1A 見捨てられた方 22
1B 叫び 1−21
1C 遠く離れた神 1−10
2C 近づいた苦しみ 11−21
2B 宣告 22−31
1C 会衆の賛美 22−27
2C 国々の礼拝 28−31
2A 羊飼いなる主 23
1B 緑の牧場 1−4
2B 招かれた客 5−6
3A 栄光の王 24
1B 創造主 1−2
2B 主の山 3−6
3B 永遠の戸 7−10
本文
詩篇22篇を開いてください、今日は22篇、23篇、24篇だけを学びます。今日のメッセージ題は「主、イエス」です。詩篇はいろいろな種類に分類されるけれども、メシヤのことを預言しているメシヤ詩篇があるということを、以前お話しました。今日の三篇はみなメシヤ詩篇です。
前回の学びで、ダビデが自分の王位のことを神に感謝、賛美していながら、自分の子孫であるメシヤについて預言していた部分を指摘しました。例えば、21篇4節から6節までに、こう書いてあります。「彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。」「とこしえに」王としての尊厳と威光が置かれる、ということですが、これはサムエル記第二7章における、神がダビデに与えられたメシヤ到来の約束に関わっています(12-16節参照)。だから、ダビデは自分のことを語りながら、後に来られる世継ぎの子メシヤについての預言を行なっています。
1A 見捨てられた方 22
今日学ぶところは、まさにその部分です。ダビデ個人の体験を話しているには、あまりにも違和感がある部分があります。22篇は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」から始まりますが、他の詩篇で自分の神から見捨てられた、と断言している箇所を見つけることはできません。「見捨てないでください」という願いは書かれていますが、神の所有の民は決して見捨てられることはない、という約束で満ちています。
そして22篇でダビデは、敵に囲まれていることを書いていますが、他の詩篇では敵に対する復讐を主に願っているのに、ここでは一切、敵に対する神の怒りは描かれていません。ここからも、ダビデ個人の経験ではなく、ダビデの子、メシヤの預言であることが分かります。
22 指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べに合わせて。ダビデの賛歌
「暁の雌鹿」という言葉から、主イエスご自身を示しているという人たちがいます。雅歌8章14節に、「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」とあります。主のことを雌鹿としてたとえられています。
1B 叫び 1−21
1C 遠く離れた神 1−10
22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
この冒頭の言葉を読んで、これが、主イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉と同じであるのに気づかない人は少ないと思います。「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」というアラム語(あるいはヘブル語か?)です。「エロイ」という言葉から、聞いていた幾人かが「エリヤを呼んでいる」と誤解しました。主が来られる前にエリヤが来るという預言が、旧約聖書の最後の預言であるマラキ書に書かれているからです。
神の御子であられるイエス様が、ご自分の父のことを「わが神」と呼ばれるのはなぜだろうと思われる人もいるかと思います。福音書、特にヨハネによる福音書には、イエス様が神のことを個人的な自分の父として語っておられたので、ユダヤ人たちは自分を神と同等の地位においていることを知り、彼を殺そうとしたと書いてあります。けれども、ここでは「わが神」と呼んでいます。
理由は、イエス様が人の姿を取られたからです。イエス様は100パーセント神であられながら、100パーセント人間であられました。有名なピリピ書の箇所を読んでみましょう。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(2:6-8)」この、「自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた」という箇所が、まさに詩篇22篇に現われているイエス様のお姿です。
そして「わが神」と人としての主の叫びを聞くだけでなく、「どうして私をお見捨てになったのですか」また「遠く離れて私をお見捨てになったのですか」と、神様と個人的な関係を持っている人間でさえ叫ばない言葉を叫んでおられます。イエス様は今、神からの断絶を経験されているのです。
考えても見てください、イエス様を信じて救われたクリスチャンが、神から引き離されて地獄に行くようになることは、地獄の恐ろしさを知っているので、想像したくもない可能性です。パウロは、ユダヤ人の救いのために自分が神から呪われた者となってもいい(ローマ9:3)と言いましたが、他の人々の救いの引き換えに自分が地獄に行く勇気は、正直なところ私は持っていません。
しかしイエス様は今、この地獄の苦しみを十字架の上で味わっておられるのです。地獄の恐ろしいのは、熱さやその他の物理的な苦しみ以上に、神から引き離されて、見捨てられたという事実です。イエス様は神の御子でした。永遠の昔から、初めから、父なる神のふところにおられた方でした(ヨハネ1:18)。父なる神との交わりを持っておられた方が、父なる神と一つになっておられる方が、霊的な断絶を十字架の上で味わわれていたのです。
そして「私のうめきのことばにも。」とあります。主がとてつもない激痛を味わわれているときに、それでも発した言葉があります。今読んだ「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」はその一つですが、全部で7つあり、それぞれが非常に短い文です。あまりにもひどい苦痛の中で、言葉を多く語ることはおできにならなかったのです。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
イエス様が十字架につけられていた時刻は、午前9時ごろから午後3時であると考えられています。ですから朝から昼にかけて十字架につけられていたのですが、正午のときに大きな出来事が起こりました。アモス書にこう預言されています。「その日には、・・神である主の御告げ。・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。(8:9-10)」事実、福音書の記録によりますと過越の祭りの日に、真昼のときに地は暗くなりました。
主が呼んで、叫んでおられるのに答えがないという苦しみを味わわれておられます。私たちが以前学んだヨブ記に、ヨブが叫んでも答えがないと嘆いたことが書かれていましたね(30:20)。苦しみのときに、なぜ苦しむのかという理由は分からないが、神のご臨在を知ることができるというのがヨブ記の結論でしたが、主イエス・キリストが私たちのために、呼んでも神が答えてくださらないという苦しみをすでに味わっておられました。だから、私たちがそのような祈りが聞かれているのかわからないという悩みと弱さもすべて同情することがおできになるのです。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
ここに、イエス様が御父から引き離されている理由が書かれています。神が「聖であられ」ることです。預言者イザヤがこう預言しました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)」イエス様は、十字架の上で私たちの罪を負われていました。主が全人類の罪を負われていたので、その罪によって神から引き離されていたのです。
イザヤ書59章に、罪が私たちにもたらすものについて説明があります。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(1-2節)」罪が神と私たちとの仕切りになります。神が聖なる方だからです。パウロが、不品行の罪を犯している一部のコリントの教会の人たちに対して、こう言いました。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。(1コリント6:15)」主は、ご自分の聖いご性質のゆえに、罪と一つになることは絶対できません。
だから、イエス様は十字架の上で、父なる神から遠く引き離されていました。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
先ほども話しましたように、イスラエルの民が神に信頼したときに、民は必ず救い出されました。イスラエル民族の誕生の時のことを思い出してください。モーセ率いるイスラエル人たちが、二つに分かれた紅海を渡って、追ってくるエジプト軍から救い出されましたね。契約の民が神から見捨てられることはありませんでした。
しかし今、メシヤは見捨てられています。この詩篇22篇の他にも、苦しみを受けられるメシヤ預言が旧約聖書の中にあります。代表的なのはイザヤ53章ですね。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(3-4節)」とあります。
主が地上におられたころのユダヤ人、また現代のユダヤ人もそうですが、こうした受難のメシヤ像をどうしても受け入れることができません。主がモーセを通して、敵のエジプトからイスラエルを救われたように、敵をことごとく滅ぼしてイスラエルを解放してくださるところのメシヤしか受け入れられていないのです。
私たちがこれまで見てきた詩篇の中にもすでに、メシヤが敵を滅ぼされて、神の国で王となる預言がたくさんありました。それだけ旧約聖書には栄光の王であるメシヤの姿が描かれています。ある人は1500箇所以上あると言っています。しかし同時に、苦しみを受けられる方、へりくだった方、柔和な方、裏切られる方としてのメシヤも預言の中に登場します。だから、一見矛盾している預言について、ユダヤ教の教師ラビの間ではメシヤは二人いるという意見もあります。大抵は、受難の部分は比喩的に解釈して、例えばイザヤ書53章は、ホロコーストによってユダヤ人が苦しみを受けたことと読んだりします。
だから、彼らによって十字架につけられたイエスは、つまずきです。パウロは、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」であると言いました(1コリント1:23)。当時のイエス様の弟子たちも、これからローマ帝国を転覆させて神の国を立ててくださると思っていたのに、ユダヤ人指導者らにリンチを受けて、ローマ兵に嘲られて、十字架につけられたのは、あまりにもショックで耐え難いことだったに違いありません。興味深いことに、十字架の近くにいたのは、母マリヤに付き添っていたヨハネ以外はだれもおらず、みな女ばかりでした。耐えられなかったのです。
しかし聖書には預言されていたのです。イエス様も弟子たちに、このことを強調されました。夜、イエス様が捕らえられる時、ご自分は十二軍団よりも多くの天使を配下に置くこともできると言われながら、「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。(マタイ26:54)」と言われました。また復活後に、弟子たちに、「さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。(ルカ24:44)」
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
イエス様は、父なる神から引き離されていただけでなく、人間からも引き離されていました。人々から謗りと嘲り、蔑みを受けられていました。「人のそしり」とありますが、これは一般の人々です。異邦人も含まれます。ローマ兵がイエス様につばを吐き、またいばらの冠をかぶせたりしました。そして「民のさげすみ」というのは、イスラエルの民のことです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「私を見る」とあります。苦しみを受けている自分の姿を、他の人々がじっくり見ることができる状況を預言しています。イスラエルには、律法によって人を死刑にする方法は石打ちでした。石打ちのときに、もちろん石に打たれている罪人を見ることはできますが、自分が石を投げているのですから、じっくりと落ち着いて見ることはできません。けれども、22篇でメシヤは、石打ちとは別の殺され方をすることが描かれています。
これから読んでいく箇所は、実に克明に、ローマの十字架刑の方法を描いていることに気づきます。医学的知識に照らして、十字架につけられた時に体内で起こると考えられることが描かれています。驚くことにユダヤ人の聖書に、律法の中に異邦人が編み出した死刑の方法が預言されていることです。(注:律法の中には、木によって吊るされた者は、神に呪われていると書かれています(申命記21:22−23)。しかしこれは、石打ちなどによって既に死んだ人を吊るすのであって、生きたままの体を磔にするのではありません。生きたままつけられるのは、異邦人独特のものです。)
22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
見事にこの言葉を、イエス様の敵であるユダヤ人宗教指導者が発しました。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。(マタイ27:42-43)」彼らは、自分の罵る言葉によって、かえってイエス様がメシヤであること証明するのを手伝いました。
そして彼らはもちろん、なぜイエス様がご自分をお救いにならなかったのか、また、父なる神がなぜイエス様をこの状況から救われなかったのか知りませんでした。もしイエス様がこの場で救われていたら、彼らを含めてすべての人が神の怒りの御手の中で滅び、永遠の苦しみを受けることになるのです。
この場面には人間の高慢と、神の深い愛が二つ同時に現れています。詩篇の中に、高慢な者たちに対する神のさばきがたくさん書かれています。イエス様は、罪や高慢について、人間のものさしではなく神のものさしで、いったいどのようなものかをお示しになりました。自分がそんなに悪いものではないと思っている者にとっては、その言葉は自分に突き刺さる剣のようなものです。
だから彼らの中には憎悪が芽生えていました。自分自身に死ぬことができなければ、殺すか殺されるかですから、相手を殺さなければいけません。今、イエス様を十字架につけることに成功して、その恨みを晴らすことができ、それがこの罵りの言葉になっています。
そしてイエス様は、この時にご自分を救おうとはされなかった。ご自分を見捨てられることを考えておられた父のみこころに従いました。私たちが滅びることをよしとしない主の愛があり、あえてご自分の力を行使されないへりくだりがありました。この十字架の道があって、初めて神の大能の力による復活をご経験されたのです。
そして、クリスチャンがこのようなものであるとパウロは言っています。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)」キリストの愛、へりくだりを身につけることによって、初めて神の力を経験することができます。
22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
彼らが「主に身を任せよ」と言ったので、イエス様は、母の胎にいるときから主に委ねられていたことを思い出されています。処女降誕、聖霊によるマリヤの妊娠のことを皆さんはご存知だと思います。主は、ご自分の使命を幼いころから、実に母の胎内にいるときから知っておられました。むろん、赤ん坊であるときにそのような意識を持つ人間的な機能が身についてはいませんでしたが、イエス様が12歳の少年のときに、「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(ルカ2:49)」と母マリヤに話されていました。初めのときから、母の胎にいるときから、主は、神に委ねられていたのです。
2C 近づいた苦しみ 11−21
著者ダビデは、苦しみを受けている主の肉体的な苦痛に焦点を当てていきます。
22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
バシャンは今のゴラン高原に位置する地域です。牧畜には適しているところです。自分を十字架に釘付けしようとしているローマ兵、バシャンの強い雄牛に例えています。
22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
今度は、彼らのことを自分を食っていくライオンに例えています。
22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
この学びを準備するとき、スポルジョンの「ダビデの宝庫(Treasury of David)」を参照しているのですが、彼は14節から17節までの描写を十字架での苦痛の詩的な表現であると解釈していました。けれども近現代の医学では、これらがみな、十字架につけられている時の肉体の状態を表していることが分かっています。
主は十字架につけられる前に、むち打ちを受けられています。その時点で血液が大量に出血しており、「血液量減少性ショック」という状態に陥っているかもしれません。体液が極度に少なくなっているために、例えば非常に激しい渇きを覚えます。主が、十字架上で「私は渇く」と言われましたが、血液の現象で脱水症状に陥っておられました。だから、「私は、水のように注ぎだされ」ていると言われているのです。
そして主が死なれた後に、実際に水が出てきたことを伝える記事がヨハネの福音書に載っています(ヨハネ19:34)。十字架につけられることによって、少ない血液を体全身に回そうとして心拍数が異常に上がります。そのため心機能不全に陥って、主は息を引き取られたと考えられますが、その時に心臓の周りに心外膜液という液体が、また胸にも水が溜まります。それをローマ兵が槍で突き刺しました。
そして「骨々はみな、はずれました」というものも、文字通り起こりました。十字架につけられた後、自分を支えるのは釘が刺されている手足だけです。そのために筋肉が後退します。そして体重のせいで間接が外れてしまいます。
そして、「私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました」というのは、今、説明したように血液の足りない状態で心臓が体内に血液を送り込もうとして心拍が早くなります。そして心機能不全状態に陥ります。この時までの心臓の状態を「ろうのようになり、溶けました」と表現しているのです。
22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
今話した、脱水症状状態です。
22:16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
ローマ兵が自分の手足に釘を打ち付けている時のことでしょう。「手足を引き裂いた」と主は言われていますが、彼らが打った手首、また足のところには、太い正中神経が走っています。それを釘が破壊してしまったのですから、手足が引き裂かれる状態だったのです。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
間接が外れてしまって、自分でも外れているのが認識できていました。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
驚くことに、この預言も文字通り成就しました。十字架につけられる死刑囚は、十字架に磔にされる前に着物を剥ぎ取られます。その着物を四人の兵士たちは、四等分しようとしましたが、その着物は縫い目なしのものでした。それで、「裂かないで、くじを引いて誰か一人のものにしよう。」と言ってくじを引きました(ヨハネ19:23)。
聖書の信憑性をなくそうとする試みはいろいろありますが、イエスが行なったことはみな預言が成就するように仕向けた陰謀だった、という説があります。けれども、ユダヤ人の祭司長が叫んだあざけりの言葉といい、ここの兵士のくじ引きといい、すべての出来事を裏で操作していたなんて、そんなことができたらそれこそ、すべての事象を支配されている神の存在を信じるしかありません。
22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。22:21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
主は、苦しみの中でも救いを祈りました。これは聞き届けられたのでしょうか。主は、この状況から救い出されたのでしょうか?はい、救われました。死なずにすんだということではありません。確かに死なれました。しかし、三日目によみがえったことによって、死に打ち勝ったことによって祈りが聞かれたのです。
ヘブル人への手紙5章を開いてください。ここに、大祭司についての説明をヘブル書の著者はしています。大祭司は人の中から選ばれなければならず、人々の弱さを思いやることができるために、自分自身も弱さを身につけなければならない、と書いています。そして、イエス様はメルキゼデクの位に等しい大祭司であることを証明するために、十字架における人間としての苦しみを挙げています。7節から読みます。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(7-10節)」このことによって、主は、神と人との間の仲介者として、神の大祭司としての務めを果たす用意ができたのです。
2B 宣告 22−31
1C 会衆の賛美 22−27
22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
主はよみがえられてから特に、弟子たちのことを「兄弟」と呼ばれました。主が葬られた墓を見に来たマグダラのマリヤに、「わたしの兄弟たちのところに行きなさい。(ヨハネ19:17参照)」と命じられました。そしてヘブル書2章にはこう書かれています。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』(10-12節)」ご聖霊によって、共におられる方として教会の賛美の中に、また福音宣教の中にいてくださることを約束しています。
22:23 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
「主を恐れる人々」とは、異邦人、ユダヤ人問わずすべて神をあがめる人々です。そして「ヤコブのすえ」とは、先祖ヤコブとの血縁関係のあるユダヤ人です。そして、「イスラエルのすべてのすえ」とは、真のイスラエル、つまり単に血縁関係があるだけでなく、イエスをメシヤと信じて神によって支配されるユダヤ人たちのことです。
今はそのようになっていません。異邦人が、キリストの十字架と復活の御業を賛美していることが多いですが、ユダヤ人が賛美するのはまだ少ないです。しかしその時が来ます。
22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
十字架につけられていたとき、苦しみの中にいたときの叫びを主が聞いてくださったことを、主ご自身が宣言しておられます。「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。(使徒2:31)」とペテロが引用した詩篇の言葉のとおりに、私たち教会はキリストの復活を宣べ伝えます。
22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
教会は、イエス・キリストを賛美して、その賛美がそのまま父なる神への賛美となります。
そして、「私の誓いを果たします」とありますが、これはイザヤ書53章、同じく十字架の後の主の姿を預言している箇所に詳しく書かれています。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(11-12節)」
主は、多くの人を義とすること、多くの人たちの背きのために執り成しをする誓いを持っておられます。それを果たすということです。主は、ご自分の聖霊によって、私たちを通して、罪の赦しと義認の業を多くの人々にもたらそうとされています。
22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
「いつまでも生きるように」つまり永遠のいのちです。悩む人たちは霊的に満たされる命です。そして、主を尋ね求める人には賛美を与えるところの命です。
22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
今、これが信仰しています。霊的な国が、世界の諸国の民の中で広がっています。キリストのあの苦しみが全うされたことによって、世界中の人が罪によって滅ぶことなく永遠のいのちを持つこと、罪に定められるのではなく義と認められるという大勝利がもたらされているのです。
2C 国々の礼拝 28−31
そして主は王位に着かれます。22:28 まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
主は公生涯を始められるとき、悪魔の誘惑を受けられました。その一つが、ここに書かれてあるものです。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』(マタイ4:8-9)」しかし主は、十字架の道を通られて、人としてその苦しみを完全に全うされて、それで初めて世界の王となられるのです。
22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
地上に神の国が立てられるときに、多くの復活した人がその市民となっています。短命で終わった人も、キリストにあって死んだのであれば、キリストの携挙のときに復活し、地上にキリストとともに戻り、そして神の国を相続します。
22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。
ハルマゲドンを経て、神の国の入れられる国々があります。彼らは復活の体ではなく、現在の肉体のまま入ります。だから子供を彼らは生むことができます。新しい子孫にしっかりと信仰を継承し、子孫もしっかりとイエスを王としてあがめる生活を行なう、という約束です。
現在、まだ神の国が来ていないとき、この世の中で子供を主にあって訓練することは難しくなってきました。けれども霊的な神の国のために、しっかりと信仰を継承していく必要があります。
2A 羊飼いなる主 23
こうして、私たちにとって主が過去に行なってくださったことを読むことができました。主が見捨てられたことによって、今、私たちが義とみなされています。次23篇は、現在の主のお働きです。牧者としての主です。
ダビデの賛歌
1B 緑の牧場 1−4
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
ダビデは、自分自身が羊飼いでした。だから、羊飼いあるいは牧者は何をして、羊を飼うときに何をしなければいけないかをよく知っていました。
日本人の多く、牧場で働いていない人ならあまり、羊の飼育について知らないと思います。私もそうだったので、羊を飼育するウェブサイトを調べました。そうしたら、次のような説明がありました。
(参照 http://zookan.lin.go.jp/kototen/menyou/m125.htm)
ああ何と、主と私たちとの関係、また信徒たちを牧する人々に与えられている任務が何であるかを、実によく表している、と思いました。自分なりの方法で羊を扱おうとしてもだめで、羊のことをよく知り、羊のつもりになって飼育する。そして羊が羊飼いを信頼し、安心して過ごせるようになって、羊は羊飼いの言うことを聞く、ということです。
イエス様が良い牧者と雇われ牧者の違いを話されましたね。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。(ヨハネ10:11-15)」羊は、牧者を信頼しているので、牧師の声を聞き分けて、それに従います。その信頼は羊のために命をも捨てるほどの、羊を守り育てる牧者の愛に支えられています。
また、マタイ伝25章のところで、羊飼いが羊を山羊を選り分けるように、主が国民を選り分けることが書かれていますが、右側に寄せられた羊のほうが御国の中に入ることができます。主とその人々の間に信頼関係があるからです。
これまでもダビデの主に対する信頼を読んできました。また主がダビデを、どのように愛して、恵んでおられるのかを読みました。その関係は、ちょうど羊飼いと羊の間にあるような関係なのです。
この1節では、「乏しいことがない」とダビデは言っています。その理由が次に書かれています。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
健康にいられるようきちんと食べることができるところに、また、飲むことができるところに私たちを導いてくださいます。主は、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」と言われました。また、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)」と言われました。霊的なパンと水によって、乏しくなることはありません。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
スポルジョンは、「たましいを生き返らせ」ることについて次のように説明しています。「主は、魂が悲しんできたら、それに元気を与え、罪で汚れたらそれを清め、弱いときは強めてくださる。」
そして、義の道に導かれますが、それは愛の動機によって導かれます。主は、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)」と言われました。羊飼いに羊がついていくのは、愛されているという安心感があるためです。同じように、私たちは、主の愛に安心して、この方が言われることに聞き従います。
23:4a たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
ここに、クリスチャンの特権が書かれています。死ぬ際に、災いを恐れないで死ぬことができる。主が、死ぬ直前にも死の直後にもともにおられるという確信があるから、恐れないで死ぬことができる、という特権です。
信じていない人の姿を見ていますと、年を召した方の姿は時々、見るに耐えないことがあります。これまでの仕事はすべて終わっています。では、何をしているかと言いますと、一日中テレビを見たり、コンピューターゲームで一日中遊んでいたり、仕事をしていたときの、一見、希望に満ちたかに見える姿は何もなく、空っぽです。さらに、死後の世界のことを意識してか、自分の先祖供養のために墓やら何やらで大金を叩いたり、周囲の人は何をしているのか分からなくなってしまうことがあります。
なぜか?自分のすべては、この地上のことだけだからです。死が近づいているけれども、そこには恐怖と不安しかないからです。けれどもクリスチャンの死はどうでしょうか?パウロが死の直前のこう言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:6-8)」ずいぶん違いますね。
私はアメリカにいたときに、日系老人ホームで奉仕をしたことがありますが、そこにいるクリスチャンの方々は本当に幸せそうでした。ぼけていました。けれども、心は喜びに満たされ、平安を保っていたのです。
23:4bあなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私たちは鞭を嫌がります。自分が行きたい方向に行かせてくれない杖を嫌がります。けれども、私たちを愛して、命を捨ててくださった方の鞭と杖は、狼から、悪い者から私たちを守ってくださるものです。だから、それは痛みでも不快でもなんでもなく、むしろ「慰め」なのです。
2B 招かれた客 5−6
死に直面しても平安でいられるだけでなく、敵前でも平安でいることができます。
23:5a 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
今ここで描かれているのは、自分が客に招かれて、食事のもてなしを受けている場面です。主が招いてくださった方です。敵の前にいても、このようなパーティーの中でゆったりとできるという約束です。
「油を注いでくださる」というのは、当時、招いた客に主催者が歓迎の意を表すのに注いだようです。主がパリサイ人シモンの家に招かれたとき、シモンにこう言われました。「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。(ルカ7:46)」
23:5b私の杯は、あふれています。
クリスチャン生活は、満たされるだけではありません。あふれる生活です。平安にしても、「人のすべての考えにまさる神の平安(ピリピ4:7)」です。そして喜びは、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び(1ペテロ1:8)」です。あふれてくるのです。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
生きている限り、いつくしみと恵みがあります。そして、「いつまでも」主の家に住むとダビデは言っています。この家が地上の神の幕屋やソロモンが建てた神殿であれば、ダビデはもう死んでいますから実現していません。けれども、聖書には天にまことの聖所があると約束されています。永遠に主の御座のところに行くことができるのです。
3A 栄光の王 24
こうして、現代の主の働きについて読むことができましたが、最後24篇は、将来の主の姿、栄光の王について預言されています。
24 ダビデの賛歌
ここの詩篇は、多くの人は、ダビデがエルサレムに契約の箱を持ってきたときの詩歌であると見ています。かつてイスラエルがペリシテ人と戦ったとき、シロから神の箱を運んできました。この箱そのものに神の力があると信じたからです。けれども、ペリシテ人に惨敗し、神の箱も奪い取られました。しかし契約の箱がある町には災いが下ったので、ペリシテ人は車に箱を乗せて、それをひっぱる牛が自分の行きたいところに、行かせるままにしました。そうしたら、イスラエルの町ベテ・シェメシュにまっすぐ歩いていきました。ベテ・シェメシュの人々は喜びましたが、何と契約の箱のふたを開けたために、大勢の人が死んでしまったのです。
それからずっと何十年も経って、ダビデが王となったときに、彼はエブス人から奪還したエルサレムの町に神の箱を持っていきたいと願いました。彼は神を喜び、賛美したい気持ちはいっぱいでしたが、まだきちんと考えていませんでした。契約の箱は、聖別されたレビ人によって、横棒によって肩にかついで運ばなければいけないのですが、かつてペリシテ人が車を使ったように、車を使って運んだのです。私たちも、主にお仕えしたい気持ちはあっても、この世の方法ではなく神の方法で行なわなければいけませんが、ダビデは車に乗せて運ばせました。そうしたらひっくり返そうになった箱を押さえようとしたウザが死んでしまいました。
ダビデはそこでようやく、自分がしたことに気づきました。かつぐ者たちが六歩歩いたときに、牛をいけにえとしてささげました。聖別が必要であることに気づいたのです。
この、神の箱がエルサレムに入るときのことを歌った詩歌であると言われます。
1B 創造主 1−2
24:1 地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。24:2 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。
主が地上のすべてのものを支配されています。すべてが主のものです。神の箱をエルサレムに運ぶときに、忘れてならないのは、神がその箱の中にしまいこまれているのではない、ということです。ソロモンが神殿を建てて、その奉献式で祈ったとき、「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(1列王8:27)」と言いました。
イスラエルがかつてペリシテ人と戦ったときに陥った過ちは繰り返してはいけません。主への礼拝のため、私たちが教会として集まることは非常に大切です。キリスト教は孤独な、個人の宗教ではありません。共同体を持っています。しかし、教会堂の中でしか主の御霊は働かれないと考えたら、それは異教の考えです。主はこの地球も収めることができるような方ではなく、ましてや教会堂の中に収めることなどできないのです。
2B 主の山 3−6
もう一つ、異教の神の礼拝と、真の神の礼拝の違いを次にダビデは述べています。
24:3 だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
シオンの山に登ることができる者、契約の箱が安置される所に立つことができるのは、きよめられた者だ、ということです。神の律法に従って、聖別された者だけで箱を運びました。
私たちも同じように、自分の神への礼拝は生活における聖さに裏打ちされたものでなければいけません。異教の神であれば、自分の利益につながることを願うのですから関係ないでしょう。ちょこっと、手を合わせる前に手を洗う程度で十分なのです。しかし、私たちは違います。日常生活が神とはまったく関係のないようになっているのに、日曜の朝になったら奇跡が起こったかのようにすばらしいクリスチャンに変わるのは、異教の神を拝んでいるのとまったく同じ形態なのです。
ダビデは「手がきよく」と言っています。自分がしていることをきよめなければいけません。ヤコブは手紙の中で、「神に近づきなさい。そうすれば、神があなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。(4:8)」と言いました。また、「心がきよらかな者」とあります。行ないがきよくても、心が汚れていればパリサイ人と同じです。ヤコブは手紙の中で続けて、「二心の人たち。心を清くしなさい。」と言いました。
そして、「そのたましいをむなしいことに向け」ない人ですが、罪に興味が引かれて、心が引き寄せられることはないでしょうか?そのときに私たちは、主を思い出し、主にきよめを求める必要があります。そして、「欺き誓わなかった人」とあります。欺き、嘘は、人の間では平然と行われていますが、神の前で受け入れられません。黙示録の最後に啓示されている天のエルサレムでは、次の人は入れないことになっています。「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(21:8 下線は筆者)」
24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
ここは、旧約時代における神の聖めと新約のそれの違いを表しています。私たちはまず、信仰によって義を受け、キリストにあってあらゆる霊的祝福が与えられました。ゆえに、生活のあらゆる面で聖さを求めるのです。聖くなったら祝福され、義とされるのではなく、祝福され義と認められたから、聖い生活をするのです。
24:6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ
これは異邦人のクリスチャンにも当てはまります。主を礼拝する者は、聖さを求めながら生きていく一族です。
3B 永遠の戸 7−10
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
この門は、神殿の東にある黄金の門のことです。その門から神殿の契約の箱まで、直線を引くことができます。内庭の正面入り口も東向きであり、神殿本堂も東から入り、契約の箱が安置されている至聖所も東から入ります。
だからここから神がお入りになられるのです。ダビデは、神の箱を運び入れるときに、自分が王でありながら、自分の子孫でかつ自分の主である方を王として、神を王として招きいれようとしているのです。
しかし、ここに「永遠の戸」とあります。ダビデは契約の箱を運び入れるときだけでなく、永遠に、つまりメシヤご自身が入ってこられることを予見して、こう言っているのです。イエス様がエルサレムに来られたとき、オリーブ山から見える東の門からお入りになられました。
そして主が再臨されるときも、神殿の東の門からお入りになられることがエゼキエル書で預言されています(エゼキエル44:3)。ダビデはこのことも予見しているのです。
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
再臨の主は、ハルマゲドンという世界大戦において、ことごとく歯向かう軍隊を倒された後に神殿に入ってこられます。
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ
栄光の王とは万軍の主のことです。人間の王ではなく、天使の軍隊を従えたところの神ご自身のことです。神であり地上の王である主イエスのみが、この門を通るのにふさわしい方です。
こうして三つの詩篇を学びました。最初は捨てられた方、次に牧者である方、それから栄光の王です。次回は再び、祈りの詩篇に戻ります。
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