3C 報い 20−28
18:20 主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
彼は、主の救いを、自分の義、自分の手のきよさの報い、償いであると言っています。私はここを読んで、初めとまどいました。ここまで大胆に言えるものなのか、ダビデも負い目はなかったのか?と思いました。
ここで、彼がこの歌をうたったとき、サウルが死んで、サウルの残党もいなくなったようなとき、統一イスラエルの王として君臨する頃であったことを思い出してください。彼が、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤを殺し、さらに自分の息子たちの間で陵辱、殺人、そして父への反逆がある前にうたった歌です。彼が生涯の後期に歌ったものには、神からの罪の赦しと憐れみを請うものになっています。
事実、王になるときまでの彼は、いくつかの過ちは犯したものの、基本的に主にしっかりととどまりつづけた生涯を送りました。サウルや他の敵に襲われていましたが、そのような攻撃を受けるような悪事は働いていないことを、彼は宣言できたのです。
18:21 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。18:22 主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。18:23 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
「主の道」それは、主が通られた道であり、主の弟子たちがこの方についていった道でもあり、主に従う者たちの道です。そして、「主のすべてのさばき」とは、神の御言葉のことです。彼はいつも、御言葉を自分の前に持ってきていました。ヤコブの手紙の中にも、御言葉を聞いて忘れるのではなく、実行する者になりなさい、と書いてありますね。それから、彼は主の前にいることを意識していました。主が前におられるのに、罪を犯すことはできません。この臨在が、罪から自分の身を守る方法です。
18:24 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
このようにダビデは、主にある良心をきよく保って生きていました。
18:25 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、18:26 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
これと似た表現が、主の山上の垂訓の中で出てきます。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)」とあります。また、「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という主の祈りもあります。他の人たちに対する私たちの態度、姿勢が、主との関係に深く関わっています。主との交わりを持っている者は、主が光の中におられるように自分も光の中にいなければいけません(1ヨハネ参照)。
18:27 あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。
聖書全体の中に、またこの詩篇の中にも何度も、悩む者を救われ、高ぶる者を低くされるという神の原則が書かれています。
18:28 あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。
暗闇にいるときも、主が光となられます。
2B 敵の服従 29−50
1C 戦いの力 29−45
18:29 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
ダビデは戦いの最中、神の力を感じていました。ゴリヤテとの戦いのときのダビデの姿は、すぐに思い出せるかと思います。川辺にあった平たい石を取って、ゴリヤテに投げつけたら、彼のこめかみのところに当たって、彼は倒れてしまいました。それはみな、主が戦うための力を与えてくださったからです。
18:30 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
主を再びほめたたえています。すべては相対であると考える相対主義、また自分のうちにだけ真理がある、という実存主義がはびこるこの世の中で、「主の道こそが完全」と信じることができます。また神のみことばは、人間のへつらいの言葉とは違って純粋であることは、前回学びました。また、先にも出てきたように私たちを守る盾となってくださっています。
18:31 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
他の神々と呼ばれているものではなく、「この神」です。私たちもこういう証しを持っているでしょうか?他の神々を信じている人たちの間で、主イエス・キリストの神こそが私たちの力であり、道を完全にしてくださっているという証しです。
18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
ダビデが隠れていた、死海に面するところにあるオアシス、エン・ゲディには、アイペックスというヤギの一種を見ることができます。これは、崖っぷちでもどこでも登っていって、垂直になっているところでも平気で立っています。ダビデも、人が到底立てないようなところに立つことができましたが、主がその力を与えてくださいました。
18:34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。
弓を引くときにも、神が彼に力を与えてくださいました。私たちも、霊の戦いにおいて神が力を与えてくださることが約束されています。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)」
18:35 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。
「あなたの謙遜」とは、興味深い表現ですが真実です。主は全知全能の力強い神ですが、この方がへりくだって私たちに近づいてきてくださったことによって、私たちは変わることができました。「わたしは優しく、へりくだっている」と言われた主のみもとにいるときに、私たちは強められます。
18:36 あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。
先ほどの「広い所」と同じです。大またで歩くことができる平坦なところを歩いています。
18:37 私は、敵を追って、これに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。18:38 私が彼らを打ち砕いたため、彼らは立つことができず、私の足もとに倒れました。18:39 あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。18:40 また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。
これまでのダビデに対する主の御業は、戦いの中の守りにおけるものでありましたが、ここからは攻撃における神の助けについて書かれています。例えば、アマレク人を倒したときは、明らかに主によるものでした。アマレク人に自分の町を滅ぼされて、妻や子供、家畜を奪われたとき、ダビデは主によって奮い立って急いでアマレク人の後を追いました。そして無事にすべてを奪還しました。
18:41 彼らが叫んでも、救う者はなかった。主に叫んでも、答えはなかった。18:42 私は、彼らを風の前のちりのように、打ち砕き、道のどろのように除き去った。
彼らは神との契約の中にいません。取り繕って神の名前を呼んでも、個人的な関係がないですからその呼びかけは無意味です。
18:43 あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。18:44 彼らは、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。外国人らは、私におもねります。18:45 外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。
敵から救い出され、さらに敵を追ってゆき、彼らを倒したダビデは、最後に周囲の国々を従わせることができるようになりました。ダビデとソロモンのときのイスラエル王国は、周辺の諸国に貢物を持ってこさせるほど強くなっていました。
2C 油注がれた者 46−50
18:46 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。18:47 この神は私のために、復讐する方。神は諸国の民を私のもとに従わせてくださる。18:48 神は、私の敵から私を助け出される方。まことに、あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。
この歌を終えようとして、彼はこれまでの戦いと戦いにおける勝利の思い出をまとめています。
18:49 それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。
周辺の諸国が自分に従うなかで、彼はイスラエルの中だけでなく国々に対しても、主の御名をほめたたえました。彼は自分の信仰を内向きにせず、外に言い広めたのです。
しばしば新約の時代になってから初めて、神は異邦人に対する救いの道を開かれたと言われますが、ここに書かれているとおり旧約の時代からすでに、その予兆はあったのです。イスラエルはイスラエルだけで神の祝福を楽しむのではなく、世界に対する光、神の証人として立てられていたのです。
この神の心を知らずに自分たちだけで救われようと考えていたのが、主が地上におられたときのユダヤ人であったし、さらに現代のユダヤ教でもあります。私たちクリスチャンも、周囲の人たちのことを考えなければ、周りの人たちに働きかけなければ、同じ過ちを繰り返してしまいます。
18:50 主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。
ダビデとそのすえ、というのは、もちろん自分からメシヤが出てくることを彼が予見して言っていることです。彼は神殿を建てたいことを主に申し上げたときに、自分は建てられないがあなたの子が建てる、と約束してくださいました。そして世継ぎの子の国はとこしえに立つとの約束を受けて、自分からメシヤが出てくることを彼は知っていたのです。
ダビデの国は、ダビデが王でありながら彼自身が主を王としてあがめていたので、神が統治する国を反映したものでした。ダビデのすえが王となられたとき、同じように神のみに栄光が与えられる国になります。
3A 主への恐れ 19
19 指揮者のために。ダビデの賛歌
1B 天における御声 1−6
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。19:4a しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。
天体、また昼の太陽の運行を見るときに、すばらしさにだれも驚かないではいられません。物理的には何も聞こえません。しかし、神が存在について、天体は大声で叫んでいます。ローマ人への手紙で、福音の宣教の言葉は聞こえなかったという問いに対して、パウロは、「むろん、そうではありません。」と言って、「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで届いた。(10:18)」と、ここの詩篇の言葉を引用しています。だから言い訳はできない、ともパウロは言っています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:20)」
今年の初め行なわれた宣教会議で、ゲストスピーカーにアマゾンのジャングルで宣教を長年行なってきた老夫婦が、ゲストスピーカーとして話しました。彼は非常に興味深いことを話していました。それは、未開地に住む彼らも実は、イエスという名前を知らないだけで、救われるための啓示はほとんど与えられている、というものでした。
まず、自然に囲まれて彼らは生きているので、まことの神は創造主であることを知っていることを彼は知りました。創造主のための祭壇があったほどだそうです。そして、善悪の判断や良心も与えられていました。魔女の助言による人殺しが、誰からも咎められることなく行なわれていますが、だれも見ていないところで人を殺した人が、良心の呵責で苦しんでいた、という話です。さらに、救いについても、完全な犠牲があって、身代わりがあって成り立つことも知っていたそうです。ノアの時代の洪水の言い伝えも、しっかり残っています。
現代社会は、神は人間が造り出したものであり、罪意識とか善悪の判断とかも、文明の発達、教育によって定められるとか、古代の無知な人間のものであるという考えは成り立ちません。
19:4b神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
太陽の軌跡についての描写です。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
世界中を太陽光線が覆います。
このように、自然の中に私たちは神の栄光を見ることができます。これを自然啓示と巷では呼ばれています。神さまのこのような、ご自分に現し方に対して私たちがきちんと応答しなければ、次の神の救い、贖いについてのご計画も分からなくなります。しばしば人間的な良い話を聞いて、例えば人の犠牲的な献身であるとか、キリスト教の一面を表しているにしか過ぎない話とか、聖書の話であっても放蕩息子のたとえ話にある父親の愛であるとか、人間中心のメッセージは、本当の福音を伝えていることにはならないのです。
自然界における創造主の栄光を認めることによって、初めて神の贖いも理解できます。ヨハネによる福音書1章冒頭に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とありますが、それがあって初めて14節の、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と続きます。
2B 純粋な御言葉 7−11
神は、自然のほかに聖書という書かれた文字を通してご自分を示しておられます。
19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
細かく見ていきましょう。初めの「主のみおしえ」は非常に良い訳です。ここのヘブル語は「トーラ」で、律法のことです。律法というと、何か法律のように無味乾燥したもののように聞こえますが、元々の意味は「教え」です。その次の「主のあかし」は、主の証言、主がご自分の知恵と知識の中で正しいと宣言されている事柄です。それから「主の戒め」とありますが、「定め」とも言い換えることができるもので、神の権威によって定められていることです。そして、「主の仰せ」というのは「命令」のことです。
そして御言葉による影響についても観察したいと思います。主のみおしえは「たましいを生き返らせ」ます。御言葉を通して、私たちは初めて神の聖さや正しさを知ることができ、自分の罪をはっきりと知ることができます。それで、キリストの十字架が律法の要求を満たすものであり、自分の罪の罰を代わりに受けてくださったものであることを知ることができます。だから、たましいを生き返らせます。
そして、主のあかしが「わきまえのない者を賢くする」とありますが、知恵を持つことができます。単なる知識ではなく、悪から離れて善を行なうときに必要な知恵が与えられます。さらに、神の定めが人の心を喜ばせるとありますが、どうでしょうか御言葉を聞くことが喜びになっていないでしょうか、新しく生まれた人たちは。そして主の仰せ、命令によって、私たちは霊的な目が開かれます。これまで見えてこなかったものが見えてくるようになります。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
主への恐れは悪から離れるものであると、箴言に書いてあります。汚れは滅びます。ヨハネは第一の手紙の中で、「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(2:17)」と言いました。
そして主のさばきについてですが、黙示録には「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。(16:7)」と天の住人が証言しているところがあります。数々の地上に下る災いが、真実で正しいと言っているのです。すべてのことが知らされて、永遠の見地から物事を見ることができる天において、神の真実と正しさを確認することができます。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
この世における慕わしいものを二つ上げています。純金と蜂蜜です。どんなに慕わしくても、神の御言葉と神を恐れることが、もっと好ましいという告白です。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
みことばを守れば、いのちと幸いを見出すことが申命記の中でたくさん書かれています。新約の時代に生きている私たちも同じです。みことばには神の知恵と知識がすべて詰まれています。この中に生きれば報いは大きいです。
3B 罪への対処 12−14
こうして自然の中における神の栄光と、神の御言葉にある神の正しさを見てきましたが、その神の基準にしたがって自分を見るときに、罪から離れたいと願うようになります。次にダビデは、罪から離れることができるようにという祈りをささげています。
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。気づいていないところで犯している罪があります。神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。
詩篇139篇では、自分で自分の心が分からなくなっているのを認めてダビデが次の祈りをささげています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24節)」主に調べていただく祈りです。聖霊が私たちに自分の心の内を示してくださり、そして自分の道ではなく、主の道に導かれるように祈っています。
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
「傲慢の罪」これは言い換えると「計画的な罪」と言うことができるでしょう。計画的な犯行、という日本語がありますね。英語ではpresumptionとう言葉が使われています。「ずうずうしさ」「厚かましさ」「無遠慮」と訳せます。
この罪は故意に犯している罪です。神のみことばによって、また自分に神から与えられた良心によって、はっきりと罪であると示されているのに、それでも犯すところの罪です。そして何かに反応してしまって怒り散らしたり、とか、古い自分を出してしまったりする衝動的なものとは違って、その罪を楽しむためにじっくりと考え、企んで行なう罪です。それから、罪を犯した後の結果があることを知りながら、それでもいいからとにかく行なおうと思う、思い上がりの罪です。
ダビデは、「それらが私を支配しませんように」と祈っていますが、この類の罪を犯すとその罪が自分を支配していきます。やめられなくなるのです。初めは自分が制御しているつもりなのですが、罪が自分を動かしていくという、がんじがらめになります。
この種の罪を犯した聖書人物の一人はサウルです。アマレク人を聖絶しなければならず、家畜もみな殺さなければいけないと主に命じられていたのに、王アガグを生けどりにし、最上の羊や牛も生かしておきました。そして厚かましくも、主にいけにえをささげるために残しておいたとサムエルに言いました。
その結果、彼は王位を奪われました。そしてダビデが王として選ばれました。そして、彼はその後、ダビデに脅威をいだき、彼を殺そうとまで考えました。彼は思い上がりの罪を犯したわけですが、それが彼の残りの生涯を支配していったのです。
気をつけなければいけません、「主の戒めなんかどうでもいい」という傲慢の罪は、何としても避けなければいけません。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。
これを私たちの祈りにしたいと思います。自分が発する言葉において、主に受け入れられるものであるように。また、心の思いが受け入れられたものでありますように。情欲、ねたみ、怒りなどの悪い思いを心の中にとどまらせることがないように、お祈りしましょう。
4A 王の救い 20
20 指揮者のために。ダビデの賛歌
ここは興味深い詩になっています。ダビデの賛歌となっていますが、前半部分はイスラエル国民が、王であるダビデのために祈っている、とりなしになっています。特にこれから戦いに出て行かなければいけない王のために祈っています。
1B 王の成功 1−5
20:1 苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
王が大変なところを通っているとき、そこから抜け出すことができるようにとの祈りです。
20:2 主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。
王の祈りが答えられるように、という祈りです。
20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め、あなたの全焼のいけにえを受け入れてくださいますように。セラ
王の礼拝が受け入れられるように、という祈りです。
ここで明らかなのは、王もまた民も同じ神を信じているという事実です。王と臣民という階級の差、身分の差、支配者と被支配者という関係があり、しかも自分に対して王は何でもすることができるという主権もあるのに、ともに神を信じているので、そこにおいては平等なのです。神の前で同じところで祈り、けれどもそれぞれ神に与えられた場所で、神の守り、救い、祝福があるように祈っています。
ガラテヤ書に、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(3:28)」とあります。また、コロサイ書にて、奴隷が主人に仕えなければいけないことを教えつつ、主人も天に主がおられることを知って、奴隷に正義と公平を示しなさい、と命じられています(4:1参照)。共にキリストを信じる者たちが働いているというのは幸いですし、ダビデの国のように支配者も国民も主を信じているという国も本当に幸いです。
20:4 主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。
主を第一にしている者に対する祈りです。主を喜びとしている人は、その願いも主と同じものになっています。だから、このような祈りをささげることができます。
20:5 私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう。私たちの神の御名により旗を高く掲げましょう。主があなたの願いのすべてを遂げさせてくださいますように。
勝利のときに、旗を掲げます。モーセがアマレク人と戦ったときも、勝利したときに「アドナイ・ニシ(主は旗)」呼びました。
2B 御名への誇り 6−9
20:6 今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。
民の祈りに対する王の返答です。「油注がれた者」とは自分のことです。サムエルが少年ダビデに油を注ぎましたが、それは神がダビデを王として任命されたことを意味します。そして、油注がれた者はメシヤの意味にもなります。
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
国の王として、この発言はすごいことです。だれでも安全保障のために軍事力が必須であることを知っています。しかしそれらのものには頼らない、とダビデは宣言しています。ダビデの子孫であるヒゼキヤは、この戦いがありました。迫っているアッシリヤに対して、彼はエジプトに使者を送って助けてくれるように頼みましたが、その希望も絶たれました。しかし、主の御使い一人が来て、包囲している18万5千人を一夜のうちに滅ぼしたのです。
20:8 彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
契約の民とそうではない人々の違いがはっきりと書かれています。神のうちにいるものは、倒れそうになっても立ち上がることができます。そうではない者は、立ち上がっていてもいずれ倒れてしまいます。
20:9 主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。
民と王が一体化した祈りでした。
5A 王の喜び 21
21 指揮者のために。ダビデの賛歌
この詩篇は今の20篇の詩篇の続きのようになっています。民の王に対する祈りが聞かれたことを喜んでいる祈りです。
1B かなえられる願い 1−2
21:1 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。21:2 あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ
主の力、救い、また祈りを聞かれる方であるとして、この方をほめたたえています。
主が良くしてくださったことに対して、主に感謝と賛美をささげることは、非常に簡単なことであるはずなのですが、人はなかなかそのようなことをしません。祈るだけ祈っても、お願いするだけお願いしても、願いが聞かれたら、それだけで満足してしまいます。
らい病人10人がイエス様のところに来て、いやしていただいた話を思い出してください。彼らは主に祈っていただいて、そして祭司のところに行く途中でらい病がきよめられました。そうしたら、一人が大声で喜んで、帰ってきて主の足もとにひれ伏しました。他の九人は、それまで〜よ、だったのです!でも、私たちもよく犯してしまう過ちです。
2B 祝福 3−6
21:3 あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。
ダビデがアモン人と戦い、イスラエル人はアモン人の王がかむっていた冠を取ってきました。その重さは金一タラント宝石がはめ込まれていた、とあります(2サムエル12:30)。このことについてダビデは言及しているものと考えられます。
21:4 彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。21:5 御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。21:6 あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。
この4節、5節、6節は単純に自分自身のことだけを言っているのではないことに気づきます。「とこしえ」という言葉が出てきます。彼は、おそらくは自分の子孫、つまり神に約束されたメシヤのことを考えているのだと考えられます。世継ぎの子がとこしえに国を治めるとの約束です。
3B 敵の滅亡 7−13
21:7 まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。21:8 あなたの手は、あなたのすべての敵を見つけ出し、あなたの右の手は、あなたを憎む者どもを見つけ出します。21:9 あなたの御怒りのとき、彼らを、燃える炉のようにされましょう。主は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くすでしょう。
この描写はまさに、ハルマゲドンの戦いです。黙示録19章を読めば、王の王、主の主としてイエス様が現われて、国々の軍隊と戦われる場面が出てきます。そして彼ら、特に反キリストと偽預言者は、火と硫黄の池、ゲヘナに投げ込まれることが預言されています。
21:10 あなたは、地の上から、彼らのすえを滅ぼされましょう。また、人の子らの中から、彼らの子孫をも。
主が再臨されると、国々の民を集められます。そして彼らを選り分けられ、右にいる者たちは神の御国へと招かれて、左にいる者らは地獄へ投げ込まれます。だから国民の単位でさばきが行なわれるので、子孫をも滅ぼされてしまうのです。
21:11 彼らが、あなたに対して悪を企て、たくらみを設けたとしても、彼らには、できません。21:12 あなたは彼らが背を見せるようにし、弓弦を張って彼らの顔をねらわれるでしょう。
神の国における、メシヤの絶対主権です。鉄の杖で牧すると書かれていますが、千年王国にて悪をたくらんでも、ことごとく罰せられます。
21:13 主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。
ダビデは民とともに、メシヤの力をほめたたえています。
次回の学び22篇には、同じくメシヤ詩篇となっています。最後の部分は21篇と同じでメシヤの統治が書かれていますが、その前に通らなければいけない苦難が預言されています。
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