詩篇138−143篇 「ダビデの生涯」

アウトライン

1A 御言葉の約束 138
   1B 神々の前での感謝 1−3
   2B 王たちの感謝 4−8
2A 全てを知る方 139
   1B 私を知る方 1−6
   2B 何処にでもおられる方 7−12
   3B 胎児を組み立てた方 13−18
   4B 悪者による傷ついた道 19−24
3A 鋭い舌 140
   1B 悪者の企み 1−5
   2B 頭上の炭火 6−13
4A 落とし穴 141
   1B 口への見張り 1−5
   2B 主へ向く目 6−10
5A 牢獄 142
   1B 私の右 1−4
   2B 避け所 5−7
6A 暗い所 143
   1B 神の真実と義 1−6
   2B 神の答え 7−12

本文

 詩篇第138篇を開いてください、今日は143篇まで学んでみたいと思います。メッセージ題は、「ダビデの生涯」です。詩篇も終わりに近づきましたが、最後の部分にダビデによる詩歌が並んでいます。彼の祈りの生活から、またいろいろなことを学びましょう。

1A 御言葉の約束 138
1B 神々の前での感謝 1−3
138:1 私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。

 ここの「天使」は、「神々」と訳すべきところです。私たちは前回、天と地を造られた神とそうではない偶像との対比の詩歌を読みましたが、聖書では神々、エロヒムの言葉は、裁きつかさ、支配者を意味することもあります。裁判官の判決は、その人の運命を決定づけるということで、神と呼ばれることがあります。

 ダビデは今、あらゆる国々の支配者や権力者の前で心を尽くして神に感謝し、ほめ歌を歌っていると言っています。大胆に、真の神を認めているわけではない者たちの前で、イスラエルの神への賛美の歌を捧げています。あのゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんが来日された時、仏教の寺院で歌を歌われたことを思い出しますが、そのような大胆さと自由さです。

138:2私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。138:2あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられたからです。

 ダビデが生きていた頃、シオンには神殿はありませんでした。彼ではなく、息子ソロモンが建てたからです。けれども、今、彼は聖なる宮に向かってひれ伏していると言っています。


 
彼は信仰によって、幻を見ていたのです。主が御言葉によって、「あなたのために一つの家を造る(2サムエル7:11」と約束してくださいました。彼はシオンに神がご自分の住まいを設け、ダビデの王座を確立されることを知りました。だから彼は確信を持って、まだ見ていないものについて祈ることができました。自分の周りに、神を知らない王たち、権力者がいても祈り、賛美することができました。

 2節に、「ご自分の全ての御名のゆえに、御言葉を高く上げられた」とありますが、英語では「すべての御名の上に、御言葉を高く上げられた」となっています。主の名前がいかに畏れ多いものであるかは、ユダヤ人がこの名を発音することを拒むことでも分かります。彼らは、私たちがヤハウェとかエホバとか発音せず、必ず「主人」を意味するアドナイに言い換えます。「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めのとおり、そのようにして主を畏れこしこんでいるのです。

 そしてダビデはその上に主がご自分の言葉を高く上げられたと言っているのです。神がダビデに語ってくださったことは、畏れ多い御名よりもさらに上に置かれるほど尊いものだったのです。イザヤ書には、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(55:11」とあります。必ずその通りになるからこそ、私たちは御言葉の学びにこのように時間を割き、御言葉を尊んでいるのです。

138:3 私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。

 日々の祈りの力がここに書かれています。主を呼んだその日に答えが与えられ、そして魂に力が与えられます。

2B 王たちの感謝 4−8
138:4 主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。138:5 彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。

 今ダビデは、先の先を見ています。確かに主がダビデに対する約束を実現してくださり、神の国が建てられ、すべての王が神とキリストをあがめる、その時を見ています。主がエルサレムにおられ、そこで主が御言葉を語られます。それを聞いて感謝します。今はダビデが神々の前で信仰によって神を賛美していますが、後には全ての者がダビデと同じように行なうのです。

 そしてそのために主がしてくださることにいて、次に書かれています。

138:6 まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。

 一つ目は、低い者を顧みてくださいます。世はその逆を行ないますね。自分を高くする者が認められます。テレビに出てくる人がそのまま高ぶっているということでは決してありませんが、けれども、自分を売り、自分を人に見せ、自分がいかに優れているかの印象を与えることによって認められます。

 しかしキリスト教会はその反対です。私たちの目は、困窮している人に向きます。ごく普通の人に向きます。イエス様を求めている人に向きます。小さな子どもに目が向きます。なぜなら、そこに神の国を見るからです。

138:7 私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。

 二つ目に主がしてくださることは、苦しみの中にいても救ってくださるということです。ダビデには敵がいました。彼を追うサウル、また彼を滅ぼそうとする息子アブシャロムがいましたが、いずれも主は彼を救い出してくださいました。

138:8 主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。

 三つ目は、主が自分に関わるすべてのことを成し遂げてくださることです。ピリピ書1章6節、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6

 ですから、ダビデは自分に対する神の約束が成就するまで、自分の身を低くしました。そして苦しみの中でも助けられていきました。その中で、主がご自分の約束を実現していかれました。

2A 全てを知る方 139
 次は、神の一つの属性「全知」について知るのに、代表的な聖書の箇所です。

1B 私を知る方 1−6
139 指揮者のために。ダビデの賛歌139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

 主は私たちの生活を、全体的に何となく知っておられるのではなくて、座るのも立つのも、つまり一挙一動すべてを知っておられます。そして、これから座るぞ、これから立つぞという命令を脳から私たちは発信させて、立ったり座ったりするのですが、その思いも主はみな知っておられます。

 遠くから」というのは、物理的に遠くを意味していません。そうではなく、主はいと高きところにおられる方であり、天に住まわれている方だ、という意味です。私たちのそのような一つ一つ、細かいことをすべて知っているからといって、主は地上のある一部分に居住しておられる、ということではない、ということです。主はこの地球より大きな方です。この宇宙より大きな方です。しかし、私たちの立つのも座るのも、その運動神経を働かせている脳の中で起こっていることもみな知っておられるのです。

139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

 私たちの人生の、何年、何月、何日、何時何秒に、何を行なって、何をしているのかをすべて主は知っておられます。

 ある在日韓国人の方が、公安の人に参考に取り調べ(といっても、彼が罪を犯したわけではないのですが)を受けたそうですが、自分が作る履歴書よりももっと詳しく、正確な自分についての記録を持っていたそうです。今度就職する時の履歴書を書く時に、使わせてもらいたいぐらいだった、と言っていました。主は、それよりもはるかに優れた私たちの履歴を持っておられます。

139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

 今現在行なっていることを知っておられるのではなく、これから話そうとしていること、先のことについてもみな知っておられます。私たち自身も話がどこに転がるかわからないのですが、主はすべて知っておられます。

 これで、イエス様が異邦人のように祈ってはならないと言われた意味が分かります。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8」私たちは、何も分からない人たちに自分のことを知ってもらうために説得したり、報告したりするように、神に祈るのではありません。祈りは、そういう形で神に知ってもらうことではなく、むしろ私たちが神をもっと知っていく、その過程です。

139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。

 神がこれから先に自分が行なうことも、そして今現在自分が行なっていること、そしてその直後のこともみなその記憶の中にあるならば、ちょうど自分がどこにいっても大気から逃げることができないように、前もうしろも自分を取り囲んでいます。パウロがギリシヤの人に、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28」と言ったとおりです。

139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

 私たちは、一人の人物があることをしたとき、何を考え、何を思っていたのか研究するために、多くの時間を費やすことができます。ゲーテが死に際に「もっと光を」と言ったのは有名ですが、何か哲学的な意味があったのか、それとも、実際の光が入ってくるように戸を開けてくれ、という意味だったのではないか、とか、いろいろ考えてみることができます。

 けれども、主は私たちがこの地上で歩んでいるその一瞬一瞬の言動、思考について、あらゆる知識を持っておられます。たった一言でもいろいろなことが考えられるのに、何千、何万、何億、何兆の言動、思考があり、それぞれに知識や考えを持っておられるのです。だから、「そのような知識はあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」なのです。

2B 何処にでもおられる方 7−12
 主がこのようにすべてを知っておられるのですから、主は私たちがどこにいても、そこにおられます。7節からは、主がどこにでもおられること、神の遍在について読むことができます。

139:7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

 私たちは教会の礼拝の時間が終わり、教会の建物から離れて、ほっと一息。家に帰ったら神のことは横に置いておいて、テレビでも見ようか。ちょっとトイレに隠れれば、悪い事をしてもまあ気づかれないだろう・・・。こんなことは、決してできません!けれども、私たちの悪い思いは、このような非現実的なことを神に対して抱いてしまいます。

 トイレと言いますと、あることを思い出します。私がクリスチャンになったばかりのときに、大学の先輩が言った言葉が印象的でした。「祈りはどこでもできる。トイレの中でもできる。」これは、ステンドグラスがあるきれいな教会堂で祈りは聞かれるものだという先入観を打ち壊してくれるのに十分でした。主はどこにでもおられるのです。

139:8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

 どんなに高いところに行っても、主はそこにおられます。宇宙飛行士の多くが、その旅行が終わってからクリスチャンになり、伝道師になることが多いですが、主の臨在をその高いところで感じるからでしょう。

 またどんな低いところに行っても、主はそこにおられます。「よみに床」とは、地の深く、死者が住むところ、ということです。私たちはどん底まで自分が落ちてしまったら、もうそこには神がおられないと思ってしまいますが、いやおられるのです!

139:9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、139:10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。

 天と陰府が上下の空間であるならば、今は水平の空間です。これを知らなかった、いや意図的に拒んだ預言者がいました。ヨナです。覚えていますね、彼は主の御顔を避けてタルシシュ往きの船に乗りました。そしてその船が嵐によって転覆しそうになりました。船員は、それぞれ自分たちの異教の神々の名を呼んで叫びましたが、一向に収まりません。ヨナは知っていました。当時知られていた一番遠い町タルシシュに行こうとも、主はそこにおられるのだということです。

139:11 たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、139:12 あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

 神の目は赤外線のようなものです。私たちは自分たちが見られたくないものがあれば、「光を消してください」と頼みます。けれども神にあっては消したところで、何の関係もありません。すべてが見えておられます。

3B 胎児を組み立てた方 13−18
 主は、自分についてすべてのことを知っておられて、すべてのところにおられるだけでなく、私たちが生まれてくる時、その生命の誕生のすべてを操作し、掌握されていた方です。

139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。

 ここの「内臓」は、直訳は「腎臓」です。ユダヤ人の思想で人は腎臓で感じると考えていました。考えるだけでも、畏れ多いです。生命の誕生 − 精子が子宮の卵管を泳ぎ、卵子にまで到達し、受精する。それから卵子が分化して・・・、これらの生命の誕生の仕組みを考えれば考えるほど、不思議なものはありません。

 そしてダビデは、「私の魂は、それを知っている」と言っていますが、知っていますね私たちも。今、この自分が存在するのは、母の胎の中で育っていたからなんだ、ということを知っています。その不思議を感じ取っています。

139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。

 主は私たちの人生に、書物を持っておられます。すべてが書き記されています。それが始まったのは、人生が始まる前、受精するところから始まっています。面白いかもしれません、私たちが天国に行ったら、どのように私たちが組み立てられたのか、神様から本を貸していただくことができるかもしれません!そして、その胎児の時から、私たちがおじいさん、おばあさんになって死ぬときまでのすべての日々が書き記されています。

139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。

 先ほど言いましたが、一人の人物の一言だけでも、大きな研究対象になります。ましてや受精するところから始まっているその記録と、その記録に基づく神のお考えの総計は、もちろん砂よりも数多いです。

 そしてダビデは、このような不思議に圧倒されながら眠ってしまったようですが、起きたら、これは夢ではなかった!やっぱり主は自分におられました。

4B 悪者による傷ついた道 19−24
139:19 神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。139:20 彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。

 ダビデは今、現実の世界の中にいます。主がこのような知識を持っておられることに驚愕するのですが、すべての人がこの真理を共有しているわけではありません。むしろ、神を否定し、神がすべてを造られ、支配しておられるということを馬鹿にする人たちの中に、自分は住んでいます。だから、彼はこのような人たちを憎んでいます。次をご覧ください。

139:21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。

 神を信じないと公言する無神論者だけでなく、実際の生活の中で神を認めない人々、このようなことは許せない、と彼は思っていました。しかし、そのように無神論を憎んでいるダビデでさえ、この世に生きていれば純粋でいられなくなる思い煩いがあり、傷があるのです。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

 まず23節の、「私の心を知ってください」「私の思い煩いを知ってください」という祈りを考えてみたいと思います。私たちは、自分のことは自分が一番知っていると思っています。他の誰よりも知っていると思っています。けれども、今見てきたように、自分の立つのも座るのも、これから話そうとして舌が動いて、言葉を発生しようとしているそのことも、すべてを知っておられる方がいることを知るとき、自分は自分について何も知らないんだ、ということが分かります。

 先ほど祈りについて、神に対して情報を提供することではないんだ、ということを話しました。そうではなく、祈りによって私たちは自分が何を感じているか、何を持っているか、その心の内を自分が知っていくようになります。神が、私たちが祈ることによって、このことを教えてくださるのです。

 そして次に、「傷のついた道があるかないかを見て、とこしえの道に導いてください」とありますが、私たちは神に自分のあり方を認めてもらうために、祈るのではありません。自分がいかにすばらしい人間であり、いかに潜在性、可能性を持った人間であり、その可能性を引き出していただくために、私たちは神を信じているのではありません。その逆で、私たちがいかに間違っているか、いかに曲がった道を歩んでしまっているか、それを知ることができるように、私たちが神に望むのです。「傷のついた道があるかないかを見てください」と祈るのです。

 このように、自分が正されていくことによって、私たちは永遠の命の道を歩むことができます。

3A 鋭い舌 140
 次の詩篇から、ダビデがこのような苦しみ、敵の憎しみを買いながら生きてきた苦しみの中で祈られた詩篇が続きます。まず、サウルに追われた時のことの祈りが捧げられています。

1B 悪者の企み 1−5
140:1 主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。140:2 彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。140:3 蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ

 サウルがダビデを追っている時に、「ダビデがサウルに害を加えようとしている。」という噂がありました(1サムエル24:9)。言葉による戦いです。私たちが、言葉によっていかに人に害を与えるかは体験的に知っているかと思います。聖書では、ヤコブの手紙で「舌は火であり、不義の世界です。(3:4」と書いてあります。

140:4 主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。140:5 高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ

 言葉による戦いの、その手法は罠です。言葉によって、倒そうとしている人を自分たちの手中に誘い入れようとします。自分たちの手で直接、倒すのではありません。相手がやって来て、自分で穴に落ちるように仕向けるのです。

2B 頭上の炭火 6−13
140:6 私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。140:7 私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。

 ダビデは非常に大事な一歩を踏みました。それは、「主に申し上げます」です。私たちは、相手の執拗な攻撃に対して、自分で対応しようとすると罠に陥ります。私たちは、自分の潔癖を証明するために、自分で自分を擁護する誘惑にかられます。しかし、これが罠なのです。

 覚えていますか、エルサレムを包囲したアッシリアがエルサレムにいる住民を、特に王ヒゼキヤを言葉で貶めました。ヒゼキヤは、相手に話し返してはいけないと住民に言いつけ、また自分自身も主の前に出て、その苦しい心を主に申し上げました。自分で自分を守るのではなく、主に守っていただきます。

140:8 主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。そのたくらみを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。セラ140:9 私を取り囲んでいる者の頭。これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。140:10 燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。

 彼らが企んでいるその害毒がそのまま自分自身にふりかかるように、という祈りです。かなり激しい祈りですが、しかし私たちがダビデと同じような立場にいたら、このような願いを主に申し上げても良いと私は思います。あくまでも、主が彼らを取り扱ってくださいという願いだからです。

 そして、この10節の言葉はローマ人への手紙12章に引用されています。「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:20-21」ここです、炭火が彼らに降りかかるようにという祈りは、敵に善を行なうことによって達成されます。自分が仕返しをしたら、そこで敗北です。相手の思う壺です。そうではなく善によって、相手を打ち負かすのです。

140:11 そしる者が地上で栄えないように。わざわいが暴虐の者を急いで捕えるようにしてください。」140:12 私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。140:13 まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。

 このように悪者への裁きについての、熾烈な祈りの最後には、平安が訪れます。主が悩む者の訴えを支持し、貧しい者のために裁きを行なわれる、という確信が与えられます。私たちが圧迫を受けている時の模範的な祈りです。

4A 落とし穴 141
 次も同じように、相手を陥れるための落とし穴に落ちないようにするための祈りになっています。

1B 口への見張り 1−5
141:1 主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。

 急いでください、という切迫した祈りです。

141:2 私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。

 ダビデが切に願っていたことは、主に捧げ物を捧げることでした。主に礼拝を捧げることが、彼の最大の願いでした。今けれども、それができません。しかし今、自分がいるところで、自分の祈りが聖所でたかれる香として、自分が今ここで手を上げることが、夕べの捧げ物になりますように、と祈っています。今、ここでしていることが主への立派な礼拝になりますように、という祈りです。

 これが私たちの武器になり、防波堤になるでしょう。私たちがプレッシャーを受けた時、いてもたってもいられなくなったとき、私たちはその場でひざをかがめて、主を礼拝することができます。

141:3 主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。141:4 私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。

 非常に大事な祈りです。「私の口が、相手の悪い言葉に対して言い返すために、開くことがありませんように。」という祈りです。私たちは悪いことを言われたら、もちろん言い返したくなります。しかし、そのように言い返すことによって、私たちは次第に相手と同じ事をしていくようになります。自分を守っているつもりが、相手を攻撃していくようになる。そして、ありもしないことを言うようになっていく。そして、自分が応酬しているつもりが、自分も害を他人に与えるようなものになっていく。悪に反応することによって、自分も悪に染まっていくのです。だから、その悪事には、口を閉ざすことによって関わらないことが大事なのです。

 これが、先ほど読んだローマ12章の最後のところにある言葉にあるように、悪に対する復讐なのです。悪に悪で報いたら自分が悪になります。それが相手の狙いなのです。しかし善で報いたら、自分は悪になることはないし、相手の狙い通りにはなりません。このようにして打ち勝ちます。

141:5a 正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。

 私たちは、人々の悪口や中傷には耳を傾ける必要はありません。しかし、それは自分のことを責める言葉をすべて拒むことを意味しません。箴言に「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(27:6」とあります。自分を愛してくれている人の責める言葉には耳を傾けます。

2B 主へ向く目 6−10
141:5b彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。141:6 彼らのさばきづかさらが岩のかたわらに投げ落とされたとき、彼らは私のいかにも喜ばしいことばを聞くことでしょう。141:7 人が地を掘り起こして砕くときのように、私たちの骨はよみの入口にまき散らされました。

 自分たちは、今、イスラエル国の中で撒き散らされた骨のようになっている。けれども、サウルたち、今のイスラエルの裁きつかさらが倒れた時は、イスラエルの人たちは私ダビデの言葉に聞き入ることを由とするだろう、という意味です。実際、サウルが死にダビデがユダの王になり、そしてイスラエル全体の王になったときは、ダビデに感謝する言葉が絶えませんでした。

 だから彼らが悪行を重ねても、私は騒ぐ、のではなく、祈ったのです。

141:8 私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。141:9 どうか、彼らが私に仕掛けたわなから、不法を行なう者の落し穴から、私を守ってください。

 要は、悪者に目を向けず、主に目を向けます。これが落とし穴に自分が落ちることのないようにする方法です。

141:10 私が通り過ぎるそのときに、悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。

 自分の網に落ちる、という原則は詩篇の中に何度も書かれていました。そして具体的な歴史的事件としては、エステル記にあるハマンが、モルデカイをかけるための杭に自分がかけられた、という記述があります。

5A 牢獄 142
142 ダビデのマスキール。彼が洞窟にいたときに。祈り

 ダビデが追われて、エン・ゲディにいました。そこにサウルたちがやって来ました。そしてサウルが一息入れて、少し休むために、洞窟の中に入りました。そこに実はダビデがいました。その時にダビデがささげた祈りです。

1B 私の右 1−4
142:1 私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。142:2 私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。142:3 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。

 今、ダビデは苦しい心を主に言い表しています。自分でもどうすればよいか分からなっています。けれども、主は自分の道を知っておられる、と言っています。

142:4 私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。

 「」は自分の力、権威を表わします。このような経験は皆さんはおありでしょうか?自分が今、他の人々に追い詰められている状況がある。だから慰めて欲しい、力づけてほしいと願う。けれども慰めを求める自分の友人や知人は、自分たちの問題で聞く耳がない。自分はもう立つ瀬がありません。しかし、このような時一人だけ聞いてくださる方がいます。

2B 避け所 5−7
142:5 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。

 主です。私たちは、自分が袋小路になっていて、何もできないとき、なお避けることができる場所があります。主です。そして、自分が生きた心地がしないような所にいたとしても、なお生きることができる場所は、主です。

142:6 私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。

 サウルたちのほうが、ダビデよりも圧倒的に強いです。

142:7 私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。」

 ダビデは、今、逃げていくところがありません。出て行こうにも、前にサウルがいて眠っているのです。だから「牢獄」のようです。私たちもがんじがらめになってしまうときがありますね。けれども、そこから主は連れ出すことがおできです。

 そして最後は正しい人が自分の周りにいます。悪を言いふらす人が自分のそばにいたとしても、必ず共に励まし、慰め、仕えあう、良き兄弟姉妹を主は与えてくださいます。

6A 暗い所 143
 最後、苦しみの中からのダビデの祈りは、おそらくはアブシャロムによってエルサレムを追われた時に祈ったものではないかと言われています。

1B 神の真実と義 1−6
143:1 主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください。

 アブシャロムは不誠実でした。父をだまして、ヘブロンで王となり、そしてダビデの側近を自分に取り込んで、エルサレムを自分のものにしました。そしてそれはもちろん不義です。ダビデは、「主よ、真実で義であられるあなたが、この情況を見てください。どうか無実の私を救ってください。」と祈っているわけです。

143:2 あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。

 これも非常に大事な祈りです。今、無実、と言いましたが、それはダビデがアブシャロムにエルサレムを乗っ取られることについて、ダビデが犯した罪はない、という意味です。けれどもダビデはよく知っていました。自分自身について、自分の存在について、神が義と真実をもって望まれたら私は耐えられないだろう、ということです。

143:3 敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ち砕き、長く死んでいる者のように、私を暗い所に住まわせたからです。143:4 それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。

 これまで宮殿の中に住んでいたダビデは、おそらく洞穴に寝泊りしたのでしょう。長く死んでいる者のように、暗い所に住まわせた、というのは、洞穴がしばしば墓に使われていた事を考えると納得が行きます。

143:5 私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。

 今はアブシャロムに追われているという情けない情況だが、主がなさってくださったことを今考える。そして、主がこれからも同じように私のためにしてくださるのではないか、と考えます。私たちもこの回想が必要です。たった今のことだけを見てはいけません。主が自分に何をしてくださったのか、思い出すべきです。主の恵みはとこしえまで、と私たちは習いました。主が過去に行なってくださったことは、これからも行なってくださいます。

143:6 あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。セラ

 やはりエルサレムを慕っているダビデは、その場から主を慕い求めました。

2B 神の答え 7−12
143:7 主よ。早く私に答えてください。私の霊は滅びてしまいます。どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため。

 再び切迫した祈りです。自分が落ちそうだ、もうだめだ、と言うときにこのような祈りを捧げます。そして次に願いを一つ一つ主に申し上げます。

143:8a 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

 一つは、恵みを聞かせてください、です。主が自分に良くしてくださることについて、朝に聞かせてください、と言っています。なぜなら、主を信頼しているからです。

143:8b私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

 二つ目の願いは、行くべき道です。自分がどの方向をとるべきか、私たちも悩むときがありますね。その時の祈りです。そして理由は、「あなたを仰いでいますから」です。

143:9 主よ。私を敵から救い出してください。私はあなたの中に、身を隠します。

 三つ目は、敵から救い出してください、です。理由は身を隠しているから、です。

 先ほどから理由を読むと、もっともだなと思います。主の約束は条件付です。もし神を信頼しないで、神の恵みを楽しむことができるでしょうか?主を仰ぎ見ることなしに、行くべき道が分かるでしょうか?主に身を隠すことなしに、救い出されるでしょうか?だから、条件付なのです。

143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

 四つ目が、御心を行なうことを教えてくださいです。大事ですね、私たちは自分たちの思いを果すことを考えてしまいますが、そうではなく神の思い、神の意図しておられることを自分が行なうことを願います。

 そして五つ目は、いつくしみ深い霊が平らな地に導いてください、ですが、これは豊かに慰めてください、ということです。

143:11 主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、あなたの義によって、私のたましいを苦しみから連れ出してください。

 六つ目は生かしてください、七つ目は苦しみから連れ出してくださいです。いずれも、自分の名のためではなく、自分の義によってではなく、神の御名のゆえに、神の義によって行なってくださいと願っています。

143:12 あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。

 最後は消し去ってください、という祈りです。理由は、あなたのしもべだから、ですが、その通りでしょう。主に仕えている者に敵対することは、主ご自身に敵対しているのと同じです。しもべは主にまさるものではない、とイエス様が言われたとおりです。

 こうしてダビデの祈りを読んできました。彼が初めに約束が与えられたところから始まって、主の知識の深さを述べ、それから数々の苦しみを主に申し上げました。次回は、その苦しみから救われて勝利したダビデの歌を読むことができます。


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