます。同じように、新約時代においては私たちが神に対する祭司であることが啓示されています。人々の後ろのほうに行って、人々を霊的に助ける、仕える者たちなのです。
115:14 主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。115:15 あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。115:16 天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。
主はアダムに「地を支配せよ」と命じられましたが、この地上を人が楽しむことができるように、神は祝福されました。
115:17 死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。115:18 しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。
私たちがまだ天に引き上げられずこの地上にいる理由の一つは、主をほめたたえることであることがここから分かりますね。主の祝福を感じて、この地上で生活をすることが、神が私たちを造られた目的の一つであります。
4A 聖徒の死 116
次の詩篇は、神を信じる者、聖徒が死に面しているときの詩篇です。信仰者が死をどのように考えているのか、どのように死に直面すればよいのかを教えてくれる良い内容です。
1B 死からの救い 1−8
116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
死に瀕していた人が祈り求めたら、救われたことを賛美しています。ここで「死」について、著者がどう考えているか見てみましょう。「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」死に面するとき、人が感じるのは「よみの恐怖」です。死もさることながら、死んだあとも意識が続き、その後の神の審判に対する恐怖が、どの人間にもあります。
ローマ書1章32節に、神のことを何も考えずに偶像だけ拝む異邦人について、「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら」とあります。神道の考えでは、死んだら自分はいなくなる、と教えます。そして実際、多くの日本人が死んだ後のことは考えません。しかし、それは表面的なことです。どんなに不信仰な者でも、心の奥深いところで良心を通して、自分は神の裁きに遭うということを知っているのです。
2B 救われた後の誓い 9−19
しかしこの著者は、その恐怖から神が自分を救ってくださった、と歌っています。次を読んでみましょう。
116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。116:10 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。
自分が救われる前に、「大いに悩んだ」と言って見たり、「すべての者は偽りだ」と言ってみたりしたことを失態であった、と反省しています。
116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
お返しできるのは、ただ「私を救ってくださいました。ありがとうございます。」と主に呼びかけることだけです。主が救われる為のことをすべてしてくださいました。そしてその救いは完全です。自分が神の御業に何ら付け足すことはできません。ただ感謝し、主をほめたたえることしかできないのが、私たちの残りの人生です。
116:14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。116:16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。116:18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。116:19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。
救われたので、救われる前に誓いを神に立てたことをこれから果たします、という公言です。
ここで非常に興味深い一言があります。「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」死から救われたことをこの著者は歌っているはずなのに、聖徒たちの死が尊い、と言っていることです。もしかしたら、詩篇の著者は、単に肉体的に死から救われたことを話していたのではないかもしれません。むしろ、肉体的には滅んでも霊が救われたこと、地上から自分が離れて天の中に入ることを預言して話しているのかもしれません。
自分の肉体は死んだが、実は天の中に入って安息を得た、という将来に起こることを著者は話しています。したがって、ここで「御民のすべている所で」というのは地上のエルサレムだけでなく、それ以上に天のエルサレムのことを話しているかもしれません。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。(ヘブル12:22-24)」
肉体の束縛から解き放たれ、新しい体をもって天において憩い、主にお仕えするすばらしい世界が、死んだ直後に待っています。ゆえに、「聖徒の死は主の目に尊い」のです。これを、葬儀のときに覚えましょう。主にあって誰かが死んだとき、このことを覚えましょう。
5A 異邦人の賛美 117
次の詩篇は、詩篇の中だけでなく聖書の中でもっとも短い章です。(もっとも、詩篇以外の章は後世の人がつけた区切りですが。)
117:1 すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。117:2 その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。
「すべての国々、すべての民」と、イスラエルだけでなく、異邦人全体に対して主への賛美を促しています。先ほど話したように、旧約の時代にも異邦人への招きはたくさんあったのです。
6A メシヤの凱旋 118
そしてこの異邦人への招きがあった後で、次の詩篇は非常にイスラエル色の濃い、メシヤ賛歌になっています。先ほど話しましたように、これは過越の食事の後にも歌われる詩篇であり、主ご自身もこの詩篇を歌われました。
そしてここに出てくるさまざまな箇所が、主がエルサレムに入城されて十字架につけられるまでの克明な預言にもなっています。ここの詩篇に照らし合わせて、主の最後の一週間を辿ると、また新しい見方ができるでしょう。
1B 主のご慈愛 1−4
118:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。118:2 さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。118:3 さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。118:4 さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
この詩篇は、具体的には祭りの行列のときに歌われたものです。27節に、「祭りの行列を組め」とあります。今、一人の、敵に打ち勝った勝利者が凱旋して都の中に入るのを、人々が喜び、聖歌隊を組んで合唱しています。だれかが、「さあ。イスラエルよ、言え。」と呼びかけたら、「主の恵みはとこしえまで。」とみなが叫びます。そしてアロンの家が次に、「主の恵みはとこしえまで。」そして主を恐れる人々が、「主の恵みはとこしえまで。」と歌っているのです。
2B 救いの証し 5−18
その間を、凱旋の入城をしようとしている征服者が歩いています。そしてこの征服者が、独唱します。自分が敵から救われたときの体験を証ししています。
1C 味方なる主 5−9
118:5 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
「広い所」とは、何の妨げもない、安定し、安心できる場のことです。
118:6 主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。118:7 主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
ローマ8章31節に、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。
118:8 主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。118:9 主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。
ああ、何と大事なみことばでしょうか。日本にキリシタンが爆発的に増えた戦国時代、人々は何も信じることができませんでした。人にも、君主たちも信頼することができませんでした。今、社会が安定し、政府も安定しているこの日本で、私たちがだれに信頼しているのかを再確認しなければいけません。
2C 取り囲む敵 10−14
118:10 すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。118:11 彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。118:12 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
海の大波のように押し寄せる敵がいます。断ち切ったと思いきや、また大勢の軍隊が自分に迫ってきます。倒したと思いきや、またやってきて、また倒して、の連続です。私たちが、主にあって生きているとき、このような体験をするのではないでしょうか?霊の戦いです。人間的には、「一難去って、また一難」なのですが、私たちには強い味方がいます。主ご自身です。主にあって、その関係を断ち切ることができます。
そしてこの「断ち切る」のヘブル語は、他の箇所では「割礼」と訳されています。男性の性器の包皮を切る割礼の言葉を、敵に対して使っているのです。敵に面している中で、私たちは主とのつながりに覆いがかかるような、霊的に鈍くさせるような状態に陥りそうになります。そこで私たちは、その悪いものを断ち切って、新たに主に自分を献身させていく、新鮮な関係を新たに呼び戻す必要があるのです。
118:13 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。
3C 主の右の手 15−18
118:15 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。118:16 主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。
「右」は、力と権能を表わしています。
118:17 私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。118:18 主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。
死なずに生きることができた、その主の御業を賛美しています。
3B 入城 19−29
そして征服者は、エルサレムの門に近づきました。
1C 義の門 19−21
118:19 義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。118:20 これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。118:21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。
エルサレムの町は、もちろん城壁で囲まれています。東西南北にいくつかの門があります。その一つが、黄金の門とも呼ばれている東の門です。オリーブ山に面しており、そこからこの門とその奥にある黄金の神殿を、イエス様の時代に見ることができました。そこから征服者は入城するという歌です。
イエス様は、おそらくこの門から入城されました。ゼカリヤの預言を成就するために、ろばの背に乗って入城されました。そして群集から、「ホサナ」という歓喜を受けながら行進されました。
2C 神の家 22−27
征服者は門を通って、神殿に入ります。そこで待っているのはアロンの家の祭司たちです。今度は彼らが合唱します。
118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。118:23 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
彼らは、おそらくはソロモン時代に起こったことを歌っています。ソロモンが神殿を建てるとき、神殿の現場とは別に石切り場がありました。そこで一つ一つの石が正確に切り取り、神殿の敷地にまで運び、そしてそこで組み立てます。神殿の現場では、ブロック遊びのように石をただ組み立てていくだけだったので、石を切る音はまったくしませんでした(1列王6:7参照)。
おそらく、それぞれの石に番号を振って、どこにどの石が行くかのしるしを付けたことでしょう。その時、ある石がどこに行くのかわからないものがありました。「おそらく、切ったときに出た、余分の石だろう。」と思って、神殿の敷地の草むらに捨てました。さて、神殿の礎の親石を組み込む時になりました。石切り場のほうに、「早くかなめ石をもってこい」と命じましたが、「もう送ったぞ」との返答が返ってきました。そこである人が、「あっ、もしかして、あの雑草のところに捨ててしまった石が、もしやかなめ石では?」と思い出して、持ってきたら案の定、それがかなめ石だったという話しです。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。118:23 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」ですが、主がエルサレムに入って、ユダヤ人の宗教指導者らと議論されたとき、この言葉が成就するという発言をされたのを覚えているでしょうか。ユダヤ人指導者らが、これからメシヤを殺すたとえを、ぶどう園の農夫を使って話された後に、この詩篇の箇所を引用されました。神の家を建て上げる宗教指導者らが、かえってイエスを捨ててしまった。けれども、そのイエスがメシヤであった、という預言です。
118:24 これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
私たちはプレイズで、「この日は、この日は、主が造られた。」と歌っていますが、もともとは、主がエルサレムに入城される特定の日を歌ったものです。主がエルサレムに来られる日は、ダニエルを通して、詳細に預言されていました。「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。(9:24-26a)」七週と六十二週、つまり六十九週、483年後、一日も違わずに主がエルサレムに入られ、ダニエルが預言したように、この方は絶たれました。
118:25 ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。
今度は、一般の人々が叫んでいます。「どうぞ、救ってください。」「ホサナ」です。イエス様がエルサレムに来られた時に群集が叫んだ言葉です。
118:26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
イエス様が入城された後のことを考えてください。主は両替人の台をひっくりかえしたりされて、宮きよめを行なわれました。そして群集に教えられているところを、宗教指導者たちがやってきて、主に詰問しました。その時に、先ほどの「家を建てる者の捨てた石。」の箇所を引用されています。
そして彼らがもはや答えられなくなってから、主は律法学者、パリサイ人らに対して、呪いの言葉を語られました。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。(マタイ23:13等)」そして、これまであなたがたが義人の血を流してきたが、それらのすべての報復があなたがたの上に下る、これらの報いはみなこの時代の上に来る、と言われました。そしてエルサレムが荒れ果てたままになると嘆かれて、「あなたがたに告げます。」とおっしゃられています。
「『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。(マタイ23:39)」ここの詩篇の箇所を引用されているのです。主はこの詩篇がご自分の身に成就することをお考えになりながら、エルサレムに入られたのです。ここに書かれていることが、一つ一つ成就していく、そして25節から26節に入るところでしばらくの時間が経つことをご存知でした。
家を建てる者たちがかなめ石を捨てるが、その建てる者たちがイエス様を見て、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と言って、イエス様をメシヤとして迎え入れるまでには、かなりの時間が経つことを知っておられました。このことが実現するのは、主が再び戻って来られる時です。
主は彼らにこの言葉を残されてから、オリーブ山で弟子たちにエルサレムの破壊の後に起こることをお話しになられました。国が国に敵対し、人々の愛が冷え、荒らす忌むべき者が聖所の中に立ち、これまでにない大きな患難があることをお語りになりました。そして天変地異が起こり、選ばれた者たちもあわや全滅してしまうのではないか、と思われるところで、主が天から雲に乗って戻ってこられます。そして、選ばれた民は四方から集められることを預言されました。この時に、その残されたユダヤの民、特にユダヤ人の指導者が、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」とイエスをメシヤとして迎え入れるのです。非常に内容の重い詩篇の箇所です。
118:27 主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
覚えていますか、主がエルサレムに入城されたとき、群集がこのことを行ないました。枝や自分の上着を道に敷いて、主を迎え入れました。「祭壇の角」とありますが、神殿に入ると、そこにあるのは祭壇ですね。いけにえを持ってきた祭司以外の者はそこまで入ることができます。
興味深いことに、この慣習は、エルサレムを再建したことを記録するエズラ記とネヘミヤ記に書かれています。ゼルバベル率いるユダヤ人の集団が、エルサレムで神殿の礎を据えた時、主を賛美して喜びました。こう書いてあります。「そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ3:11)」この文句は、この詩篇の最初に出てきたのと同じです。おそらくは、この詩篇そのものを歌っていたのではないでしょうか?
そして、エルサレムの城壁を立て直したことを記録するネヘミヤ記には、ネヘミヤとエズラの勧めによって、彼らが同じように喜び叫んでいる場面があります。そしてエズラが、枝の茂った木の枝などを取って仮庵を作りなさい、と命じました。仮庵の祭りです。
この詩篇の内容は、もともと仮庵の祭りの時のものであったのかもしれません。けれども、すべての三大祭りで歌われるようになり、過越の祭りにも歌われたのでしょう。だから、過越の祭りが近づいた棕櫚の聖日のときにも、彼らは枝を道に敷いて、主を迎え入れたのであろうと考えられます。
3C 感謝 28−29
118:28 あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私はあなたをあがめます。118:29 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
この言葉で詩篇が始まりましたが、この言葉で詩篇が終わります。主の本質は慈しみであり、恵みです。
次回は、聖書の中で最も長い章である119篇を学びます。
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