詩篇38−41篇 「罪を犯した後に」


アウトライン

1A 悔悟 38
   1B 主の懲らしめ 1−12
      1C 体の傷 1−8
      2C 周囲の反応 9−12
   2B 主への呼びかけ 13−22
      1C 黙する口 13−16
      2C 倒れそうな自分 17−22
2A 沈黙 39
   1B 舌の罪 1−3
   2B 人生の儚さ 4−6
   3B 主からの鞭 7−13
3A 救い 40
   1B 神への賛美 1−10
      1C 泥沼からの引き上げ 1−3
      2C 御心の実行 4−8
              C 神の義 9−10
   2B 助け 11−17
4A 孤独 41
   1B 心を配る人 1−3
   2B 裏切り 4−9
   3B 立ち上がり 10−13

本文

 詩篇38篇を開いてください、今日は38篇から41篇までを学びます。ここでのテーマは、「罪を犯したとき」です。私たちは前回、罪や不義を見るときにどうすればよいか、それをねたんだりいかったりするのではなく、主ご自身を信頼せよ、との勧めを読みました。けれども今日学ぶところは、自分自身が罪を犯したときのことです。

1A 悔悟 38
38 記念のためのダビデの賛歌

 「記念のため」と訳されていますが、「思い出すため」と言い換えることができます。この詩篇、また41篇までの四つの詩篇からわかることは、ダビデが罪を犯して、その罪によって病気になったことが背景としてあります。ダビデの生涯が記録されているサムエル記や歴代誌に、ダビデがここの詩篇に描かれているような病に伏した記録はありません。けれども彼は、何らかの病に伏したようです。

 そして、彼は自分の病気の中で、この病は罪から来たものであることを思い出していました。自分の罪の愚かさを病を通して知り、悔悟しているのがこの詩篇です。

1B 主の懲らしめ 1−12
1C 体の傷 1−8
38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

 罪を犯した時に、私たちはまず、ダビデがここで表現しているような強い責めを受けます。その責めは、必ずしも主ご自身からのものではありません。しかし私たちの感情が、ものすごい責めを感じます。

 サタンは私たちをだまします。エバが蛇に惑わされたとき、その善悪の知識の木から実を取って食べれば、神のように賢くなるという甘い言葉を受けました。しかしその言葉を受けた結果は、いちじくの葉で自分を覆うという、恥の思いでした。

38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

 ダビデは「あなたの矢」と言っていますが、直接的にはサタンからの矢です。エペソ書に、「信仰の大盾によって、悪い者の放つ矢を、みな消すことができ」ると書いてあります(6:16)。しかし、その矢が今、自分に突き刺さっています。

 聖書の中に、罪を犯した者がサタンに引き渡されることが書かれている部分があります。パウロが、コリントにある教会に対して、近親相姦の罪を犯している者を教会から除きなさいと命令している部分があります。その時パウロは、「このような者をサタンに引き渡したのです。(1コリント5:5」と言いました。 普段なら、悪い者から守る、神の守りの御手があります。けれども、罪をしつこく犯している者に対して、神は、その罪の結果がどのようなものであるかを知り、その罪を憎み、離れることができるように、その守りの御手を引き上げるときがあります。すると、その人は、もろ悪魔の影響下に置かれ、自分がしたことの結果を刈り取ることになります。だから、ダビデが受けた矢は、直接的にはサタンからのものであり、しかし究極には神がそのようにさせた、と言うことができます。

38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

 罪によって、肉体にも影響が出ています。

38:5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

 このような結果になって、初めていかに愚かなことをしたかに気づきました。罪とは、愚かなことです。

38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。38:7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

 ここの「」は、「股」と訳すこともできます。ここの箇所から、ダビデが性病にかかっていたのではないか、という推測もあります。または、らい病ではないか、との意見もあります。確かに聖書では、罪を犯した後にらい病を患った人々の記録があります。モーセを非難したミリアムはらい病にかかり、七日間、宿営の外にいなければなりませんでした。エリシャの使いも、ナアマンの贈り物を着服したことによって、ナアマンが患っていたらい病を自分の身に受けました。南ユダ王国のウジヤ王は、祭司でもないのに神殿の中に入るという、傲慢の罪を犯しました。そのためらい病にかかりました。

38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

 罪を犯した結果は、このように感情に、肉体に、そして精神に及びます。

2C 周囲の反応 9−12
 さらに社会的にも影響を与えます。周囲の人々との関係が変わります。

38:9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。

 ダビデの祈りは、必ずしも言葉になっていなかったでしょう。ただ、嘆いていた、その嘆きの声を上げていただけかもしれません。しかし、その呻きさえも主から隠されていることはない、主の御前にある、とダビデは言っています。

 ローマ人への手紙の中に、言葉にならないうめきの祈りについて書かれてあるところがあります。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(8:26」私たちが呻いているとき、御霊がともに呻いてくださり、それを、父なる神への祈りとしてくださいます。私たちのうめきは、すべて主に聞かれているのです!

38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。

 なぜ、このように力がなくなっているのか、理由が次に書いてあります。

38:11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。

 「えやみ」つまり疫病を避けるために、自分が愛する者、友までも自分から離れていました。家族までもが、遠くに立っています。

38:12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。

 罪を犯すと、必ず襲ってくるのがこのような霊的な恐れです。自分を破滅させるように仕向けてくる、悪魔や悪霊どもの仕業です。罪を犯した者を徹底的に告発して、もう救われない者、見捨てられた者として定められたと、回復の可能性をなくしてしまおうとします。

 感情的、肉体的、精神的、そして社会的、最後に霊的な悪影響が、罪によってもたらされます。しかし、私たちの主イエス様のことを思い出すと、実は私たちに代わって死んでくださったとき、この傷も主ご自身が負ってくださったことに気づきます。

 主が愛されていた弟子たちは、主がむちに打たれているとき、また、主が十字架につけられているとき、そのそばにはいませんでした。近親者であるイエスの母マリヤは、イエス様が語りかけることができるぐらい、十字架のそばにいましたが、それでも距離はありました。そして、敵どものあざ笑う声があったのは、言うまでもありません。

 ですから私たちが罪の結果を自分の身に招いているとき、一番、自分を癒すことがおできになるのは、主ご自身です。主のみもとに行くことが、私たちができることです。

2B 主への呼びかけ 13−22
1C 黙する口 13−16
38:13 しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。

 ダビデは、敵に対して耳が聞こえない者のように、口が利けない者のようになった、と言っています。私たちが一番しなければいけないことは、主との一対一の会話です。どんなときでも一対一の会話が大事ですが、特に罪を犯したときは外野の騒音が大きくなります。ちょうど、芸能人が何かをしたときに、スキャンダルの記事が週刊誌をにぎわせるように、周囲の者たちの声が大きくなるのです。

 けれども、私たちは行くべきところに、何としてでも行かなければいけません。主のみもとに行かなければいけません。私たちが犯す過ちは、主との会話の間に多くの者たちの言葉を入れ込んでしまうことです。そのため、主からの言葉、主からの声を聞けなくさせてしまうことです。

 だから、ダビデは外野に対しては一切、口を利きませんでした。まっすぐ主のみもとに行ったのです。そして自分自身が罪を犯さなかったが、私たちの罪を身にまとわれた主ご自身も、ユダヤ人の前でも、ヘロデの前でも、ピラトの前でも、口をお開きになりませんでした。

38:16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」

 次に、ダビデがよろけながらも、立ち上がろうとするときに、それをなじる敵についての祈りが書かれています。

2C 倒れそうな自分 17−22
38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。38:18 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

 これが今のダビデの状態です。罪を言い表しているのですが、自分の身には傷があり、それが霊的にも痛みとなっています。

38:19 しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。38:20 また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。

 なじる、つまり、過失や不満な点を問いつめています。罪から神へと立ち返りたいと願っている人に対して、そうはさせないと以前の過失を取り上げて痛めつけようとする人々がいます。しかし、神の聖霊はそのようなことをなさるでしょうか?ローマ8章1節に、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と断言されています。私たちがしなければいけないのは、罪を犯した兄弟をあわれんで、彼が立ち上がることができるように助けることです。過去の過ちを責めるようなことをしてはいけません。

38:21 私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

 倒れそうになっているときに、ダビデはこのような必死の叫びを主に上げました。

2A 沈黙 39
39 指揮者エドトンのために。ダビデの賛歌

 続けて、ダビデが、罪を犯した後で祈った祈りが記されています。

1B 舌の罪 1−3
39:1 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。

 先ほど、敵に対しては耳が聞こえない者、口が利けない者のようになるという祈りを読みましたが、ここでも同じです。そしてもし口を出してしまったら、それは自分の舌で罪を犯すことになる、と言っています。

 舌による罪は大きいです。ヤコブへの手紙にこう書いてあります。「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。(ヤコブ3:5-6

 したがって私たちは、黙っている、沈黙を保つことによって知恵を持つことがあります。箴言にこう書いてあります。「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。(11:12」「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(12:16」何も言わないことが、もっとも知恵あること、賢いことである場合が多いのです。

39:2 私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

 悪いことを黙っているのは簡単ですが、良いことにさえ黙っているのは辛いことです。良いことなんだから話したいと思っても、黙らなければいけないときがあります。と同時に、悪いことでも、語らなければいけない時もあります。預言者たちが、そのような人たちであったことを思い出せるでしょうか。北イスラエルの邪悪な王アハブのところに、彼が嫌いだった預言者が一人いました。アハブは、南ユダの王ヨシャパテに、「彼はいつも悪いことばかり預言するから、嫌いだ。」と言いました。ヨシャパテが、「まあ、そんなこと言わないで、彼も連れてきてください。」と言われて、そのミカヤという預言者が連れてこられました。他の者はみな、アハブがシリヤに打ち勝てる預言をしました。そして口裏を合わせるために、ミカヤに、「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。(1列王2:13」と言いました。けれどもミカヤは、「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。(14節)」と言っています。そしてミカヤは、この戦いでアハブが死ぬことを預言しました。私たちには良かれと思うことがあります。けれども、その判断よりも、主が何と言われているのか、その思いを優先させなければいけません。

39:3 私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。

 ダビデは黙っているうちに、苦しくなりました。そこで彼はついにしゃべり始めましたが、周りの人々に対してではありません。次をご覧ください。

2B 人生の儚さ 4−6
39:4a 主よ。

 主に対してです。本当に大事です。どうしても話したい、でも話してはいけない、とわかっている。主に語りかければよいのです。このときに、私たちの主との交わりは一気に深まります。自分の心の切実な想いを主に申し上げることによって、心の奥底から主の御思いを知ることができるようになります。

39:4bお知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

 ダビデが周りの者たちに口答えしたい誘惑、口答えしたい衝動に駆られていたときに、彼が悟りたいと願ったのは、自分の齢のはかなさでした。

 私たちが与えられている、この地上の命、肉体の命は尊いものです。命は主によって与えられました。しかし、地上の命にしがみつく過ちを犯します。地上で起こっていることについて、私たちはそれを執拗に求め、そればかりを考え、中心的な事柄、つまり永遠に関することを忘れてしまうのです。

 その時に思い出さなければいけないのは、自分が今、一生懸命考えていることは、実はすぐにでも終わってしまう地上のことに関することなのだ、ということです。

39:5 ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

 一生はないのも同然なのですから、私たちはいつも永遠の視点から、いま自分が行っていることが益になっているのか、価値のあるものなのかを吟味しなければいけません。先何年分もいっぱい物がためられる倉を建てようと考えた者は、その日のうちに命が取られることを知りませんでした(ルカ12:1620)。

39:6 まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。

 ダビデの周りで語られていたことは、幻のようであり、むなしい立ち騒ぎであると書かれています。主との語らいを除いたら、世界にはたくさんの人の声が聞こえます。人々の考え、人々の意見、人々の分析、これらはみな幻のようなのです。立ち騒ぎなのです。地上のことであり、内容がないのです。

 そしてこららの情報を、頭の中にためようとします。情報化時代に生きている私たちは、なおさらのことです。しかし、だれがそれを集めるのかを知らない、つまり、すべての情報、知識は主の御手の中にあるのを知りません。主がご自分の摂理と主権、知恵の中で、すべてのことを動かしておられるのに、その事実をないがしろにして、情報収集に明け暮れるのです。

 だから、今の時代ほど、黙っていること、主と語っていることが重要である時はないでしょう。

3B 主からの鞭 7−13
39:7 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

 すばらしい告白、宣言です。主との交わりが、他のもののすべてにまさっているのです。

39:8 私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。39:9 私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。39:10 どうか、あなたのむちを私から取り除いてください。あなたの手に打たれて、私は衰え果てました。

 主のみが望みであるので、すべてのことを主にあって受け止めています。それゆえ、自分の身に受けている痛みも、主からのものとして受け入れているのです。

39:11 あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、その人の望むものを、しみが食うように、なくしてしまわれます。まことに、人はみな、むなしいものです。セラ

 人の喜ぶもの、楽しむものが、しみが食うようになくなってしまうと書いたのは、ダビデだけではありません。おそらくこの箇所を思いながら、ヤコブがその手紙の中で金持ちについて書いたのでしょう。「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。(5:2-3

39:12 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

 そうです、私たちは寄留者です。ペテロが私たちは旅人であり寄留者であると言いました(1ペテロ2:11)。本当の住まいは天にあり、この地上では仮住まいなのです。

39:13 私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。

 見つめないでください、というのは、懲らしめるときの目つきで見つめないでください、という意味です。

3A 救い 40
 次の詩篇は、ダビデがいのった祈りが聞かれて、懲らしめがなくなり、その救いを喜び、賛美している詩篇です。しかし後半部分で、再び強い誘惑に襲われ、神に助けを呼び求めています。

40 指揮者のために。ダビデの賛歌

1B 神への賛美 1−10
1C 泥沼からの引き上げ 1−3
40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

 罪の泥沼の中から引き上げられて、主の巌の上に立つことができています。こんなにうれしいことはありません。

 そして、この箇所を、ダビデが主のご復活について預言しているのではないか、と見る人たちもいます。以前、詩篇第16篇の10節で、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」という御言葉がありました。これをペテロは、主の復活の預言であることを説明し、ユダヤ人に悔い改めと、主に信仰を持つように呼びかけました。ここでも同じように、滅びの穴、つまりハデスにいたままにせずに、神がイエスを復活させたと見る人たちもいます。

40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

 罪から救われた人たちの喜び、感謝、賛美は、周りの人々に伝染します。悪霊ども、レギオンから解放された人は、イエス様に言われて、自分の故郷デカポリスの地方で主のことを言い広めました。サマリヤの女のことも思い出してください。彼女はサマリヤにいる人々に、もしかしたら自分があった人がメシヤかもしれないと言い広めて、多くのサマリヤ人が主を信じました。その人が持っている賛美、感謝によって、他の人々が主を信頼するのです。

2C 御心の実行 4−6
40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。

 主を信じることは、主の前でへりくだることです。信仰の前には、謙虚さが要求されます。もしそれができないと、真理ではなく偽りを信じるようになります。他の偽りのものに頼ろうとします。

40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

 ダビデは、救われたことに対する神への賛美から、今、神への従順へと導かれています。いくら語っても、主のすばらしさは語りつくせない。しかし、主の前にひれ伏して、主に自分を明け渡して、それで主のみこころを知り、みこころに従う自分を発見します。

40:6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

 いけにえよりも、耳を開いていただくこと、自分の宗教的な行為よりも、主が言われることに耳を傾けること。これは旧約聖書の中で数多く出てくる内容です。サウルが、アマレク人とその家畜を聖絶せず生かしておいたことで、サムエルは、「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22」と言いました。

 私たちが罪を犯してしまうと、その罪の責めからそれを償おうとして、宗教的行為に走ります。たくさん祈ったり、たくさん献金したり、とにかく自分が犯している罪を自分の行いで贖おうとしてしまうのです。

 しかし主が要求されているのは従順です。多くのいけにえではなく、主がやめなさいといわれているものを、やめることです。主が行いなさいといわれていることを、行うことです。他のもので代用することはできません。主に聞き従うことこそが大事なのです。

 ところで、ここに出てくる「耳を開く」という表現は、かつて主がモーセを通して与えられた律法の中に、奴隷が自ら主人のために終身奴隷になることをちかう誓いのときに行なうものとして出てきます(出エジプト21:46)。主に対して、私たちも耳を開いていただき、自発的に主のしもべとして生涯を生きるのです。

40:7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

 みこころを行なうこと、また主の教えを心のうちに蓄えること、これはダビデの告白であります。しかし、この箇所はメシヤ預言になっています。ヘブル人への手紙10章を開いてください。5節から読みます。「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。(5-9節)

 旧約時代のいけにえの制度が廃止され、主が父なる神のみこころに従い、その罪のいけにえによって贖いが達成されました。

3C 神の義 9−10
40:9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。40:10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。

 自分の義ではなく神の義です。自分を救ってくださったところの神の義であり、神の恵みによるものです。

2B 助け 11−17
 このように元気の良いダビデですが、次に再び罪からの救いの祈りとなります。

40:11 あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。40:12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。40:13 主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください。

 怒涛のごとく、自分の罪が押し寄せています。今さっき神の救いを経験したのに、まぜまた、救いのための祈りをささげなければいけないのでしょうか?

 この祈りから、私たちは、救いそのものが大事なのではなく、主により頼むことがもっと大事であることを学びます。罪からの救いはすばらしいです。けれども、もし罪からの解放が一発で与えられて、それで喜んでいるだけなら、主との関係は浅いものになるでしょう。けれども、主はもっと深くご自分を知ってほしいと願われています。私たちが一歩一歩、主に拠り頼むことによって、そのときの主の恵みを知ることができます。

40:14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。40:15 私を「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。

 自分が罪に陥ったら、あざけりの笑いが起こることをダビデは知っています。あざ笑いではなく、彼は賛美の声を聞きたいのです。そこでこう言います。

40:16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。

 私たちも願います。この世界で、人々が倒れるのを喜ぶような声が満ちています。そうではなく、主をしたい求める人たちの、賛美の声。主をあがめようという呼びかけが満ちてほしいです。

40:17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 主がおっしゃられた、「心の貧しいものは幸いです。」の貧しい者です。主の前に自分はもうだめだ、と思っている人のことです。ダビデは、そのようなものであると認識し、神の前に出ています。なんという謙遜でしょか!ある程度私は達成した、と誰でも思いたいです。けれども、私たちはいつまでも、貧しいもの、主の御名を純粋に呼び求めなければならない者です。

4A 孤独 41
 41篇もまた、メシヤ詩篇となっています。ダビデは自分の身に起こったことを語りながら、また、メシヤについて預言をしています。

41 指揮者のために。ダビデの賛歌

1B 心を配る人 1−3
41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。

 弱っている人に心を配る人です。単に病の人もいるでしょうし、また罪を犯したために弱くなってしまった兄弟かもしれません。そのような人たちの横にいてあげ、助け、あわれみを示す人は幸いであるという約束です。

 ガラテヤ書6章に、互いに重荷を担い合いなさいという命令が書かれています。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(1-2節)

41:2 主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。41:3 主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。

 ここの「彼」は、弱い人を助ける人のことです。自分が弱い人を助けるなら、自分自身が似たような境遇にいるときに、必ず助け出されるという約束です。主が山上の垂訓で、あわれむ者は、あわれみを受けるという約束をなさいました。また、主が再臨されたときに、羊と山羊がえり分けられるように、国々の民がえり分けられるのですが、苦しんでいる人を助けた人は永遠の御国の中に入る約束が与えられています。

2B 裏切り 4−9
 次は、その逆のことをする人たちのことが書かれています。相手が弱くなったら、あわれむのではなく、逆にその弱みに付け込む行為です。

41:4 私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」

 再びダビデが、罪を犯したところに戻ります。彼が罪を犯して、病床の中にいます。

41:5 私の敵は、私の悪口を言います。「いつ、彼は死に、その名は滅びるのだろうか。」41:6 たとい、人が見舞いに来ても、その人はうそを言い、その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす。

 苦しみのときに、友かどうかが発揮されます。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17」だから、そばにいてほしいです。ところが、そばにいるようなふりをしているだけで、病の中にいる人を痛めつけるようなことを言います。

41:7 私を憎む者はみな、私について共にささやき、私に対して、悪をたくらむ。41:8 「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度と起き上がれまい。」

 悪霊がとりついている・・・よく聞く非難です。聖書の中にも出てくるし、一般の社会でも出てきます。病などの不幸があるときに、それを悪霊のせいにして、悪霊ばらいをしなければいけないと考えます。

41:9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

 この友は具体的にはアヒトフェルです。彼はダビデのアドバイザー、議官でしたが、親友中の親友でした。その彼が、アブシャロムのほうにくみし、ダビデを殺そうとしました。

 けれども、この節は主が引用された箇所です。最後の晩餐を弟子たちを食べられていたとき、イスカリオテのユダが、心の中で裏切りを考えていました。主は、苦しみの中、ゲッセマネで祈られるとき、三人の弟子にともに祈ってほしいと頼まれたほどです。それほど近しい関係なのに、祭司にイエスを売る行為を働きました。

3B 立ち上がり 10−13
41:10 しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。41:11 このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。私の敵が私に勝ちどきをあげないからです。

 ダビデが積極的に仕返しするのではありません。ダビデが立ち上がるそのことが、彼らに対して仕返しとなるのです。この箇所も、主のことを預言しているという人がいますが、復活の預言です。主が死からよみがえられたとき、勝ち誇っていた敵は恐れ退きました。主の復活によって、暗闇の力は勝どきをあげることができませんでした。

41:12 誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。41:13 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。

 頌栄で終わりました。詩篇は実は第五巻ありますが、ここまでで第一巻です。それぞれの巻で、最後は頌栄になっています。

 こうして、罪を犯したときの詩篇を読みました。主はあわれみに富んだ神です。だから、主の復活の力によって、私たちをも回復させてくださいます。私たちが罪を犯すと、感情的に、精神的に、肉体的に傷を受けますが、もっと酷い傷は霊的な傷です。敵は、信仰者が倒れるのを待っているし、倒れたらあざ笑います。けれども、敵に仕返しする方法は、キリストの復活の力を知ることです。その力によって回復するとき、私たちはあざ笑いではなく、神への賛美を聞くことができます。


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