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詩篇第120篇を開いてください。今日学ぶ箇所の主題は、「都上りの歌」です。120篇から134篇までの詩篇の題名が「都上りの歌」であります。今日はその一部を学びます。
イスラエルには、七つの祭りが主によって定められました。その中の三つ、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りは三大祭りと呼ばれ、ユダヤ人の成年男子はエルサレムに来て、祭りを祝うことを主によって命じられています。新約聖書の中にも、これを守っている人々が出てきますね。ユダヤ人であるイエス様ご自身が、仮庵の祭りにエルサレムに上って行かれた記述があります(ヨハネ7)。使徒行伝ではパウロが、五旬節の日にはエルサレムに着いていたいと思って、エペソにいる長老たちを自分がいるミレトに来てもらった記事があります(20:16)。そしてもちろん、使徒行伝2章には、世界中から集まってきたユダヤ人が、自分たちが住む地方の言葉で弟子たちが神を賛美しているのを聞き、驚いていました。
このように、ユダヤ人は世界のどこにいても年に三度は都エルサレムに上っていきます。その巡礼の歌がこの都上りの歌です。おそらく、自分が都に近づけば近づくほど、同じようにエルサレムに向かう仲間に合流したことでしょう。その数がますます増えて、気分も高揚します。
ところで、私たちの日本語でも、東京都へ向かう電車を「上り電車」と言ったり、東京に出てくることを「上京」と言いますが、もちろん東京の高度が他の地域より高いわけではありません。けれどもエルサレムの場合は違います。どの方角から来ても、エルサレムは周囲の地域より高い場所に位置します。今でも、イスラエルに行けば、東西南北、それぞれの方角から入る幹線道路がありますが、どこもエルサレムに向かって上り坂になっています。
実に、主が再臨されて建てられる神の国では、エルサレムが世界の中でも高いところに位置する都になることが預言されています。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(ミカ4:1−2、イザヤ2:2−3)」すばらしい光景ですね、世界中の異邦人もエルサレムに行って、そこにおられる主を礼拝し、主から御言葉をいただきます。
そして、エルサレムは新しく天から降りて来ることが預言されています。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示21:2)」これが、歴代の信仰者が待ち焦がれているものであり、天の希望、永遠の命の希望です。
したがって、ユダヤ人が感じている巡礼の時の高揚は、私たちも感じる高揚です。彼らが神の都に近づくのを興奮するように、私たちも天の御国が近づくのを興奮します。このことを考えながら、120篇からの詩篇を読んでいきましょう。
1A 敵中の住まい 120
120:1 苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。120:2 主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。120:3 欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。120:4 勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。120:5 ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。120:6 私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。120:7 私は平和を・・、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。
巡礼に行く人々は、エルサレム市内でなければ皆もちろん外に住んでいます。彼らが、イスラエルではない土地に、ユダヤ人の影響が少ない地域にいて受けている苦しみを今、ここで主に打ち明けています。
これらはユダヤ人の離散の地で起こってきたことです。今を見ても分かるでしょう、イスラエルのついての世界の情報はアラブの主張をそのまま垂れ流したものであり、その多くが事実に基づかない誇張されたものです。このように嘘やデマによって、敵はユダヤ人を攻撃しようとします。そこで、偽りの舌から救い出されるように祈り求めているのです。
5節には、自分がメシェクとケダルに寄留しているとあります。ケダルは、アラビア地方の北部に位置し、イシュマエル人が住んでいるところです(創世25:13)。イシュマエルについての主の御言葉を覚えていますか?「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。(創世16:12)」6,7節で著者が言っているように、こちらが平和を望んでも相手は戦いを望みます。このイシュマエルの子孫がアラブ人の一部なのです。
現代のパレスチナ・イスラエルの紛争においても、マスコミはイスラエルがいかに好戦的であるかを報じますが、実際は、イスラエルが平和を望んでいるが、相手が戦いを望んでいるという構図です。同じような構図は、クリスチャンに対してもあるでしょう。ある特定の罪を指摘すれば、例えば同性愛が罪であると言えば、「同性愛者を排斥している」という言葉を持ってクリスチャンを攻撃します。
こうして詩篇の著者は、都上りの歌を、自分の離散の地における苦悩から始めました。そして、その苦しみの中で主を呼ばわると、主が答えてくださったという1節の言葉があります。ヤコブの手紙に「苦しんでいる人はいますか。その人は祈りなさい。(5:13)」とあります。
2A 造り主の守り 121
こうして離散の地から出発した巡礼者たちは、エルサレムに向かいます。エルサレムに近づけば、そこに見えるのは、山あるいは丘です。
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
私の大好きな聖書の箇所です。目を上げるのは山ですが、助けはその山を造られた神から来ます。日本人が山を見れば、その神々しさを見て山の神様を拝みます。けれども、そのような自然崇拝から出てくるものは、むなしさです。なぜなら、山は自分に語りかけることもないし、自分が苦しんでいる時、助けることもできないからです。しかし、このようなすばらしい山を造った方がおられることを知ったらどうでしょうか?心に喜びがもたらされます。命が与えられます。なぜなら、天地を造られた方は生きておられるからです。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
エリヤが、バアルの預言者らと対峙した時のことを思い出してください。一頭の雄牛を火で燃やしてくださるように、それぞれがそれぞれの神の名によって願います。バアルの預言者らは、朝から真昼までバアルの名を呼びました。自分たちの造った祭壇の周りを踊り回りましたが、何の声もなく、その祈りに答える者はありませんでした。
そこでエリヤは嘲りました。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているだろう。もしかすると、寝ているかもしれないから、起こしたらよかろう。(1列王18:27)」寝ているかもしれない、といって嘲りました。しかし、天地を造られた神は違います。イスラエルを守る方はまどろむこともなく、眠ることもありません。
121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
右の手は、動かし働く手です。それを神が覆ってくださいます。そして昼は灼熱から私たちを守ってくださいます。月が打つというのは、比喩的に夜にある災いを意味しますが、夜も守ってくださいます。ちょうどイスラエルの民が、昼は雲の柱、夜は火の柱に主がなってくださったようにです。
121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。121:8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
主がいつまでも守ってくださる、という約束です。ユダ書にこう書いてあります。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、(24節)」
3A エルサレムの平和 122
こうしてエルサレムに近づきましたが、ついにエルサレムの町に到着しました。その時の感慨をダビデは歌っています。
122 都上りの歌。ダビデによる122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
エルサレムに何があるかと言えば、それは「主の家」です。その言葉を聞いた時、ダビデの心は喜びました。私もイスラエルに行った時、何が嬉しかったといえば、自分が信じて、愛しているイエス様がおられた舞台だから、ということです。もし信仰を持っていなければ、イスラエルの国もエルサレムの町も、ただ石ころが積みあがっているとしか見ることができないでしょう。
122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
エルサレムの町は城壁に囲まれています。東西南北のそれぞれの壁にいくつか門があります。今、門のところで立ち止まっています。
122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。
本当によくまとめられています。一辺約1キロ程度の小さな町です。しかしその中に、現在では約3万人の人が住んでいます。現在の話ですが、旧市街はユダヤ教地区、キリスト教地区、イスラム教地区、アルメニア人地区に分かれており、それぞれが特色にあふれています。こんな小さなところに、混乱することもなく、よくもまあ上手に整えられているなあ、と関心するのです。
122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。
イスラエルの十二部族が上ってきます。
122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。
エルサレムに、イスラエルをさばく、イスラエルの王の座があります。ダビデ家の王座は、永遠であることを主は約束してくださいました。イエス・キリストが王として君臨されるときに、それが成就します。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
ヘブル語における「平和」の言葉、シャロームは、単に平穏、静寂を意味するものではありません。豊かさ、繁栄もその言葉には含まれています。ソロモンの治世を思い出してください。「ソロモン」という名前そのものが、シャロームに由来していますが、彼が王として君臨していた時代、イスラエルはもとより周辺諸国にも平和が訪れました。そして豊かな財宝があり、栄華に満ちていました。ですからここで、エルサレムについて平和とともに繁栄が祈られているのです。
もともと「エルサレム」の言葉は、「エル・サレム」つまり「神の平和」を意味します。エルサレムの町に平和が訪れるとき、その時、初めて真の平和が世界に訪れます。すべての人が、神に敵対することなく、服従し、キリストを主とあがめるならば、今、世界紛争の火種になっているエルサレムに平和が訪れるでしょう。人々が神とキリストに反抗しているために、それがエルサレム問題という形で現れているのです。
では、「エルサレムの平和のために祈れ」というのはどういう意味か?むろん、今のエルサレムの町に平和が与えられるように祈ることに間違いないですが、そこに平和が与えられるためには、平和の君であられ、エルサレムから世界を統治されるイエス・キリストを、今、自分の主として王として受け入れ、服従することです。世界の軍隊がイスラエルにやってきて、ハルマゲドンの戦いを展開するのは「神とキリスト」に反抗するためである、と詩篇二篇に明確に書かれています。
122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」122:9 私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。
エルサレムの平和の為に祈る者について、ダビデが今度は、「お前のうちに平和があるように」と祈り返しています。創世記12章にも、神がアブラハムに対して、「おまえを祝福する者は、祝福される。」と約束されました。自分が平和と繁栄を祈れば、自分に平和と繁栄が与えられます。
4A 主に向ける目 123
123:1 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。
今、エルサレムの門から町の中に入り、そして神殿に入りました。そこで目を上げています。「天の御座に着いておられる方よ。」と呼びかけています。神殿があり、そこに主がおられるからと言って、そこに神が収められているのではありません。ソロモンが神殿を奉献する時、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(1列王8:27)」と祈りました。むしろ、神殿の中に入ることによって、天地を造られた神の御姿が明確になり、祈りもとめる場所は、神殿の中ではなく、天の御座になるのです。
123:2 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。
奴隷がいつも目を向けていなければいけないのは、主人の手です。主人の手の合図の仕方によって、何が言いつけられているかをすぐに知って、その通りにしなければいけません。だから、一時も、主人の手から目を離すことはありません。同じように、主に私たちの目が向きます、と言っています。その理由が次に書かれています。
123:3 私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。123:4 私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。
エルサレムに来て、神殿の中に入って、自分たちが迫害されている境遇を神に打ち明けています。自分が抑圧されていれば、その祈りは、いつも、絶えることなく捧げられるものです。
それに対照的なのは、「安逸をむさぼる者」です。主に絶えず目を向けていかなければいけないのと対照的に、何もしなくても平気でいられる状態です。「神なんかいない。神の助けなんか必要ない。」と思って、安穏と生きている状態です。その安逸の制度がバビロンとして現れているのと黙示録で読みます。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。立て琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(黙示18:21-23)」最後には、たちまちにして滅びます。
5A 味方なる主 124
124 都上りの歌。ダビデによる124:1 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。
今、ダビデがイスラエルに言え、と呼びかけています。もう既に、みなが知っている言葉がありました。その出だしを今ダビデは言いました。イスラエル人が応答します。
124:2 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、124:3 そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、124:4 そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。124:5 そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
「大水」という言葉は、ダニエル書9章にも出てきて、軍隊を意味します。そして黙示録12章では、荒野に逃げた残りの民が、竜によって飲み込まれるときも「大水」で押し流そうとした、と書かれています(15節)。ここも軍隊のことでしょう。
イスラエルはそのような荒波をくぐって、なお生き残っている民族です。彼らの生き残りを見れば、その背後に神がおられることを、誰もが認めなければいけません。生き残っているのは、「主が彼らの味方」だからです。
これはキリスト者にも与えられた約束です。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)」
124:6 ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。124:7 私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。
つまり、かろうじて助かる、ということです。私たちは自分たちが逃げるのに必死ですが、その中で上手にすり抜けることができます。今、引用したローマ8章の言葉を言ったパウロは、殺されかけることが幾度となくありました。だれも敵対できない、ということは、いつも平穏無事にいる、ということではありません。鳥が罠から助け出されるように、罠が破られるように助けられます。
124:8 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
再び、神のことを天地を造られた主と呼んでいます。
6A 囲まれる主 125
125:1 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。125:2 山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
今、神殿から出て、シオンの山から周囲を眺めています。そこに見えるのは、山々です。シオンの山が一番高いのですが、その周りにはオリーブ山など、いろいろな山があります。このことを見て、詩篇の著者は、「主に信頼する人は、シオンの山のようだ。山々がエルサレムを取り囲んでいるように、主の民も囲まれる。」と歌ったのです。
主のうちにいる人には、この約束が与えられています。揺るぐことなく、とこしえに永らえます。主が私たちを取り囲んでくださいます。
125:3 悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。125:4 主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、いつくしみを施してください。
主のうちにとどまれば、私たちは安全です。悪い者が私たちに触れることはできません。
125:5 しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。イスラエルの上に平和があるように。
とっても大切な警告です。私たちはクリスチャンなのだから安全なのだ、天国にも行けるのだ、と考えて罪を犯し続けたらどうでしょうか?そこは主の中ではありません。したがって、悪魔の領域に入ることになり、悪魔の攻撃をまともに受けることになります。ヨハネの手紙第一にこう書いてあります。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。(3:9)」罪のうちを歩むことができない、また歩まないことによって、私たちは世を支配している悪魔が私たちを触れることができません。
7A シオンへの帰還 126
次の詩篇は、シオンへの帰還を歌ったものです。あるユダヤ人聖書教師は、「シオニズムを知りたければここがその答えだ。」と言っていました。
126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
彼らが笑っています。あまりにもうれしい話であり、信じられないような話なので、笑うほどだったのです。70年の捕囚の後に、ペルシヤのクロス王がエルサレム帰還の布告を出しました。ペルシヤの全国に生きているユダヤ人たちは、その知らせを聞いて、夢を見ているようだったのです。
126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
「帰っても良い」を知らせを受けて、実際にどんどん帰らせてください、と主に願っています。今もこれは続いています。英国統治下にあった時から続いているイスラエル帰還は、今も続いています。
126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
愛の労苦の後には必ず報いがあります。ヘブル書6章10節、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」私たちが、固い土地に御言葉の種を蒔いたら、いつか必ず刈り取る時が来ます。
8A 主の家 127
127 都上りの歌。ソロモンによる
ダビデが神殿建設の準備をしましたが、神殿を実際に建て、奉献したのはソロモン王です。神殿についてのことをソロモンが詩に残しました。
127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
神殿を建てるには、多くの労力がともないます。ともすると、建設は自分たちが行なっているのだ、と思ってしまいます。そして、実際に、自分の手で行なうことも物理的にはできるでしょう。けれども、ソロモンはそれではむなしい、と言っています。主が家を建ててくださるのです。
私たちの教会建設も同じです。教会堂のことではなく、信者の共同体としての教会です。人為的な方法によって人々がたくさん集まってきても、主によるものではなければむなしいです。そして、教会は誰のものかを問わなければいけません。主のものです。チャックは、手狭になった教会を立て直す時に、新しい会堂の膨大な資金のことで、悩み不安になったそうです。その時に主に語られたそうです。「これは、誰の教会か?」もちろん、「主よ、あなたのものです。」と答えました。
127:2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
私たちは労苦します。けれども、私たちが単に行なっているのと、主がそこにおられることの違いは、「眠っている間に、備えてくださる」です。自分が用意していないのに、一方的に主が備えてくださるという奇蹟を見ます。
127:3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
主の家のことを話したソロモンが、急に子供の話をしています。これは密接に結びついています。神の家は建物ではなく、家族だからです。
127:4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。127:5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
子を持つことの祝福です。今日、子を持つことが負担になっているという雰囲気がある中で必要な御言葉です。
9A 家族の祝福 128
続けて家族の祝福について語られています。
128:1 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。128:2 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
主を恐れる人は、堅実な職に就くことができます。
128:3 あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。
妻がいて、子供たちがいます。今、家族が細分化されています。しかし聖書のモデルは一緒にいることです。
128:5 主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。128:6 あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。
家族を持つこと、子孫を持つことがエルサレムの繁栄につながります。肉の家族はもちろんのこと、霊の家族が増えることも繁栄と平和につながります。私たちの教会、霊の家族のことです。
10A シオンを憎む者 129
このように、エルサレムの平和と繁栄を願うこととは対照的に、次にそれを憎む者がどうなるかについて書いてあります。
129:1 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。」さあ、イスラエルは言え。129:2 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。129:3 耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」
「若いころから」というのは、イスラエルがエジプトにいた時のことです。彼らが奴隷状態で、虐げられていることを、「私の背に鋤を当てて、長いあぜを作った」と形容しています。
129:4 主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。
エジプトのイスラエルを束縛する綱は、断ち切られました。同じようにイスラエルを呪う者がどのようになるのかが次に書かれています。
129:5 シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。129:6 彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。129:7 刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。たばねる者も、かかえはしない。129:8 通りがかりの人も、「主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します。」とは言わない。
収穫の時に、農民は、「主の祝福があなたがたにあるように」と挨拶します。ルツ記にも出てきます。
シオンを憎むことが、このように聖書に明記されている以上、クリスチャンがシオニズムに対して敵対的になることは到底できません。そしてクリスチャンは、地上にシオンだけでなく天のシオンもあります。そこを憎む者とは何でしょうか?天のものではなく、地上のものを愛することです。コロサイ書3章に、「上にあるものを求めなさい(1節)」とあります。一方で、「地上にからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(5節)」とあります。自分のうちにある強い肉を退け、神のみを天のみを見上げていくことが必要です。
11A 罪の赦しの叫び 130
次は、罪の赦しの叫びの祈りです。
ルターが、自分の好きな詩篇はどれか、と聞かれたそうです。彼は、「パウロ詩篇だ」と答えました。パウロ詩篇とは何ですか、と尋ねられたら、詩篇32篇、51篇、130篇、そして143篇を挙げました。すべて罪の赦しを求める祈りです。宗教改革となった彼の信条である「信仰による義」は、どうしようもなく罪深い者が罪の赦しを得る必要から出てきています。
130:1 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
罪の中にいる状態を、「深い淵」と形容しています。罪を犯すことが、ちょっと滑ってしまった程度のものではありません。深い、深い、もう二度と這い出てくることができない淵の中にいます。(そして実際、聖書が語る陰府、ハデス、あるいは地獄は、深い淵であるとされています。)私の父親の救いの証しを思い出しますが、彼も救われる前に苦しみもだえたようです。
130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
不義に目を留められたら、神の激しい怒りにあうことをよく知っています。だから、だれも御前に立つことはできないと言っています。
130:4 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
激しい裁きを下したら、人に恐れられるのではなくて、赦してくださるから恐れられる、と書かれています。これはとても大切です。黙示録にて、神が激しい怒りを地上に下されるとき、地上に残っている者は、神の御名をののしり、悔い改めることはしなかった、と書かれています(黙示9:21、16:9)。
裁きが下ったら人は自分の行なったことを知るだろうと思ったら、間違いです。人間の心のかたくなさは、激しい神の怒りでさえも溶かすことはできません。
では何か?神の慈愛です。神の慈愛が人を悔い改めに至らせる、とローマ2章に書かれていますが、人を滅ぼすことも生かすこともできる方が、「あなたの罪は赦されました」と言われる時、私たちの心は180度変えられます。「多く愛する者は、多く赦されたからである」とも主は言われました。
130:5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。130:6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
罪が赦されることについて、主を待つと言っています。主を待つことは非常に重要です。ちょうど、作物が育つのは自分がどんなに頑張っても早めることができず、ひたすら待つしかないように、主の時を待たなければいけません。
特に主が再び戻って来られる時のことは、忍耐して待たなければいけません。主が来られることを忘れたら、主が何度も警告されたように、仲間を打ち叩くしもべ、油を用意していない乙女のようになってしまいます(マタイ24,25)。けれども、主がなかなか来られません。しかし、ここで忍耐が必要なのです。夜回りが夜明けを待つように待つのです。
130:7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。130:8 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。
イスラエルの罪の赦し、贖いの約束です。エレミヤ書に、イスラエル人の心に律法が置かれる日、永遠の赦しが与えられる、新しい契約の約束が書かれています(エレミヤ31:31−34)。しかし、その主体である主イエスご自身をユダヤ人は受け入れることをしませんでした。ですから、彼らはまだ待っています。メシヤを待っています。 しかし、イスラエル人に御霊が降り注がれる時が約束されています(エゼキエル39:29等)。その時に、彼らの罪を洗い清める泉が開かれます(ゼカリヤ13:1)。
12A 子のような謙虚さ 131
131 都上りの歌。ダビデによる131:1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
ダビデが書いたものです。ダビデの純粋な心を描いています。彼が若い時からイスラエルの政治の中に入りましたが、彼の心は誇りませんでした。そこには、いろいろな思惑、策略があります。政治力を身に付けるには、そのようなものをよく心得なければいけません。けれども、ダビデはそれを拒みました。彼は少年の時、羊飼いであったように、同じ羊飼いの心で王としての統治を行ないました。
先日ある方から、「書店に、9・11はアメリカの自作自演だった、という本が並んでいましたが、どうお考えになりますか?」と聞かれました。私は、「なんか、よくわからないけど、クリスチャンが知らなければいけないこと、しなければいけないことの範疇には入っていないような気がします。」と答えました。横田めぐみさんのお母さんの早紀江さんも、娘が北朝鮮の策謀の中に入れられたことを知ったとき、支えられたのがこの御言葉でした。
「どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。(ルカ10:38)」と主は言われました。私たちクリスチャンが知らなければいけないことは、多くはありません。何しろ、パウロは、自らを賢いと思っていたコリントの人々に対して、「神は、みこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:21)」と言いました。
131:2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。
特に最近の世界情勢、国内情勢を見ると、私たちの心は騒ぐのではないでしょうか?いろいろな専門家が分析し、騒いでいます。しかしダビデがいま、この地上にいたら、彼は、今読んだこの態度を取るでしょう。自分の魂を和らげ、乳離れした子のように主の御前にいることを選ぶことでしょう。私たちも同じです。
131:3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。
そうです、大事なのは待つことです。主が必ず、事を行なってくださいます。すでに主が言われたことが成就するだけです。私たちがその過程で心を騒がせる必要はありません。待つのです。
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