詩篇11989176節 「生かす御言葉」

アウトライン

1A ラメド 天地の真理 89−96
2A メム すぐれた知恵 97−104
3A ヌン 足のともしび、道の光 105−112
4A サメク 二心への憎しみ 113−120
5A アイン 義の飢え渇き 121−128
6A ペ 御顔 129−136
7A ツァデー 義と真実 137−144
8A コフ 呼び求め 145−152
9A レシ 敵からの救い 153−160
10A シン 君主からの救い 161−168
11A タウ 賛美 169−176

本文

 詩篇11989節を開いてください。今日は詩篇119篇の後半部分を学びます。今日のメッセージ題は、「生かす御言葉」です。前回もお話ししたように、第119篇はアクロスティック詩篇と呼ばれており、それぞれの段落がヘブル語のアルファベットの順になっています。今日は、ラメドから始まります。

1A ラメド 天地の真理 89−96
119:89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。119:90 あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。119:91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。

 私たちはしばしば「御言葉」という言葉を軽く口にしますが、主の言葉はどれだけ強固なものであるかが、ここに書かれています。主が言われましたね、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(マタイ24:35」これだけでも、私たちがいかに御言葉によりすがればよいか、よく分かりますね。私たちがいま立っている地よりも、はるかに安定しています。むしろ、天や地は神の御言葉によって造られ、そして成り立っています。91節のところで「すべては、あなたのしもべ」と書いてありますが、それは、今日もすべてのものが主の御手の中で動いているからです。

119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

 先日目にしたギャロップ社の調査では、日本人の11パーセントが「自分は生まれてこなかったほうが良かった。」という返答をしたそうです。私もその一人でした。高校生時代に悩み、鬱になり、死にたいと思いました。しかし、神の御言葉を喜びとしたら悩むことはありません。そこに悩みに対する解答がすべて書かれています。

119:93 私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

 詩篇119篇の中に、この言い回しが何度も出てきます。戒めによって自分は生かされる、ということです。イエス様も悪魔の誘惑を受けられた時に、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる(申命8:3」という申命記の言葉を引用されました。

119:94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。

 悩みにいるときに、どうしたらその状況から救われるのでしょうか?ここには初めに「私はあなたのもの」と言っています。自分が神のものであれば、神が自分を何とかしてくださる、という確信であり、希望です。そして次に、「あなたの戒めを、求めています」とあります。御言葉を求めます。

119:95 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。

 悩みの中にいるとき、私たちはいろいろな声を聞きます。悪魔の誘惑の声も聞きます。しかし、自分は御言葉を聞き取ります。御言葉だけを聞けるように取捨選別する必要があります。

119:96 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。

 主の御言葉さえ聞ければ、後は主が行なってくださいます。状況は変わらないかもしれませんが、視点が変わります。「すべての全きものにも、終わりがある」ことを彼は見ました。

 そして、「あなたの仰せは、すばらしく広いのです」とあります。主の御言葉の内を歩んでいたら、つまずくことはありません。御言葉に従うというと、何か窮屈のように感じてしまいます。実際、主は「狭い門からはいりなさい(ルカ13:24等)」と言われました。けれども、広い門は滅びへの道です。けれども狭い門は、入った後は限りなく広い空間です。ちょうどノアの家族が箱舟という窮屈なところに一年間いなければいけませんでしたが、洪水の後、自分たちの前に新世界が広がっていたのと同じです。キリストという方のうちにじっととどまっていること、これが何でもすることができる自由への道です。

2A メム すぐれた知恵 97−104
119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

 御言葉を愛し、慕っている姿です。どうして愛しているのでしょうか、その理由が次にあります。

119:98 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。119:99 私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。119:100 私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。

 自分を賢くし、悟りを与えるから、御教えが慕わしいものとなっています。一つ目、敵よりも賢くします。自分には良かれと思っていることがあります。そして自分が、頭が良ければ良いほど、自分の知恵と悟りに頼りたくなります。けれども聖書には、神は知恵ある者を愚かにするために、十字架の言葉による救いの道を設けられました(1コリント2:21参照)。私たちの理解、悟りではなくて神に服従するときに、悪魔は退きます。

 そして、二つ目、すべての師よりも悟りがあります。これは、儒教的な師弟制度が残っている日本や他の東アジア地域のクリスチャンにとって、必要な言葉ですね。「牧師先生がこう言っているから私はこれを信じます」ということではないのです。私たちがキリストにあって成長し、自分が霊的識別力を身に付けなければいけません(コロサイ1:9参照)。その霊的成長を牧師が、御言葉を教えることによって助けるのですが、牧師に拠り頼むのではありません。

 三つ目は、老人よりもわきまえがある、ということです。これもまたアジア的な価値観の中では必要な御言葉でしょう。目上の人を敬うことは大切でしょう。また、経験による知恵は多くあります。けれども、それは霊的知識や霊的知恵に勝ることはありません。キリストを心のうちに抱かない人が、老いるにしたがって、どれだけ知恵ある行動を取っているでしょうか?

 しかしキリストのうちにいる人は、外は衰えても、内は日々新たにされています(2コリント4:16参照)。長年、主とともに歩んできた老人のキリスト者から出てくる言葉は、若い者たちをもさらに若返らせるような、新鮮さ、若さがあります。

119:101 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。119:102 私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。

 二つの行動が一対になっています。悪の道から足を引き止めることと、神の定めから離れないことは同時に行なうことです。私たちが、悪いものから離れようと頑張っても、引き寄せられてしまいます。良いことをしたいという思いはあるのに、肉が弱いのです。けれども、主の定めの中に入れば、自ずと悪いものから自分を引き離すことができます。主の定めが、悪いものより、もっと魅力的だからです。

119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。119:104 私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

 繰り返しています。御言葉が蜜のように慕わしい、それは御言葉のおかげでわきまえがあるからです。

3A ヌン 足のともしび、道の光 105−112
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

 足の灯火、道の光、ということは、周囲は暗闇ということです。私たちがこの世に生きているということは、暗闇の中に生きていることです。第一ヨハネ5章19節には、「全世界は悪い者の支配下にある」とあります。そこから私たちは、光の中に導きいれられました。

 そして私たちは、ずっと遠くを見ることはできません。これから先どうなるのかを知ろうとしても、この世の中、どんどん悪くなるだけです。けれども、今、私たちがしなければいけない目の前のことは見ることができます。主が私たちに日々、与えてくださる御言葉です。一歩前に踏み出したら、もっと先を見ることができます。私たちが今、主から行ないなさいと命じられていること、御心であると明らかに示されていることを行なえば、次に何をしなければいけないかを明らかにしていただけるのです。

119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。

 暗闇である世にいて御言葉が光ですが、その中にいて大切なのは、御言葉を守るという決意です。ダニエルのことを思い出してください。彼は異教の国バビロンにて、その王に仕えました。イスラエルからバビロンに捕え移されたばかりの時です。まさに暗闇ですが、けれども彼は光を見失っていませんでした。王のごちそうの一部が少年たちの食事でしたが、その中に、レビ記の食物規定に反する食べ物があったようです。ダニエルは食べることを拒みました。主の定めに従うという決意があったからです。私たちにもこの決意が必要です。

119:107 私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。

 再び「私を生かしてください」という祈りが出てきました。その理由はここでは、「ひどく悩んでいる」からです。暗闇の世にいるとき、私たちの心は悩みます。ソドムにいたロトのことを思い出してください。第二ペテロにこう書いてあります。「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(2ペテロ2:7-8

119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。

 口の進んでささげるささげ物とは、もちろん感謝と賛美のささげ物です。自ずと湧いてくる感謝、そして賛美、このような心を主は私たちから期待されています。

119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。

 皆さんも命がけのことがおありじゃないでしょうか?差し迫った仕事。明日の期末試験、などなど。これらを私たちは対処していかなければなりませんが、その時、「みおしえを忘れない」ことが大事ですね。

119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。119:112 私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

 永遠のゆずり、というのはもっとも高価な資産ですね。いつかはなくなってしまう資産ではなく、朽ちることもない、汚れることもない資産です。神のさとしがそれだ、と言っているのです。

4A サメク 二心への憎しみ 113−120
119:113 私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。

 確かに、二心の人には嫌悪感を抱くものです。偽善者と言ってもよいでしょう、一方では自分がいかに霊的で品性があるように振る舞いながら、他方で世と何も変わらないことをやっているのを見るとき、私たちは嫌悪感と脱力感を抱きます。

 けれども、それ以上に神が二心を嫌っておられます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8」私たちの心は二心になりやすいです。そこでダビデはこう祈っています。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86:11

119:114 あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます。119:115 悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。

 私たちの心が二つに分かれていってしまうのは、私たちが世に住んでいるため、悪が自分の周りにはびこっているからです。だから、常に妥協をしなさいという精神的圧力がかかります。そこで詩篇の著者は二つの祈りをしています。「主が私の隠れ場」そして「悪を行なう者は離れて行け」です。これも二つで一つの行動です。自分で悪に立ち向かうのではなく、主の中に逃げます、隠れます。それから、悪を退けます。

119:116 みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。119:117 私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。

 「私を支えていてください」という祈りです。世の迫害や誘惑の圧迫を受けている中で、自分が罪の道を歩むことなく支えていてください、という祈りです。そして、自分が正しい道をはずすことがなければ、後に来る神の怒りからも救われることを話しています。

119:118 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。彼らの欺きは、偽りごとだからです。119:119 あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。119:120 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています。

 主の掟から迷い出る者に対する神の怠りない裁きです。「あなたへの恐れで、震えています」と言っていますが、私たちも黙示録を読めば、自分自身は救われている保証があっても、その恐ろしい裁きに震えます。神の怒りに対する健全な恐れが必要です。

5A アイン 義の飢え渇き 121−128
119:121 私は公正と義とを行ないました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。119:122 あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。119:123 私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。

 これはまさに、主の仰った「義に飢え乾いている者(マタイ5:6」の姿です。世の中で悪がはびこっています。自分は神の義を選びましたが、それゆえに虐げを受けています。

119:124 あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください。119:125 私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。

 再び、掟を教えてください、そして悟り、あるいは理解を与えてください、という祈りです。

119:126 今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました。

 このような叫びは、黙示録6章にも出てきます。「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』(黙示6:9-10」主の教えをことごとく破っているこの世を見て、主よ今、事を行なってくださいと叫んでいます。

119:127 それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。119:128 それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。

 いかがでしょうか、私たちはこのような怒りと憎しみを持っているでしょうか?学校で、人間が神によって造られたのではなく、サルから進化したと教えられていることに、怒りを持っているでしょうか?学校で修学旅行に神社参拝させることに怒りを持っているでしょうか?テレビや漫画などで、不自然な性行為を当たり前のものであるかのように話していることに、怒りは持っているでしょうか?偽りや罪への憎しみが必要です。

6A ペ 御顔 129−136
119:129 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

 再び、悟りを与えることについてです。みことばを守ること、行なうことはもちろん大事ですが、その前に、自分が神から教えられ、そしてその教えを悟る必要があります。聖書を知りたいという飢え渇きが私たちにどれだけあるでしょうか?私たちがしばしば目にするのは、教会に通うのは熱心であり、また聖句を暗誦することにすら熱心なのに、その中身を理解していないことです。しかし、理解がなければ正しい適用もできません。

 私たちが聖書を理解するときに大切なのは、ご聖霊の働きです。「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(1コリント2:11-12」聖書は、神の霊感によって書かれたもの、神のご聖霊に導かれた人たちが書いたものです。ですから、これを理解するのにも、ご聖霊の照らし、照明が必要です。聖書を読む前に、ぜひ祈る習慣をつけてください。ご聖霊が自分に理解を与えてくださるよう、御言葉の戸に光を差し込んでくださるよう祈るのです。

119:131 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

 確か、ジョージ・ミューラーは、この聖書の箇所が与えられて、孤児院の経営の必要を神が満たしてくださる方法を見つけました。自分がしなければいけないことは、子の鳥が親鳥から食べ物をもらう時に口を大きく開くように、神に対してあえぎます。

119:132 御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。

 「御顔を向ける」というのは、自分の方に神が向いてくださる、つまり働きかけてくださる、という意味です。「御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように」とありますが、ローマ人への手紙8章にこの決められたことがあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28」神を愛する者のために、すべてを益としてくださることを決めてくださっています。実際、そのようにしてください、と願い求めています。

119:133 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。

 私たちが罪によって支配されない方法は、ここにあるように御言葉によります。前回も学びましたが、罪を犯さないようにするため、神の言葉を心にたくわえる、とありました(119:11)。イエス様が仰いました。「真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31」その真理は御言葉にあります(ヨハネ17:17)。

119:134 私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。

 私たちは、自分が神の御言葉を守ることができないような状況から抜け出ることができるように祈るべきです。会社で日曜出勤を強いるようになること。嘘をつかなければいけないような商取引。その他、罪を犯させたり、神との霊的関係の妨げになるような状況から抜け出せるよう祈るべきです。

119:135 御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。119:136 私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。

 先ほどは、偽りについて怒りと憎しみを抱いていましたが、ここでは悲しみが表現されています。人々が神の御教えを守らないので、悲しみ泣いています。私たちが失われた人々について、悲しみ泣きながら祈っているでしょうか?

7A ツァデー 義と真実 137−144
119:137 主よ。あなたは正しくあられます。あなたのさばきはまっすぐです。119:138 あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう。

 皆さんもこのように納得されるでしょうか。神の言葉を読んで、聖書の話を読んで、「本当にそのとおりだ。正しく、公正だ。」と思われることがあるのではないでしょうか?主が裁きを地上に下される時も、天にいる大群衆は神のさばきは「真実で、正しい」と叫びました(黙示19:2)。

119:139 私の熱心は私を滅ぼし尽くしてしまいました。私の敵があなたのことばを忘れているからです。

 似たような表現が詩篇69篇9節にあり、それがヨハネ2章17節に引用されています。主が宮きよめを行なわれて、両替人の台をひっくり返したりされたとき、弟子たちは、「私の熱心は私を滅ぼしつくす」という御言葉を思い出しました。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

 これまであらゆる形で、聖書は試されました。聖書ほど多くの批判と批評を受けた書物はありません。しかしながら、なお真実の言葉として成り立っています。よく練られた言葉です。

119:141 私はつまらない者で、さげすまれています。しかし、あなたの戒めを忘れてはいません。119:142 あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです。119:143 苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです。119:144 あなたのさとしは、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。

 自分の今の苦境と、永遠の義である神の御言葉を比べています。たとえ今が困難に見えても、御言葉の世界は永遠です。

8A コフ 呼び求め 145−152
119:145 私は心を尽くして呼びました。主よ。私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。119:146 私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。119:147 私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。

 叫び求めていることの必要性です。私たちは、自分にまだできると思っているときは、本当に叫び求めることはありません。今の日本人に精神的な病に患っている人が多いですが、実は教会の中にも多いです。薬を飲んでいるようですが、直らないどころか悪化している人もいます。根本的なところで、主に叫び求めていない問題があります。自分に何かできる、まだ何か他の方法がある、という余裕があります。そこで本当に叫んでいないのです。

 ヒゼキヤ王のことを思い出してください。アッシリヤがエルサレムを包囲しました。彼は初め、エジプトの援軍を頼りにしていました。けれども、それもアッシリヤに読まれていました。彼は、アッシリヤから受け取ったそしりと脅迫の手紙を神殿のところで前に広げ、泣いて祈りました。そうしたら、その祈りは聞かれました。

119:148 私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。

 神の御言葉のみに期待を寄せている姿です。

119:149 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。

 再び「生かしてください」という祈りです。

119:150 悪を追い求める者が近づきました。彼らはあなたのみおしえから遠く離れています。119:151 しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。

 御教えから離れると悪を追い求めるけれどども、主の近くに、具体的には主の仰せに近づいている時、私たちは悪から離れていることができます。

119:152 私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。

 私たちに約束してくださった神の救いは、イエス様が地上に来られて十字架につけられ、よみがえられた時に初めて明らかにされたことではなく、前もって定められていたことでした。エジプトから救われたイスラエルの歴史は、そのまま神の救いの方法を表していました。このように、歴史を通じて神はご自分の証しを残しておられます。

9A レシ 敵からの救い 153−160
 次の箇所は、これまで出てきた「私を生かしてください」という祈りが三回も出てくる箇所です。

119:153 私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。119:154 私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。119:155 救いは悪者から遠くかけ離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです。119:156 あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。

 今、敵に囲まれています。敵からの圧倒的な攻撃を受けています。けれども、みことばによって私を生かしてください、と祈っています。私たちもこのような祈りが必要です。霊の戦いのときに、四方八方が塞がれているようなときがあります。けれども、そのときに大事なのは御言葉です。神様の言葉によって、自分を生かすのです。

119:157 私を迫害する者と私の敵は多い。しかし私は、あなたのさとしから離れません。119:158 私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらいました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。119:159 ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。119:160 みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。

 迫害されている中においても、詩篇の著者は御言葉によって主との交わりを深めています。こういうことが可能です。迫害の中にあっても、私たちは主に感謝し、賛美することができます。ピリピの牢屋に入れられたパウロとシラスが、牢の中で神に祈り、賛美したようにです。

10A シン 君主からの救い 161−168
119:161 君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。

 ここの箇所は、国の権力者が自分を迫害するときの状況です。国あるいは、社会全体が、神の御言葉に怒っています。今でいうなら、唯一神を拝むことは戦争を呼び起こし、排他的であり、多神教こそが寛容な社会を作れる、という日本の雰囲気に当てはまるでしょう。

 そのような時に私たちが、神の言葉を恐れていることができるか、が問われます。続けて詩篇の著者の態度を読んでみていきましょう。

119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。119:163 私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。

 神様の言葉に素直に喜びます。そこにある希望に喜びを抱きます。そして、偽りであると分かっているものは忌み嫌います。ここまではっきりした態度ができている時、私たちは世の光となることがでいます。

119:164 あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。

 神がこの世を裁かれる、その義の裁きが聖書に啓示されています。その裁きを日に七度、ほめたたえるとあります。一度では足りないのです。「もう、終わりの時に神がなされることはわかっている。」と言って、満足するのではありません。終わりの時に主が裁きを行なってくださるという希望は、私たちが日々受けている圧迫の中で何度も思い出すべきものなのです。

119:165 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。

 私たちにはこの地上の生活で、絶えず格闘があります。非聖書的でないものとの格闘がありますが、しかしながら矛盾するようですが、私たちは平穏な生活を送ることができます。私たちは、この世のものではない、と主はピラトにお話になられました。この世のものであるなら、武器をもってわたしの為に戦ったことでしょう、と言われました。しかし、この地上におけるキリスト者の生活は平和です。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(1テモテ2:1-2

 そして主は、ご自分が世の光であることを話されたとき、こう言われました。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。(ヨハネ11:9」罪を犯さずにいることができる生活は平和です。

119:166 私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。119:167 私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。119:168 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

 なぜ御言葉を守るのか?それは、自分の道が神の前に明らかにされているからです。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13

11A タウ 賛美 169−176
119:169 私の叫びが御前に近づきますように。主よ。みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。119:170 私の切なる願いが御前に届きますように。みことばのとおりに私を救い出してください。119:171 私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。

 最後の箇所の主題は「賛美」です。神が御言葉の通りに自分に悟りを与え、救い出してくださった。そのことに応答して、神に賛美をします。

119:172 私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。

 「わあ、主はすばらしいです!」と叫ぶことも賛美ですが、しばしば賛美は歌として表現されます。そしてここで興味深いのは、「みことばを歌う」とあるのです。詩篇はまさにメロディーと付けて、歌うための詩歌が編集されたものですが、聖書の他の箇所もみことばをそのまま歌うことはすばらしいことです。

119:173 あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。119:174 私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。119:175 私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。

 再び「生きますように」という祈りです。そして興味深い節で、この第119篇が終わります。

119:176 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。

 「滅びる羊のように迷い出た」という言葉で終わっています。これだけ御言葉を忘れないと告白していながら、最後は滅びる羊のように迷い出た、と言っています。私はこれを預言的だと思っています。イエス・キリストがこの世に現れてくださるまでに、イスラエルが滅びる羊のように迷い出ました。この176節はある意味で、メシヤ待望の箇所であるとも言えるでしょう。みことばを求めながらも迷い出てしまったイスラエルに、神がメシヤを遣わしてくださり、良い羊飼いとして羊を探し出してくださる、という内容です。

 私たちも、知らないうちに迷い出てしまうかもしれません。そしてイエス様を知らない人は、初めに自分が造られた目的を知らずに、神から遠く迷い出ています。けれども、聖書には救いの言葉があります。この言葉を聞けば、そして信じれば、救いはあるのです。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME