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詩篇第132篇を開いてください、今日は137篇まで学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「シオンへの愛」です。
前回から私たちは「都上りの歌」という詩歌を学んできました。世界中からユダヤ人がエルサレムに巡礼の旅をします。過越の祭りと五旬節、仮庵の祭りの時に世界中からユダヤ人が集まってきます。その時にうわれた歌です。
1A 主の住処 132
そして前回、最後に学んだ131篇では、ダビデが「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」という告白を読みました。彼は高い位に着き、王となっても、政治や国の政治の裏舞台、策略などに深入りすることはしません、と告白しました。
彼が願っているのは、そのような人間のどろどろしたものではありません。彼の心は、いつも神の家に向けられていました。第132篇は、このひたむきなダビデの心を描いています。おそらく息子ソロモンがダビデのことを思って書いた詩歌ではないかと考えられます。
1B ダビデの情熱 1−12
132:1 主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。132:2 彼は主に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てました。132:3 「私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。132:4 私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。132:5 私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」
ダビデの心は、主のために御住まいを見出すことに専ら向けられていました。イスラエル人が、ペリシテ人によって契約の箱を奪われて以来、その神の箱はあるイスラエル人の一家庭の中に安置されているだけでした。ダビデは王として、イスラエルの安定と平和のために周囲の敵と戦わなければいけません。けれども、安定し始めた時に彼は何としてでも、契約の箱を自分が用意したシオンに、ダビデの町に持って行きたいと願ったのです。
彼は、自分がもっとも安心してゆったりできる、自分の住まいと自分の寝床よりも、主を安心してゆったり礼拝できる場所を、主の御住まいを願いました。ああ、なんと彼の心は麗しいことでしょうか!彼の心は神様のことを思うことに向けられていました。落ち着いて、自由に、ゆったりと礼拝を捧げることが、自分の家でゆったりとした時間を過ごすことよりも、その願いがずっと優っていたのです。
イスラエルがバビロンで捕らわれの身からエルサレムに帰還した時に、神殿の再建は困難を極めました。周囲の住民の強力な阻止行動によって、建設は中断してしまいました。それでユダヤ人たちは、自分の家を建て始め、自分たちが優雅に暮らすことを求め始めました。けれども、日照が続き、生活はままならなかったようです。
預言者ハガイが来ました。彼は、「あなたがたは自分の家を建てて、主の家をないがしろにしている。」と叱責しました。「あなたがたの生活をよく考えて見なさい。自分たちが努力しても、苦労しても徒労に終わっている。主の家を建てなさい。」と言いました。
私たちも、自分の安定した、楽な生活を求めます。けれどもダビデのように、本当に主を礼拝することを求める心がなければ、その楽なはずの生活は空回りします。家でゆっくりテレビを見ても、つまらない。心が満たされない。そうです、主を礼拝したいと願う心があってこそ、私たちの心は完全に満たされるのです。
132:6 今や、私たちはエフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、それを見いだした。
ペリシテ人によって奪われた神の箱は、牛車に運ばれてベテ・シェメシュまで来ました。それからキルヤテ・エリヤムの人々が引き取り、祭司アビナダブの家に運び、その子エルアザルが箱を守りました。「エフラテでそれを聞き、ヤアルの野で、見いだした」とはそのことです。すでに20年が経っていました。
132:7 さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。132:8 主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、おはいりください。あなたと、あなたの御力の箱も。
覚えていますか、ダビデがシオンにまで契約の箱を運ばせました。最初は牛車で運ばせて、ウザが打たれて死ぬという事故がありましたが、その後、律法の規約通りに祭司に担がせて運び、ダビデは主の前で力の限り踊りながら、行進しました。
132:9 あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。
祭司の装束は、神の栄光と美を表しているものです(出エジプト28:2)。エポデや長服、胸当てや肩当ては、それぞれ神の義と救いを表していました。(出エジプト記28章の学びを参照してください、そこに詳しい説明をしています。)
今、祭司たちが義を身にまとっています。祭司は、神と人との仲介者です。神の前に、人に代わって代表して出て行く者です。その彼が義を身にまとっているということは、神の前で義と認められ、何ら咎められることはない状態を表わしています。神に受け入られることを表わしています。そのため、主を信じる聖徒たちが、自分たちが神の前で義と認められていることを喜び歌っているのです。
当時は、祭司が代わりに義と認められましたが、新約の時代は御霊が信者の内に住まわれることによって、信者自身が神の祭司とされています(1ペテロ2:9)。私たちがキリストの義を身にまとい、神の前に出て行くことができるのです。私たちがいくらもがいても、神は私たちに罪を見出されません。キリストのうちにいる者、キリストにあって私たちを見てくださっているからです!
おお、なんと幸いなことでしょうか!私たちはただキリストの内にいればいいだけです。それで完全な義が達成されたのです!それ以上、もっと正しくなることはできません。なぜならキリストの儀は完全だからです!
132:10 あなたのしもべダビデのために、あなたに油そそがれた者の顔を、うしろへ向けないでください。
旧約の時代、祭司と王、また預言者も油を注がれました。神に任命された者としての意味があります。そして旧約聖書においては、油注がれた者という一人の人物を目標にしてすべての話が展開しています。メシヤ、キリストです。
ここ10節の意味は、主がかつてダビデに約束されたことです。ダビデは主のために家を建てたいと強く願いましたが、主は、「あなたは家を建てることはできない。そうではなく、私があなたに家を建てよう。」ということを言われました。つまり、ダビデ家、ダビデの家系が御国を治める者として建てられる、ということです。
ダビデは圧倒されました。彼は主を恋い慕っていて、主に何かをしてあげたいと願いました。けれども、主は何も欠けたところはありません、必要とするものはございません。惜しみなく恵みを施される方です。羊飼いのような小さな者が王にまで引き上げられただけでも勿体ないのに、自分の王座がとこしえまで続くなんて・・・。そして、神に油注がれた者、メシヤが自分の子から出るなんて・・・。あまりにもとてつもない神の恵みに、出す言葉もありませんでした。
そして今ソロモンは、このメシヤがダビデ家から出るという約束を忘れないでください、とここで祈っているのです。
132:11 主はダビデに誓われた。それは、主が取り消すことのない真理である。「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。132:12 もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。」
ダビデへの約束には、条件がありました。子らが神の契約を守るなら、とこしえに位に着く、という約束です。ソロモンから始まるイスラエル王国は、その後の王たちの不従順によってついにアッシリヤとバビロンによって滅ぼされました。しかし、ダビデからメシヤが来られ神の国を建てられるという約束はそのまま生きていたのです。
2B 主の選び 13−18
132:13 主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。
ソロモンが捧げた祈りに対して、主が答えられています。
132:14 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。
主は、シオンをご自分の住まいとして選ばれました。ダビデがどのような思いから、シオンを主の場所としたいと思ったのかは分かりません。もちろん、その願いを主が起こしてくださっていたのですが、それでもダビデの願いに答えられた形で、主はシオンをとこしえの住まいとして定められたのです。
今、聖霊が弟子たちに降られた、あの五旬節での出来事以来は、キリストを信じる者たちの間に主がおられるという奥義が開かれました。ですから、エルサレムまで都上りをしなくても、教会として主が住まわれるその安息の場所を得ています。それでも、やはりイスラエル旅行に行って、エルサレムに行ってみれば、やはりそこで何かを感じます。感極まって泣き出す人が多いです。主が選ばれた場所ですから。
これからの預言の中心はエルサレムです。主がそこに戻ってこられ、神の国を建てられ、さらに新天新地では天のエルサレムが降りてきます。
132:15 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。
主の祈りを思い出します。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」と言われた後で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と言われています。豊かな国に住んでいるとこの祈りの重要性を見過ごしやすいですが、非常に重要な祈りです。
132:16 その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。
先ほどは祭司らに「義」が身に付けられましたが、ここで主は彼らに「救い」を着せてくださっています。他のイスラエル人たちは、自分たちの代表として祭司に救いが与えられたのを見て、大いに喜びます。
132:17 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。
「一つの角」とありますが角は権威と力を表します。メシヤのことです。そして、油注がれた者、メシヤのために備えられたともしびとは、聖所の中にある金の燭台から来ています。燭台のともしびは、一日中、絶えず灯されていなければいけません。
132:18 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。
メシヤなるイエス様が再臨してエルサレムから君臨された時に、彼の冠は光り輝きます。
2A 兄弟の集まり 133
133 都上りの歌。ダビデによる133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
この都上りの歌は、巡礼で集まってきたユダヤ人たちが一つになることができることを歌ったものです。私たちも、大きな集会などでクリスチャンたちが集まってくるところには、大きな興奮と喜びがあるかと思います。人為的に集められたのではなく、一人ひとりが神を礼拝したい、神を賛美したいと願って集まってくるところに、大きな楽しみがあります。
133:2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
大祭司アロンに注がれる油は、その時だけに用いられる特別に調合された香油です。この聖別された香油が、先ほど話した神の栄光と美を表す装束の上を滴り流れます。髭にも流れるとありますが、髭は威厳を表していました。
これは、油が象徴するご聖霊の臨在を表すものです。兄弟たちが一つになって共に住むところには、油が注がれます。ご聖霊が働かれます。皆が聖霊に触れられて、キリストの栄光と美を眺めます。
133:3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
ヘルモン山は、イスラエルの北部、シリアとレバノンの国境に位置する、イスラエルで最も高い山ですが、そこから来る露にも似ている、ということです。リフレッシュされる、ということです。兄弟たちが集まった時、私たちは霊的に充電されるのではないでしょうか?
3A 奉仕者への祝福 134
そして次が、都上りの歌で最後のものです。
134:1 さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
今、巡礼のユダヤ人たちが、聖所で奉仕をしているレビ人や祭司たちに対して歌っています。興味深いのは、「夜ごと」に主の家で仕えていることです。先ほど、聖所にある燭台は一日中、絶えずともしていると言いましたが、神殿においては神への賛美も絶えず歌われていました。歴代誌第二9章33節にて、「この人々は歌うたいであって、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、自由にされていた。昼となく夜となく彼らはその仕事に携わったからである。」とあります。考えて見てください、何時行っても、神殿から歌が聞こえているのです。すばらしいですね。
これは天における実際の賛美を反映しています。天において、天使らが神を絶えず賛美し、礼拝している姿を見ることができます。「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』(黙示4:8-9)」
134:2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。
手を上げて賛美する姿を私たちは教会の礼拝で目にしますが、これは聖書的なことです。主を賛美している姿です。
134:3 天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。
主に仕えている人は祝福を受けます。仕えることは、与えることであり、捧げることです。人間的に考えれば、自分のものが取られると考えます。けれども、主の働きに携われば自分にも祝福が与えられ、受け取るものが多いことに気づきます。パウロがこの気持ちをローマにいる人々に次のように話しました。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ1:11-12)」「というよりも」という但し書きが好きです。自分は与えている立場にいるが、どうしても「与えている」という言葉にはそぐわない、自分が受け取っている祝福がある、ということです。
4A 神々に優った方 135
今、天地を造られた主が祝福されるように、と言っていましたが、次は、偶像ではなく天地創造の神であるがゆえに、私たちはあなたをほめたたえます、という歌になっています。そしてこの詩歌は初めの言葉が「ハレルヤ」で、最後の言葉も「ハレルヤ」になっています。
1B 麗しい御名 1−4
135:1 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。135:2 主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。
次に主をほめたたえる理由が書かれています。
135:3 ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。
主が慈しみ深いから、また御名が麗しいからです。主が善であられる、主がすばらしい、そして主の御名、これらはみな神のご性質です。主がどのような方であるか、主のご性質のゆえに私たちはほめたたえます。
直ぐ後に出てきますが、偶像の神々は良い性質を持っていません。自分の欲望を具現化したものであり、自分に対して悪いことはしても、良いものをもたらすような考えはありません。このような希望のない世の中にいて、正しく、本当に善であられ、人に善をもたらすことのみを意図しておられる方がおられるんだ、ということに気づく時、私たちは解放されます。
135:4 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。
シナイ山に主が降りて来られる時、主はモーセに、「まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。(出エジプト19:5)」と言われました。
すばらしい神、善なる方がおられるだけでもうれしいことなのに、この方が自分を宝にしておられるという、信じられないような啓示です。これはイスラエルに対してだけでなく、キリスト・イエスによって神に近づけられた私たちにも与えられている約束です。主は、キリストにあって私たちを宝とみなしておられます。こんなちっぽけな自分を宝としておられます。
2B 主権を持つ神 5−12
135:5 まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。
神々と呼ばれるものの全てに優っておられるのが、私たちの主です。
135:6 主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で。135:7 主は地の果てから、雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。
主は自然界でご自分の望むままのことをなされます。私たちがいつも目にしている自然現象を引き起こされています。
135:8 主はエジプトの初子を人から獣に至るまで打たれた。135:9 エジプトよ。おまえのまっただ中に、主はしるしと奇蹟を送られた。パロとそのすべてのしもべらに。
自然に対してあらゆる力を持っておられる方が、イスラエルのためにエジプトに対してその力を現されました。私たちの神は、このように自然に対するだけでなく、個人的に関わってくださる方です。
135:10 主は多くの国々を打ち、力ある王たちを殺された。135:11 エモリ人の王シホン、バシャンの王オグ、カナンのすべての王国を。
エジプトを出て、荒野の旅をし、ヨルダン川の東から約束の地に入るべく、迂回して死海の東から北上しました。その時にエモリ人の王シホン、バシャンの王オグと対峙しなければいけませんでした。イスラエルは、ただ通るだけなので許可を与えてくださいとお願いしたのに、相手は戦争を吹っかけてきたのです。けれども主はその戦いに圧倒的な勝利を与えてください、そこを占領することになりました。
そしてヨシュア率いるイスラエルは、約束の地でカナン人の王らを倒しました。
135:12 主は彼らの地を、相続の地とし、御民イスラエルに相続の地として与えられた。
約束の地を与えられました。
3B 人の手による偶像 13−21
このように、個人的に関わってくださり、力を現してくださり、相続まで与えてくださる方がおられる反面、異教徒らが拝んでいる偶像はどうか、その対比を次から行なっています。
135:13 主よ。あなたの御名はとこしえまで、主よ。あなたの呼び名は代々に及びます。135:14 まことに、主はご自分の民をさばき、そのしもべらをあわれまれます。
主は私たちに、深く関わってくださいます。その反面・・・
135:15 異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。135:16 口があっても語れず、目があっても見えません。135:17 耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。
偶像は生きていません。こちらが話しかけても答えはなく、こちらがじっと見つめても見つめ返してくれることはなく、何も聞くことができず、息がありません。単なる銀であり金です。
人の心には永遠への思いが与えられています(伝道者3:11)。ですから、人々はどんなに自分が無宗教だと言っても神々にすがっています。最近もドラマで若い中学生が合格祈願のために、神社のお守りを友達に渡す場面が出てきましたが、何かを拝みたいのです。
しかし、その偶像がいかに愚かなことであるかに気づいていません。それは生きていません。漠然と祈っている、その相手は誰なのか考えることもありません。イザヤ書に、偶像を造ることの愚かさが描かれていますが、後で読んでみてください。イザヤ書44章9節からです。同じ木の材料で自分を暖め料理をしているのに、同じ木で像を造り「私を救ってください」と拝んでいる姿です。
135:18 これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。
ここは重要な箇所です。多くの人が、「神について理解できないことが多い。そんなものは信じられない。」と言います。それでは自分が把握でき、掌握できる神を拝むのでしょうか?偶像はまさに、自分の欲求や理解を満たしてくれるものです。では、それを拝んだらどうなのでしょうか?
人間が退化します。二段階にわたって退化します。一つは、自分が理解できるものを造るとき、その対象は自分よりも劣ったものです。今読んだように、目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、口があっても語れません。自分を創造した存在を信じることができないわけですから、自分より劣ったものを造るしかないのです。自分が一番になりたければ、自分より劣ったものを作るしかないのです。
そしてもしそれを拝むなら、次に、その劣ったものよりもさらに自分が劣ります。その偶像を拝むことによって、その偶像に支配されることになるからです。自分が制御できると思って作っても、その作られた物に自分を従属させていくわけですから、自分が偶像よりも下位にあるわけです。
世の権力者や知者、有名人を見てください。権力を神にした人が、どれだけ無慈悲になり、良心的無感覚に陥っているでしょうか?自分の快楽を追及した人が、どれだけその欲望の奴隷になっていることでしょうか?知的怪物と言われている人が、どれだけ人間性がなくなっているでしょうか?私たちは、自分の生活をコントロールしているものと思っています。管理できていると思っています。けれども、逆にコントロールされている、支配されているのです。
しかし私たちが、天地を造られ、永遠の生きておられる神を拝んだらどうでしょうか?私たちは退化するのではなく、変えられます。人間は拝む対象に似てきます。神に似た者となってきます。
135:19 イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。135:20 レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。
偶像の話をした後で、本当に主に捕えられて良かった、と喜んでいます。初めに、一般のイスラエル人に対して呼びかけています。次に、アロンの家に対して、つまり至聖所に入り、民のための贖いを行なう大祭司たちへ呼びかけています。それからレビの家、主の大庭で奉仕している人々です。
最後に、主を恐れる者、これはイスラエルの神を信仰することに決めた改宗者、異邦人でしょう。新約聖書で、主イエスを信じていく人々は、もともとユダヤ教に改宗した異邦人や、天地を造られた神を恐れる人々が多かったです。
135:21 ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。
先に見たように、主はシオンに住まいを構えておられます。
5A 永久の憐れみ 136
次の詩篇は、一節一節に「その恵はとこしえまで」という言い回しがあります。これは、公唱の詩歌と呼ばれます。公唱とは、代わる代わる歌う合唱の意味です。例えば一節、一人が「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い」と歌ったら、他の多くの人が「その恵みはとこしえまで」と歌います。
この詩篇の内容は135篇にあるものと似ています。主が天地創造において偉大な業を行なっておられることと、出エジプトから相続地へまで主が導いてくださったことを歌っています。けれどもこの詩篇では、その一つ一つ主が行なってくださったことに対して、「その恵みはとこしえまで」と呼応していることです。
英語ですとHis mercy endureth forever、つまり「その憐れみはとこしえまで」となっていますが、恵みとも憐れみとも訳すことができる言葉です。主が私たちに好意を寄せて、親切にしてくださること、真実を尽くしてくださる、良くしてくださるという意味です。
一つ一つ主が行なわれたこと、そこには主の恵みと憐れみが現れています。そしてそれは、とこしえまで続く憐れみです。主が良くしてくださるのは一回性のものではなく、いつまでも続くものなのだよ、主はあなたに対して真実であられるのだよ、というメッセージが私たちに伝えられます。それでは、読んでみましょう。
1B 天地創造 1−9
136:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
ここでの「慈しみ深い」は、英語ではgood、善いとか素晴らしいという意味になっています。
136:2 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
神々と呼ばれるものがあるが、それらをすべて掌握されている方です。あとで出エジプトことも歌われますが、主がエジプトに災いを下した一つ一つは、エジプト人が神として崇めていたものでした。
136:3 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
この世の中で、主と呼ばれるあらゆるものを支配しておられるのが、私たちの主です。
136:4 ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。その恵みはとこしえまで。136:5 英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。
私たちは天体また自然界を見ますと、その秩序と整合性には驚くばかりです。天文学者、物理学者が天体の不思議を探求していますが、もちろん極めつくすことはできません。主がヨブに対して、「あなたは、これらがどのようにして造られたのか分かるのか。」と問い質されましたが、ものすごい英知です。大いなる不思議なわざです。
136:6 地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。136:7 大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。136:8 昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。136:9 夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。
お分かりですね、主が行なわれたことのたった一つを眺めても、「ああ、この恵みはとこしえまで続くのだな」と感動します。一つも見逃すことができません。
2B 出エジプト 10−22
次は出エジプトの歴史です。主が自然界を支配しておられるだけでなく、個々人に個人的に関わってくださる方であることを知ることができます。
136:10 エジプトの初子を打たれた方に。その恵みはとこしえまで。136:11 主はイスラエルをエジプトの真中から連れ出された。その恵みはとこしえまで。136:12 力強い手と差し伸ばされた腕をもって。その恵みはとこしえまで。
世界の超大国の王パロの手から、イスラエル民族全体が出て行くことができました。200万人、300万人いたとされる人々が一度に出て行くことができました。
136:13 葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで。
私は、新改訳と新共同訳におけるこの訳が本当に嫌いです。なぜ「葦の海」と訳すのでしょうか?あたかも、浅瀬であったかのような印象を受けます。ここは、「紅海」と訳すべきところです。
136:14 主はイスラエルにその中を通らせられた。その恵みはとこしえまで。136:15 パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。その恵みはとこしえまで。
ある子が聖書を読み、その奇蹟をすべて信じ、「ハレルヤ」と言って感動していました。そこに疑い深い大人が来て彼に、「ここは実は紅海ではなくて、浅瀬だったのだよ。深い海が分かれたのではないのだよ。」と言いました。そうしたらその子は、また「ハレルヤ」と言って主をほめたたえたのです。なぜか分かりますか?「そんな浅い海で、エジプトの軍勢をすべて滅ぼすことができるような奇蹟を主が行なってくださった。」
136:16 荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。136:17 大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。136:18 主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。136:19 エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。136:20 バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで。136:21 主は彼らの地を、相続の地として与えられた。その恵みはとこしえまで。136:22 主のしもべイスラエルに相続の地として。その恵みはとこしえまで。
主がもともと約束してくださった約束ヨルダン川の西にあるカナン人の地だけでなく、これらの王に打ち勝つことによってヨルダン川の東岸の地域もまた相続地として得ることができました。ルベン、ガド、マナセ半部族がそこを受け継ぎました。
3B 天の神 23−26
136:23 主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。136:24 主は私たちを敵から救い出された。その恵みはとこしえまで。
約束の地を受け継いだ後に、周囲の住民に虐げられましたが、主は士師を送ってくださり、彼らを救い出されました。
136:25 主はすべての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。136:26 天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
最後は「天の神」です。地域に限定されることのない、物理的な天地が滅んでもなお残る天に御座を持っておられる神です。
こうして一つ一つ、「その恵みはとこしえまで」と呼応して歌えば、私たちに分かってくるのは、「ああ、本当に主の恵み、憐れみはとこしえまで続くのだ」という事実です。私たちがどんなに大きな罪を犯したとしても、自分では赦すことのできない過ちを犯したとしても、主の恵み、憐れみから落ちることは決してないのだ、ということです。主は私たちが悔い改めるのならば、いつでも、すぐに私たちの罪を赦してくださいます。その恵みはとこしえまで、この真理を私たちの心に刻み込む必要があります。
6A バビロンでの悲しみ 137
これまでの詩篇が、シオンを中心に巡っていることにお気づきになったと思います。ダビデが神の家を建てたいと願って、主がシオンをご自分の住まいにすると定めてから、主への礼拝、賛美はシオンにて行なわれるようになりました。主にお会いできる場所、それがシオンだったのです。
そこで次の詩篇は、そのシオンから抜き取られた、もぎ取られてしまった人が歌った歌です。バビロンによってエルサレムが破壊され、捕え移されたその場で、シオンのことを思い深く嘆き悲しむ歌であります。
1B 余興の音楽 1−6
137:1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。137:2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
立琴は、エルサレムでの礼拝のために使われたのですから、ここでは無用なので、木に掛けておきました。
137:3 それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。137:4 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
ユダヤ人たちの歌は、その多くが非常にリズミカルで、アップテンポです。ですから、捕え移したバビロン人たちは、興を求めてこの歌を歌ってくれと頼んだのでしょう。
しかし私たちがこれまで読んできたように、彼らの詩歌には主に対する激しい愛、情熱が注ぎ込まれています。軽々しく、ましてや余興のために歌うことなど決してできません。
137:5 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。137:6 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。
もしエルサレムへの愛を忘れて歌を歌うなら、立琴を弾くこともできず、歌も歌うことができないように、という願いです。
2B 復讐 7−9
137:7 主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言ったエドムの子らを思い出してください。
エドムは、エルサレムの神殿が破壊された時に、そこにいました。バビロンが攻めた時に、便乗して攻めてきていたのです。そして、ここでものすごい嫉妬と憎しみの感情を持ちながら、エルサレムの破壊を喜んでいるのです。
このエドムに対して神がさばきを行なわれる日を、オバデヤが預言しました。オバデヤ書10節からです。エルサレムが滅んだ時に彼らが何をしたかを考えながら読みましょう。「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。(1:10-14)」エドムは小国です。だからイスラエルに立ち向かうことができなかったのですが、今は攻めることができます。この機に、これまでもっていた鬱憤を晴らしたのです。
詩篇の著者は、「エドムの子らを思い出してください」と祈っています。この祈りはオバデヤ書の預言に書かれているとおり成就しました。ヘロデ大王はイドマヤ人でエドム人ですが、その時代にこの民族は滅びました。
137:8 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。137:9 おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。
ものすごい激しい仕返しの感情を表わしていますが、これも預言の中に書いてあります。イザヤ書12章16節に、「彼らの幼子たちは目の前で八裂にされ、彼らの家は略奪され、彼らの妻は犯される。」とあります。バビロンがエルサレムに対して行なったこと、他の国々に対して行なった残虐行為を、自分らが滅びる時に自分たちもその身に受けます。
ですから、この詩歌の著者は、単なる仕返し、復讐の感情を吐露しているのではなく、主ご自身が持っておられる熱情、シオンに対する主ご自身の想いを言い表していたのです。
私たちはもちろん、敵をも愛さなければいけません。主イエスが言われたとおりです。ここで語られているように復讐の感情は、私たちを迫害している人々に直接、個人的に向けられるべきではありません。けれども、主は悪に対して厳然とお裁きになるという事実があるのだということを忘れてはいけません。クリスチャンの責任として、悪に対しては善で報います。しかし、その悪はことごとく裁かれます。
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